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彼氏が変態過ぎて困ってる  作者: 黒木京也
日常編その3
36/65

人はトラウマをバネに、少しだけ強くなる

 それは、何の気なく耳に飛び込んできた話題だった。

 講義の最中。私の隣の席にいた女の子の一団が、所謂恋バナで盛り上がっていて、少しだけげんなりしていた時だ。不意に一人の見知らぬ女の子がこう言った。


「ねぇねぇ! 皆は初めてっていつ?」


 飲んでいた紅茶花伝を、危うく吹き出しそうになったのは内緒である。

 現在受けているのは一般教養の授業。必修科目とは違い、各自興味がある科目を、好きなように取るというシステムが、うちの大学だ。故に、今日は学科の友達とは一緒に行動していないのだが……。切実に思う。行動していなくてよかったと。こんなありきたりな反応を見られた日には、学友達にからかわれてしまうこと請け合いだろうから。


「え~? キス? それともセックス?」

「両方両方!」


 日も高いのにまぁ、よくもそんな話題を……。

 前の席で一人で座っている男が、妙にソワソワしているのには、少し同情した。


「あたしの彼、両方とも私が初めてだったみたいでさぁ~。可愛いんだけど……ねぇ……」

「なによ、物足りないなんて贅沢言う気? 羨ましい~。私のなんて私で……何人目か……覚えて……ないって……」

「お、おい! あ、駄目だ。こいつ。自分で墓穴掘りやがった」

「そう言うあんたは?」

「ん? 俺? 処女だぜ。キスもねーなそう言えば」

「あ、うん。何となくそんな気はした。ユリリンは?」

「十四歳の時」

「……え?」


 それは……キスだよね? と、聞く勇気は、周りには無さそうだ。私も聞きたくない。てか十四歳とか中学生じゃないか。ドラマじゃないんだから。

 そんな突っ込みを心の中でしていたら、ふと、彼の事が頭をよぎった。


 私の初めては……その、どっちも彼だ。高校二年の冬と、高校三年の夏の終わり。

 今思い出してもわりと火が出そうになるくらい恥ずかしいけど、どちらも長年恋慕を重ねていた私にとって、忘れられない大切な思い出だ。

 でも、それと同時に今更ながら思うことがある。


 彼の初めてって……。私なのだろうか?


 それは、信じられない事に、気にも留めなかった事だった。聞こうとも、考えたこともない。だって彼が私の傍にいて。それだけで満たされていたから。

 幼なじみだから、距離も近かった。けど、私が知らない彼の一面というのはやっぱりあって。そう考えると……。


 何だろう。どっちも……その、慣れていたような気がする。

 いや、私がテンパっていただけかもしれないけど。


「初めてって、何だかんだで覚えてるよね~」

「彼氏変わってもね~。何でだろ?」

「そういうもんか?」

「そういうものよ。私は殴り殺そうかと思った。痛くて痛くて」


 かしましい会話を聞いていたら、私もいつかの日を思い出して、頬が熱くなる。……痛かった。幸せだったけど痛かった。ものっ凄く。蹴りたい背中ならぬ、蹴りたい金的……って違う。違う。今気にしてるのは、彼の初めてについてだ。

 別に私じゃなかったとしてもグチグチ言うつもりはない。ないったらない。ちょっと蹴り飛ばす……んじゃなくて、ちょっと膨れっ面になる位の筈だ。

 ぐるぐる回るは思考のループ。こうなってはもう、聞き出さなければ気がすまなくなってしまった。そんな訳で……。


「…………よし」


 私は決意した。聞き出してみよう……! と。

 お決まりのパターンで後悔する事になろうとは、つゆほど知らずに。


 ※


「……ねぇ、辰の初めてって……いつなの?」


 帰宅して、夕食を済ませ。ソファーに二人ならんで腰掛けて、惰性ぎみにテレビのチャンネルを回す。そんな穏やかな時間に、私は計画を決行した。

 わりとタイミングがつかめなくてズルズルここまで来てしまったのは……、まぁ目を背けるとして。質問された当の彼は、意図を図りかねているのか、目を丸くしたまま、私を見つめていた。


「初めて? って?」


 ここで私は誤算に気づく。こうなってしまえば、私が質問の意味を説明しなければならないわけで……。あれ? 滅茶苦茶恥ずかしくないか? これ?


「えっと……あ~」


 歯切れも悪くなり、テンパる私に、彼は何とまぁ未だに分からないらしく、珍しくオロオロしていた。

 ええぃ! 察してよ! 普段無駄に鋭いくせにこんな時ばっかりこうだ! 貴方がそんなだから……。


「だから……その。ファーストキスとか……。初めて……あの……、エ……エッ……チ……とか」


 私が一から喋る羽目になる。お前が気にした挙げ句質問しておいて何を。と、言うなかれ。私にだって羞恥心やら少しは乙女心なるものが……。


「あ……ひ……」


 が、私の恥じらいはそこまでだった。彼らしからぬ短い悲鳴に、私は、ん? と、訝しげに顔を上げ……。


「し、辰? どうしたの?」


 そこで、物凄い勢いで冷や汗をかく彼と対面した。え? 何? 本当にどうしたの?

 困惑する私を余所に、彼は等々ガクガク震えながらも頭を抱え……。


「あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカン。あれはノーカンッ……!」


 お、おう……。と、私は顔がひきつるのがわかった。何故だか分からないけど、地雷を踏んだらしい。おかしいな。こういう役回りはいつも彼の筈なのに。


「ね、ねぇ? 辰……」

「あれはノーカン。あれはノーカン。あれは…………。あ、うん。ハジメテハ綾ダヨー。当然ジャナイカ~」

「……ファーストキス」

「あれはノーカン。あれはなかった。あれはノーカン。あれはなかった。あれはノーカン。あれはなかったっ……!」


 ……ちょっと面白い。何て思ってしまう私がいた。取り敢えず初めては私じゃないことに一抹の寂しさを感じるものの、彼にとっては不本意極まりないものだったらしい。それが少しだけ救いだった。


「じ、じゃあ、セカンドキスは……」

「ノーカンッ! ノーカンッ! ノーカンッ!」


 あ、駄目だったのか。どうにも彼の初めてのお相手はなかなか情熱的だったらしい。

 しかしまぁ、物凄い拒否りっぷりである。本当に何があったのか。

 ……まさか。


「まさか……男の人とか?」

「あ、それはない」

「あ、そうなのね……そっか」


 男ならギリギリ許す。何て傲慢な事を考えていた私が、ちょっぴりがっかりした事は言わないでおこう。

 しかし……。何処の誰かは知らないが私の彼にこうも強烈なインパクトを残すとは……。あれ? 何かムカついてきた。


「えっと……あんまり掘り起こされたくないんだ。本気と書いてガチで」

「そ、そんなに酷いトラウマだったの?」

「…………っ!」


 あ、これダメな奴だ。こんなに顔面蒼白な彼を見たのは、いつぞや大学でホモの先輩に追い回されているのを見た時以来だ。

 ……気になる。正直凄い気になるけど……。止めてあげた方がよさそうだ。


「えっと……何か、ごめんね。私が、つまんない事聞いたから」

「い、いや。いいよ。そうだよね。綾からしたら気にもなるか。君との時は、もう初すぎて可愛くてしょうがなくて僕はもう立ったまま色んなとこが……ゴッパァ!」


 鳩尾に裏拳を叩き込んでおいた。精神攻撃を止めたからといって、肉体言語に頼らぬとは言ってないのだ。ムカムカの分もあって、今日は何だか威力高め。


「イテテ……てか、何で今更そんなこと聞いてきたのさ?」


 お腹を抑えながら問う彼に、今日あった事を話す。

 気になったから。というのもある。けど一番は……。

 今になって自覚し始めた感情。それは……


「付き合う前とはいえ……辰が私以外の人とそういうことをしたってのが……嫌なの。だから、知りたくなったんだわ」


 気がつけば、声がどんどん尻すぼみになっていくのが分かった。

 私だったならよし。私じゃなかったら……。私はどうするつもりだったのか。

 何て酷い独占欲だろうか。自分で言っていて、恥ずかしくなってくる。穴があったら入りたくなってきた。


「……ごめん。めんどくさいこと言ったわ。忘れ……」

「ファーストキスはね。二つくらい隣町で会った、女の子。……う、うん。女の子だったんだ」

「え? ちょ……」


 私が慌てて意見を取り下げようとした時。何を思ったか、急に彼が語り始めた。さっきとは打って変わった態度。まるでそう、悟りを開いた菩薩みたいな顔をしている。……一体どういうつもりなのか。

 私がオロオロしていると、彼は笑いながらも頬を掻く。


「いや、個人的に綾の嫌なの……が、言い方、仕草共にグッときて。君は僕をどうしたいのさ!」

「……待ってごめん、意味が分からない」


 ああ、そうか。これダメなパターンだ。考えてみたら、彼がこんな表情を浮かべた時は、大抵ロクでもない事が私に降りかかる。

 嫌な予感を感じて彼から少しだけ距離を取る。ソファーの上だから微々たるものだけど。

 てか、そんな事だけで自分のトラウマを切開するとか、歪みないにも程がある。そう私が言うと、彼は至極真面目な顔で「そんな事じゃない!」と、叫び……。


「僕はね。いつだって自分に正直だよ」


 そう言った。意図がつかめず私が首をかしげると、彼は話を続ける。

 ……おや? 距離を取った筈なのにさっきより近い気がするが、気のせいだろうか?


「トラウマだよ。正直、当時十四歳の僕には、色んな意味で衝撃的すぎて、僕は暫く女の子を見ただけで密かに震える羽目に……」

「どんだけ凄いことされたのよ。じゃあ尚更喋るのは……」


 止めてよ。そう告げる。何だか凄く申し訳ないし、彼にそんな辛い事はさせたくない。何にも聞かなくていい。今は貴方がいるからそれでいいのに。少しだけ涙目になるのを自覚しながらも、私は彼にすがり付き、首を左右に振る。すると……。

 むんずと。両肩を掴まれた。

 ……んん?


「そう、トラウマだったんだ。封じていたんだ。綾に掘り起こされるまでは。残念ながらもう完全に掘り起こされちゃってね。そこに綾の可愛い仕草が入ってきた。涙目でイヤイヤとかただのご褒美だ。独占欲全開とか、ただの鼻血もの。さて、ここで思い出して欲しい。当時の僕は、なんでこんな目に……。と、己を呪ったものだよ。けどね、今僕は、それを塗りつぶせる存在を。可愛くて可愛くて、暗闇で二人きりになると物凄くエロい彼女がいます。すると……どうなると思う?」


 彼の手が、部屋の電気のリモコンに伸びる。照明が落とされ、辺りが真っ暗闇になって……あれ?


「ね、ねぇ。もしかして……ちょっと怒ってるの?」

「アハハ……違うよ。これはね……当時のやるせなさを思い出しちゃって……その反動でちょっと暴走しちゃってるだけだよ」


 ……ふ、普通に怒るよりタチが悪い奴だこれー!

 月明かりが射すリビングで、妖しく目をギラつかせる彼。ああ、ダメ。その目は本当にダメ。それで見つめられると……弱いのだ。


「あ……う……」

「嫌だなぁ綾。そんな食べられちゃう寸前の兎ちゃんみたいな顔しなくても……」

「……や、やさしく……してね?」

「勿論。……大丈夫だよ?」


 ごめんなさい、全然大丈夫に見えません。そういう貴方はお腹が空いた狼に見えるのは気のせいでしょうか?

 トラウマスイッチを掘り起こしたら彼が狼になりました。

 何とかして逃げ……られないので、私はせめての抵抗をする。ただ食べられる兎になるのは御免だ。

 そりゃあ、無自覚ながらちょっと悪いことしたとは思う。こんなに深刻だとは思わなかったから。でも、彼は分かっているのだろうか? そこまでひた隠しにされると……女はかえって燃えるのだ。何て言うか……そう。

 押し倒してきた彼の首に、腕を回す。そして――。


「じゃあ、ちゅー。いっぱいして? 辰がファーストキスなんか、忘れちゃうくらいに」


 塗り潰してやる。そんな気持ちが芽生えてきて、気がついたらそんな事を口にしていた。

 その途端、ヒクリ。と、彼が暗闇で何とも言えない顔をしている気配がして……。


「君は何でこう……毎度毎度、僕をメロメロにする殺し文句吐くかな?」

「……意図してる訳じゃないわ」


 尚更タチが悪いよ! と、彼は叫びながら、私をキツく抱き締める。いきなり包み込まれて身体が跳ね上がるけど、彼はそんなのお構いなしに私の首筋に頬を寄せる。何だかちょっとくすぐったくて身を捩っていたら、彼の口が、舌が私の耳を捕らえ、好き放題に蹂躙する。

 自分でもビックリするくらい甘い声が口から漏れたかと思えば、彼は静かに。湿った私の耳元で囁いた。


「ああ、そうだ。キスは……結構な数をその子に奪われたけどね。……他はぜーんぶ。綾だよ」

「ふぇ?」


 かぷかぷと、彼に耳朶を噛まれて、身体に電流を走らせる私に告げられたのは、私が聞きたかった言葉。思わず彼の襟元を掴もうとした手が捕らえられ、互いの指と指が絡まる。……所謂恋人繋ぎ。

 何だろう。これで満たされる私も大概だ。うわっ、私の幸せのハードル低すぎ。そんな気分になる。けれども……。


「手を繋いだのも。こうして抱き締め合うのも。好きって言葉にして伝えたのも。恋人になったのも。全部綾が初めてなんだ」


 じわりと、暖かさが広がっていく。私に文句を言ってたけど、彼だって大概だ。何でこう私をどうしようもなくさせる言葉を吐きやがるこの野郎大好き。

 気がつけば、彼の胸に顔を埋めてて。そのまま私は心地よい幸福感に身を委ねる。


 気にした私がバカだった。何があったにしろ、今世界中で誰よりも彼とイチャイチャしてるのは……、私なのだ。……自分で言うのは恥ずかしいけど。


 取り敢えず。美味しく召し上がられました。



 ※


 微睡みから覚めた時に、僕が見たのは、薄暗い天井と、僕の腕を枕に眠る天使だった。

 取り敢えず、天使もとい、綾を優しく撫で撫でする。頭だけ。ホントは頭以外も撫で撫でペロペロしたいけど、それをやるとたまに無意識ゆえの回避不可な拳が飛んでくるので、全力で自粛した。……まぁどのみち、今はそんなふうにおどけるつもりはない。

 柔らかな綾の髪の感触を楽しみながら、僕はあの日の思い出を脳裏に浮かべる。

 

 掘り起こされたのは確かにトラウマだった。わりと深刻な。けど、実は悪いことだらけでもなかった、〝彼女〟は、色んな意味でいい友人だった。なつかれていた。が、正しいかもしれない。だから、思い出として語る分には問題は……ない。トラウマものなキスは全力で拒否するが。

 では、どうして綾に話さなかったか。勿論、話すどころじゃなくなってしまったのもあるけれど、実際には、話そうにも綾には話せない。こういう答えに行き着いてしまう。

 何故ならば……。


 浮かんでは消える、忘れもしないあの子の顔。

「アタシ、キレイ?」と、会うたびに問うてくる、〝まだ口の裂けていない〟綺麗というよりは、可愛いが似合う少女だった。

 それは、風化しかけた都市伝説の末裔との、たった数週間の交流の日々。語るに語れぬのは他でもない。綾が苦手な、オカルトの住人だから。そう――。


「まさかファーストキスの相手が口裂け女だなんて……言える訳ないよなぁ……」


 だからこれは語らずに封印する。世の中には、知らなくてもいい事だってあるのだから。

 トラウマの扉を開けるのは……出来ればごめん被りたいのだ。


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