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テイマーの僕に懐くのは、なぜか伝説の魔獣ばかりです

掲載日:2026/06/28

【第1話】最弱の烙印と、最初の出会い


 王都アルカナに春の光が差し込む日、久遠陸は職業判定の会場に並んでいた。二十歳になった若者たちが列をなす大きなホールの中心には、乳白色の巨大な水晶球が置かれている。触れた者の職業適性を判定する、古来からの魔道具だ。


 前の青年が触れると、水晶が眩い金色に輝いた。「剣聖適性・ランクS」という声が響く。歓声が上がった。前の少女が触れると、水晶は深紅に染まった。「大魔術師適性・ランクA」。また歓声。


 陸の番が来た。


 手を乗せた。水晶がぽつ、ぽつ、と弱々しく点滅した。まるで電池切れの蛍みたいに。

「……テイマー。ランクF。最低位職業です」

 判定士の声はできる限り平坦だったが、その後の静寂は雄弁だった。そして静寂の後に来たのは、笑い声だった。


 冒険者ギルドの酒場は夕方から混む。陸が申請書を持って入ると、顔見知りたちが振り向いた。

「テイマーって、本当か、陸」

「みたいだ」

「まじかよ……テイマーってさ、モンスターに好かれる体質ってだけで、実戦じゃ何もできないんじゃ」

「そうらしい」


 陸が所属していた見習いパーティー『剣聖の翼』のリーダー、グラムが酒を置いて立ち上がった。二十二歳の大柄な男で、剣の腕は確かだ。

「悪いがな、陸。俺たちはBランク昇格を狙ってる。テイマーをパーティーに入れる余裕はない」

「……そうか」

「荷物持ちなら考えてもいいが」

「それは遠慮する」

 グラムが肩をすくめた。四人の仲間が目を合わせて、それから陸から目を逸らした。


 陸はギルドの外に出た。王都の夕暮れが赤くて、やけに広かった。

 べつに泣きたくはなかった。ただ、何かが空洞みたいに胸の中にあった。


 気づいたら王都外れの古い森の入り口に立っていた。ここは一般市民の立入が禁止されている。魔物が出るから。でも陸の足は止まらなかった。


 森は薄暗かった。苔の匂い、腐葉土の柔らかさ。鳥の声がして、それからぴたりとやんだ。


 大地が、揺れた。


 木々が薙ぎ倒された。直径一メートルはある大木が根こそぎ。轟音と共に現れたのは、全長五メートルを超えるドラゴンだった。黒い鱗、銀の角、燃えるような紅い双眸。


 陸の足が竦んだ。全身が冷えた。逃げろという本能が全力で叫んでいた。


 でも、陸は逃げなかった。


 ドラゴンの目を見たからだ。怒っていた。間違いなく怒っていた。でも——その奥に、別の何かがあった。痛みに似た、何か。


「……俺は、逃げないよ」

 声は震えていた。それでも陸は一歩、前に踏み出した。

「怖い。正直に言う。すごく怖い。でも君が怒ってる理由を聞きたい。何があった?」


 ドラゴンがガチリと牙を剥いた。炎の息が漏れる。陸の前髪が揺れた。それでも陸は目を逸らさなかった。手を、ゆっくり差し伸べた。


 静寂。


 十秒が、一時間に感じた。


 それからドラゴンの瞳が揺れた。怒りが、じわりと溶けるように。巨大な体が縮んでいく。鱗が消えて、角が細くなって——。


 気づけばそこに少女が立っていた。年の頃は二十一、二。銀の小さな角が額に生えている。黒い長髪、銀の鱗模様が入った白い肌、燃える紅い瞳。布一枚を巻いただけの粗末な格好。


「……なんで、怖くないの」

 声は低くて、乾いていた。

「怖かったよ」陸は正直に言った。「でも君の目が、怖い目をしてなかった。怒ってたけど、怖くなかった」

「変な人間」

「よく言われる」

「……名前」少女は陸を見た。「ない。人間に名前をつけてもらったことがないから」

「じゃあ、ドラはどう? ドラゴンのドラ」

 少女は長い沈黙の後、「……悪くない」と、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


 こうして、Fランクテイマー・久遠陸の旅が、本当の意味で始まった。


══════════════════════════════════════════════════


【第2話】ドラの初めての「人間の家」


 陸が借りている宿の一室は、王都の外れにある安宿の三階だった。窓から見えるのは路地裏と、向かいの瓦屋根だけ。ベッドひとつ、机ひとつ、小さなタンスひとつ。それだけの部屋だ。


「ここが人間の巣か」

 ドラが室内に入るなり、天井を見上げた。狭い部屋が、彼女の存在感でいっぱいになる感じがした。

「巣じゃなくて部屋、って言うんだ」

「違いがわからない」

「……まあ、ゆっくり覚えて」


 ドラは部屋の隅々を調べ始めた。ベッドのマットレスを指でつつき、机の引き出しを開け、タンスの中を覗く。陸の着替えが入っていたタンスを開けたとき、「これは何か」と首をひねった。

「服。着るもの」

「知っている。なぜ複数ある」

「替えるから」

「なぜ替える」

「……汚れるから」

「洗えばいい」

「洗っても乾くまでの間、替えが必要で——」


 陸は説明しながら、じわじわと気づいた。ドラの今の服装が、薄い布を一枚体に巻いただけであることに。人間の感覚で言えば、明らかに薄着すぎる。


「服、持ってないの?」

「鱗がある。暑くも寒くもない」

「でも町に出るなら……」

「出ない。ここにいる」

「……いずれ出ることになると思うけど」


 陸はタンスの中から大き目のシャツを取り出した。厚手の、着古した白いシャツだ。

「これ、試しに着てみて。人間の服の感触を知っておいた方がいいと思う」


 ドラはシャツを受け取り、しばらく眺めた。それから、なんの躊躇いもなく巻き布を外し始めた。

「っ——!!」

 陸は反射的に後ろを向いた。耳が燃えるように熱くなった。

「なぜ背を向ける」

「着替えは見るもんじゃない!!」

「なぜ。見てもいい」

「よくない!! 絶対によくない!!」

「……人間は複雑だ」


 陸が背を向けたまま「袖に腕を通して、頭から被って」と指示を出す。が、しばらくしてドラが「動けない」と言った。

「どうした」

「引っかかっている。腕が通らない」

「……こっちを向いたら見えない?」

「見えないようにしている。早く来い」


 恐る恐る振り向くと、シャツが頭に引っかかったまま、ドラの腕が変な方向に向いていた。陸は目を天井に向けながら手探りで袖の向きを直した。ドラの肩が滑らかに出てくる感触がして、陸の顔がさらに赤くなった。


「……できた」

「顔が赤い。病気か」

「違います」

「弱い種族だな、人間は」


 シャツを着たドラは、陸を正面から見た。それから自分の体を見下ろした。「なんとなく変な感じがする」と言った。

「慣れたら変じゃなくなる」

「そうか」


 夜、ドラは壁際に体育座りして目を閉じた。

「眠り方が分からない。いつもは岩の上で丸くなる」

「ベッド、使っていいよ」

「お前が使え。私は壁がいい」

「……こっちが気になって眠れない」

「なぜ」

「寂しそうだから」


 沈黙が落ちた。ドラが目をわずかに開いた。

「……隣に、いろ」

「床で?」

「お前が嫌なら——」

「嫌じゃない」


 陸は毛布を引き寄せ、壁際のドラの隣に横になった。ドラの体温が高いのか、じんわりと温かかった。しばらくして、ドラの呼吸が深く、穏やかになった。


 陸はその寝顔を、しばらく見ていた。それから目を閉じた。


══════════════════════════════════════════════════


【第3話】狼の女王は人嫌いの孤独者


 翌朝、ドラを連れて冒険者ギルドへ向かった陸は、掲示板の前で立ち止まった。


 赤い縁取りの依頼票。緊急依頼の色だ。

「魔狼の群れが東部の農村を荒らしている。討伐を要請する。複数のパーティーが挑戦し全員撤退。報酬:金貨三十枚。危険度:S+」


「これ」とドラが言った。「やるか」

「俺には無理だ」

「私がいる」

「ドラを危険な目に遭わせたくない」

「私が最強だ。危険じゃない」

 陸はドラを見た。確かに昨日の威力を考えれば無敵に近い。でも——。

「村人が死ぬかもしれないのに、行かないのか」とドラは続けた。

 陸は依頼票を見た。農村の名前が書いてあった。記憶の中に母の声が蘇る。「困っている人がいたら、できる範囲で手を貸しなさい」。


「……行く」陸は票を手に取った。「でもドラ、危なくなったらすぐ逃げる。約束して」

「必要ない」

「俺が必要だと思う」

「……分かった」


 現地に着いたのは夕方だった。農村は半壊していた。逃げ遅れた村人が数人、廃屋に身を潜めている。そして村の広場に、異様な光景があった。


 魔狼の死体が、広場一面に横たわっていた。十数匹。そして、その中心に一体の魔狼が座っていた。白銀の毛並み。人間の倍ほどの体格。その口元は血で汚れていた。


「……群れを、全部殺したのか」とドラが呟いた。

「殺したんじゃない」と陸は言った。目を見ていた。「泣いてる」


 魔狼の瞳が、震えていた。確かに怒りも、狂気もあった。でもその奥——滲んでいるのは、苦悩だった。


「君は、誰かに命令されたんだろ」

 陸が一歩踏み出した。ドラが「待て」と言ったが止まらなかった。

「この子たちに、何かをさせようとした誰かがいた。それが嫌で、抵抗するために、自分の群れを——」


 魔狼の喉が震えた。唸りではなかった。それは、泣き声だった。


 姿が変わった。白銀の耳と尻尾を持つ女性。二十二歳ほど。引き締まった体格、鋭い灰色の瞳、白い肌。血が滲んだ両手を見下ろしていた。


「……なぜ逃げない。人間」

「逃げる理由がないから」

「私は、同族を殺した」

「守るために、だろ」


 女は陸を見た。激しい怒りと、深い疲労が混じった目だった。

「……そんなきれいごとで、許されると思うな」

「許しに来たんじゃない。話しかけたかっただけ」

「意味が分からない」

「俺にもよく分からない。でも、一人でここに座ってるのを、放っておけなかった」


 女は長い間、陸を見た。それから吐き捨てるように「……勝手についてくるな。置いていくぞ」と言って歩き出した。


「うん」と陸は頷いた。「でも、名前くらい教えてほしい」

 女は歩きながら、背中で答えた。

「……フェンリス」


 フェンリスはその日から、勝手についてくるな、と言いながら、ついてきた。


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【第4話】蜘蛛の魔女と毒の森


 フェンリスが「勝手についてくるな」と言いながらついてくるようになって三日が経った。彼女は陸の三歩後ろを歩き、話しかけると「うるさい」と言い、でも食事時には必ずそこにいた。ドラは「変な狼」と評したが、自分も似たようなものなので誰も突っ込まなかった。


 新しい依頼が来た。「毒の森に迷い込んだ行商人・ベネ氏を救出せよ」。報酬は金貨五枚と食料。安いが、命がかかっている。


「行くなら一人で行け」フェンリスは言った。「毒の森は魔蜘蛛の縄張りだ。近づく者は必ず殺される」

「でも行商人が死ぬ」

「人間が一人死んでも世界は変わらん」

「俺には変わる」


 フェンリスはわずかに表情を動かした。それから鼻で息を吐いて、「……先を行く」と前に出た。


 毒の森は名前の通りだった。木の葉が紫色に染まり、地面に薄い霧が漂っている。踏み込んだだけで喉が痺れる感覚がある。フェンリスは鼻を覆いながら「人間には毒が強い」と言った。ドラは「私には効かない」と平然としていた。陸は少し気持ちが悪かったが、踏み込んだ。


 森の奥へ進むにつれ、木々に白い糸が絡まり始めた。蜘蛛の巣だが、普通のサイズではない。人が余裕で包めるほどの太い糸が、縦横無尽に張り巡らされていた。


 そして、その中心に影があった。


 六本の細い腕。白く長い指。背から伸びる二本の黒い蜘蛛脚。白い肌に黒い長髪。顔は二十一歳ほどの、冷たく整った美貌だった。薄い白のローブを纏っている。


「迷子?」声は低く、静かで、冷たかった。「それとも……生贄?」

「行商人を探しに来ました。魔女様のご縄張りを荒らして申し訳ない」

 陸が頭を下げると、アラクネと呼ばれるべき女が目を細めた。

「礼儀正しい獲物ね。珍しい」

「獲物ではないんですが……」


 その瞬間、背後から蜘蛛脚が伸びた。フェンリスが跳んだ。アラクネの脚がフェンリスの前で止まり——そのままゆるりと、陸の腕に巻きついた。


 糸が陸の腕に絡んだ。


「っ——」

「毒見よ」アラクネは淡々と言った。「私の毒糸に五秒以上耐えられたら、行商人を返してあげる。普通の人間は三秒で泡を吹いて倒れるけど」


 熱い。腕から全身に広がる熱さ。でも陸は倒れなかった。三秒、五秒、十秒——。


 アラクネの表情が、わずかに変わった。

「……なぜ立っている」

「丈夫なだけだと思います」陸は絞り出した。「あと、少しだけ体が痺れてます」

「普通は死んでいる。あなたの中に何かいる」アラクネは陸の腕を間近に見た。顔が近い。「私の毒を、あなたの体が喜んでいる。取り込んでいる」

「……テイマーの、適性なのかもしれない」


 アラクネが糸を解いた。

「行商人は東の岩場にいる。傷はない、眠らせただけ」そして言い添えた。「また来なさい。もっと調べたいことがある」

「脅しですか」

「招待よ。違いくらい分かりなさい」


 帰り道、陸の服の背中に、いつの間にかクモを模した細かい刺繡が入っていた。

「これは?」

「しるしよ」フェンリスが言った。「魔蜘蛛のしるしがある者には、他の魔物が近づかない」

「……なんで俺につけたんだろ」

「気に入られたんじゃないか」フェンリスが、珍しく少しだけ表情を崩した。「初めてだな、魔蜘蛛が人間を気に入るのは」


 ドラが「変な人間」と三回目を言った。


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【第5話】鳳凰の化身と燃える祠


 山岳地帯の麓の町・イグニスに、一つの伝説があった。


 百年に一度、山頂の古い祠に鳳凰の化身が降り立つ。人の姿をとり、炎の番人として祠を守る。その番人は百年の間、名を呼ばれることを待ち続ける。誰かに名前を呼んでもらえれば、次の百年も生き続けられる。だが誰にも呼ばれなければ——百年目の夜、炎の中に消える。


 陸がその話を宿の老婆から聞いたのは偶然だった。「今年が百年目の夜だ」と老婆が言った。「哀れなこった。今年も誰も行かんじゃろう。山は冬だから」


「……今から行けば間に合う?」

 老婆が目を丸くした。「山頂まで? 冬の夜に?」

「間に合うか聞いてる」

「馬鹿だ」老婆は言った。「でも早馬なら、夜明け前に着く。祠が燃えるのは夜明けと同時じゃ」

「ありがとう」

「あんた、なんで行く気になった」

 陸は少し考えた。「放っておけないから」


 フェンリスが「一人で行くな」と馬を手配した。ドラが「私は空を飛ぶ」と言った。


 山頂は吹雪だった。視界が白くて、足元が凍っていた。それでも陸は進んだ。


 夜明け直前、祠が見えた。


 祠は燃えていた。橙と紅の炎が夜を染めながら、天に伸びている。炎の中に影があった。翼を持つ、長い緋色の髪の女性。炎に包まれながら、静かに目を閉じていた。年の頃は二十歳ほど。顔は穏やかで、けれどどこかに長い孤独が滲んでいた。


「待って!!」


 影が目を開いた。琥珀色の瞳が陸を捉えた。

「……なぜ来た、人間」

「名前を呼びに来た」

「私の名を知らないだろう」女は静かに言った。「百年間、誰も来なかった。あなたも知らないはずだ」

「知らない。だから教えてほしい」


 炎が強くなる。陸は前に踏み出した。熱い。肌が焦げる。睫毛が焦げる感覚がする。それでも足を止めなかった。


「なぜそこまでする」

「消えてほしくないから。それだけ」

「知りもしない私を?」

「今、知った。消えてほしくない」


 女は長い間、陸を見た。百年分の孤独と、一瞬で芽生えた何かが、その瞳の中で揺れた。


「……フィア」女は言った。「私の名前。フィアよ」

「フィア」陸は繰り返した。炎の熱の中で、確かに声に乗せた。「いい名前だ。フィア」


 炎が——消えた。


 山頂に静寂が戻った。フィアは灰の中に立っていた。翼が静かに広がって、閉じた。そしてフィアは、声もなく泣いていた。


「百年間……誰も来なかった」

「今日、俺が来た」

「間に合ったのね」

「なんとか」陸は焦げた袖を見た。「ちょっと服が大変なことになったけど」

 フィアが、泣きながら小さく笑った。初めて笑った。


「……あなたの旅に、同行させてほしい」フィアは言った。「理由は——まだ消えたくないから。あなたの隣で、もう少し生きてみたいから」


 陸は頷いた。それだけで良かった。


 下山するとドラが「遅い」と言い、フェンリスが陸の焦げた袖を無言で見て、少しだけ眉を寄せた。


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【第6話】人魚の女王と水底の秘密


 南の港町・サリナは、穏やかな漁師町だった——先月まで、は。


 一ヶ月前から、湾内の海底から歌声が聞こえてくるようになった。澄んだ、不思議な歌声。それを聴いた漁師たちが次々と船から海に飛び込んでしまう。今や漁師たちは海に出ることができず、町の食料事情が逼迫しつつあった。


「俺が潜る」

「死ぬぞ」とフェンリス。

「溺れる」とドラ。

「炎があれば助けてあげる」とフィア(炎は水中では役に立たない)。


 陸は桟橋から飛び込んだ。


 海は冷たかった。六月の海だが、深く潜るにつれて体温が奪われていく。視界が青く霞んでいく。息が続かない——と思ったとき、何かが近づいてきた。


 銀色の長い尾ひれ。青みがかった長い髪。白い肌。顔は二十歳ほど。人魚だった。その瞳は深い碧色で、陸を値踏みするように見ていた。


 気づくと、陸の周囲に水の膜が張られた。呼吸ができる。


「なぜ来た」

「歌が問題になってて、話しかけに来た」

「問題は知っている。わざとよ」

「……なんで?」


 人魚は海底を指さした。巨大な岩礁の陰に、さらに大きな何かの骸があった。全長三十メートルはあろうかという怪物の残骸。

「あれが死ぬまで、誰にも近づけたくなかった。長年この海を荒らし続けた怪物を、やっと倒した。でも骸が腐って毒が抜けるまでの間、誰かが触れたら死ぬ。だから歌で近づけないようにしていた」

「……それ、ギルドに言えばよかったのに」

「言いに行く方法がない。陸に出たことがない」

「歌を届かないようにする方法は?」

「知らない。陸の技術は分からない」

「じゃあ、俺が伝えに行く。あと数日で腐食は完了しそう?」

「三日以内には終わる」


 陸は頷いた。「分かった。三日間、湾に入らないように看板を出す。三日後には漁ができるようにする。それでいい?」

 人魚が、陸を見た。値踏みではなくなった目で。

「……人間は話を聞かないと思っていた」

「俺は聞く。俺の仲間も聞く」


 陸が水面に戻るとき、人魚が言った。「待って」。

「なに?」

「名前、ない。海の中では名前が要らないから」

「マリーナはどう。海の名前だ」

 人魚は少し考えた。「……悪くない」


 水面に戻ると、陸のシャツが完全に透けて肌に貼り付いていた。ドラが「人間の体の構造が透けて見えている」と無感情に観察した。フェンリスが顔を背けた。フィアが翼で陸を隠した。


「誰か、着替え持ってない?」

 三人とも無言だった。


 三日後、マリーナが人の姿で港に現れた。白い簡素なワンピース。足が不慣れで少しふらついていた。

「しばらく陸で過ごしたい。ついて行っても構わないか」

「もちろん」


 こうして、陸の仲間は五人になった。


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【第7話】ギルドの試練と最弱テイマーの実力


 王都アルカナに戻った陸たちを、翌朝ギルドマスター・グレイシアが呼び出した。

 五十代の、背筋の伸びた銀髪の女性だ。現役時代はランクSの冒険者だったと聞く。その彼女が、陸の前に分厚い書類を置いた。


「久遠陸。ここ一ヶ月のお前の行動報告が各地から届いている。伝説種・龍族末裔の随伴。魔狼の女王の収容。魔蜘蛛の長との接触と友好関係の構築。鳳凰の化身の同行。人魚の女王の案内。——これは全部、事実か」

「事実です」

「Dランク、テイマー職が、なぜそんなことができた」

「運と、仲間のおかげです」


 グレイシアは陸をしばらく見た。見極めるような目だった。それから書類を一枚取り出した。


「特例昇格審査への参加を認める。三段階の審査を突破すれば、Bランク以上への飛び級を認める。拒否してもいい」

「やります」

「即答だな」

「時間をかけて悩むことでもないので」


 第一段階:現役Aランクパーティーとの模擬戦。陸一人で。


 グレイシアが「仲間なしで」と条件をつけた。陸は了承した。ドラが「なぜ私が出ない」と文句を言ったが、陸が「見ていてくれ」と頼むと黙った。


 Aランクパーティーのリーダー・セルバが鼻で笑った。「テイマーが一人? 俺たちを舐めてる?」

「舐めてないです。全力でお願いします」


 開始の合図と同時に、三方向から攻撃が来た。陸は動かなかった。最後の一瞬、最小限だけ体を動かした。剣が服を掠めた。槍が空を突いた。炎が陸の脇を通った。


 セルバが表情を変えた。「……動きが読めない。なぜだ」

「ドラとフェンリスに毎朝鍛えてもらってます。ドラのパンチを躱せたら、人間の攻撃は大体躱せる」

「お前、体術——」

「テイマーです。でも、体を動かすのは得意になりました」


 二十分後、セルバたちは地に膝をついていた。陸は無傷だった。ギルドの壁際でドラが「当然」と言い、フェンリスが腕を組んで頷いた。


 第二段階:迷宮第十層のボス攻略。陸が主体で行うこと。


「ドラ、一緒に来ていい?」

「もちろん」

「ただ、俺が主体でやる。ドラはサポートだけ」

「……つまらない条件だ」

「頼む」


 十層のボスは、巨大な石像の魔物だった。打撃が効かない、炎も効かない、硬い。でも陸は戦わなかった。石像の目を、正面から見た。語りかけた。一分、二分——石像の動きが、止まった。それから、ゆっくり、ひざまずいた。


「……なぜ」ドラが呆然とした。

「目があった。意思があった。戦わなくて良かった」


 第三段階:指定モンスターの「鑑定」。


 指定対象は——ドラだった。


 ギルドの全員の前で、陸がドラの目を見た。ドラが、小さく頷いた。陸が鑑定の水晶に手を乗せた。


 水晶に映像が浮かんだ。ギルド全体が静まり返った。


「伝説種・龍族末裔。絆適性値:対象・久遠陸——最大値。補足:本個体は自らの意思で随伴している。制御不能ではなく、信頼関係に基づく随伴」


 グレイシアが静かに立ち上がった。

「Bではなく、Aランクへの飛び級を認める。……久遠陸。お前は特別なテイマーだ」


 ドラが陸を横目で見た。陸が「ありがとう」と囁くと、ドラは「当然だ」と言って、でも少しだけ口元を緩めた。


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【第8話】フェンリスと月夜の過去


 満月の夜、フェンリスは必ずどこかへ消えた。


 最初の満月。二回目の満月。陸は気づいていたが、何も言わなかった。聞いていい問いと、聞くべきではない問いがある。それは後者だと思っていた。


 三度目の満月の夜が明けた朝、帰ってきたフェンリスの右手に血が滲んでいた。新しい傷ではなく、古い傷が開いたような跡だった。


「……包帯を巻く」

「いい」

「俺がやりたい」


 フェンリスは拒否しかけて、陸の目を見て、黙った。それから片手を差し出した。


 陸が丁寧に手当てしながら、何も聞かなかった。フェンリスも何も言わなかった。窓の外、月が沈みかけていた。


「……毎月、どこへ行ってるの」

 沈黙の後で、陸は聞いた。答えたくなければ答えなくていい、という声音だった。


「村だ」フェンリスは言った。低く、乾いた声で。「三年前、私の群れが壊した村だ」

「……群れが」

「私が、命令した。人間たちの牧場を荒らせと。あの頃の私は、人間を憎んでいた。理由がある。でも理由が、あの村の人間には関係なかった」


 陸は包帯を巻き続けた。手を止めなかった。

「七人、死んだ」フェンリスは続けた。「男が三人。女が二人。子どもが二人。——私は全員の顔を覚えている。忘れたことがない」


「毎月、何をしてる?」

「墓を掃除している。花を供えている。……足りない。何年続けても足りない」


 陸は包帯を結んだ。フェンリスの手を、両手で包んだ。フェンリスが小さく息を呑んだ。


「ねえ、フェンリス。俺に話すまで、誰かに言ったことあった?」

「……ない」

「じゃあ俺が最初だ。三年間、一人で抱えてきたんだな」

「弱く見えるか」

「強く見える」陸は言った。「三年間、逃げなかったんだから。毎月、向き合い続けたんだから。それは強さだと思う」


 フェンリスは長い間黙っていた。月明かりの中で、白銀の耳がわずかに下がった。

「……人間は変なことを言う」

「俺だけ変なんだと思う」


「次の月も、一緒に来るか」フェンリスが静かに言った。命令ではなく、お願いに近い声で。「一人より、誰かがいた方が……少し、楽な気がする」

「行く」陸はすぐに答えた。「絶対に行く」


 その夜、フェンリスは初めて陸の隣で月を見た。遠くを見るのではなく、隣を見ながら。


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【第9話】アラクネの研究と糸の罠


 毒の森から手紙が届いた。白い糸で封がされた、黒い封筒。中の文字は銀色で、「来なさい。研究に付き合いなさい」とだけ書かれていた。署名はなかった。アラクネ以外にあり得ない。


「行くな」とドラが言った。

「罠かもしれない」とフェンリスが言った。

「燃やしておきましょうか」とフィアが言った。

「どうせ行くんでしょ」とマリーナが正確に読んだ。


「行ってくる」


 陸一人で毒の森へ向かうと、前回より道が分かりやすくなっていた。糸で矢印が示されている。アラクネが誘導してくれているらしい。


 辿り着いたアラクネの巣は前回より広くなっていた。中央には台が置かれ、その上に様々な小瓶や道具が並んでいる。本格的な研究スペースだ。


「来たわ」アラクネが六本の腕を広げた。今日は白いローブ姿だが、着崩れていて片方の肩が出ている。二十一歳の顔に知的な光が宿っていた。「研究の被験体になってもらう」

「……危険なやつですか」

「少しだけ」

「少しだけ、の基準が君と俺で違う気がするんですが」

「大丈夫よ。死なせるつもりはない」

「つもりで済んだことが一回あったら教えてほしい」

「……今のところ、ない」


 研究は様々な種類の糸を陸の腕に一種類ずつ巻き、反応を記録するというものだった。毒糸、粘着糸、絹糸、鋼糸——それぞれ触感と体の反応が違った。陸は痺れたり、熱くなったり、冷えたりしながらも倒れなかった。アラクネが几帳面にノートに記録していく。


 問題が起きたのは、「複合糸」の実験に入ったときだった。


 アラクネが六本の腕を同時に動かして複数の糸を陸に巻きつけようとした。が、六本が独立して動くせいで糸の交差が複雑になりすぎた。「あら」とアラクネが言った。

「あら、じゃない。何が起きてる」

「少し絡まった」

「少し? 俺、椅子ごとぐるぐるになってるんだけど」

「少しよ」


 アラクネが解こうとすると、六本の腕がそれぞれ別の動きをして、さらに糸が増えた。「あら」もう一回言った。

「あら、二回目!」


 結果として、アラクネが陸の解放を試みるうちに自分も糸に引っ張られる形になり、二人が糸の塊の中でほぼゼロ距離になった。アラクネの顔が陸の首元に押し付けられる格好になり、陸の顔が彼女の黒髪に埋まる格好になった。


「っ——! 近い!!」

「動かないで。糸が余計に絡まる」アラクネは平静だった。「少し待ちなさい」

「少し待て言っても、この距離で待てる人間がどれだけいるか……!」

「平均的な人間がどれくらい理性を保てるか、参考データとして記録しておくわ」

「研究やめて! こういうのを研究しないで!!」


 四十分後、アラクネが丁寧に糸を解いて陸は解放された。アラクネは平然とノートに「被験者の耐性:精神的耐性もやや高め」と書いた。


「それも記録するの」

「全部が研究よ」


 帰り際、アラクネが研究ノートを閉じて言った。

「——結論。あなたの体は生物としての境界が薄い。だから私の毒も、ドラの炎も、マリーナの水も、あなたに馴染む。テイマーとしての資質は、本物よ」

「褒めてくれてる?」

「事実を言っているだけ」


 陸が帰ろうとしたとき、アラクネが背中に向かって言った。

「……また来てもいい」今度は「招待」の声ではなかった。もっと静かな、小さな声だった。「研究の続きがある。それだけよ」


「また来る」陸は振り向かずに言った。「研究じゃなくても」


 返事はなかった。でも帰り道、陸の背中の刺繡が、昨日より少し大きくなっていた気がした。


══════════════════════════════════════════════════


【第10話】フィアの「初めてのご飯」


 鳳凰の化身であるフィアは、百年間、炎と光を食物として生きてきた。


 人間の食事をとったことが、一度もなかった。


「食べてみたい」と言い出したのはフィア自身だった。朝、宿の食堂から漂ってくるスープの香りを、しばらくの間じっと嗅いでいた後で。

「においが……良い。あたたかい においがする」

「食べてみる?」

「……できる?」

「試してみよう」


 宿の食堂で、フィアの前に卵のスープと黒パン、それから蜂蜜漬けの木の実が並んだ。フィアは長い間、じっとそれを見ていた。まるで初めて雪を見た子どものような目で。


「どうした?」

「……どこから始めるのか分からない」

「まずスープを。このスプーンで掬って飲む」

「スプーン」フィアはスプーンを手に取った。「こう持つ?」

「反対。持ち手を手前にして——」


 フィアがスプーンを正しい方向に直そうとした瞬間、陸が持ち方を説明するために手を伸ばした。二人の手が同時に動いて、タイミングが悪く、スプーンが傾いた。スープが、陸の袖にかかった。


「っ——! 熱!」

「ごめんなさい!!」フィアが立ち上がった。「冷やす——」

 フィアが反射的に陸の袖を掴んで引き寄せた。冷やそうとしたのだろう。しかしその動きで、陸が椅子から半分ずれて、フィアの顔が陸の顔の真横、ほぼ耳元の距離になった。


 琥珀色の瞳が、至近距離で揺れた。


「っ——」

「あ……ごめんなさい、近すぎ——」

「いや、袖は大丈夫だから、まず離れて」

「でも火傷が」

「火傷してないから! 今は別の意味で心拍数が上がってる!」


 食堂の隅でドラが「また顔が赤い」と興味深そうに言った。フェンリスが手元のパンに集中した。マリーナがくすっと笑った。アラクネが「記録しておく」と取り出したノートをフィアに奪われた。


 騒動が収まった後、改めてフィアはスプーンを正しく持ち、スープを一口飲んだ。


 目が、変わった。


 表情が、溶けるように緩んだ。


「……あたたかい」

「スープだから」陸は答えた。

「外側じゃなくて」フィアは言った。「体の、中が。あたたかい」


 しばらく間があって、フィアは続けた。

「百年間、炎の中にいた。でも炎は、中まであたためてくれなかった。これは……炎と、違う」


 陸は何も言わなかった。フィアが黒パンを一口かじって、「固い」と言ってから「でも甘い」と言うのを、ただ見ていた。


 それからフィアは毎食、陸の隣に座るようになった。スプーンの持ち方は一週間で完璧になった。黒パンが大好きになった。「体の中があたたかい」という言葉だけは、どんな料理を食べても毎回言った。


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【第11話】マリーナと、海を見ない理由


 陸はあるとき気づいた。


 マリーナは海が見える場所を通るとき、必ず視線を逸らすことに。


 港町を通っても、川沿いの道を歩いても、橋の上でも——マリーナは水面を見ない。正確には、遠くに広がる「大きな水」を見ない。小さな水、コップの水や川の流れは平気なのに。


「海が嫌いなの?」

「好きよ」マリーナは短く答えた。「だから、見ない」


 意味がわからなかった。でも、その日は続きを聞かなかった。


 それから三日後、一行が別の港町を通ったとき、子どもが桟橋から滑って海に落ちた。マリーナがとっさに走り、桟橋から飛び込んだ。二秒で子どもを掴んで水面に戻ってきた。


「ありがとうございます! ありがとうございます!!」子どもの親が泣いて感謝した。

「当たり前のことをしただけよ」マリーナは言った。笑っていた。でも目は笑っていなかった。


 夜、一行が宿を取ったとき、マリーナだけがいなかった。陸が探すと、宿から少し離れた海岸にいた。膝を抱えて座っていた。海を見ていなかった。空を見ていた。


 陸は隣に座った。しばらく黙っていた。


「……海を見ると、帰りたくなるから?」

 マリーナは少しの間、答えなかった。波の音が続いた。


「陸は不便」マリーナが言った。「足が痛い。乾燥する。体が重い。海の中の方が楽よ。全部が楽」

「そっか」

「でも」マリーナは続けた。「海に戻れば、ここには来られない。あなたたちの声が聞けない。ドラが変なことを言うたびに笑えない。フェンリスが素直じゃないのを見ていられない。フィアが食べ物の感想を毎回一生懸命言うのが聞けない。——あなたが、誰かの名前を呼ぶ声が、聞けない」


 マリーナは止まった。少し沈黙した後、「……余分なことを言った」と言った。


「マリーナ」陸は静かに呼んだ。

「……なに」

「ここにいていい。不便でも、痛くても、ここにいたいならいていい。俺は、マリーナにいてほしい」

「人間は都合のいいことを言う」

「本気で言ってる。都合じゃなくて、本気で」


 マリーナは長い間黙っていた。


 それから、初めて海の方を向いた。じっと見た。


「……きれい、ね」

「うん」

「でも」マリーナは陸を横目で見た。「陸も、きれいよ。この景色が」

「……景色ね」

「景色よ。それ以外の意味はない」


 陸は何も言わなかった。ただ隣で同じ海を見た。マリーナも見た。二人で、しばらく。


 帰り道、マリーナは海を向いたまま歩いた。それから一度だけ振り返って、また前を向いた。


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【第12話】五人と陸、最初の「家」


 Aランク冒険者となった陸に、ギルドから一通の書類が届いた。


「王都外れの廃屋、一棟を拠点として提供する。修繕費は自己負担、維持費は免除。Aランク以上の冒険者に付与される『拠点権』の適用による」


 陸は即答した。「使います」


 翌日、現地を見に行くと、それは確かに廃屋だった。屋根が一部落ちていた。壁にひびが入っていた。窓ガラスがなかった。でも骨格はしっかりしていた。部屋が六つあった。庭があった。井戸があった。


「……住めそう」陸は言った。

「住めない」ドラが言った。「屋根がない」

「直す」

「どうやって」

「みんなで」


 三日間、全員が修繕した。


 ドラは力仕事を担当した。重い木材を一人で運び、梁を素手で支えた。ただし、力の加減が上手くできずに壁を一枚丸ごと砕いた。「……壊れていた」とドラは言い張った。誰も信じなかった。


 フェンリスは黙々と木材の調達と運搬をした。斧を持たせると恐ろしく上手かった。森から必要な木を正確に選んで切り出してきた。一言も余計なことを言わなかった。が、昼過ぎに戻ると宿の食堂で買ってきたらしいパンが、作業場の隅にそっと置かれていた。全員分。


 アラクネは精密作業を担当した。棚の取り付け、窓枠の固定、蝶番の調整——どれも糸を使った謎の工法だったが、完成品の精度は完璧だった。「木のくせに糸で固定して強度が出る理由が分からない」と陸が言うと、「分からなくていい。結果が全て」とアラクネが言った。


 フィアは炉の火起こし担当になった。ただし最初の一回で炉の上部を含む屋根の一角が燃えた。本人は「炎の加減を知らなかった」と真顔で言い、翌日から丁寧に教わりながら加減を覚えた。二回目以降は問題なかった。


 マリーナは水場を担当した。井戸の整備と台所の水回りを完璧に仕上げた。途中で「配管は水流を操れば要らないのでは」と言い出したが、陸が「人間の家にしよう」と言うと「そうね」と素直に引いた。


 三日目の夕方、家が完成した。


 屋根が直っていた。壁のひびが埋まっていた。窓に布が張られていた。床が掃除されていた。炉に火が入っていた。


 六人分の食卓が、食堂に広げられた。マリーナが調理した夕食が並んだ。フィアが炉で温めたスープが湯気を立てていた。


 陸は椅子に座って、六枚の皿を見回した。


「……ただいま、って言うのは変かな。みんなに」


 少しの沈黙。


「変じゃない」とドラ。

「変ではない」とフェンリス。

「おかえり」とマリーナ。

「おかえりなさい」とフィア。

「……おかえり」とアラクネ。一番小さな声で、でも確かに。


 陸は笑った。本当に久しぶりに、胸の底から。


「ただいま」


 炉の炎が揺れた。窓の外、夕暮れが六人を照らしていた。


 これが最初の「ただいま」だった。ここが、帰ってくる場所になる。


       ——前半 了——

【第13話】黒騎士団の来訪と、陸への宣戦


 王都アルカナに、黒い鎧の一団が入城したのは昼過ぎだった。


 「黒騎士団」——国王直属の特務精鋭部隊。通常の騎士団とは一線を画す、特別任務に特化した集団だ。その団長・ヴァルハインは三十代後半の男で、短く刈り込んだ黒髪、鋭い灰色の眼、隙のない体格をしている。一目で「戦闘のプロ」と分かる佇まいだった。


 陸が拠点に戻ると、玄関の前に騎士が五人立っていた。そしてヴァルハインが腕を組んで待っていた。


「久遠陸だな」

「そうですが」

「王命の伝達がある。入るぞ」


 応接代わりに使っている食堂に全員が集まった。黒騎士団の五人が壁際に立ち、陸の仲間五人が反対側に並んだ。緊張が室内に満ちた。


 ヴァルハインが書状を開いた。

「国王陛下の勅令により、久遠陸の保護下にある伝説種モンスター五体を国家管理下の魔獣指定施設に移送する。これは個人によるS級以上の魔獣保有を禁ずる『魔獣管理法第三条』に基づく正当な命令だ」


 沈黙が落ちた。


「……彼女たちは俺の仲間です。モンスターじゃない」

「法律上はモンスターだ。種族分類において、人間以外の魔獣は個人の資産として扱われる。強力な資産を個人が無制限に保有することは、国家の安全保障上の脅威となり得る」

「彼女たちが俺の資産?」陸は静かに言った。「それは間違ってる」

「法律が言っている」

「法律が間違ってる」


 ヴァルハインの眉がわずかに動いた。室内の緊張が一段上がった。


 陸の後ろで、ドラが立ち上がった。椅子が軋んだ。フェンリスが低く唸った。アラクネが指の先で糸を弾いた。フィアの背の羽根が広がり始めた。マリーナの周囲の空気が、わずかに湿度を増した。


「……抵抗するつもりか」ヴァルハインが言った。

「抵抗じゃない」陸は前に出た。五人の前に立つように。「対話をしたい。今日のところは、時間をくれ。俺から国王陛下に直接申し入れをしたい」

「勅令に猶予はない」

「でも、今ここで事を構えれば、この部屋は確実に半壊する。俺の仲間はそういう存在だ。あなたたちにも怪我をさせたくない。だから、三日だけ時間をくれ」


 ヴァルハインは陸を見た。長い間、測るように。


「……二日だ」彼は言った。「二日以内に公式の申し入れがなければ、強制執行する」

「分かった。ありがとう」


 黒騎士団が去った後、ドラが「なぜ礼を言う」と言った。

「二日くれたから」

「最初から断るべきだった」

「最初から断ったら今夜中に戦闘になってた」陸は言った。「戦わなくて済む方法がある間は、戦わない」


 フェンリスが腕を組んで黙った。マリーナが「……どうするつもり?」と聞いた。

「考える。一晩かけて」陸は全員を見た。「一つだけ言える。俺は君たちを施設には渡さない。それだけは絶対だ」


 その夜、陸は朝まで書き物をした。ギルドマスター・グレイシアへの手紙、王都の有力冒険者への連絡、各地の陸と関係を持つ商人や村長への書状——。仲間たちは代わる代わる隣に来て、何も言わず、ただ傍にいた。


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【第14話】ドラと陸、二人だけの夜明け前


 黒騎士団との対峙から三日が経った。ヴァルハインとの交渉は「正式な話し合いの場を設ける」ということで一時的に保留になったが、予断を許さない状況に変わりはない。


 陸は毎晩遅くまで書類仕事をしていた。ギルドへの申請書、法的根拠を調べた覚書、各方面への陳情状。テイマーである陸に法律の知識はないが、ギルドの顧問弁護士に相談しながら少しずつ整えていた。


 ある夜、陸が食堂の机に向かっていると、背後で気配がした。


 振り向くと、ドラが椅子に座っていた。無言で、腕を組んで。

「……眠れないの?」

「見ていた」

「いつから?」

「一時間前から」

「言ってくれれば良かったのに」

「邪魔したくなかった」


 陸は苦笑して向き直った。「疲れた顔してる?」

「している」ドラは即答した。「目の下が暗い。動きが重い。三日前より老けた」

「三日で老けたら困る」

「事実だ」


 ドラは立ち上がって陸の隣に来た。書類を横から覗き込む。文字は読めないのに、じっと見ている。

「それは何が書いてある」

「君たちの法的地位を守るための申請書。……難しくて、なかなか上手く書けない」

「なぜお前が書く」

「俺しかいないから」

「弁護士に書かせろ」

「お金がかかる」

「私が金を作る」

「どうやって」


 ドラは少し考えた。「分からない。でも何かある」

 陸は笑った。「大丈夫。なんとかなる」

「なんとかなるではない。なんとかしろ」

「……それも正しいな」


 陸が次の書類に手を伸ばした瞬間、ドラがそのまま陸の肩に頭を乗せた。


「っ——」

 陸が固まった。ドラの頭の重さが肩にかかる。黒髪が陸の首元に触れる。


「重、い?」

「……重くはない」

「ならいい」

「でも——」

「静かにしろ。眠い」


 ドラはそれだけ言って、目を閉じた。すぐに呼吸が深くなった。本当に眠るつもりらしかった。


 陸は動けなかった。動いたらドラが起きる気がして。


 書類の続きを書いた。右手だけで。肩にドラの重みを感じながら、一枚、また一枚。書き慣れない法律用語と格闘しながら。外が少しずつ明るくなってきた。


 夜明け前に、陸も気づかないうちに机に突っ伏していた。右手にペンを持ったまま。


 朝、最初に起きたフェンリスが食堂に来て、二人を見た。陸の肩にドラの頭が乗ったまま、二人とも眠っていた。


 フェンリスは何も言わなかった。そっと扉を閉めた。台所で一人、静かに朝食の準備を始めた。


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【第15話】フェンリスの「初めての頼み事」


 フェンリスが陸に何かを頼んだのは、生まれて初めてのことだった。


 それは夕方、他の四人が各々の部屋にいる時間に、フェンリスが陸の作業部屋をノックした。珍しいことだった。いつも彼女はノックなしに入るか、入らないかのどちらかだ。


「……一緒に来てくれるか」

「どこに?」

「村だ」


 陸はすぐに立ち上がった。何も聞かなかった。コートを羽織って「行こう」とだけ言った。


 満月でもない日に、フェンリスが陸を連れて向かったのは、東の農村だった。三年前に彼女の群れが壊した、あの村だ。前に陸が一緒に来た時より、村の様子が変わっていた。新しい木の小屋が三棟増えていた。畑が広がっていた。子どもの声が聞こえた。


「……復興してる」と陸は言った。

「三年で、少しずつ」フェンリスは静かに言った。「私が毎月来るようになってから、村人と少し話すようになった。最初は追い払われた。二年目から、少しだけ話してくれるようになった」

「そうか」

「でも——来てほしかったのはそのためじゃない」


 フェンリスが村の入り口近くに歩いた。そこに、細い木の標が立っていた。三年前に陸と一緒に新しくした、あの標だ。


「また、新しくしたい」フェンリスは言った。「腐食が進んできた。でも——一人では、できなかった」


 「できなかった」という言葉が、陸には重かった。力の問題ではない。この標は、一人で黙々と立てるものではない、ということを、フェンリスは分かっていた。


「分かった」陸は言った。「俺が一緒に立てる」


 二人で古い標を丁寧に抜いた。フェンリスが事前に選んできた、しっかりした木材を穴に据えた。フェンリスが彫刻刀で名前を彫り込んだ。七人の名前。一文字一文字、丁寧に。陸は隣で土を押さえながら、フェンリスが彫るのを見ていた。


「……全員の名前、覚えてるんだな」

「忘れる資格がない」

「名前を覚えてる人間が、この村にまだいるかな」

「……一人、いる。一番年上の老婆が。昔、私に話しかけてきた。最初は怖かったが、今は少し話す」


 標が立った。二人でしばらく、それを見ていた。


「ありがとう」フェンリスが言った。陸に向かって、頭をわずかに下げた。「……一人で来るより、良かった」

「また来ていい。次も一緒に来る」

「……強制するな」

「強制じゃない。来たい」


 帰り道、フェンリスは三歩後ろではなく、陸の隣を歩いた。いつもより少しだけ。ほんの少しだけ、距離が近かった。


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【第16話】アラクネの脱皮と新しい姿


 「緊急事態よ。今すぐ来なさい」という手紙が毒の森から届いた。


 陸が一人で急ぎ向かうと、アラクネの巣の中心に、奇妙な光景があった。アラクネが六本の腕を縮め、体が半透明の薄い膜に包まれていた。蜘蛛脚も短く縮み、全体的にいつもより小さく見えた。


「これは……何が起きてる」

「脱皮よ」アラクネは落ち着いた声で言った。声だけは平常通りだ。「七年に一度、外皮が丸ごと入れ替わる。その間、私は動けない。無防備になる。外敵を払えない」

「……だから呼んだ」

「あなたが来てくれると、思ったから」少し間があった。「来ないかもしれないとも思ったけど」

「呼ばれたら来る」


 陸は巣の入り口に腰を下ろし、番をした。毒の森だから他のモンスターが近づきにくいとはいえ、アラクネが無力化している間は何が来るか分からない。


 三時間、何も来なかった。陸は時々アラクネに声をかけた。「大丈夫?」「痛い?」「何か必要なものある?」。アラクネは「大丈夫」「痛くない」「水があれば」と返した。陸が持ってきた水筒を差し入れると、膜の隙間から細い指が伸びて受け取った。


 そしてアラクネが「……終わった」と言った。


 膜が、内側から割れた。白い手が伸びて、膜を剥がしていく。


 新しい姿のアラクネが現れた。


 肌の白さが増していた。黒髪に深い青みが乗り、光の当たり方によって藍色に見えた。蜘蛛脚の模様が細かくなり、より繊細な美しさがある。顔立ちは変わらないが、全体的に以前より——鮮やかだった。


「綺麗だ」

 陸は思ったまま言った。考えより先に口が動いた。


 アラクネが固まった。


 長い沈黙。


「……何を言っているの」

「綺麗だなと思って」

「脱皮直後を人に見られるのは」アラクネはゆっくり言った。「非常に恥ずかしいことなのよ」

「そうなの?」

「そうよ! 普通はこんな状態を見せない! あなたを呼んだのは失敗だったかもしれない」

「でも呼んだ」

「……っ、状況が状況だったから!」


 アラクネが白いローブを素早く羽織ろうとしたが、新しい外皮がまだ馴染んでいないせいで、ローブが肩に引っかかった。直そうとするたびに反対側が出る。六本の腕が動くせいでかえって複雑になっていく。


「直すの、手伝う?」

「触るな変態」

「変態は言い過ぎでは」

「変態よ。帰りなさい」

「着替え終わるまでは帰れない。また転ぶといけないから」

「転ばない!」


 十五分後、なんとか落ち着いたアラクネが研究ノートを開いた。「脱皮時の観察記録を取る」と言って書き始めた。完全に研究モードだった。


 陸が帰り際、アラクネが言った。

「……守ってくれて、ありがとう」

「また七年後も呼んで」

「七年後」アラクネは静かに言った。「あなたが覚えているかしら」

「覚えてる。絶対に」

「……そう」


 アラクネは研究ノートに何かを書いた。陸には見えなかったが、後でそのページに「七年後の約束」と書かれていたことを、陸はずっと後に知る。


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【第17話】フィアの炎と、一人の子どもの話


 山間の村に差し掛かったとき、一人の少女が走ってきた。七歳か八歳、泥だらけのワンピースを着た、快活そうな子だ。


 その子が、フィアの目の前で止まった。フィアの翼を——緋色の、大きな炎の翼を見上げて、目を丸くした。それから言った。


「お姉さん、なんで羽根があるの? すごい、きれい!」


 フィアが固まった。


 陸が後ろから見ていると、フィアの表情が、言葉を失ったように止まっていた。何かを言おうとして、言葉が出てこない。唇が微かに動いて、止まった。


「触っていい?」と少女が言った。

「……どうぞ」フィアがかすれた声で言った。


 少女がフィアの翼の端に手を伸ばした。翼が少し震えた。熱くないように温度を下げているのが、陸には分かった。少女は「あったかい!」と喜んだ。


「お姉さん、名前は?」

「……フィア」

「フィアお姉さん! 私はリン! また来てね!」


 少女が走り去った。フィアはしばらくその場に立ち尽くしていた。


 夕方、宿を取った村の外れで、陸がフィアを見つけた。丘の上に座って、膝を抱えていた。翼が体を包むように閉じていた。


 陸が隣に座った。しばらく黙っていた。


「……百年間、子どもに声をかけられたことがなかった」フィアが言った。静かな声で。

「そうか」

「いつも、逃げられた。親が先に逃げるから、子どもも逃げた。鳳凰の化身は畏れるものだと、親たちは子どもに教えた」

 陸は何も言わなかった。

「今日、初めて——怖くないと言われた。きれいと言われた。触っていいかと聞かれた」フィアは翼を少し広げた。「これが……嬉しいのか悲しいのか、分からない」


「どっちも、じゃないかな」陸は言った。「嬉しいのは本当で、悲しいのも本当で、両方ある」

「百年分が、胸に来た」

「うん」

「……泣いてもいいか」

「もちろん」


 フィアは音もなく泣いた。炎の化身が、人間みたいに泣いた。翼が細かく震えた。陸は肩に手を置いた。フィアは泣きながら、ゆっくりその肩に額をつけた。


 どれくらいの時間が経ったか分からない。フィアが顔を上げた。


「……ありがとう。ここにいてくれて」

「フィアが泣くのを、一人にしたくなかった」

「百年間、一人で泣いてきた」

「もう一人じゃない」


 翌朝、リンがまた来た。野花を持って。フィアに差し出した。「お土産!」


 フィアは花を受け取って、長い間見ていた。それから「ありがとう」と言った。リンが走って帰るのを、ずっと目で追っていた。


 その花は、フィアが旅の間ずっと大事に持ち続けた。枯れても、乾燥させて。


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【第18話】マリーナの歌と、黒騎士団の強硬手段


 王都の中央広場で、マリーナが歌った。


 きっかけは陸の一言だった。「港町ではあの歌声が問題になったけど、陸用に調律できるって言ってたよね」と言うと、マリーナが「……試してみる」と答えた。


 広場に人が集まっていた。昼下がりの賑やかな時間。マリーナが人の波の中心に立った。目を閉じた。


 最初の音が——出た。


 広場が、静かになった。


 喋っていた人が止まった。歩いていた人が足を止めた。子どもが泣き止んだ。老人が目を閉じた。誰も海に飛び込まなかった。誰も正気を失わなかった。ただ、そこにいる全員が——何か大切なものに触れたような顔をして、立っていた。


 泣く人がいた。笑う人がいた。目を閉じて空を向く人がいた。誰かの手を握る人がいた。


 歌が終わった。沈黙が数秒続いて、それから拍手が起きた。最初は一人、それが広場全体に広がった。


「……成功ね」マリーナは静かに言った。

「すごい」陸は言った。「本当に、すごい」


 マリーナが陸を見た。何かを言おうとして、言わなかった。代わりに小さく笑った。


 その夜、黒騎士団が動いた。


 予告なしに。


 拠点の扉が外から叩かれた。陸が開けると、武装した黒騎士二十名が並んでいた。ヴァルハインが前に立っていた。


「久遠陸。本日付けで、王命による強制執行を開始する。対象の五体を速やかに——」

「拒否する」


 陸の声は、震えていなかった。疲れていたが、迷いはなかった。


「申し入れを受け取ったはずです。ギルドマスターと各地の有力者からの連名での異議申し立てが、三日前に王宮に届いているはずだ」

「届いている。だが却下された」

「却下の理由を聞いていない」

「法律に明文がある。それ以上の理由はない」


 陸は一歩、前に出た。

「交渉の機会をください。彼女たちが自らの意思で動いていること、武器でなく仲間であることを、国王陛下に直接お伝えしたい」


 ヴァルハインが何か言う前に、背後で扉が開いた。


 ドラが立っていた。全身から、微かに炎の気配が漏れていた。フェンリスが低く唸った。アラクネの糸が天井から静かに降りてきた。フィアの翼が広がり始めた。マリーナの周囲の空気が、冷たく湿った。


 黒騎士たちが、一歩後退した。


 ヴァルハインが長い沈黙の後、言った。

「……謁見の申請を出せ。私が国王陛下に取り次ぐ」


 陸は深く頭を下げた。「ありがとうございます」


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【第19話】陸の「過去」と最弱の理由


 謁見の準備が進む中、黒騎士団による陸の身辺調査が行われた。それは陸も知っていた。知っていて、止めなかった。隠すことが何もなかったからだ。


 ある夕、ヴァルハインが一人で拠点を訪ねてきた。書類を一枚持って。


「調査書だ。見るか」

「構いません」


 陸が別室で書類を確認している間、食堂にはヴァルハインと陸の仲間たちが残された。


 ヴァルハインが部下に命じて、調査書の内容を読み上げさせた。


「久遠陸。二十歳。父・久遠渉、元・旅の魔術師。十七年前、辺境の遺跡調査中にモンスターに遭遇し死亡。陸が三歳の頃。母・久遠澪、一般市民。夫の死後も『モンスター被害者家族の会』の活動に参加し続け、遺族支援と、モンスターとの共存を訴える活動を行っていた。陸が十五歳の時、病没。……陸は十五歳から一人で生計を立て、二十歳で職業判定を迎えた」


 食堂が静かになった。


 フェンリスが腕を組んで、何も言わなかった。ドラが窓の外を見た。フィアが膝の上に置いた手を握り締めた。マリーナが目を伏せた。アラクネが研究ノートを閉じた。


「……だから、逃げないのか」フェンリスが静かに言った。


 陸が戻ってきた。全員の顔を見て、空気を読んだ。

「……聞こえてた?」

「読み上げさせた」ヴァルハインが言った。「私の判断だ。文句があるなら言え」

「文句はない」陸は静かに言った。「隠すことでもないから」

「お前の母親のことは、私も知っている」ヴァルハインが続けた。「『モンスター被害者家族の会』——私も昔、末席で関わったことがある。あの会で、お前の母親の話を聞いた。夫をモンスターに殺されたのに、モンスターを憎まなかった女だ」

「はい」

「なぜ憎まなかったのか、聞いたことがあるか」

「あります。——『命令されていただけかもしれない。本当は誰かに傷つけられた存在が、怒りをぶつける場所を間違えただけかもしれない』と」


 ヴァルハインは書類をテーブルに置いた。長い間、陸を見た。

「お前は母親に、似ている」

「ありがとうございます」

「褒めていないかもしれんぞ」

「それでも嬉しいです」


 その夜、ドラが陸の部屋に来た。無言でしばらく立っていた。それから言った。

「あなたの母親に、会いたかった」

「俺も紹介したかった」陸は言った。「こんなに面白い人たちが仲間になったって、きっと喜んだと思う。母さんは、いつも誰かと繋がることを大事にしてたから」

「……いい人間だったのだな」

「最高の人だった」


 ドラは陸の袖を、わずかにつまんだ。強い手が、羽根のように優しく。それだけで、何も言わなかった。


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【第20話】五人vs王都の試練、最大の危機


 国王との謁見の前日、ヴァルハインから提案があった。


「謁見の前に、一つ証明してほしいことがある。国王陛下も、貴族も、ギルドの幹部も見ている前で」

「何を証明するんですか」

「彼女たちが、テイマーに制御されたモンスターではなく——自らの意思を持って行動できる存在であることを。そしてお前が、彼女たちと信頼で繋がっていることを」


 翌朝、王都中央の競技場に人が集まった。貴族席、市民席、冒険者席——三千人以上が見守る中、陸と仲間たちが競技場に入った。


 対戦相手は、国が誇る魔獣部隊の五体。国家が正式に契約している強力な魔獣たちだ。炎竜、鋼毛狼王、毒虫の群体、氷結鳥、嵐の海龍——いずれも伝説種に迫る実力を持つ。


「ルールは一つ」ヴァルハインが発表した。「久遠陸が、制御者として中央に立つ。彼女たちは陸の判断の下で動く。彼が指示せず彼女たちが勝手に動けば、これは失格だ」


 陸は競技場の中央に立った。武器はない。防具もない。


「……任せていい?」陸は五人に言った。

「聞くな」ドラが答えた。「当然だ」

「言われなくても」フェンリスが言った。

「もちろん」フィアが言った。

「あなたが言うなら」マリーナが言った。

「……負けるつもりはないわ」アラクネが言った。


 開始の合図が鳴った。


 炎竜がドラに向かった。陸は叫んだ。「ドラ、右翼から誘い込め!」ドラが右に旋回した。炎竜の吐息が空を焦がした。ドラの爪が竜の側面を捉えた。

「フェンリス、鋼毛狼を北壁に追い込む!」フェンリスが地を蹴った。狼王との速度の勝負。フェンリスが一歩先を取った。

「アラクネ、群体の分散を防いで!」アラクネの糸が扇状に広がった。毒虫の群体を一塊に絡め取った。

「フィア、上昇して氷結鳥を高度で制圧!」フィアが翼を広げた。炎が冷気を蒸発させた。

「マリーナ、海龍の水流を逆用して!」マリーナが水を操った。海龍の嵐が、海龍自身に返った。


 陸は走り回った。全員の動きを見て、次を予測して、声を出し続けた。一時間、休まず。


 最後の一体・炎竜が膝を折った。競技場が静まり返った。


 それからヴァルハインが立ち上がった。

「……私が間違っていた」彼は言った。静かで、重い声で。「これは制御ではない。これは——仲間との戦いだ」


 観客席から、拍手が起きた。最初の一人が。次の一人が。やがて三千人が。


 陸の仲間たちが、傷を負いながらも立っていた。全員が、陸の方を向いていた。


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【第21話】それぞれの「好き」の形


 競技場での一件が落ち着いた翌日、陸が朝起きると食堂のテーブルに手紙が一枚置いてあった。


「今日は休め。出かけるな。仕事もするな。——ドラより」


 ドラの字ではなかった(ドラはまだ人間の文字が書けない)。フィアの字だった。つまり全員合意の上で、フィアが代筆したのだろう。


 陸が自室で本を読んでいると、一時間おきに誰かが来た。


 最初はドラだった。ノックなしに入ってきて、「暇か」と言った。

「暇だよ」「なら話す」——ドラは椅子を引いて座り、三十分、自分の生まれた山の話をした。山の名前、岩の色、夜になると星がどう見えるか。陸は全部聞いた。ドラが帰り際に「……楽しかった」と呟いたのは、陸だけが聞いた。


 次はフェンリスだった。本を一冊持ってきた。「読んでやる」と言った。

「読み聞かせ?」「うるさい。聞くか聞かないか」「聞く」——フェンリスは一時間、淡々と読み続けた。声は低くて落ち着いていて、心地が良かった。陸が本当に眠くなってきたとき、フェンリスが「眠るな」と言った。「なんで」「途中で眠られると続きが話せない」——つまり続きを読むつもりでいるらしかった。


 次はアラクネだった。小瓶を一つ持ってきた。「新しい糸の試作品を試す」と言った。

「また研究?」「服に織り込むと強度が増す糸よ。一度体につけてみないと効果が分からない」——結果として、陸の腕が細かい糸細工でデコレーションされた。「これはファッションか研究か」「両方よ」陸が剥がそうとすると「傑作を壊すな」と言われた。結局夕方まで腕に巻いていた。


 次はフィアだった。「外を見ていい?」と言って窓から入ってきた。

「扉から来て」「高さが好き」——フィアは窓枠に腰掛けて、外の景色を見た。陸も窓の内側から外を見た。夕方の空が橙に染まっていた。フィアが「きれいね」と言うたび、陸が「うん」と答えた。それだけの時間が、一時間続いた。


 最後はマリーナだった。陸の部屋に来て「添い寝していい?」と言った。

「は?」「疲れた。横になりたい」「……いや俺のベッドで?」「あなたのベッドが一番広い」——マリーナは陸の許可を待たずにベッドの端に横になった。「何もしない。眠るだけ」と言って目を閉じた。陸が「俺はどこで寝るの」と言ったら「そこで」と床を指さした。納得できなくて抗議したが、マリーナはもう寝息を立てていた。


 翌朝、ドラが「昨日は誰が一番長くいたか」と聞き出した。全員が自分だと言い張り、朝食が終わるまで論争した。陸はその間、「休めた日だったのかこれは」と思い続けた。


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【第22話】ドラへの言葉


 依頼の帰り道、陸が負傷した。


 大した傷ではなかった。崖を降りる途中で足を滑らせ、岩で腕を切った。傷は浅く、治癒師に包帯を巻いてもらえば問題ない程度のものだ。


 だがドラが、青ざめた。


 ドラがそういう顔をするのを、陸は初めて見た。怒りでも驚きでもなく——恐怖に似た、何かだった。


 宿の治癒師に手当てしてもらい、陸が包帯を巻かれて出てくると、ドラが外で待っていた。腕を組んで、壁に背をつけていた。でも体の重心がわずかにずれていた。落ち着かない、という気配がした。


「大したことなかったよ」陸は言った。

「うるさい」

「ドラ?」


 ドラは陸を見た。目が合った。


「……怖かった」ドラは低い声で言った。「こんなに怖かったのは、初めてだ」


 陸は少し笑った。「俺がいなくなるのが怖い?」

「笑うな」

「笑ってない。——本当に笑ってない。ごめん」


 ドラは陸の包帯を巻かれた腕を見た。

「なぜ庇った。私のことを」

「あのとき岩が来る方向が——君の方だったから。考える前に動いてた」

「馬鹿だ」

「そうかも」

「馬鹿だ」もう一度。「お前のその性格が、馬鹿だ」


 ドラが陸の手を取った。両手で、包み込むように。ドラゴンの力は、人間の骨など砕ける。それを知った上で——羽根のように優しく、ただ包んだだけだった。


「……死ぬな」

「死なない」

「約束しろ」

「約束する」

「守れなかったら」ドラは陸の目を見た。「私が、怒る」

「怒るのか」

「泣く」


 陸は返す言葉が見つからなかった。


 しばらくして、ドラが言った。

「……お前は変な人間だ」

「よく言われる」

「でも」ドラはわずかに声を落とした。「——変でなければ、出会えなかった。あの森で、逃げない人間に会えなかった。だから、変でいい」


 陸は手を返して、ドラの手を握った。ドラが、わずかに目を瞠った。

「俺も、変じゃなければドラに会えなかった。だから、変で良かった」


 ドラはしばらく動かなかった。それから、静かに言った。「……そうだな」


 二人はしばらくそのまま、宿の壁に並んで立っていた。夕暮れが赤かった。


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【第23話】テイマーという名前の意味


 国王との謁見が許可された。


 王宮の謁見の間は、陸が思っていたより広かった。高い天井、長い赤絨毯、左右に並ぶ貴族と高官たち。玉座には、六十代の落ち着いた目をした国王が座っていた。


 陸は一人で進んだ。仲間たちは入り口で待機している。


「久遠陸だな」

「はい」

「顔を上げろ。話がしたいと申し入れてきたのはお前だ。話せ」


 陸は顔を上げた。玉座の国王と目が合った。


「お伝えしたいことは一つです。私の仲間たちは——ドラ、フェンリス、アラクネ、フィア、マリーナは、私が制御しているモンスターではない。彼女たちは自らの意思で私と行動を共にしている。私も、彼女たちと共にいることを自分の意思で選んでいる」

「それが、何を意味する」

「法律が彼女たちを『個人の資産』と定義しているなら、その法律は間違っています。彼女たちは資産ではない。仲間です」


 謁見の間がざわめいた。国王は動じなかった。

「……大きなことを言う。テイマーが、法律が間違っていると言うか」

「言います。間違っていると思ったことは、間違っていると言わなければいけないと、母に教わりました」


 国王は少し目を細めた。

「お前の母親のことは、ヴァルハインから聞いた。モンスターに夫を殺されながら、モンスターとの共存を訴え続けた女だ」

「はい」

「なぜ憎まなかったのか——お前は知っているか」

「知っています。母は言っていました。『憎むことに使う時間は、繋がることに使いたい』と」


 長い沈黙が、謁見の間に落ちた。


 国王が、ゆっくりと立ち上がった。

「ヴァルハイン」

「はい」

「法務省に諮問せよ。伝説種モンスターの法的地位の再定義について、正式な検討を始めると」


 ざわめきが大きくなった。国王が手を上げて静めた。

「久遠陸。今日の申し入れは受理する。法律が変わるまでには時間がかかる。だがお前の仲間たちへの強制執行は、検討期間中は保留とする」

「……ありがとうございます」

「礼はまだいい。法律が変わった時に言え」


 謁見の間を出ると、仲間五人が入り口で待っていた。


「どうだった?」ドラが言った。

「うまくいった」

「法律は変わるか?」フェンリスが言った。

「時間がかかるけど、変わると思う。一歩踏み出せた」


 フィアが「良かった」と言った。マリーナが「良かった」と言った。アラクネが「まあ当然ね」と言った。フェンリスが短く息を吐いた。ドラが何も言わずに、陸の隣に並んで歩き出した。


 それが、一番の答えだった。


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【第24話】最弱のテイマーと、最強の仲間たち


 王命の布告が王都に掲示されたのは、謁見から二十日後だった。


「伝説種モンスターのうち、意思疎通が可能と認定された個体に対し、本人の申請に基づき市民権の付与を試験的に開始する。第一号申請者として、以下の五名を認定する——」


 ドラ。フェンリス。アラクネ。フィア。マリーナ。


 五人の名前が、王都の掲示板に貼り出された。世界で初めて、モンスターが国の法律のもとで「人」として認められた日だった。


 ヴァルハインが拠点に来た。認定証を五枚持って。一枚ずつ手渡しながら、「……遅くなった」と言った。「本来、もっと早くこうあるべきだった」


「そうは思いません」陸は言った。「時間がかかったから、みんなが見ていた。たくさんの人が関心を持った。それは悪いことじゃなかった」


 ヴァルハインは少し黙った後、「お前の母親は良い息子を育てた」と言った。それだけ言って去った。


 夕方、全員が食卓を囲んだ。マリーナが腕を振るった料理が並んでいた。フィアが炉を丁寧に管理した。フェンリスが黙って食材を切り揃えていた。アラクネがテーブルクロスを新調した(蜘蛛の糸製だが見た目は上品だった)。ドラが——皿を一枚割った。置いた瞬間に砕いた。「これは最初から割れていた」とドラは言い張った。誰も信じなかった。


 陸が六枚の皿——一枚足りないが、まあいい——を見回した。


「今日、法律が変わった。だから今日は——みんなに言いたいことがある」


 全員が陸を見た。


「ドラ。あの森で、逃げなくて良かった。君の目を見て、話しかけて良かった」

 ドラが視線を少し逸らした。「……当然だ」


「フェンリス。あの廃村で、君に話しかけて良かった。三年間、一人で抱えてたことを聞かせてくれてありがとう」

 フェンリスが腕を組んだ。目を逸らした。耳が少しだけ赤くなった。「……大げさだ」


「アラクネ。毒の森に入って良かった。毒に耐えて良かった。君に招待してもらって良かった」

 アラクネが研究ノートをめくる手を止めた。「……記録に残しておく」


「フィア。あの山頂に走って良かった。間に合って良かった。君の名前を呼べて良かった」

 フィアが額に手を当てた。「……泣きそう」「泣いていい」「泣かない。食事中よ」


「マリーナ。海に飛び込んで良かった。君の話を聞けて良かった。ここに来てくれて良かった」

 マリーナが目を伏せた。それから「……私も」と小さく言った。「ここに来て、良かった」


 陸は全員を見た。


「俺、最弱の職業だった。今もたぶん、個人の戦闘力は最弱だと思う。でも——最弱のテイマーだから、君たちに会えた。逃げなかったから、話しかけられた。それだけでもう、十分だ」


 誰も何も言わなかった。でも、それぞれの表情が、それぞれのやり方で何かを答えていた。


「いただきます」陸は言った。

「いただきます」と五つの声が重なった。


 炉の炎が揺れた。窓の外、夕暮れが六人を照らしていた。認定証が五枚、テーブルの隅に重なっていた。世界が、少しだけ変わった夜だった。


 最弱のテイマーと、五人の伝説。


 法律が変わった。でも何より大切なことは——帰る場所があって、「ただいま」と言える相手がいるということだった。


 この旅は、まだ始まったばかりだ。


       ――第1期 完――

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