シュラバーはお風呂と共に
たゆたう湯気の中、私はその人を見つめていた。
彼女はシャンプーを終えた亜麻色の髪をタオルで止め、今はネットによって作り出した石鹸の泡を、ゆっくり。手のひらを使って満遍なく己の身体に馴染ませていく。
見てわかる通り、身体を洗っている。ただそれだけなのに泡に彩られたメリーは一枚の絵画を思わせる美しさだった。
ついでに……。ある一点の戦力差は、危惧した通り絶望的だった。
多分私より二つ以上はカップサイズに差があるのではないだろうか。
「綾は美乳だよね。巨乳って訳でもなく、かといって、貧乳でもない。至高の素晴らしきサイズ。なんかもう僕は……! 僕はぁ……!」
何て言いながら身悶えていた彼を思い出す。因みに故郷を離れ、大学生になってから宣っていた台詞だ。バカだ。うん、バカだった。
そういえば、そんな事言っていたクセに、彼が高校時代に隠し持っていたその手の本にいた女性は、ことごとく私よりサイズが大きかった気がする。……いかん。いらない事を考えてたら何だかムカついてきた。話を本筋に戻そう。
私に毎回色々な意味で辛酸を舐めさせる女性を、再び盗み見る。
彼の理解者にして私の恋敵。メリーさん。
色々とお話がある。と、私が言ったら、お風呂で話そうと提案した彼女は、未だ話の口火を切る様子はない。
……まずは肌を磨いてから。そういう事なのだろう。
ここに来たのだって、彼には聞かれたくないから。腹を割り、文字通り裸の付き合いと共に私と話すため。……だと思う。
シャワーと、洗面器が奏でる水が跳ねる音と一緒に、私と彼女は身体についた泡を落としていく。
お風呂は命の洗濯だ。いつかに彼はそう言っていたっけ。滞りなく〝洗濯〟を終えた私は、同じく洗い終わったメリーさんに促されるままに、湯船に身を沈めていく。
一人で入るには充分すぎるくらい大きなお風呂だけど、二人で入るには、少しだけスペースが狭い。これが彼と一緒なら、後ろから抱っこされる形で入るから、余り気にならないが、生憎今日は事情が違う。
思えば、家庭のお風呂で誰かと向かい合って入るのは、何年ぶりだろうか。ちょっと不思議な気分になる。
どちらからともなく「はふ……」とため息が漏れ、私とメリーさんは思わず顔を見合わせて、ほぼ同時に肩を竦めた。
食事の時しかり。今のお風呂といい。どうにも私達はのんびりが過ぎると言うか……。同じ男を想っている者同士にしては、何とも言い難いユルさがある気がする。
「気持ちいいわね。〝お風呂は命の洗濯よ〟とは、よく言ったものだわ」
「……同じ言葉、彼からも聞いたことがあります。彼からの受け売りですか?」
「あら、そうなの? 受け売りである事は否定しないけど、これは彼が話した言葉ではないわ。とあるアニメに出てくる台詞なのよ」
そうだったんだ。と思うと同時に、ここまで思考がシンクロしているのが、やっぱり妬ましかった。
ほんの一呼吸。私はただ、メリーさんの目を見つめる。しばらくニコニコしていたメリーさんだったが、やがて小さくため息をついてから「で、お話って何かしら?」と、問うてきた。
ついに来た瞬間に、私は少しだけ心臓が跳ね上がるのを感じた。
「……いつかに言いましたよね。メリーさんは私に、私も貴女も叶わぬ恋だ。って」
「言ったわね。実際は笑えることに、貴女は既に成就していて、私はとんだピエロだったけど」
自嘲するように笑うメリーさん。青紫色の瞳の奥に、一瞬だけ鈍い光が見えた気がした。
「……メリーさんは、彼を男性として愛している。私はそう取っていいんですよね?」
「…………そう、ね。隠しても仕方ないか。嗚呼、考えれば考える程に凄い状況ね。漫画か小説みたいよ」
それには同意する。私と彼は既に恋人として付き合いがある。にも関わらず、メリーさんもまた、想いを募らせているときた。それをよりにもよって、彼を抜いた当人同士で認識しあっている。
間違いなく修羅場だ。
「……聞けて、よかったです」
「……本心かしら? ねぇ、何とも思わないの? 恋人が頻繁に、自分以外の女性……。それも、バリバリ彼に気がある女性と出掛けている。だなんて」
「え、嫌ですよ?」
あっさり肯定した私に、メリーさんは目をパチパチさせる。
何を今さら。
同じ状況で、大丈夫。全然平気何ていう人がいたら、私は心底その人を尊敬……は、しない。畏怖するだろう。
長年連れ添った結果、互いにドライになってるならともかく、明確な想いがある筈なのに何とも思わないのなら、それはもはや、恋人としてどうかと思う。
「嫌に決まってます。少しの間だけど、メリーさんと接する彼を見たら、益々一緒にしたくないってね。でも……」
同時に、分かった事もある。悔しいけれどやっぱり彼にとって、メリーさんは特別なのだ。勿論、私とは違った意味で。
私とは出来ない何かをメリーさんとなら出来る。それは、彼が彼である為に必要な事で。
「……嫌だ。何て、彼に言えるわけないじゃないですか。疑われているのかな? だなんて、彼に思って欲しくないじゃないですか。愛してくれてるって自覚があったら……尚更」
メリーさんは、黙って私を見つめていた。
「だから、メリーさんの想いを聞けてよかったです。モヤモヤして、どっちつかずのピエロモドキになるのではなく、明確に貴女の気持ちを知った上で、私はしっかり、構えられる」
目に見えない怖さか。目に見える怖さか。どっちが御しがたいかなんて言うまでもない。
認識できるなら、蹴っ飛ばせる。だから私は。
「……彼は、渡しません。想うなら自由ですけど、その先は駄目です。恋人であるだけな以上、拘束も何もない、ただの言葉ですけれども……」
言っては難だけれども、恋人という関係は、当人同士の言い分だ。婚約してるだとかならば、また話は色々とややこしくなるのだろうけれど、私と彼はそうではない。……あ、婚約ありだ。何て一瞬思ったのはさておき。意志は……伝わっただろうか。
「……彼は、私を愛してくれてるから。それだけは、分かるから」
「サークル活動なりは好きにしろ。どのみち私が入る余地は何処にもない……。そう言う事よね」
ああ、理解が早くて助かった。そう思うと同時に、栓が抜けたかのように想いや言葉が溢れ出す。
「……私を、酷いと思いますか?」
「まさか。逆の立場なら、私もそうするわ。奪えるものなら奪ってみろって。逆に奪われちゃうならば、その程度の関係だった。それだけよ」
「……私達がその程度の関係だと、暗に言ってます?」
「あら、だったら私は今こうして貴女とお風呂になんて入ってないわ。他ならぬ、貴女と辰だから、私はどうにもならなくて、一人寂しくため息をついてるのよ」
疲れたようにため息をつきながら、メリーさんは頭を振る。そうしてから、「今から貴女には酷いというか、面白くない事を言うわ。出来ればすぐに忘れて」とだけ告げた。
「……彼は貴女を愛してる。それは疑いようもないわ。彼は誠実だから、貴女を裏切るなんてマネは絶対にしない。貴女が泣くところなんて見たくはないでしょうからね。でも……それでも、私を切り捨てる事は出来ない。仮に逆の立場だったとしても、私もそうするでしょうね」
私にとっても、彼にとっても。互いが特別だから。と、メリーさんは呟いた。
「最初はね。ただの興味だったのよ。あ~。私と同じような奴がいるわ~。的な」
奇しくもそれは、いつかに彼がメリーさんがどんな存在かを語った時と、同じだった。
「出会ってサークルを結成して。恥ずかしいけど、これが親友ってやつなのかしら? 何て思ったわ。私は〝こんなの〟だから……ちゃんとしたお友達、いなかったのよ」
こんなのって、容姿の事だろうか。確かに日本人離れはしている。小さなうちは迫害を受けたのかもしれない。子どもは想像以上に残酷だから。あるいは、人並み外れて美しい事が妬みの対象にでもなったのか。
「まぁ、月日を重ねるうちにそれだけじゃないって思い始めた。友情はあるわ。でもそれだけじゃなかった。なら、愛情は? 恋は? それもあるわ。けど……それ以上に勝るものがあった」
「勝る……もの?」
ああ、きっと続く言葉はこれだろう。そう、漠然とながら私は察した。
「寄り添い、背中を預けられる関係。これが、一番近いと思うの。だから名目上は相棒。そう称している。知ってること。秘密を共有して、時には論争したり、弱いとこも見えたり。笑ったり。安心するのよね。同じ世界を共有できる相手は」
大切なものを胸に秘めるかのように、メリーさんは目を閉じる。
「ねぇ、竜崎さん。私はね。彼と恋人になりたい訳じゃないわ。確かに恋人という立場が欲しいのはある。けど……結局ね。根底まで突き詰めてしまえば……私は彼の傍にいたい。それだけなのよ」
「……遠回しに恋人どころか、全部寄越せって言ってませんか?」
「あら、バレた?」
「ぬうぅ……」
チロリと舌を出すメリーさん。……やっぱり油断できなくて、キッと睨めば、彼女は切なげな表情で「これで引いてくれたり、怖じけずいてくれたら話は簡単なんだけどね~流石と言うべきか……」と、呟いた。然り気無く誉められたのだろうか。少し曖昧だ。
沈黙が流れる。口を挟める状況ではなかった。
想いは聞けた。渡すつもりはないことを告げた。その結果、私達に残るのは何だろうか。
そんな中で、私はふと、いつぞや牡丹先輩に押し付けられ……じゃなくて借りた漫画を思い出していた。
彼とメリーさんの会話を見て「ならこっちは独特の言い回しで対抗よ!」何て台詞と一緒に借りた少年漫画。
漫画は殆ど読まない私でも、内容自体はシンプルでそれなりに面白かったのを覚えている。色々な意味でセンスがあるとも無いとも言える言い回しがあったのも事実だ。残念ながら私は共感するものや何かしらを感じるものはなかったけれども。
ただ、唯一……何となく心に残っていたフレーズがある。それが……。
「〝正義と違って、必ずしも愛は勝たなくていい〟」
私が漏らした一言に、メリーさんは眉を潜めて。すぐにクスリと微笑んで。
「西尾維新かしら?」
その答えに、私は小さく頷いた。ああ、互いの考えが把握できるってこれなのか。何となく私はそう思った。
恋人同士でキスしたり、思い思いの形で愛を確かめ合うように。
彼とメリーさんにとっては、これが絆の確認なのかもしれない。
「ご免なさい。メリーさんの在り方を見てたら、何となく頭に思い浮かんで」
「遠回しに私はどうやっても竜崎さんに勝てないって重ねてきてるわよね」
「え……、あっ! いや、そんなつもりじゃ……!」
「……勝っていいの?」
「……駄目です」
そうよね。と、メリーさんは力なく笑う。いつかに見せた、諦感さと、燻るような何かを匂わせる表情だった。
「素敵なフレーズだけど、私は好きじゃないわ。そうやって達観できたなら、こうして不意討ちのように来る苦しさに、身を焦がすことなんてないんだもの」
「……苦しい、ですか?」
「一応私も女なのよ? 報われたい。悪態をつきたい位はあるわ」
そう、ですよね。と、私が肯定すれば、メリーさんは静かに片目を閉じる。
「〝枯れない花はないが、咲かない花はある。世の中は決定的に不公平だ〟」
再び何かしらの引用だろうか。歌うように言葉を紡いだメリーさんに対して私が目を白黒させながら口ごもれば、彼女は悪戯っぽく笑い「同じく、西尾維新よ」と教えてくれた。続けて小さな声で「これは八つ当たりよ」と囁いて。
「ああ、酷い。ズルいわ。どうして……。どうして私じゃダメなの? 竜崎さん。貴女より早く、辰に会いたかった」
揺らぎはない。
メリーさんが彼を愛していると主張しようが。
有り得ないけど私を口汚く罵ろうが。
私は揺らがない。そう思っていた。
けど……。
その言葉は、私を直接糾弾するわけでも。彼に思いの丈をぶつける訳でもない。ただの仮定の話だというのに、何故か私の心に澱みを産んだ。
私と彼は恋人だ。何回も何回もあの朴念仁にアタックして、晴れて高校生にして恋人になれた。
けど……もし。もし、私とそうなる前に彼とメリーさんが出会っていたら?
ifの話は、好きじゃない。けどふと考えてしまったのだ。
「……メリーさん。メリーさんと、彼って……いつ、どこで知り合ったんですか?」
私の突然の質問に、メリーさんはキョトンとした顔で首を傾げつつ、静かに口を開く。
その答えは……。
それを聞いた時。私の中で覚悟は決まった。
同時に、それを知った時。変な話かもしれないが、私は今以上に彼を愛おしく思ってしまった。
誰が何と言おうとも。益々好きになったとか。愛してる。もある。だけど一番に思った事はやはり〝愛おしい〟という感情だった。
※
「今から、盛大にノロケます」
お風呂上がり。すやすやと眠る彼をメリーさんと一緒に眺めてる時、私はその言葉を口にした。
「……はい?」といった表情で私を見るメリーさん。それを見返す私は、自分でも凄くじっとりした目になっている事だろう。
だが、知らん。
メリーさんの話を聞いて、少くなくない暗雲が私に立ち込めた。だが、それがどうした。今彼の隣にいるのは私なのだ。
「いや、相棒と恋人じゃあ、齟齬があるでしょうし。何だかお風呂では始終私が押されぎみだったので。ここは一つメリーさんの知らない彼を話して、メリーさんの心を折る……。じゃなくて、楽しんで頂こうかと」
「……何だか凄い悪意ある言葉を聞いた気がしたのだけれども……まぁ、いいわ。聞かせて。私も話のストックなら事欠かないわ。貴女がムカムカする類いの……ね」
黒い笑みを浮かべるメリーさん。……悪意があるのはお互い様のようだ。宜しい。ならば今度こそ戦争だ。
女子力は殆ど勝てずとも。この争いならば負ける気はしないのだ。
これが盛大なフラグという奴だったのに気づいたのは、すぐ後の事だった。
因みに。何故か眠っている筈の彼がブルリと身震いしたように見えたのは……。見なかった事にした。
取り敢えず。変な事実が発覚したら、キックポイントを追加しよう。
流石に病人を蹴る程私も鬼ではない……筈だ。




