バレンタイン爆撃戦
チョコレートとの戦争を初めて、早くも一週間が経過した。牡丹先輩の指導のもと、私はひたすらチョコレートの修行を繰り返している。その過程やらきっかけとかを端的にまとめると……。
身体はカカオで出来ている。
血潮はビター。心はミルク。
幾多の台所を経て不毛。
だだ一度の成功もなく、ただ一度も美味しいとは言われない。
かの者は常に一人。ただ私の料理で生死をさ迷う。
故に彼女としての威厳もなく……。
「と、いう訳で、今回こそ美味しいって言わせたいんです」
「大丈夫。辰君はもう充分な位美味しい思いしてるわよコンチクショウ。てか、変なパロディーは止めなさいな」
夕方の部室にて放たれた私の主張に、何故か血涙を流す勢いで牡丹先輩が親指を立てる。
彼女が口にするのは、ここ最近で力を入れまくったお菓子作りの成果……チョコレートブラウニーだ。
「うん、凄いわ。美味しいっ! 最初の何かの蛹みたいだったものとは大違いよ!」
「さ、さな……! ま、まぁよかったです……ちゃんと出来るようになって」
酷すぎて逆に言及したいコメントはさておき、ほっと胸を撫で下ろす。本当によかった。これなら彼と……。
「甘い甘ぁ~いバレンタインが過ごせるわね!」
「……一瞬本当にそんな事を思ってしまった自分が恥ずかしいです」
この先輩は本当に油断ならないと思う。なんというか、人の考えをこうも読むのが上手い辺り。……私が単純という可能性は蓋をした。そうでないと思いたい。切実に。
そんな事を考えながら、私はそっと、先輩に小さな包みを渡す。
今度は私からの反撃だ。
「おりょ? これは?」
「少し早いですけど、バレンタインの贈り物です。先輩には凄くお世話になったので……」
本当は他のお菓子をと思ったが、散々試食して貰ったので、食べ物以外を選んだのだ。
結構有名で人気なお店の石鹸と入浴剤。先輩に似合いそうな香りを私なりにチョイスしてみた。
因みに肝心の先輩はというと、案の定雷にでも撃たれたかのように固まっている。……そんなに予想外だったのだろうか? こっちとしてはサプライズが成功して嬉しいのだけど。
「え、マジで? いいの? 辰君より先に貰っちゃっていいの?」
「先輩は……特別ですから」
その瞬間、先輩は何とも形容しがたい小躍りを披露した。
「ひ……ヒャッハァ! 辰君ザマァ! 綾ちゃんの上目遣いと赤らめ顔頂いちゃったわ! お姉さん大勝利ぃ!」
こんなにも大喜びされると、こっちも何だか恥ずかしい。
そんな中で牡丹先輩は、とうとう一昔前のコメディアンのような動きまでやりだした。女らしさとはなんだったのか。見てて面白いけど。
「ありがと綾ちゃん。じゃ、ほいお姉さんからも」
「へ?」
そんな変な動きから一転。牡丹先輩はポン。と、まるで手品のように私の手の上に小さな箱を乗せ、輝くようなウィンク。
あ、可愛いなんて素直な感想を抱きながら、ポカンとする私に先輩は悪戯っぽい笑みを浮かべ……。
「じゃ、頑張ってね~ん」
それだけ言い残して、先輩はそそくさと部室を後にした。
太陽のようでいて、嵐のよう。そんな表現がしっくりくる。
本当に小粋な人だとつくづく思う。
「ん……頑張ろ」
柄にもない台詞を漏らしながら、私もまた、帰る準備をする。練習は、ちゃんとした。後は本命を完成させるのみだ。
稽古をつけてくれた先輩に感謝しながら、私は部室を後にした。
※
型はシンプルな四角にすることにした。ハートも考えたけど、形が崩れたら嫌だし、何より私らしくない気がする。付けても上に乗せたりする程度のアクセサリーみたいな小さいものにしよう。
そう考えながら、細かく刻んだチョコレートとバターを湯煎にかける。
薄力粉も、卵も溶かしてあるし、オーブンも抜け目なく余熱を加えてある。砕いた胡桃よし。お砂糖よし。隠し味のシャンパンと、バニラエッセンスも完備。
変な合体事故でも起きない限り大丈夫な筈だ。
作るのは勿論、チョコレートブラウニー。
さぁ、戦闘開始だ。
……そして。
「出来た……!」
密かにガッツポーズしたいのを抑えつつ、私は一息つく。我ながら会心の出来……だと思う。焼き上がったブラウニーを冷蔵庫に入れて、一応クッキングシートで隠して、アルバイト用と書いた大きめの付箋を貼っておく。これで彼は疑問に思えども手を出さないので安心だ。
「……明日……かぁ」
彼は、どんな顔をするだろうか? 喜んでくれるか、それとも驚くだろうか。大前提として、朝起きてからは渡さないつもりだ。その日の用事を全部終わらせて部屋に帰って来てから渡すことにする。毎年やってしまう焦らし。悲しむべくは彼にその類いが毎年通用していない事だろうか。……ベッドでは散々私を焦らすくせに。
邪念を振り払うように壁を殴る。いかん。何か駄目だ。何かおかしい。きっと舞い上がってしまっているに違いない。そんな事を考えていたら玄関からドアの開く音。彼が帰って来たらしい。
顔が赤らんでいないことを鏡で確認してから彼を出迎えに行く。取り敢えず……。
「ただいま~」
「ねぇ、ハイキックしていいかしら?」
「ファ!?」
理不尽な甘え方だとは思うけど、一回蹴らないと、今日はまともに彼の顔を見れない気がしたのだ。
取り敢えず。力を抜いて彼を吹き飛ばす。彼は受け身を取り、何事もなく復活してきた。このやり取りに僅か二十秒。
「僕の受け身も素晴らしい領域になって来たと思わない?」
「そうね。凄く助けられてるわ」
貴方が想像する以上に。という言葉は飲み込んだ。厄介な羞恥心を蹴り飛ばせたからよしとしよう。……本当に女らしさとは何処にいったのかと自分を責めたい気分だ。
「てか、ミニスカート穿いてるのにハイキックでパンツが見えないってどういう事なの。速度おかしくない?」
「然り気無く覗こうとする執念は買ってあげるわ」
因みに今日は……教えてやらない。恥ずかしいし。
リビングに戻り、テレビをつけながら彼は台所に立つ。その横に私も立つ。
「手伝ってもいい?」
「ん、いいよー。最近頑張るね」
「……出来ないって縮こまるのは止めにしたのよ」
こんな私でもお菓子が作れたのだ。次は料理だって頑張りたい。毎回失敗して分かったのは、やっぱり逃げないで努力する事だと思う。
たとえ今は彼の手際を目で追うことしか出来なくてもだ。
「ん、じゃあ今日は簡単なおかずを一緒にやってみようか~」
私が手伝うと、いつもより夕食が遅れてしまう。それがちょっとだけ申し訳ないが、背に腹は……。
「いや、遅れても無問題。むしろ頑張る綾でお腹いっぱいです。変に気を使わなくていいよ~」
……だから心を読むなと言ってるのにもぉ!
そんなに私は分かりやすいだろうか。割りと真剣に考えてしまう。
悔しげに唸る私をいつものカラカラとした笑いでかわしながら、彼は私に簡単な指示を出す。
何だか主導権を握られているようで、変な気分になったのは内緒だ。
「……明日、辰は何時に帰ってくるの?」
「ん、サークルあるから……まぁ夜の六時、七時位かな」
「ん、分かった。私はサークルないし……先に帰って待ってるね」
そうして、短い会話は終わる。
彼が気づいてるかは分からない。明日はバレンタイン当日。日本中の男女が男女がある意味で色んな爆弾を抱え、戦いを繰り広げる日なのだ。
流石に、飲みとかで帰ってこないという事はないと思いたい。
俗に言うフラグというやつを立てた所で、その日は何事もなく終わる。
問題は次の日に起きた。
※
色々な偶然が重なってしまった。一限目でルーズリーフが切れ、消しゴムが失踪するという事態のせいで、時間やら時期の関係上そこそこ混み合った購買に入る羽目になった。
やっとこせ買い物を済ませた頃には、次の講義が始まる直前。
これはいかんと私は走り、普段使わない号館裏の道を通っていた。一種の裏道。購買からならば、ここを通った方が早いのだ。
授業はちゃんと出ているので、多少遅れた所でたいした痛手ではないが、やっぱり出れるときに出るのが吉だと思うので……。
「……ん?」
その時だ。裏道を抜け、私が行く十二号館の裏口近くに、見覚えのある後ろ姿を見た。服装も、今朝私が見たのと同じ。間違いない。彼だ。
意外なエンカウントに、知らず知らずのうちに鼓動が跳ね上がる。ああ、やっぱり私はつくづく単純だと思う。
びっくりさせたくて、こっそり忍び寄る事にした。確か彼は二限が空いていた筈。こんな所で何を……。
「あ、そうだ。辰、これあげる」
「ん~? 何だいこれ?」
「何だいこれって……辰、それわざとじゃないでしょうね?」
「冗談だよ。ありがとう。まさか君から貰えるとは思わなかっただけさ」
「そりゃあ、サークルの相棒だし? それくらいは……ね」
目の前のやり取りが、否応なしに私の目と耳を通して繰り広げられていく。
可愛くラッピングされた包みを手渡しているのは、まるでお人形みたいに整った顔立ちの女の子だった。
そして、それを受け取るのは紛れもなく私の彼氏で……。
「丁度小腹が空いてるし、休憩がてら頂いてもいいかい?」
「勿論。因みに中身はブラウニーよ」
「……な、何故僕の一番好きなチョコが分かった?」
「前に作った時、一番喜んでいたからよ。当たりみたいでよかったわ」
あろうことか、私が最近聞いて知った彼の好みを、その子も知っていて。
「〝人生はチョコレートの箱だ。開けてみるまで中身は分からない〟……先に種明かししたら面白味がないだろうに」
「……フォレスト・ガンプかしら? 〝何よりも大事なのは人生を楽しむこと、幸せを感じること。それだけよ〟面白味がない何て言葉を使うべきではないわ」
「……オードリー・ヘプバーンかい? もし君が悲観的なことを言い出していたら、僕も彼女から引用しただろうね」
何よりも心が痛かったのは、彼女との会話があまりにも自然で、なおかつ彼が何だか楽しそうな事だった。
「……――っ!」
言葉に出来なくて。彼に話しかけるのすら何だか怖くて。
私は音を立てぬよう、その場を立ち去った。
不意の爆撃は無慈悲にも、私の心を抉っていたのだ。




