出張中の夫が、秘書と温泉で甘いデートをしていた
夫は、仕事一筋の人だった。
結婚して同じ家に暮らしているはずなのに、顔を合わせる回数は数えるほどしかない。結婚前に約束した新婚旅行さえ、出張を理由に何度も先延ばしにされた。
今回は、もう夫を待たなかった。私は一人で月白温泉郷へ向かった。
連れ立って歩く観光客の間を一人で歩きながら、何気なくインスタを開く。すると、夫の秘書である白石寧々が投稿したばかりの写真が目に入った。
写っているのは、まさに私がいる温泉街だった。
キャプションには、こう書かれていた。
「某氏が撮ってくれた今回の写真、前に海で撮ったものより上手かも。褒めてあげよう」
深く考える間もなく、聞き慣れた声がすぐ近くから聞こえてきた。
「もう少し角度を変えてよ。こっちからのほうがきれいに見えるから」
「嘘つけ。どの角度から撮ってもきれいだろ」
顔を上げると、出張中のはずの夫がカメラを構え、真剣な表情で寧々を撮影していた。
私はスマートフォンを取り出し、二人の姿を写真に収め、そのままインスタへ投稿した。
「旅先で偶然お会いしました。どうか末永くお幸せに」
すぐに夫から電話がかかってきた。
「寧々は写真を撮ってほしいと言っただけだ。どうしてわざわざ誤解を招くような投稿をするんだ?」
「今すぐ消せ。家に戻って待っていろ」
私は月白温泉郷を離れる特急列車の中で、小さく笑った。
「それは無理」
「どういう意味だ?」
「私が買ったのは、家に帰るための切符じゃないの」
……
1
私は座席にもたれ、窓の外へ流れていく景色を眺めた。コメント欄では共通の知人たちが、黒瀬ホールディングスの社長である雅臣が、今度はどんな方法で私を罰するのかと半ば冗談交じりに予想していた。
デパートへ行き、寧々のために今季の新作を一式買って謝罪しろと言われるのか。それとも以前のように、一か月間家に帰らず、電話にも出なくなるのか。
もう慣れていた。
私と雅臣は夫婦でありながら、一年間に一緒に過ごす時間をすべて足しても、彼が寧々と一週間過ごす時間より短い。それは周囲の誰もが知っていることだった。嫉妬して、何度も言い争った。それでも最後に折れるのは、いつも名ばかりの社長夫人である私だった。
目を閉じると、思い出したくもない場面が次々と浮かんできた。
あるとき、雅臣はコーヒーカップを乱暴にテーブルへ置いた。茶色い液体がこぼれても気にせず、私を仕事の邪魔をする厄介者のように睨みつけた。
「その理屈なら、俺は毎日会社の清掃スタッフとも会っている。女は全員辞めさせろとでも言うのか?」
別の日には、優秀な人材を引き留めるためだと言って、関連会社名義で御影区にある高級マンションの一室を購入し、寧々に使わせた。
「彼女は深夜まで働くことが多い。会社の近くに住めば、緊急時にもすぐ対応できる。優秀な社員をつなぎ留めるための福利厚生だ」
「俺の仕事のペースを理解できる秘書が、どれだけ貴重か。お前には分からないだろうな」
その後は買い物リストを差し出され、寧々のために新しい服や小物をそろえるよう命じられた。まるで、それが妻である私の当然の役目だと言わんばかりだった。
「三日以内に全部そろえて、寧々のデスクへ届けておけ」
「お前の疑いのせいで、これ以上彼女の仕事に支障が出るのは困る」
どの言い分も立派に聞こえ、表面上は非の打ち所がなかった。最初の頃は、なぜいつも寧々の味方をするのかと食い下がったこともある。
「そこまで彼女が必要なら、最初から寧々と結婚すればよかったでしょう?」
雅臣は冷たい目を向けるだけだった。
「秋穂、もう子どもじゃないだろ」
「毎回こんなことで責められるのは、本当に疲れる」
そのあと、彼は一か月間、一度も家へ帰ってこなかった。
けれど、最初からこんな人だったわけではない。
私たちは両家の紹介で知り合ったが、初対面から互いに好感を持った。毎週のようにデートを重ね、雅臣はいつも花束を抱えてマンションの下で待ち、私の支度が終わるまで急かすこともなかった。
記念日を一つも忘れず、私が体調を崩しやすい時期まで気にかけてくれた。あの頃の彼は、私をこの世で一番大切な人のように見つめていた。
「秋穂のこと、本当に好きだ」
「早く結婚したい。絶対に、世界で一番幸せな花嫁にするから」
あの目に浮かんでいた優しさが、すべて嘘だったとは思えない。
それなのに結婚してから、彼は時間も思いやりも失った。婚姻届一枚で、人はここまで変わってしまうものなのだろうか。
列車が星凪市へ着いた頃には、すっかり日が暮れていた。スーツケースを引いて改札を出ると、人混みの中にひときわ目立つネームボードが見えた。
「お帰りなさいませ 一ノ瀬社長」
2
結婚後、良い妻になろうとした私は、代表取締役社長の肩書こそ残したものの、株式会社一ノ瀬システムズの日常業務から退き、実務を取締役副社長兼COOの佐伯悠真に任せていた。戸籍上は黒瀬秋穂になっていたが、仕事では結婚前からの一ノ瀬姓を使い続けている。
両社の事業をさらに統合し、私たちが開発した在庫需要予測システムを、相場よりはるかに低いライセンス料で黒瀬ホールディングス株式会社へ提供することまで考えていた。全面的な業務提携計画は夫婦喧嘩が続いたことで棚上げになったが、すでに締結していた試験導入と優先交渉に関する基本契約だけは有効なままだった。
改札口に立つ悠真を見た瞬間、胸の奥に罪悪感が生まれた。彼の年俸は決して低くない。それでも、この半年間に背負わせた責任には到底見合っていなかった。
肩書は取締役副社長兼COOだが、実際には代表取締役である私の仕事まで、ほとんどすべて彼に任せきりだった。
悠真は私のスーツケースを受け取ると、何とも言えない顔をした。
「ちょうどよいところへお戻りになりました」
「今、黒瀬社長が弊社に来ています」
私は足を止めた。
「雅臣が?」
現在、二社の間に正式な取引はない。彼がうちの会社に何の用だというのだろう。帰宅せず予定まで変更したのに、結局また顔を合わせることになるとは思わなかった。
こういうところだけ、妙に息が合う。
車に乗り込んでから、私は悠真を見た。
「何をしに来たの?」
「強盗です」
私はこめかみを押さえた。
悠真は昔から、真顔で冗談を言う。ところが会議室へ入った瞬間、彼が冗談を言っていなかったことを思い知らされた。
雅臣は上座に座り、用意済みの契約書を前に置いていた。会議テーブルの両側に並ぶ幹部たちを見回し、反論を許さない口調で告げる。
「一ノ瀬社長本人が戻ってきても、条件を変えるつもりはありません」
「五千万円で、このシステムの独占利用権を譲っていただきたい」
会議室の入口で立ち止まり、私は信じられない思いで悠真を見た。
本当に強盗だった。
雅臣の後ろには寧々が立ち、数部の契約書を抱えていた。私に気づいた室内の人々は、驚き、不安、失望をそれぞれ顔に浮かべた。
一人の管理職が声を潜める。
「先に承諾しておけば、少なくとも五千万円は受け取れたのに」
「社長が戻ってきたら、また黒瀬側へただ同然で渡すんじゃないか」
勤続八年になる開発本部長が、長くため込んでいた不満を隠そうともせず、険しい顔で続けた。
「会社の利益を夫の会社へ流すようなことが、これ以上続くなら、私は辞表を出します」
雅臣は人差し指でテーブルを軽く叩き、露骨に眉をひそめた。
「どうしてここにいる?」
「家に戻って待っていろと言っただろう」
寧々はわずかに腰を折り、いかにも不思議そうな表情を作った。
「奥様、黒瀬社長の予定は社外秘です」
「こちらにいることを、どうしてご存じだったんですか?」
雅臣の苛立ちがさらに深くなる。
「いつまで俺を疑うつもりだ。そんなことを続けていたら、夫婦としてやっていけないだろう」
「それに、インスタの投稿はなぜ消していない? 寧々の仕事にまで影響が出ている」
雅臣が片手を上げると、寧々はすぐ契約書を差し出した。彼はそれを私の前へ滑らせ、部下に仕事を命じるような口調で言った。
「まずは仕事の話をする」
「ここへ来たなら、早く署名しろ。このあとも会議が入っている」
私が会議室へ入ってから、まだ一言も発していない。それなのに彼は、すでにすべてを決めたつもりでいた。経営者としての雅臣は優秀だった。冷静で決断が早く、どうすれば自分の利益を最大にできるかを常に理解している。
私が社員なら、尊敬していたかもしれない。
けれど、私は彼の妻だ。
部下でも、好きに処分できる経営資源でもない。
私は雅臣の向かいに座り、契約書を押し返した。
「この契約を、一ノ瀬システムズが結ぶことはありません」
「黒瀬社長は、別の提携先をお探しください」
会議室が静まり返った。幹部たちは目を見開き、雅臣まで眉を寄せた。私がこの略奪同然の条件を拒絶することが、それほど意外らしい。
寧々が一歩前へ出て、仕事用の笑顔を崩さずに口を開いた。
「一ノ瀬社長、失礼を承知で申し上げます」
「御社の技術が優れていることは認めます。ですが、黒瀬ホールディングスの販路とプラットフォームがなければ、その価値を十分に発揮することはできません」
「これ以上、感情的にならないでください。インスタの件についても、私は気にしておりませんから」
思わず笑いが漏れた。
まるで私が嫉妬のあまり、会社の将来を犠牲にして雅臣へ逆らっているかのような言い方だった。そのうえ、自分は契約を成立させるために耐えている被害者を演じている。
「それはご親切に、どうもありがとう」
「でも、必要ありません」
雅臣の眉間に深いしわが刻まれた。
「秋穂、くだらない意地に付き合っている時間はない」
「月白温泉郷での件も、お前が勝手に騒いでいるだけだ」
寧々は私を一瞥し、わずかに口元を上げた。ファイルから別の書類を取り出し、私の前へ置く。
「一ノ瀬社長、以前、御社が黒瀬ホールディングスと何を締結したか、お忘れですか?」
書類を受け取り、最初の一枚に目を落とした瞬間、顔から血の気が引いた。
3
それは、以前私が自ら署名した業務提携基本契約書だった。
一ノ瀬システムズが正当な理由なく優先交渉義務を拒絶した場合、三億円の違約金を支払うと定められている。黒瀬ホールディングスにとって三億円は致命的な額ではない。けれど今の一ノ瀬システムズにとっては、資金繰りを破綻させるのに十分な金額だった。
当時の私は、夫の新規事業を助けたい一心で、結婚した以上、二社は同じ利益を共有するものだと思い込んでいた。そのため、明らかに不均衡な条件を受け入れてしまった。まさか雅臣が、私から中核技術を奪うために使うとは考えもしなかった。
私は顔を上げ、テーブルの向こう側に座る彼を見つめた。
「この契約で、私を脅すつもり?」
「雅臣。あなたは一度でも、私を家族だと思ったことがあるの?」
雅臣の目に、わずかな戸惑いが浮かぶ。
「……あの契約か」
寧々が身をかがめ、契約の条項を簡潔に説明した。雅臣は書類へ目を落としたものの、会社を破綻させかねない三億円という金額を、取るに足りない数字のように受け止めている。
「この程度の話なら、わざわざ違約条項を持ち出す必要はなかった」
そう言って、寧々の手の甲を軽く叩いた。
「だが、今の状況なら話が早い」
「よく気づいたな」
寧々は笑いながら、少しずれていた雅臣のネクタイを整えた。何度も繰り返してきたような自然な手つきだった。雅臣も避けようとはせず、それが不適切な行為だとすら感じていない。
寧々は姿勢を戻すと、挑発を隠そうともせず私を見た。
「一ノ瀬社長、署名なさらないのでしたら、三億円をご用意ください」
足元から冷気が這い上がり、全身を包んだ。
会議室のあちこちで、押し殺したため息が聞こえる。幹部たちの視線には失望だけでなく、私への非難も混じっていた。
寧々の挑発、雅臣の冷淡さ、周囲から向けられる重い視線が一度にのしかかった。耳の奥で音が遠のき、体が後ろへ傾く。
雅臣が驚いて立ち上がり、手を伸ばした。だが、ずっと私の背後にいた悠真のほうが早く、私の肩を支えた。
「手を離せ」
雅臣の声には、抑え切れない苛立ちがにじんでいた。
悠真は私を支えたまま答える。
「申し訳ありませんが、私は黒瀬ホールディングスの社員ではありません」
「私の上司は、一ノ瀬社長です」
雅臣は早足で近づき、私の腕をつかんで自分のほうへ引き寄せた。
「夫として言っている。俺の妻から手を離せ」
寧々は私たちの重なった手を見つめ、ファイルを持つ指に力を込めた。意識は徐々にはっきりしてきたが、胸には冷たい石が乗っているようだった。
今になって、雅臣は自分が夫であることを思い出したらしい。
寧々と旅行し、彼女のために写真の撮り方を覚え、マンションまで用意した。私を無視して罰し、契約書で技術を差し出させようとしたとき、なぜ私が妻であることを思い出さなかったのだろう。
悠真は、倒れそうになった私を支えただけだ。それだけで、雅臣はこれほど怒る。けれど私が何度耐えても、返ってきたのは「考えすぎだ」「仕事に迷惑をかけるな」という言葉だけだった。
同じことを彼がすれば、私は理解し、謝罪し、寧々への贈り物まで用意しなければならなかった。
私はゆっくりと雅臣の手を振りほどいた。
「技術は渡さない」
「インスタの投稿も消さない」
「契約どおり訴えたいなら、星凪地方裁判所へ訴えればいい」
私はまっすぐに彼の目を見返した。
「その前に、弁護士に離婚の準備をさせておいて」
4
雅臣の顔色が変わった。
「今度は離婚を持ち出して、俺を脅すつもりか?」
「秋穂。俺がお前を甘やかしすぎたのか?」
私は自嘲気味に笑った。
「脅しじゃない」
「決定を伝えているだけ」
甘やかされたというなら、結婚前の雅臣は確かに私を大切にしていた。友人から、順調すぎる恋愛ほど、もう少し相手を見極めたほうがいいと言われたこともある。
当時の私は、まったく気に留めなかった。
家柄も釣り合い、趣味も合い、彼は誠実で細やかな人に見えた。運命の相手に出会えたのだと、本気で信じていた。
結婚後、すべてが少しずつ変わった。雅臣は記念日を忘れるようになり、私への贈り物も、すべて寧々に選ばせるようになった。
安物のキーホルダーや、どこにでも売っているスマートフォンケース。ある年には、会社の花壇から切ってきた花が一輪だけだった。
寧々は意味ありげな笑みを浮かべ、その花を私に手渡した。
「黒瀬社長が、ご自身で植えるよう指示した花なんですよ」
私はその言葉だけで、しばらく幸せな気持ちになっていた。
後になって、それが黒瀬ホールディングス本社の植栽を入れ替える一般的な工事で、雅臣は社内決裁を承認しただけだと知った。
雅臣はしばらく私を見つめたあと、何も言わずにドアを乱暴に閉めて出ていった。寧々は追いかけず、会議室から人がいなくなるのを待って私の前へ進み出た。
「一ノ瀬さんは、今でも雅臣のことを何も分かっていないんですね」
「あの人は、自分に必要な人間の側に立つんです」
「あなたと結婚したのも、一ノ瀬家の技術と人脈が、黒瀬ホールディングスの新規事業に必要だったから」
寧々は勝ち誇ったように笑った。
「もう事業は軌道に乗りました。雅臣は、一ノ瀬家の助けを必要としていません」
「今、必要とされているのは私です」
「きちんと離婚してくださるなら、契約違反を追及しないよう、私から雅臣に頼んであげてもいいですよ」
勝者を気取るその笑顔を見ているだけで、吐き気がした。
ようやく、すべてに説明がついた。
結婚前は望みを何でも聞き、結婚後は私を空気のように扱った。雅臣は私と家族から必要なものを手に入れたから、もう優しい夫を演じる必要がなくなったのだ。
それでも私は、あれを愛情だと思っていた。
「最初から政略結婚だと正直に言われていたなら、その潔さだけは評価したかもしれない」
「でも、気持ちを利用して騙すべきじゃなかった」
心の中では怒りが渦巻いていたが、声は不思議なほど落ち着いていた。悠真は会議テーブルに寄りかかり、冷たい目で寧々を見た。
「他人の家庭へ入り込むことも、結婚詐欺まがいの真似も、そこまで堂々と言える時代になったんですね」
「離婚訴訟でも契約訴訟でも、どうぞお好きなように」
「黒瀬ホールディングスが本当に勝てるのか、私も興味があります」
私は驚いて悠真を見た。
基本契約を作った当時、彼はそれが一ノ瀬システムズにとって極めて不利な内容だと理解していたはずだ。それなのに、どこに勝ち目があるというのだろう。
けれど、会議室に残っていた社員たちは、悠真の言葉に勇気づけられたようだった。
「そうだ。訴えたければ訴えればいい!」
「一ノ瀬の技術でここまで成長しておいて、今度は会社ごと奪うつもりか。ふざけるな!」
寧々の顔色が赤くなったり青くなったりした。彼女は書類をつかみ、会議室を出ていった。
数日後、私のもとへ二通の司法書類が届いた。
一通は星凪家庭裁判所からの夫婦関係調整調停、つまり離婚調停の期日通知書。もう一通は星凪地方裁判所から届いた、黒瀬ホールディングス株式会社が提起した契約訴訟の訴状副本だった。
5
心の中では雅臣を何度も罵りながら、実際に文句をぶつけた相手は悠真だった。訴状をデスクへ置き、会議室で彼の強気な言葉に乗せられたことを思い出すほど、不安が膨らんだ。
「会議室で、あんなに大きなことを言うから」
「本当に訴えられたじゃない」
「三億円よ。負けたら技術どころか、会社そのものが立ち行かなくなる」
悠真は相変わらず落ち着いていた。
「まずは離婚問題を片づけてください」
「契約については、私に考えがあります」
それでも不安は消えなかった。
「あの契約は、私が恋愛に浮かれて署名したものよ」
「これほど不利な条項で、どうやって勝つの?」
悠真は意味ありげに笑った。
「以前なら、難しかったでしょうね」
「ですが今は、そうとも限りません」
自信に満ちた様子を見て、ひとまず不安を押し込めるしかなかった。だが、雅臣がここまで冷酷な手段を取るとは思っていなかった。
彼は訴訟を起こしただけでなく、黒瀬ホールディングスの業界内での影響力を使い、取引先や販売網へ圧力をかけた。更新予定だった顧客は次々に交渉を保留し、仕入先まで理由をつけて取引条件を変更し始めた。
対応に追われている最中、雅臣から電話がかかってきた。
「秋穂」
「それでも、まだ離婚するつもりか?」
その声は落ち着き払っていた。会社が追い詰められれば、私が以前のように頭を下げると確信しているらしい。
私は深く息を吸った。
「本当に、ここまでしなければならなかったの?」
雅臣は低く笑った。
「そうさせたのはお前だ」
「今のお前は身勝手で、話も通じない。そのうえ俺を裏切るようになった。ここまで騒ぎを大きくされなければ、俺だって動かなかった」
あまりに勝手な理屈で、笑いすら込み上げた。
「裏切った?」
「雅臣、先に裏切ったのはどっち?」
「私を傷つけたのは、あなたでしょう」
「俺は何も悪いことをしていない」
電話の向こうが数秒間静まり返った。雅臣はすぐに話題を変え、以前と同じ見下ろすような口調へ戻った。
「もう意地を張るな」
「一度会って、きちんと話そう」
「話すことなんてない」
「離婚の準備をして」
電話を切ってスマートフォンを置くと、悠真が部屋へ入ってきた。綴じられた資料を手にし、いつもより表情が険しい。
「一ノ瀬社長、黒瀬側が新たに動きました」
私は顔を上げた。
「今度は何?」
悠真は資料を私の前へ置いた。
「一ノ瀬システムズの買収です」
思わず言葉を失った。
「いっそ強盗に入ればいいのに」
悠真は肩をすくめる。
「さすがに『強盗』では体裁が悪いので、『買収』という上品な言葉に置き換えたのでしょう」
買収提案書をめくるほど、顔がこわばっていった。黒瀬ホールディングスの提示額は、会社の実際の評価額の半分にも届かない。
まともな買収提案ではなかった。
形を変えた脅迫にすぎない。
私は資料を閉じた。
「寝言は寝て言ってもらって」
悠真はうなずいた。
「私も同意見です」
「ただし、現状が弊社にとって不利であることも事実です。大手の販売網は、ほぼ黒瀬側の影響を受けています。新たな提携先か投資家を見つけなければ、いずれ運転資金が底をつきます」
私は眉を寄せた。
「新しい提携先?」
悠真は少し間を置き、デスク上の市場データを指先で軽く叩いた。
「一ノ瀬システムズの技術力に問題はありません。足りなかったのは資金と販路です」
「黒瀬ホールディングスとの提携も、本来なら市場を広げる機会になるはずでした」
その先を、彼は口にしなかった。
言いたいことは分かっている。雅臣が求めていたのは対等な提携ではなく、最低限の代価で技術を自分のものにすることだった。
私は椅子の背にもたれた。
「黒瀬側は助けてくれない。業界の大手も、雅臣を敵に回したくないでしょう」
「ほかに何ができるの?」
悠真の表情が引き締まった。
「大手のプラットフォームを経由しない方法があります」
「在庫予測や受発注管理を必要としている地域の小売店、中小企業と直接契約するんです」
私は彼を見つめた。
「自社でサービス基盤を作るの?」
「はい」
「私たちの技術を、直接エンドユーザーへ届けます」
6
私はしばらく考え込んだ。
サービス基盤を構築するには、資金も技術も運用チームも必要になる。一ノ瀬システムズが中核となるアルゴリズムを持っていたとしても、今の規模で短期間にすべてを整えるのは難しい。
「今の私たちには、何もかも足りない」
悠真は笑った。
「技術は、すでに私たちの手元にあります」
「黒瀬側と協業していた頃に、プラットフォーム運営の経験も積みました。チームは段階的に組成できます。資金については、私が投資会社へ当たります」
創業当初から私についてきた彼を見つめ、胸の中にさまざまな感情が入り混じった。会社が最も苦しいとき、悠真は逃げるどころか、進んで危険を引き受けようとしている。
私は彼の肩を軽く叩いた。
「悠真、ありがとう」
離婚調停は不成立となり、事件は離婚訴訟へ移った。双方が何度か書面で主張を整理したあと、星凪家庭裁判所で本人尋問の日を迎えた。
私は代理人弁護士の隣に座り、目の前の手続きへ意識を集中させた。悠真は傍聴席の後方にいる。
雅臣の顔には、結婚前の優しさなど残っていなかった。あるのは冷淡さと、私を屈服させようとする強い意志だけだった。
この瞬間、私たちの婚姻関係がとっくに終わっていたことを、ようやく心の底から理解した。
雅臣側は一切手加減しなかった。代理人は、私が男性の友人たちと食事をしている写真を提出し、婚姻中に不適切な交際があったと主張した。さらに私へ慰謝料を求め、一ノ瀬システムズ株式の婚姻後の価値上昇分も財産分与の対象にすべきだと主張した。
写真はいずれも、ほかの友人が同席していた会食の場面だった。証拠と呼ばれたものは、都合よく切り取られた普通の集まりの写真にすぎない。
本人尋問で問われ、私は裁判官のほうを見た。
「これらは友人たちとの通常の会食を撮影したものです」
「友人と食事をしただけで不貞行為になるというのであれば、原告が白石寧々さんと何度も旅行し、私的な住居へ出入りしている事実は、どう説明されるのでしょうか」
雅臣の顔がこわばった。
続いて私の代理人が、黒瀬ホールディングスによる取引妨害を示す初期資料を提出した。
「婚姻関係が破綻したあと、原告は企業としての影響力を利用し、被告が経営する会社の取引先へ圧力をかけています。さらに、市場価値を大幅に下回る金額で会社を買収しようとしました」
「これらの商取引上の問題は別訴で判断されるべきものですが、当事者間の信頼関係が完全に失われていることを示す事情ではあります」
雅臣の代理人がすぐに反論した。
「相手方の主張には、現時点で直接的な証拠がありません」
「企業間の取引は、本件の婚姻関係とは別問題です」
双方の主張が終わると、裁判所は次回期日までに追加資料を提出するよう求め、その日の尋問を終えた。
家庭裁判所を出ると、私は長く息を吐いた。初秋の風が頬をなで、混乱していた頭が少しだけ冷えていく。
「今必要なのは、雅臣と寧々が長期間、不貞関係にあったと示せる証拠ね」
悠真はうなずいた。
「公安委員会へ届出済みの探偵事務所に依頼しています」
「調査は、そちらに任せてください」
7
探偵事務所の仕事は早かった。
一週間後、悠真から調査報告書と映像資料を渡された。調査員は数日間にわたり雅臣と寧々の行動を記録し、二人が何度も深夜に御影区のマンションへ入り、翌朝になって別々に出てくる様子を確認していた。
前夜には、マンションの共用エントランス脇で抱き合い、口づけを交わす姿も撮影されていた。出入りの記録、連続した宿泊状況、映像を合わせれば、一時的な接触ではないことが分かる。
私はタブレットを受け取り、再生ボタンの上に指を置いたまま、しばらく動けなかった。
画面の中で、雅臣は寧々へ顔を寄せていた。その距離の近さは衝動的なものではなく、長い間続いてきた関係を物語っていた。
映像を止め、タブレットをデスクへ戻した。
「証拠として提出して」
悠真はうなずいた。
「離婚が成立すれば、契約訴訟の状況も変わります」
私は首をかしげた。
「離婚と契約が、どう関係するの?」
悠真は笑みを浮かべた。
「勝ったあとで、ご説明します」
彼は、実現できないことを軽々しく約束する人ではない。それが、会社の運営を任せてきた理由でもあった。
判断が早く、一つ先どころか二つ三つ先まで考えて動く。悠真がそう言うなら大丈夫だと、不思議なほど心が落ち着いた。
その後、悠真は代理人と共に調査報告書を整理し、マンションへの出入り記録や二人の連絡履歴など、ほかの資料も集めた。私は会社経営へ全力を注いだ。
今の一ノ瀬システムズには、経営者の不在も、社員の動揺も許されない。
悠真は毎日休む暇もないほど働きながら、私の様子を気にかけてくれた。最も苦しい時期に、迷わず隣に立ってくれる人がいる。それだけで、もう一度前を向く力を取り戻せた。
次の期日で、私たちは一連の証拠を提出した。雅臣の顔は青ざめ、代理人も否定を試みたが、複数回の宿泊記録と親密な映像を前にすると、主張にはほとんど説得力がなかった。
最終的に裁判所から和解案が示され、雅臣も受け入れた。離婚はその場で成立した。
雅臣は私へ慰謝料を支払い、婚前から保有していた一ノ瀬システムズの株式と、その価値上昇分に対する財産分与の主張を取り下げた。訴訟費用の一部も負担することで合意した。
家庭裁判所を出たとき、私はこれまでにないほど体が軽くなったのを感じた。
それでも雅臣は、表面上の余裕を崩さなかった。
「秋穂、優秀な右腕を持ったな」
「だが、一ノ瀬システムズは必ず手に入れる」
私は彼を見返した。
「黒瀬社長。あとは実力勝負です」
秋の風が少し冷たかった。悠真は車からストールを取り出し、私の肩へ掛けた。
雅臣は目を細め、ストールから悠真の顔へ視線を移した。
「佐伯副社長、黒瀬ホールディングスへ来る気はないか?」
「どう考えても、うちのほうが大きな舞台を用意できる」
そこで一度言葉を切った。
「一ノ瀬が支払っている年俸の倍を出そう」
胸の奥に怒りが湧き上がった。
私の目の前で、会社の最重要人物を引き抜こうとしている。口を開きかけた私の肩を、悠真が軽く叩いた。
彼は礼儀正しい笑顔を雅臣へ向けた。
「お声がけいただき、ありがとうございます」
「ですが私は、これから一ノ瀬社長に交際を申し込むつもりです。転職する予定はありません」
8
私は驚いて悠真を振り返った。
いつからそんな話になっていたのだろう。なぜ当事者である私が知らないのか。
雅臣の顔は、先ほどよりさらに険しくなっている。悠真は何食わぬ顔で私に片目をつぶった。その瞬間、私を助けるために言っているのだと気づいた。
笑いをこらえ、わざと平静を装って彼を見た。
「佐伯副社長」
「今の話、本気なの?」
悠真は真剣な顔でうなずいた。
「もちろんです」
「ずっとお慕いしていました」
「ただ、以前は不倫相手になるつもりがなかっただけです」
「今はもう離婚が成立しました。これ以上、片思いのままでいるつもりはありません」
雅臣は私たちを睨みつけていた。
笑い出しそうになるのを必死でこらえ、存在しない涙を拭うふりをして、悠真へ手を差し出した。
「どうして、そんなに不器用なの?」
「本当は、前から気づいていたの」
「でも結婚していた私が、あなたを不倫のような曖昧な立場に置くわけにはいかなかった」
悠真の演技は、私よりずっと自然だった。差し出した手を強く握り、長年の願いがかなったような笑顔を浮かべる。
「社長も、私を好きでいてくださったんですね」
「黒瀬社長との結婚には、きっと何か事情があったのだと信じていました」
「これで、誰にも隠さず一緒にいられます」
わざと甘ったるく声を伸ばした。
「秋穂、愛しています」
雅臣はその場に立ち尽くし、恐ろしいほど険しい顔をしていた。私はわざと悠真の腕へ自分の腕を絡ませ、礼儀正しくもよそよそしい笑みを向けた。
「黒瀬社長、ご覧のとおりです」
「私は新しい人生を始めます。今後は、もう関わらないでください」
雅臣は歯を食いしばったものの、何も言わずに背を向けた。
その姿が階段の下へ消えると、私と悠真は同時に手を離し、腹を抱えて笑った。先ほどまでの張り詰めた空気が、一瞬で消えていく。
笑いすぎて涙まで出てきた。
「さっきの『不倫相手になるつもりはなかった』は、さすがに強烈すぎるでしょう」
「寧々が聞いたら、怒りで倒れるかもしれないわ」
悠真も笑いをこらえ切れなかった。
「離婚が成立した直後、元妻に新しい恋人ができるなんて」
「黒瀬社長の顔を、社長にも見せたかったですよ」
ようやく笑いを収め、目尻を拭った。
「離婚は片づいたけれど、契約訴訟はどうするの?」
「雅臣は、まだ勝てると思っているみたい」
悠真は片方の眉を上げた。
「社長が恋愛になると周りを見失い、危険な契約にも署名してしまうことは、よく分かっていました」
「ですから正式な契約書を作成した際、取締役会と顧問弁護士の確認を経て、婚姻関係を前提とする特別優遇条項を入れてあります」
私は目を見開いた。
「どんな条項?」
「黒瀬ホールディングスに与えた優先交渉権と特別な独占利用条件、それに連動する高額な違約責任は、両社代表者の婚姻関係が続いている間だけ有効です」
「婚姻関係が終了すれば、特別優遇条項も独占利用権も自動的に失効します」
私は呆然と彼を見つめた。
悠真は楽しそうに笑う。
「黒瀬社長が自信過剰だったのか、社長が絶対に離婚しないと信じ込んでいたのか」
「先方の法務部は、その条項を最後まで真剣に確認しなかったようですね」
9
私はその場に立ち尽くし、しばらく何も言えなかった。
会社の運営を悠真に任せたことは、間違いなく私が下した最良の判断だった。ようやく我に返ると、思わず彼へ抱きついた。
「悠真、本当にすごい!」
「あなたに会社を任せて、正解だった!」
強く抱き締めすぎたらしく、悠真は息を詰まらせながら、私の背中を軽く叩いた。
「一ノ瀬社長」
「これ以上力を入れられると、次の裁判まで持ちません」
自分が何をしているのか気づき、慌てて腕を離した。悠真はしわになったジャケットを整え、困ったような笑みを浮かべた。
「ごめんなさい」
「うれしくて、つい」
「離婚が成立したあとでよかったですね」
「以前でしたら、この条項を知った社長に、まず私が怒られていたかもしれません」
私は気まずさをごまかすように、彼の肩を軽く押した。
「そんなことしないわよ」
悠真は肩をさすり、呆れた目を向けた。
私も冗談をやめ、彼をまっすぐ見つめた。
「今回は、本当にあなたのおかげ」
「悠真がいなかったら、何から始めればいいのかさえ分からなかったと思う」
彼はわずかに視線をそらした。
「さて、私は地方裁判所へ提出する準備書面を作らなければなりません」
「あなたのような経営者の下についた自分の運の悪さを、諦めることにします」
そう言って、悠真は駐車場へ向かって歩き出した。
私はその場に残り、遠ざかる背中を見送った。普段は遠慮のないことばかり言う。それでも彼は、いつも会社と私の側に立ってくれていた。
その後も、悠真は期待を裏切らなかった。代理人弁護士と契約書原本、交渉記録、取締役会議事録を整理し、複数の投資会社や提携候補にも連絡を取った。
私も経営の第一線へ戻り、地域の中小企業向けサービス基盤の立ち上げをチームと共に進めた。会社の状況は少しずつ安定し、事業も回復し始め、様子を見ていた顧客からも交渉再開の連絡が届くようになった。
黒瀬ホールディングスの圧力を恐れて距離を置いていた企業の中にも、新しいサービスの実績を見て、再び一ノ瀬システムズへ提携を申し込むところが現れた。
三度目に裁判所を出た日は、よく晴れていた。
星凪地方裁判所は、黒瀬ホールディングスが主張する優先交渉権、独占利用条件および高額な違約責任は、和解離婚が成立した時点で失効したと判断した。同社が一ノ瀬システムズへ三億円の支払いを求めた請求は、すべて棄却された。
私は空を見上げた。
会社と私を押しつぶしていた影が、ようやく完全に消えたように思えた。
悠真が隣に立ち、穏やかに笑った。
「一ノ瀬社長」
「私たちの勝ちです」
私はうなずいた。
この勝利は、私一人のものではない。最後まで離れなかった悠真、苦しい状況でも働き続けてくれた社員たち、そして一ノ瀬システムズ全体の勝利だった。
これから先、何もかも順調に進むとは限らない。
それでも私たちは一緒に進み、この会社をもっと遠くまで連れていく。




