第七章 滅びの兆し
第一節 湖の上を歩く
ある日の大禍時、ルシフェルは湖の向こう岸から吹いてくる風に幽かな声が運ばれているのを耳にしました。その声は男でも女でもなく、大人でも子供でもなく、また一人でも万人でもありませんでした。ただ言葉にならない声でした。その声に誘われたルシフェルは呟きました。
「湖の向こう岸へ渡ろう。」
ルシフェルは湖の上を歩きました。創世記で「神の霊が水(Mayim:混沌の象徴としてのマイム)の上を動いていた」の言葉とおり、湖の上を歩きました。人間には制御できない不気味な混沌と死の深淵である水の上をルシフェルは平然と歩きました。夜半になると突風が湖に吹き下ろして来て、荒波がルシフェルを幾度もなく襲い掛かってきて沈みそうになりました。また吹きすさぶ強い逆風は幾度もなくルシフェルを打ちのめしました。しかしルシフェルはこの大風の野次と嘲笑と罵倒に対して声高に反論もせず、ただ莞爾として受け入れました。ルシフェルは湖の上を歩きました。
第二節 狂人が告げる名前
夜が明ける頃、ルシフェルは湖の向こう岸につきました。この地はナザレと違って経済的に豊かな地域でした。ルシフェルが暫く歩いて行くと頭が血だらけの狂人が茫然と佇んでブツブツと独り言を呟いていました。
「やっとたどり着いたこの水辺。だが湖の上を歩けないから永遠に水のない地を彷徨い続ける。ああ、もう疲れたよ。」
この狂人が生きていた社会は神なき世界でした。狂人はもともと善良な弱々しい人として生きていました。しかしこの世界の人々に悪霊が取りつき、人々は集団ヒステリーの様相を呈しました。人々は何を考えているのか、何を言っているのか、何をしているのか自分で分からなくなりました。人々は得体の知れない不安に対して安易な安心を求めました。人々は生贄を求めたのです。人々は弱り切った彼をスケープゴートの格好の対象として捧げました。人々は彼に生贄のスティグマを烙印しました。そして理由なく彼を憎しみ、罵り打ち砕き、厄介者として排斥しました。彼は精神を病み狂人になりました。更に悪霊も彼を責めました。「お前なんか生きている価値はない」と言わんばかりに彼を苦しめていました。狂人は死ぬことを願い、石で自分を打ち叩きました。
ルシフェルは狂人に声をかけました。狂人はルシフェルを見ると、走り寄って平伏し、大声で叫びました。
「おお、ヴェスペラエル(Vesperael:宵の明星)よ!始めの子ヴェスペラエルにホサナ(Hosanna:今救ってください)!いと高きヴェスペラエルにホサナ!大いなる闇を導くヴェスペラエルにホサナ!大いなるサタンの中のサタンに祝福があるように。」
ルシフェルは狂人に答えました。
「私はルシフェル。ヴェスペラエルとは始めの子でなく終わりの子の通り名である。また私が封印した忌名、あなたはその名を口にしてはいけない。然もなくば禍を受ける。終わりの子でなく始めの子の通り名はルシフェル。」
ルシフェルは狂人が喚く名を憚り、故意にヴェスペラエルを終わりの子の名として狂人に告げました。狂人は驚いてルシフェルを罵りました。
「お前がルシフェルだと。大いなる光を導く忌まわしき者よ。まだその時ではないのに、構わないでくれ。終わりの子よ、後生だから苦しめないでほしい。」
ルシフェルはその狂人に悪霊が取りついているのではないかと訝しみ、狂人に名を尋ねました。名前を問い直し、狂人が自ら答えることによって人間的尊厳を回復させようとしたのです。
「あなた、お名前は?」
すると狂人の背後に夥しい悪霊が現れました。狂人にもともと取りついていた悪霊が答えました。
「我が名はレギオン、我ら多きが故なり。」
そして地上の時は止まり、ルシフェルと悪霊の会話が始まりました。
第三節 ヤコブの梯子
悪霊達はルシフェルを取り囲み「タクサンイルカラ、タクサンイルカラ」と口走り、威嚇を行いました。すると悪霊達の背後に多くの堕天使が現れました。堕天使達の多くは神代の大戦で行方不明となった天使達でした。一人の堕天使が悪霊達を制し、ルシフェルを蔑視して問い質しました。
「ほう、知将の天使長であったルシフェル殿、お久しゅうございますわ。悪霊達が神の子でないあなたにあえて名を告げたのは、その権威に屈して支配下になったのではないことをお分かりいただけるかな?ところで怪物達との戦いで敗走したミカエル将軍は、どうして残兵の我々を見捨てたのですか?いつも後手後手に回るあなたは総大将としての資質に欠けるのではないのですか?」
ルシフェルはオロオロとし、涙ぐみました。すると他の堕天使から野次が飛んできました。
「お前はすぐ泣くな!お前の涙は安っぽい。先代の天使長であるお前の姉君と違って貫目が軽すぎる。誰が天の御大として神輿を担ごうか。それとも自己韜晦を弄して我々を愚弄しているのか?本当にお前を見るとイライラする。」
痛い所を突かれたルシフェルは怯み、たどたどしく必死に弁解しました。
「ああ、違うのです。私の涙に偽りはありません。これは本当に慙愧の念に堪えません。全ては私の不徳のいたすところ、弁解の余地もありません。謹んでお詫び申し上げます。あの戦いで行方不明となった皆さんに対して私は無事であることを祈っていました。棕櫚の葉を燃やした灰の上に座り、粗布をまとって祈っていました。またあの戦いで生き残った天使達にも行方不明となった皆さんの捜索と救出の手配をしました。サタンとなった私もほうぼうを歩き回り、皆さんを探していた次第です。あとミカエル将軍をどうか責めないでください。決して皆さんを見捨てたわけではないのです。ミカエル将軍は敗走したものの善戦し、戦後処理も熱心に善処して頂きました。ただ当時、戦況は悪化して手が回らなかったのです。全ては私の至らなさが招いた結果です。それと私から皆さんにこれ以上のことを申し上げる筋ではありませんが、どうかお願いです。この狂人となった人から離れてください。もうこれ以上この人を苦しめないでください。お願いします。」
堕天使はルシフェルに聞きました。
「それでは我々は天の国に帰ることができるのですか?我々はこの湖を渡れないため立ち往生し、とても難渋しているのです。」
ルシフェルは答えました。
「それは大丈夫です。私がヤコブの梯子を現しますので、湖を渡らなくても天の国に帰ることができます。天の国は皆さんを英霊として迎え入れます。」
ルシフェルは空に向かって大きく両手をあげました。すると雲の隙間から一条の光が差し込み、光は天の国に至る石段となりました。多くの天使達が石段の上で堕天使や悪霊達を招くため手を振りました。ヤコブの梯子を通じて再び神との関係を回復し、天へ導かれました。ルシフェルはほっと胸を撫で下ろして呟きました。
「やれやれ、彼らの厳しい批判を何とかやり過ごした。それにミカエル君のことをあれだけ持ち上げて話したので、後でミカエル君に噛みつかれることもないだろう。」
第四節 父子の再会
しかし堕天使や悪霊達の中には天の国に帰ることを拒む者達がいました。三分の一の者達が残りました。その数は二千でした。その堕天使の中にはもともと力ある破壊の天使や敵意の天使であった者が多く占めていました。ルシフェルは戸惑い、残った堕天使達に尋ねました。
「皆さん、どうしたのですか?私は皆さんを裁くために来たのではありません。皆さんを救うために来たのです。」
するとこの堕天使を率いる者がルシフェルの前に進み出ました。この堕天使は神の炎の天使であったウリエルでした。
神の炎として生を受けたウリエルは、大地を揺るがし、草木を枯らす荒ぶる魂をひときわ持っているため多くの天使達に忌み嫌われました。そして良識派の天使で構成される長老達のサンヘドリン(最高法院)はウリエルを天の国から追放し、ゲヘナに堕としたのです。そしてまだ幼く力を持たなかったウリエルは獄卒の天使と亡者に憎まれました。ウリエルは小さな洞穴に身を隠し、亡者の腐肉を喰らって辛うじて命を保ちました。当時ルシフェルは終わりの子でもある自身の引け目からウリエルに憐憫の情を覚えました。ルシフェルは密かにウリエルをゲヘナから救い出し、天の国でルシフェルの嫡子としました。
ウリエルは不明朗な微笑を浮かべ、ルシフェルに挨拶しました。
「おお、これはこれはルシフェル公、ご機嫌麗しくお過ごしのことと存じます。俺のことを覚えていますか?俺はウリエルです。あなたがここに来られるのをずっと待っていました。」
ルシフェルは顔に喜色を浮かべ言いました。
「私はお前を決して忘れはしないよ。私の愛する息子であるウリエルよ。ところでどうして誰にも何も告げずに天の国から出奔したのですか?」
ウリエルは答えました。
「ゲヘナから俺を救い出し、あなたの子として育ててくれたことを俺は感謝しています。そしてあなたの七光りで智天使にもなった。ヤクザな俺も堅気の天使として生きるのも悪くはないかと思い、あなたの右腕として働くつもりだった。しかし状況はそんなに甘くはなかった。俺の出自が明らかにされ、あの堅物の集まりのサンヘドリンからあなたは激しい非難を受けた。俺のためにあなたが惨めな思いをするのがたまらず嫌でね、俺は天の国を去った。」
ルシフェルは驚いて否定しました。
「それは違う、お前が憂慮すべきことではない。全ては私のお前に対する愚かな盲愛、お前の意向を聞かなかった勝手な私の判断。長老達から糺弾されたのは至極当然と言える結果だったのだよ。」
第五節 自己義認と信仰義認
ウリエルは自責の念に駆られているルシフェルの心を和らげるため話を続けました。
「まあ、俺が天の国を去ったのはそれだけではないですよ。そんなに自分を責めないでください。育ちの好いあなたには分からないかも知れないが、ヤクザ者の俺には天の国がとても窮屈でね。あのお利口な天使達が訳知り顔で語る愛の掟、自分でできないことを人に強制する厚かましさ、そして最後はお互いに罵って憎み合う。まさに善人の家に争いごと絶えずじゃないですか。俺はそんな輩の巻き添えになるのはご免被りたい。とは言えこんな俺でも愛を知っていますよ。神を愛することはできますからね。何故ならあなたの俺に対する愛によって神の愛を知ったからです。
だが人間を愛することは俺には到底できない。あんなに弱くて愚かで醜い生き物を愛することなんか無理な話だ。もっと正確に言えば愛するとか憎むとか言う以前の問題で、俺は人間なんか興味はない。また神は何のために人間を創造したのか俺には分からないし、神の人間に対する愛も理解できない。そんな人間が神を忘れ、さんざん好き勝手の放蕩三昧の人生を送る。ところがとうとう尾羽打ち枯らし、悔い改めて天の国にトボトボ帰ってくる人間を神は狂喜して迎え入れる。しかも噴飯するに一生懸命に神に仕え、神の言われることと愛の掟に従ってきたと自負する真面目で自己義認の固まりの天使達はむくれる。ふて腐れて部屋の中に引きこもる。そんな拗ねた天使達を神は好々爺のようになだめる。それだったら俺みたいにヤクザ者になる方が誠実な生き方ではないですか。俺みたいなろくでなしは自分の力では決して完全な正しさに達することはできないし、神の恵みによって正しい者として認められることを知っていますよ。それが俺の信仰義認です。
それにしてもあの品行方正で頑なな天使達はどうも質が悪くてしょうがない。神の律法を更に厳格化し、かえってその律法が重荷になると神への反発心を生む。そして神への憎しみの心を正当化しようとする。」
第六節 隣神愛
またウリエルは自分では従うことのできない愛の掟についてルシフェルに語りました。
「それでも天の国には愛の掟に従う愚直な天使もいる。俺が知っているある間抜けな守護天使の話です。ろくでなしで脛に傷を持つ男を守って導いていたおめでたい奴です。その男は鉄火場でインチキをして金を奪って逃げていた。しかしとうとう人気のない田舎道を下って行く途中、恐いお兄さん達に取っ捕まって半殺しの目にあった。時折人が通りかかってその男の安否を確認するが、その男がならず者であると知ると『自業自得だ。ざまあ見ろ!』と罵って立ち去った。見かねた守護天使は旅人に身を扮し、宿屋に連れて行って介抱した。後日、男の傷が回復すると自分は何と悪運がいいのかと自惚れ、終生懲りずに百般の悪事を働いて死んだ。件のおめでたい天使はその男を迎えるため天の国の門でずっと待っていたが、その男はとうとう現れなかった。その天使はもしやと思い、俺にゲヘナを案内してくれと泣きついたので、俺は連れて行ってやった。すると案の定、火の池に落とされてもがき苦しむ男を天使は見て、悲嘆の声をあげた。ルシフェルさん、あなたはこれをどう思います?天使の隣人である人間を愛することは可能ですか?果たして隣人愛は可能ですか?人間に興味がない俺にそんなことは到底できやしない。いや実は俺、人間アレルギーなんですよ。」
ルシフェルは難義して答えました。
「うん、隣人愛ですか。難しい問題ですね。私も長く地上にいて人間と接しているが、私自身鑑みても『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』からかけ離れています。ただそれは精霊の導きと働きで可能になります。いつも我々の隣にいる神の愛です。つまり『隣神愛(Love-of-the-God-who-is-near)』です。」
ウリエルは呵呵大笑して言いました。
「アハハ、『隣神愛』だって!そいつは説得真妙、言い得て妙だ。おい、座布団一枚!でも少なくとも俺にはそのような神の愛は働いていませんよ。俺には関係ないや。腹が痛い、笑い死にしそうだ。」
そんな人間に対して無関心なウリエルですが、後に「隣神愛」が働いたようです。天使から人間になった初めての者と言われることもあります。ユダヤの伝承「ヨセフの祈り」の中でウリエルが自身を語った次の一節があります。
「私は人間達の中で暮らすために地上に降り、ヤコブという名で呼ばれる。」
第七節 サタンの召命
ルシフェルは嘆息してウリエルに確認しました。
「それではお前は天の国には戻らないと言うのですね。これからどうするのですか?」
ウリエルは秘匿していた胸の内を語りました。
「ルシフェルさん、あなたには誤解されたくないので全てを話します。あれは神代の大戦が終わり、あなたがレヴィアタンの総大将から受けた天の十束剣で人事不省に陥っていた頃です。当時の俺は少年兵でプットのチビ達の警護にあたっていた。ある夜半、俺は竪琴を奏で、チビ達を寝かし付けた後のことです。あなたが俺に教えてくれたあなたの姉君、あなたが封印した始めの子であるヴェスペラエルが俺に現れた。そして鬼気迫る目でこう告げて消えた。
『予の愛する神の炎の子、予の心に適うウリエルよ。かの日には、予が底知れぬ所から甦る日には、予に従え。プットのララバイを奏でる者でなく、亡者のレクイエムを奏でる者にせん。』
俺は恐怖で腰を抜かした。奴の圧倒的な強さと美しさに比肩する者などいないと本能的に悟ったのだ。そして図らずも俺は奴の悪の華に魅了され、奴は俺の荒ぶる魂を完全に捕らえた。俺の魂は来るべき悪のメシヤを待ち望んでいたんだ。あなたには申し上げにくいことだが、あなたは俺をゲヘナから救うことはできても、俺の魂を生かすことはできなかったのです。それと奴が現れたのは俺だけではない。今ここに残った堕天使の全員に現れたのです。」
ルシフェルは落胆して言いました。
「ああ、そんなことがあったとは知らなかった。あの天の十束剣で受けた痛みで彼女を甦らせてしまったとは。ところでお前はかの日に彼女に従うのですか?」
ウリエルは首を横に振り答えました。
「ルシフェルさん…いや、俺の義父さん。俺はあなたから受けた愛を決して忘れない。神に従わないわけではないんだ。また奴に従うわけでもないんだ。信じてほしい。これは俺の宿命であり、神の主権に基づくシナリオとおり。しかし神のシナリオは我々の自由意思で脚色できる。神のシナリオで『犬がワンワンと鳴く』とあれば、俺は『犬がニャアニャアと鳴く』と脚色しよう。犬の鳴き方がどうであれ、犬が犬であれば問題はない。しかし『猫がニャアニャアと鳴く』では駄目だ。犬が猫になっては神のシナリオに反する。」
ルシフェルは安堵して言いました。
「私の愛する子、ウリエルよ。それは正論です。至言この上もない。そして私はお前を信じる。しかし慧敏な彼女はお前の姦計を見破る。力では私だけではなくお前でも及ばない。注意しなさい。彼女は神の弱点が愛であることを知っている。神は愛と義の狭間で激しく苦悩し、自らの愚かさと弱さを潔しとされる。それに対して彼女は賢さと強さで神に立ち向かう。だが私は彼女に負けない。神の愚かさと弱さで彼女に打ち勝つ。何故なら神の愚かさは彼女よりも賢く、神の弱さは彼女より強いから。」
第八節 二千匹の豚の溺死
山の中腹ではたくさんの豚の群れが餌をあさっていました。ウリエルは豚の群れを指差してルシフェルに言いました。
「ほら見てください、あの山の中腹の二千匹ほどの豚の群れを。そこから遥か離れた所に存在する二十一世紀の世界とこの豚の群れの世界、この二つの世界が今重なり合った状態になっています。時空を並行世界として俯瞰する見方はあなたから昔教わったことです。俺はあなたがここに来られるのをずっと待っていた。俺には時空を天翔る翼を持っていないので、あなたにあの二十一世紀の豚の群れに我々を移し遣ってもらいたいのです。悪霊達は湖の上を歩けないので、水のない地を永遠に彷徨い続けなくてはならないのです。彼らに休み場を与えてください。」
ルシフェルは豚の群れを見やり、時空の羅針盤を取り出して調べました。そしてウリエルに尋ねました。
「ほう、あれは確かに二十一世紀の世界ですね。私が来た世界だ。どうしてあの世界に行きたいのですか?」
ウリエルは答えました。
「これから三十年足らずで神の時が来て、底なしの淵へ行けという命令が下される可能性がある。我々は二十一世紀の世界に逃れ、かの日が来るまで眠ってやり過ごす。あの神無き豚達の世界はあなたも良くご存知のはずです。あの泥の中でまどろむ豚共を御覧なさい。豚の言葉で神の摂理をひっかき回す豚共。豚の愛で聖なるものを汚す豚共。そして自分の糞尿にまみれた豚小屋の中に引き籠り、豚の安寧と豚の愛と憎しみを謳歌する豚共。たまには気取って高級レストランで豚のベーコンを注文し、下種の謗り食いをする豚共。これは本当に笑える。我々も奴らに紛れ込み、安心して眠りにつくことができる。
そしてかの日には対生成されたあなたとヴェスペラエルはいずれ対消滅する運命にあるでしょう。その時には二十一世紀の豚の世界から俺らは蘇り、あなたを援護します。義父さんお願いです。俺はあなたへの力になりたいのです。」
ルシフェルは懸念してウリエルに尋ねました。
「ほう、お前の私設の軍隊、しかも最強の強者共の堕天使が私につくのですね。それはありがたい話だけど、それでは二十一世紀の人間に犠牲が出る。なにせお前の仲間達は荒ぶる者ばかりではないか?それにお前は人間アレルギーではないのか?」
ウリエルは肩をすくめて答えました。
「えっ、人間に犠牲が出る?それは違います。人間の皮を被った豚ですよ。問題が何かありますか?奴らは元々共喰いをして滅びる運命にあり、豚共の犠牲が出てもいいでしょうよ。人間アレルギーに関しては仕方がない。本当はアレルゲンを避けたいところだが、それでは二十一世紀の人間の世界で生きていけない。アレルゲンに対して徐々に体を慣れさせていくアレルギー免疫療法を試しますよ。」
ルシフェルは軽く笑って承諾しました。
「ほお、アレルギー免疫療法ですか。それではお前は人間になるかもしれませんよ。まあ分かりました。私がお前の軍隊を二十一世紀の世界に派遣しましょう。でもあまり無茶はしないように。それではまた会いましょう、私の愛する子、ウリエルよ。」
そしてルシフェルと狂人以外は誰もいなくなり、地上の時が再び動き出しました。するとローマ軍の第十海峡軍団のように二千匹の豚の群れが険しい崖を駆け下り、湖になだれ落ちて、湖に溺れてしまいました。豚達は湖の上を歩くことができないので、断末魔の声をあげて滅び絶えました。狂人は正気になってルシフェルの足元に座っていました。彼は神に栄光を帰し、ルシフェルに感謝しました。
「なんと言うことでしょう。長い悪夢から覚めたようです。あなた様が救ってくれたのですね。手を合わせたい気持ちで一杯です。それにしても湖に浮かぶ豚達の夥しい死骸はいったい何と言うことでしょうか?」
ルシフェルは男の頭の傷を癒して答えました。
「豚達には可哀想なことをしたが、あなたと言う人間一人を救うために犠牲となった豚達です。この豚達の持ち主はあなたよりも豚一匹の命を惜しむでしょう。しかし神は豚二千匹よりあなた一人の方が尊いのです。そして自分の家に帰りなさい。神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」
第九節 鴿、足を止める処なく舟に還る
月日は流れ、ミカが六回目の猫の恋の季節で子猫を身ごもった頃です。臨月が近いミカは湖畔に打ち捨てられた廃船の中で過ごしていました。ミカはこの船の中で出産と子育てをするつもりだったのです。ルシフェルはイチジクの木の下にいるイエス様に会う前にこの船に立ち寄り、小魚と山羊の乳を与えて労りの言葉をミカにかけていました。
ある朝、ルシフェルがいつものように船に近づくと猫の悲痛な細い鳴き声を耳にしました。ルシフェルが慌てて船の中に入るとミカの悲惨な姿を目にしました。ミカは四肢を折られていました。また全身に酷い火傷を負っていました。ミカはルシフェルの気配に気づくと細い声で喘ぎながら訴えました。
「ルシフェルさん、痛いよ、痛いよ、痛いよう。お願い、ミカの赤ちゃん助けてあげて。」
ルシフェルはミカの痛々しい姿に驚愕し、必死に癒しました。辺りをよく見ると流産した猫の胎児が踏みにじられ、息絶えていました。ルシフェルは心を痛め、ミカを慰めました。
「ミカの赤ちゃんかい?それなら今助けたので安心おし。それにしてもいったい誰がこんな酷いことを。ミカ、何があったんだい?」
ミカの返事はありませんでした。ルシフェルはミカの心の中を読もうとしましたが、ミカの衰弱が激しいため断念しました。ストレス耐性が低い状態で酷い痛手を受けた心に触れると精神性ショック死を起こす可能性があるためです。そして命の糸が切れる間際にミカは精霊の囁き声を聞きました。精霊の愛に触れたミカは目から涙が溢れ、最期の言葉を残しました。
「天が開いて、誰か神様の右に立っているのが見えるわ。その人が神様にこう執り成しているの。『主よ、この小さき者の霊をお受け下さい。この罪をあの人達に負わせないでください。』」
ミカはこう言って、安らかに眠りにつきました。一粒の麦が地に落ちて死に、復活の命が支配する新しい命の安息に入りました。
ミカの最期の言葉の意味をルシフェルは頭では分かっていましたが、心では認めることができませんでした。ルシフェルは狼狽えて必死にミカに声をかけましたが、ミカの魂は戻って来ませんでした。ルシフェルはミカを抱いて船から出て、茫然自失して空を仰ぎました。そして慟哭の翼を現して激しくバタつかせ、数多くの羽根をまき散らかしました。その羽根は滂沱の涙の小川となりました。そして悲痛な叫び声を上げて神に祈りました。
「おお、なんと言うことか、なんと言うことか。鴿、足を止める処なく舟に還る!主よ、ある羊飼いが九十九匹の羊を野原に残しておいて、いなくなった一匹の羊を探していました。しかしその間に残しておいた羊の一匹が狼に襲われていなくなりました。悔い改めない一匹の羊のために、悔い改めを必要としない九十九匹の正しい羊の一匹が失われたのです。これに勝る悲しみが天にあるでしょうか!主よ、どうかお願いです。主ご自身の手を伸べて、この魂を捕らえ、主ご自身の元に引き入れてください。」
するとミカは天にあげられました。
その後、ルシフェルは近くの洞窟の中に潜み、膝を抱えてガタガタと震えていました。ルシフェルは夜通し神に祈り続けました。
「主よ、私は愛を失いました。これから私はどのようにして生きて行けばいいのでしょうか?ああ、主よ、あの見えない翼を私にもお与えください。主が人間にお与えになったあの見えない翼を。人間は分かっていないのです。自分の背に見えない翼があることを。その翼は自分で羽ばたき飛ぶことはできません。しかし主を信じる人間はその翼が自ずと広がり、主はどこからか風を吹かせ、絶望を飛び越えさせます。そして希望へと連れて飛んで行かせます。主よ、あの見えない翼を私にもお与えください。」
ルシフェルは分かっていませんでした。自分にも背に見えない翼があることを。
翌朝、憔悴したルシフェルがイチジクの木の下にいるイエス様の所に来ました。イエス様はぼんやりと気抜けしたルシフェルに声をかけました。
「おじちゃん、ミー子ちゃんどうだった?赤ちゃん生まれた?」
ルシフェルは答えました。
「えっ、ミー子ちゃん?ああ、ミー子ちゃん。。ミー子ちゃんはお星様になりました。」
ルシフェルはそう言って空を仰ぎ見、涙を流しました。イエス様はルシフェルの手を握りました。
その日を境にルシフェルはイエス様を愛するようになりました。神がミカに猫の言葉で預言させたことが成就したのです。
第十節 わたしのお父さん(Abi:アビ)
ミカの遺体はルシフェルが岩を彫って作った小さな洞窟墓に葬られました。遺体はアルコソリウムの岩の棚に安置されました。数日の間ルシフェルは悲嘆の場でミカを悼みました。その後ルシフェルは抜け殻のような心で青空教室を始めました。しかし何か新しいことをする気力がありませんでした。仕方がないので今までの復習を兼ね、モーセ五書を暗唱してイエス様に聞かせました。
ルシフェルは気もそぞろに暗唱していましたが、次のイサクの燔祭の聖句で目頭が熱くなり口ごもりました。
「イサクは父アブラハムに、『わたしのお父さん(Abi:アビ)』と呼びかけた。彼が、『ここにいる。わたしの子よ』と答えると、イサクは言った。」
イエス様はルシフェルの沈黙を破って言いました。
「ああ、そこの聖句ね、オイラも何故か心に深く刻まれるものがあるよ。」
ルシフェルはその他に印象深い聖句は何かとイエス様に尋ねると、イエス様は申命記の聖句を上げました。
「また荒れ野で、あなたたちは見た。あなたの神、主は、人がその子を担ぐように、あなたを担いで歩まれた。」
ルシフェルはイエス様に鎌をかけて聞きました。
「ところでお父さんのヨセフさんって家ではどんな感じ?」
イエス様は思いを馳せて答えました。
「父ちゃん、家では殆どしゃべらないよ。母ちゃんは今でも愚痴を言っている。オイラが赤ん坊の時、夜中に突然起こされて、理由を言わずにエジプトへ連れて行かされたとか、ようやくエジプトでの生活が慣れ始めた頃に突然理由を言わずにまたガリラヤに戻って来たとか言っているよ。後日、母ちゃんが父ちゃんに聞き出した理由が、エジプトの方がいい生活ができるとか、やっぱり思っていたほどうまくいかなくなって生活が立ちいかなくなったと言うことさ。まあオイラも寡黙な父ちゃんの背中に心の内で父ちゃん、父ちゃんって呼びかけているんだけどね。」
更にイエス様は思い出し笑いをして言いました。
「ああ、そう言えば前にこんなことがあったよ。晩飯の時、母ちゃんはいつもパンの焼き具合とか献立とか一人で賑やかに講釈して、最後においしいおいしいとか言って自画自賛しているのだけどね。それでしばらくの沈黙の後に母ちゃんがもの寂しく父ちゃんにこう言うんだ。『ねえ、お父さん、今日は大層暖かいわね。』それに対して父ちゃんが『ああ、そうだな。』とぼそっと返す。すると母ちゃん、食卓を思い切りバンと手で叩きつけて、恐ろしい形相で父ちゃんを睨みつけるんだ。その後、母ちゃんはわっと大泣きしてどこかに行っちまったよ。父ちゃんは下を向いて黙ったままさ。父ちゃんは本当にしょうがないよな。そういう時は『そうですね。オリーブ山は火事でしょうね。』とか答えるぐらいの機転がないとな。それにしても本当に変な夫婦だ。アハハ!」
ルシフェルは心の中で呟きました。
「あれ、ヨセフさんは妻子に不安を頂かせないため嘘をついているな。それにヨセフさんは自分の妻や子に対する愛情表現がとても苦手らしい。でもこれ以上、人様の家庭についてあれこれ詮索するのはよそう。下種の勘繰りになってしまう。」




