慕情は惑う、桜迷宮
舞い散る花弁が、風に煽られて流れていく様を、私は溜め息と共に見つめていた。月に叢雲、花に風とは言うけれど、両者とも邪魔なものには思えない。
満月や満開の桜も勿論素晴らしいけれど、隠れた雲より射す月の光だとか、散りゆく花特有の美しさだとか。邪魔なように見えてその美しさを引き立てるものというものはやっぱり存在して……。
「たとえばだ。綾のミニスカート。パンツを隠す無粋なものと見せ掛けて、これがないとパンツのありがたみが分からない。見たいけど見えないチラリズム……。そこにあるものの想像を掻き立てる美徳……日本人の業は深いよ。君の場合美脚に装備されたニーソックスとの絶対領域がもう素晴らしいの一言だ。頑張れ! 風もっと頑張れ……」
今日の彼はよく飛んだ。ミニスカートなので、回し蹴りはまずいという事で、今回は鉄山靠をかましてみた。
背中から行く体当たりとバカにすることなかれ。破格の威力を誇る八極拳の技は、練りに練った勁力と、渾身の震脚を組み合わせれば、大木をも真っ二つにすることが可能なのだ。
流石に彼を二分したら私の心が裂けるので、威力は控えめにしてるけど。
「……やり過ぎたわね」
けど、飛ばした方向が悪かったらしい。
土手の上から転がり落ちた彼は、川に落っこちる寸前に何とか勢いを殺していた。
受け身が上手い奴だ。が、割りと痛いものは痛かったらしく、悶絶するようにしてのたうち回っている。
仕方なしに土手を降り、未だに倒れたままな彼に手を差し伸べる。再起不能は少し困る。何のために来たのか分からなくなるし……。
「あ、今日はピンクなんだ」
救いの手が、止めの踏みつけになった瞬間だった。
グリグリとブーツの底に力を入れるのも忘れない。彼の「あ、ありがとうございますっ!」といったふざけた台詞は、無視してやった。
四月初め――。今年はいささか暖気が強いらしく、桜は既に満開だった。
世は入学式やら入社式。新生活やらで忙しいらしいが、そんなものが全く関係ない私達はというと……。
「痛くて立てないから、お膝枕を要求する」
「……仕方ないわね」
お花見デートと洒落込んでいた。
あまり有名どころではない、辺鄙な桜並木。
人通りも少ないから、こんなことも出来るのだ。きっと桜のせいに違いない。そうだとも。
そっと彼の傍らに腰掛け、頭を膝に乗せる。
風と、鳥の声と、木々が擦れる音だけがする。
騒がしくなく、静かすぎもしない空間で二人きり。ふと、彼の手が私の髪に延びてきて、いつものように指で弄ぶ。
彼がよくやるこの動作は、結構昔から。女性の髪を不躾に触るなんてと思われそうなものだけど、とうの私が彼に触れられるのをよしとしてしまっているので、問題はないだろう。……認めがたいが、気持ちいいのだ。
だから髪のお手入れは欠かせない。楽しそうな彼を見たいから。それに、これで彼を魅了できるなら、それはそれで嬉しいし。
「……綺麗だ」
何気ない一言が、私の心臓を跳ね上がらせる。こういう所は卑怯だと思うけど、私だっていつまでも初な反応を返すかと思ったら大間違いだ。
「……桜が?」
そんな私の問いに、彼はくしゃりと笑って、「両方」と答える。首から下げられた、独特な形のペンダントトップがキラリと光る。ホワイトデーの後日にあの人から贈られたものだと彼は言っていた。
それを以来肌身離さずつけているのは彼女として物申したい気分ではあるけれど、悔しいことにそれはそこにあるのが当然だというかのように、彼によく似合っていた。
「……添い寝を要求するわ」
自然と口にした私の言葉に、彼は少しだけ驚いた顔をして。けど、やっぱり嬉しそうに頷いた。
「いいよー。今日は暖かいからねー」
「……桜に酔ったのよ」
そんな私の可愛いげのない言い訳すら流して、彼は私を抱きよせ、寝転ぶ。春の陽気が眠気を加速させるようだ。
ヒラヒラと花弁が落ちてくる。彼と私の上に彩りが加えられていくのを、少しだけ面白い何て思っていると、彼がぼんやり桜を見つめているのに気がついた。
「……辰?」
何となく彼が遠くに感じられて、思わず呼びかけると、彼は何でもないよと微笑んだ。
嘘だ。
直感的にそう思った。何処か遠くを見ているように感じることはよくあった。昔からよく。
だからこそ、私は彼を繋ぎ止め、袖を引くかのようにすがり付く事しか出来なかった。
彼は〝何を〟見ていたのだろう。最近はそんな事を考える事が多くなった。
「桜の下には、死体が埋まっている。これってさ。美しいものを際立たせる為にあるよね」
「……私には、怖い話題にしか聞こえないわ」
本当に何を見ていたのか恐ろしくなり、彼の胸に顔を埋める。
話題を切らんとする私の気配を察したのか、彼はごめんごめんと笑いながら私の頭を撫でた。
その優しさが、今の私には私に痛かった。彼と共有できない悲しみが。でも、怖いのはどうしようもない。話題を変えよう何ていい出した彼に、私は内心で謝ることしか出来なかった。
「〝深淵をのぞきこむとき、その深淵もじっとこちらを見つめているのだ〟っていう言い回し。あれも桜の下と同じで、使い古されている感は否めないよね」
「よく……聞くのかしら?」
誰の言葉が私が戸惑っていると、「ニーチェだよ。『ツァラトゥストラはかく語りき』や、『善悪の彼岸』で取り上げられている思想さ。怪物と戦う者は自分も怪物にならないよう注意せよなんて言葉が前に挟まれるんだけど」といった講釈が入ってくる。
ミイラ取りがミイラになる。朱に交われば赤くなるとかと似たような感じか。彼に言わせれば、違う解釈が返ってきそうな気もするけれど。
「つまり、お前がおっぱいを覗くとき、女性はその視線に気づいているぞという警告に……アダダダダダ!」
ほらこんな風に。ついでに私の胸元を見る視線が何だかやらしかったので、頬をつねってやった。
何だか誤魔化されている気はしたけど、ここでは黙っておこう。
気を取り直してまた歩く?
なんて私の提案に、彼はもう少し。とだけ答えた。
それに少しだけホッとする自分がいた。
最近こうしてのんびりする機会が少なかったように感じる。
時間の流れがゆっくりとしている感覚に、自然と瞼が重くなってくる。
「今日みたいな日が……いつまでも続くといいのに……」
ポツリと漏らした私の一言に、彼が少しだけ固まるのを感じた。
私を受け止め、頭をそっと撫でる手は止めないで。そうして彼もまた、静かに口を開く。
「そうだね……。僕も、そう願うよ」
私も。そしておそらく彼も、永遠何て言葉は信じていない。だからさっきの私達の言葉は、随分とらしくない物言いだ。
もしかしたら、今は春だから。何かが変わってしまうような気がして、不安になってしまったのかも。
「春は出会いと別れの季節だからね……新しいことが始まらない僕らが変な気分になるのも仕方なしかも」
「……私から言い出しておいて難だけど、止めましょう。せっかくのお花見なのに。暗くなっちゃうわ」
自分らしくないと感じていたのは、どうやら彼も同じだったらしい。その事実が少しだけ嬉しくて、私は指で彼の口に蓋をする。
「花見団子が食べたいわ」
「いいね。近くにお店がないか探してみよう。なかったら……コンビニでいいか」
ゆっくりと起き上がる彼の手を借りて、私も立ち上がる。互いの身体から桜の花弁が落ちてきた。意外とのんびりしていた時間は長かったらしい。
二人連れだって土手を登り、また桜並木の下を歩く。
さっきの桜を振り返るが、やっぱり私には何も見えなかった。
「ねぇ、さっき……何見てたの?」
「え? 桜と綾のおっぱいの谷……まぁあっ!?」
脇腹にエルボーを打つ。ああそうか。どこまでもブレないのか彼氏よ。いちいち制裁を加える私も大概だけど。
「……嘘つき」
ボソリと呟いた私の声は、悶絶する彼には聞こえないだろう。エイプリルフールは終わったというのに、酷い奴だ。
「……いや、割りとマジでそうなんだけど」
「……早いわよ復活」
「君が何か悲観的な風に思えて、つい」
変なところで鋭いのも相変わらず……と。
何だか私の方は彼に全部筒抜けみたいで嫌になる。私は、彼の事で知らないことは多いのに。そう考えると悔しくなってきて、彼の手をギリギリと握りしめてやった。
それを相変わらず困ったような顔で見ながら、彼は静かに肩を竦め、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「一応、僕が最終的に見ているのは君なんだけどな……」
桜は人を狂わせるというけれど、彼はそれ以上に酷いと思う。
私を狂わせ、モヤモヤさせて、結局暖かくしたかと思えば、フラりと何処かへ行ってはまた帰る。
「貴方といると、迷宮にでも迷い込んでる気分になるわ」
「そんな惑わしてるかなぁ? むしろ僕が惑わされては、蹴り飛ばされてるよ?」
「蹴り飛ばされてる大半の理由が、貴方にあるのだけど?」
「酷い彼氏だ。蹴っ飛ばしちゃえ」
私の悪態と、おどけたような彼の返答が、春の風に流されていく。
桜の花弁と一緒に、ヒラヒラ。ヒラヒラ。
そんな訳で、特に変わり映えなどないままに、私と彼は大学二年になる。
色んな意味で波乱に溢れた一年が、きっとまた始まるのだろう。
迷宮はまだ、抜けきれていない。きっとこれからも、互いに迷って戻って……また迷うのだろう。
彼ならば、だからこそ人は面白いと笑うのだろうか。
「……桜……さくらんぼ! 綾! さくらんぼ買おう! 是非とも君の可愛いお口でやって欲しいことが……!」
数秒後、彼が私の地獄突きの前に膝をついたのは、もはやお約束。
春だからってはっちゃけ過ぎだ。……ばか。




