お嬢と薄紫色の傘
こういう場合、たいてい帰宅部の中で真面目な人間が貧乏くじを引く。
文化祭のクラス展示、教室に残って作業をしていたのはたった二人だった。
僕にとって幸運だったのは、そのもう一人が、石見貴子さんという女の子だった事だ。
石見さんとは小学校時代の同級生だった。
卒業と同時に僕が引っ越して中学は別々になってしまったが、小学校時代の彼女の事ははっきりと覚えている。クラス一の秀才で、真面目で近寄りがたい雰囲気。しかし色白で端正な顔立ちだったからか、水面下での男子の人気は高かった。クラスの女子の間でのあだ名は“お嬢”。他の女子よりも少し大人っぽく見える雰囲気の女の子だった。
高校に入学して、偶然また同じクラスになった。高校での石見さんは昔よりは良く笑うようになっていたが、まあそれも仲の良い少数の女子の間での話で、余り男子などと親しく話すようなタイプではなかった。
クラスの展示発表は学校付近の立体地図だった。まず平面の地図を描き、山を膨らませて、建物の立体模型を配置して行く。
小さい頃からプラモデル作りが趣味だった僕には優等生の石見さんと比べても一日の長があった。発泡スチロールの削り出し、ミニチュアの建物の作り方、リアルに見える木々の配置。好きで覚えたジオラマ作りのスキルがこんな所で役に立つとは思っても見なかったが、僕は少しでもいい所を見せようと躍起になって作業を進めた。女子と二人きりになる場所なんて滅多にない。ここは、自分の株を上げるチャンスだった。
「上手いなあ。斉藤くん。」
驚いたような口調で、石見さんが僕を持ち上げる。
「そうか?男やったら皆、これくらいやるよ。」
「ううん、すごいよ斉藤くん。」
褒められて僕はまた少し調子に乗った。貧乏くじを引き、作業を押し付けられる人間にも時にはこういう幸運があるものだ。“役得”、面倒くさい事から逃げる人間がその恩恵を受ける事は無い。石見さんともう少し仲良くなっておきたい、そう思い始めた僕は話題を探し始めた。同じ小学校の出身だった事は数少ない僕のアドバンテージだ。想い出話から話を広げようと、僕はこう切り出した。
「小学校の頃、石見さん“お嬢”って呼ばれてたやんな?」
石見さんは驚いて僕の顔を見る。
「覚えてたん?」
「覚えてるよ。」
「そんなん今頃言われるなんて思わへんかったな。」
校内のチャイムがなる。部活終了時刻のチャイム。本来なら僕達も、そろそろ片付けを始めなければならない時間だった。
「“お嬢”なあ……。でもな、斉藤くん。」
「ん?」
「私、多分あの時のクラスでは一番、家、貧乏やったよ。」
「えっ?」
意外な言葉に驚いて僕は石見さんの方を向いた。彼女は作りかけの模型の学校の裏山あたりを眺めていた。
「小学校のときさ。」
「うん。」
「私、薄い紫色の傘持ってたん、覚えてる?」
そういえば薄紫色の傘だった。それを聞いて、僕ははっきりと思い出した。
同じクラスだった小学校六年当時、彼女はいつも同じ傘を差していた。薄紫色のベースカラーに、それより少し濃い紫色のライン。その中にパウル・クレーの線画のような洒落た模様の入った大人ものの傘だった。その傘は大人びた当時の彼女のイメージにぴったりマッチしていて、ある意味彼女のトレードマークのようになっていた。
「あんな傘差してたから、“お嬢”なんてあだ名が付いたんよ。あの頃みんな子供用の傘やったやん。赤とかピンクとか黄色の。」
「うん。男子は青とか黒とか。」
「私だけ薄紫色の大人用でさ。でもそれ、お嬢様やから差してたわけじゃないんよ。」
「そうなん?」
話題に食いつかせるつもりが食いつかされた。
石見さんは少し真面目な顔をして言葉を続けた。
「あれは叔母さんのお下がりやねん。新しい傘買うのも躊躇するくらい貧乏な家やったんよ、あの頃は。当時のお父さんがな、まあいいかげんな人で、あちこちに借金こさえてて余裕が無かったんよ。ただ、それだけの話。」
「ああ……。」
「今は、別のお父さんになったから、そんな事無いんやけどな。」
触れてはいけない、彼女のコンプレックスに触れてしまった気がした。なんだか申し訳ない気持ちになって僕はうつむく。彼女は少し笑って話を続けた。
「それで“お嬢”とかあだ名つけるのって、イジメ一歩手前やんなあ。」
「……でも、イジメられてた訳やないやろ?」
「うん……。」
僕の問いに答える彼女の手は止まっていた。手を動かしながら聞いてはいけない話のような気がして、僕も作業の手を止めた。
「……コツがいるんよ。」
「え?」
「ここは笑わなあかんとこ、とか、ここは毅然としてなあかんとこ、とか、あと、ここは能力のある事を見せておくとこ、とか……イジメられへんようにするには、コツがいるねん。」
「うん……。」
「そういう処世術に長けた、いやなガキやったんよ。だからイジメにはあわへんかったけど、親友みたいな友達も一人も居らんかったし。」
僕はもう一度彼女の小学校時代を思い出す。いつも図書室から借りてきた本を休み時間に一人で読んでいる、確かにそんなイメージだった。僕はそんな彼女に、勝手に孤高のイメージを抱いていたが、彼女にとってあの頃の記憶はコンプレックスでしかないのだろうか?僕は彼女の顔をうかがった。表情から感情を読み取ろうとしたが、彼女はいつもと同じ涼し気な顔をしていた。
「……今は、違うやろ?久米さんとか、沢登さんとか。」
僕はクラスで彼女と仲のいい女子の名前を挙げた。なんとか会話を続けるという意図もあったが、それよりも、過去の姿を石見さん自身が否定しているのならば、僕は今現在の彼女を知りたいと思った。いつも大人の顔をした石見さんの内側に、少しでも探りを入れたかった。
石見さんは微笑んでこう答えた。
「うん、あのコらは親友。」
「そっか。一緒に居る時、楽しそうやもんな。」
「うん、あのコらは、分かってるから。」
噂をすればなんとやらか。その時、陸上部の部活を終えた沢登さんが教室に戻ってきた。僕と石見さんだけに作業の負担がかかっている事を察し心配して教室に戻って来る、沢登さんもそういう気遣いの出来る人だった。手伝おうかと沢登さんは言ったが、僕は本音を言うと、明日石見さんと二人でやる作業を残しておきたかった。そろそろ終わろうと思っていたなどと上手く言い繕って、今日はお開きにする事に決めた。
沢登さんと教室を出て行こうとする石見さんに声をかける。
「なあ、石見さん。さっき、沢登さん達が、分かってるって言ってたやろ?」
「ん?」
「分かってるって、何が?」
不思議そうに石見さんの顔を沢登さんが覗き込んだ。石見さんは少し照れた顔を見せて、こう返す。
「愛想笑いとか出来る事も大事かも知れんけど……、やっぱり自分って曲げたくないやろ?」
彼女の笑顔と、正直な言葉が何だか嬉しかった。
窓の外は夕暮れを通り越して、夜の色に染まり始めていた。
沢登さんと話しながら廊下を歩いてゆく石見さんの背中を見送りながら、僕は気付いた。
石見さんの背筋は、なんてピンと伸びているのだろう。
彼女の後ろ姿は、やはり“お嬢”そのものだった。
お嬢をお嬢たらしめているのは、家庭環境や財力などではない。
背筋なのだ。