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役立たず薬師として追放された私ですが、 疫病を止められたのは「初期だけ」でした ~今さら王都に戻れと言われても、もう遅い~

作者: 猫又ノ猫助
掲載日:2026/03/19

 リーナ・ヴァイスは、自分が王都薬師団の中で「いてもいなくても同じ存在」だということを、よく理解していた。


 特別な家柄でもない。

 目を引く容姿でもない。

 誰かに強く主張できるような自信もない。


 あるのは、薬棚の整理と、患者の記録を黙々と書き写す作業に慣れきった指先だけだった。


 王都薬師団本部は、白い石で造られた壮麗な建物だ。

 高い天井、磨き上げられた床、壁に並ぶ歴代薬師長の肖像画。

 だが、リーナの居場所は、そのどれとも無縁だった。


 彼女に与えられている机は、廊下の突き当たりにある小部屋の片隅。

 光の入りにくい場所で、書類と記録簿に囲まれて一日を過ごす。


 それが、彼女の日常だった。


 ――本当は、分かっている。


 この仕事は「誰でもいい」のだ。

 だからこそ、彼女が任されている。


 薬師団が誇る上級薬師たちは、今日も診察室で声高に議論を交わしていた。


「症状が出てからでは遅い? そんな悠長な話をしている場合か!」


「重要なのは即効性だ。熱を下げ、痛みを抑え、動けるようにする。それで十分だろう」


 廊下越しに聞こえてくる声に、リーナはペンを走らせながら、そっと視線を落とした。


 彼らの言うことも、間違いではない。

 目の前で苦しむ患者を楽にすることは、確かに重要だ。


 けれど――。


 リーナは、記録簿の端に小さく書き添えた文字に、指を止めた。


 〈発症三日前より、同様の食事内容〉

 〈家系内に、過去同症例あり〉

 〈症状軽減後、二週間で再燃〉


 誰にも注目されない、小さな記録。

 だが、彼女にとっては、そこにこそ意味があった。


 薬で症状が治まっても、また同じ患者が戻ってくる。

 同じ訴えを、同じ表情で。


 ――それは、本当に「治っている」と言えるのだろうか。


 その疑問を、口にしたことは一度もない。


 言えば、決まってこう返されるのを、彼女は知っていたからだ。


「余計なことを考える暇があるなら、手を動かせ」


「君は診断係ではない。分を弁えたまえ」


 そして今日も、リーナは薬棚の前に立っていた。


 整然と並んだ瓶を拭き、在庫を確認し、使用期限を書き直す。

 単純で、誰にでもできる作業。


 その背後から、重々しい足音が近づいてきた。


「……まだ終わっていないのか」


 低く、苛立ちを含んだ声。


 振り返ると、そこに立っていたのは薬師団副団長だった。

 高価な外套を纏い、眉間に深い皺を刻んでいる。


「申し訳ありません。もう少しで――」


「言い訳はいい」


 彼は、リーナの手元を一瞥し、鼻で笑った。


「まったく……こんな雑務に時間をかけるから、いつまで経っても役に立たないんだ」


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 けれど、リーナは何も言わなかった。


 ただ、小さく頭を下げる。


「……失礼いたしました」


「次の会議までに、この疫病の患者記録をまとめておけ。

 どうせ、君にできるのはそれくらいだろう」


 そう言い捨てて、副団長は踵を返した。


 その背中を見送りながら、リーナは静かに息を吐く。


 ――やっぱり、そうなのだ。


 彼女は「役立たず」。

 薬師団にとって、価値のない存在。


 それでも。


 机に戻り、積み上げられた記録簿を手に取ったとき、リーナの目はわずかに揺れた。


 疫病と呼ばれている、この奇妙な症状。

 発症する者と、そうでない者。

 軽く済む者と、命を落とす者。


 その違いは、あまりにもはっきりしすぎている。


(……偶然、なわけがない)


 誰にも聞かれないよう、リーナは心の中で呟いた。


 まだ、この時点では。

 彼女自身も知らなかった。


 この「誰にも価値を認められない日々」こそが、

 やがて国を揺るがす分岐点になるということを。



 疫病は、静かに、しかし確実に広がっていった。


 最初は、ただの流行病だと考えられていた。

 季節の変わり目によくある、発熱と倦怠感。

 数日寝込めば回復する――はずだった。


 だが、回復しない患者が出始めた。


 同じ薬を投与している。

 同じ治療を施している。

 それでも、ある者は立ち上がり、ある者は衰弱していく。


 王都薬師団の診察室は、日に日に騒がしさを増していた。


「次は、第三区画からの患者だ!」

「また高熱だ、解熱剤を倍量で出せ!」

「記録は後だ、今は数を捌け!」


 怒号と足音が飛び交う中、リーナは壁際に控え、運び込まれてくる患者の顔を一人ひとり見つめていた。


 汗に濡れた額。

 震える指先。

 浅く、乱れた呼吸。


 そして――皮膚の色。


(……やっぱり)


 胸の奥で、小さな違和感が形を持ち始めていた。


 症状の重い患者には、ある共通点がある。

 それは、薬の効き方ではなく――体そのものだ。


 リーナは記録簿を抱え、診察室の隅で静かに筆を走らせた。


 〈発症者の多くが、特定の家系に集中〉

 〈同じ治療を行っても、回復速度に大きな差〉

 〈症状軽減後、一定期間で再燃〉


 だが、その記録が誰かの目に留まることはなかった。


「リーナ、何をしている」


 背後から声をかけられ、彼女ははっと顔を上げた。


 そこに立っていたのは、薬師団副団長と、第一王子の側近だった。

 どちらの表情も、苛立ちと焦りを隠そうともしていない。


「記録の整理を……」


「そんなものは後回しだ」


 副団長は吐き捨てるように言った。


「今は一人でも多く、動ける患者を増やすのが先だ。君のその“観察”とやらは、何の役に立つ?」


 リーナは言葉を探した。


 今なら、言えるかもしれない。

 この疫病は、単なる感染症ではない可能性があること。

 体質と生活が深く関わっていること。


 けれど――。


「……失礼しました」


 結局、彼女の口から出たのは、それだけだった。


 王子の側近が、冷ややかな視線を向ける。


「役に立たない薬師に構っている暇はない。王子殿下も、この状況を快く思ってはいないのだ」


 その言葉に、診察室の空気が一段と重くなる。


 その日の夕刻、最悪の報せがもたらされた。


 王都西区で、重症患者が急増。

 しかも、その中には――貴族の子息が含まれていた。


「なぜだ……!」

「これだけ手を尽くしているのに……!」


 上級薬師たちの声が、焦燥に染まっていく。


 そして、いつの間にか。

 その視線は、一点に集まっていた。


 ――記録係の、地味な薬師。


 リーナ・ヴァイス。


「そういえば、疫病の初期対応をまとめていたのは、君だったな」


 副団長の声が、妙に落ち着いて響いた。


「え……?」


「君の報告書だ。あれを元に治療方針を決めた。違うか?」


 違う。

 彼女は、そんな権限を与えられていない。


 だが、その場で反論する者はいなかった。


「もし、判断に誤りがあったのなら……」

「責任を取る者が必要だな」


 誰かが、そう呟いた。


 その瞬間、リーナは悟った。


(……ああ)


 これは、もう。

 薬の話ではない。


 責任の行き先が、決まってしまったのだ。


 リーナは、そっと記録簿を胸に抱きしめた。


 そこに書かれた小さな文字たちは、今日も誰にも読まれない。

 けれど――それでも。


(間違っているのは、私じゃない)


 そう、初めて。

 彼女は、心の中でだけ、はっきりと断言していた。



 正式な会議が開かれると知らされたのは、その翌朝だった。


 場所は王都薬師団本部の大会議室。

 普段は式典や報告に使われる、重苦しい空間。


 リーナ・ヴァイスは、最も端の席に座っていた。


 白い長机の向こうには、薬師団幹部たち。

 さらにその奥、ひときわ高い位置に、第一王子の代理として王族の紋章を背負った男が座っている。


 その場にいる誰もが、彼女を見ようとはしなかった。


「――では、本題に入ろう」


 副団長が、低く咳払いをして口を開く。


「今回の疫病拡大についてだ。被害は王都全域に及び、すでに貴族階級にも重症者が出ている」


 沈黙が落ちた。


 誰もが分かっている。

 この会議は、原因究明のためではない。


「我々は最善を尽くした。あらゆる薬を用い、医療資源を動員した。それでも状況は好転していない」


 副団長の視線が、ゆっくりと動く。


 そして――止まった。


「……だが、一つ、問題があった」


 その言葉と同時に、数人の幹部が一斉にリーナを見た。


 まるで、合図でもあったかのように。


「疫病初期にまとめられた治療方針案。その基礎資料を作成したのは、誰だったか」


 一瞬、息が詰まる。


 リーナは、静かに立ち上がった。


「……私です」


 声は、思ったよりも落ち着いていた。


 会議室の空気が、ざわりと揺れる。


「やはりな」

「最初からおかしいと思っていたんだ」

「下級薬師の分際で、余計な観察などを……」


 小声の囁きが、次々と重なる。


 副団長は、それを制することもなく続けた。


「君の報告には、体質や生活習慣といった、根拠の曖昧な内容が多く含まれていた。それが、判断を誤らせた可能性は否定できない」


 否定できない。

 ――それは、証明されたという意味ではない。


 だが、ここでは十分だった。


「……」


 リーナは、何も言わなかった。


 言葉を尽くせば、議論になる。

 議論になれば、証拠を求められる。


 そして彼らは、最初からそれを求めていない。


「責任は、誰かが取らねばならない」


 王族の代理が、淡々と告げた。


「国民の不安を鎮めるためにも、象徴が必要だ」


 象徴。

 その言葉が、静かに胸に落ちる。


「よって、王都薬師団は決定した」


 副団長が、書類を一枚取り上げる。


「リーナ・ヴァイス。君を、薬師団から除名する」


 空気が凍りついた。


「併せて、王都滞在の資格を剥奪。辺境の薬草院への配置転換を命ずる」


 それは、実質的な追放だった。


 研究も。

 診察も。

 この場所で積み上げてきた、ささやかな日々すら。


 すべて、ここで終わる。


「異議はあるか」


 形だけの問い。


 リーナは、ゆっくりと首を横に振った。


「……ありません」


 その声は、震えていなかった。


 副団長は、どこか安堵したように頷く。


「ならば、これにて決定とする」


 会議は、それで終わった。


 誰も、彼女を引き留めなかった。

 誰も、彼女の記録に目を通そうともしなかった。


 会議室を出るとき、リーナは一度だけ振り返った。


 長い机。

 高い椅子。

 誇らしげに掲げられた薬師団の紋章。


(……ここでは、駄目だった)


 ただ、それだけのことだ。


 廊下を歩きながら、彼女は胸の奥に手を当てた。


 怒りは、なかった。

 悲しみも、意外なほど薄い。


 代わりに、静かな確信があった。


(私の見てきたものは、間違っていない)


 誰が否定しようと。

 どんな結論を下されようと。


 この疫病は、まだ終わっていない。


 そして――。


 彼女がここを去ることで、事態が良くなることも、決してない。


 リーナ・ヴァイスは、そのことを、誰よりも正確に理解していた。



 辺境の薬草院は、王都とは比べものにならないほど静かだった。


 人の出入りは少なく、建物も古い。

 石壁には蔦が這い、風が吹けば軋む音がする。


 それでも――。


 リーナ・ヴァイスは、この場所に足を踏み入れた瞬間、胸の奥がわずかに緩むのを感じていた。


 ここには、急かす声も、責任を押し付け合う視線もない。

 あるのは、薬の匂いと、ゆっくりと流れる時間だけだった。


「今日から、こちらで働いてもらう」


 薬草院の管理を任されている老薬師は、淡々とそう告げただけだった。

 追放された理由も、王都での立場も、彼は一切気にしない様子だった。


「診察室はあそこだ。患者は多くないが、一人ひとりが重い事情を抱えている」


「……分かりました」


 それで十分だった。


 最初の数日は、薬草の整理と、簡単な診察に追われた。

 怪我、慢性的な痛み、長引く熱。


 だが、王都とは決定的に違う点が一つあった。


 患者が――何度も、同じ顔で訪れるのだ。


「薬を飲むと、少し楽になるんです。でも、数日経つとまた……」


「前と同じような熱が出まして」


 リーナは、その言葉を聞き流さなかった。


 診察を終えたあと、彼女は必ず患者に問いかけた。

 何を食べているのか。

 どんな仕事をしているのか。

 家族に、同じ症状の者はいないか。


 それは、王都では「無駄」と切り捨てられた問いだった。


 夜、記録簿に向かいながら、リーナは静かに考える。


(やっぱり……)


 疫病と呼ばれていた症状と、ここで診ている患者たち。

 共通しているのは、病そのものではない。


 体の中で、何かが起きている。


 薬を飲めば、一時的に楽になる。

 だが、それは「原因」に触れていない。


 数週間後。

 リーナは、ある確信にたどり着いていた。


 この病は、外から入ってくる毒ではない。

 体の中で、条件が揃ったときに――作られてしまうものだ。


 特定の体質。

 特定の食事。

 そして、時間。


(だから、初期なら抑えられる)


 症状が軽いうちに、流れを断てばいい。

 だが、進行してしまえば、臓器そのものが壊れる。


 壊れたものは、戻らない。


 それは、どれほど薬学が進んでも変わらない現実だった。


 リーナは、薬棚から数種の薬草を取り出した。

 どれも、王都では「効果が薄い」と切り捨てられていたもの。


 だが、彼女は知っている。


 これは、治すための薬ではない。

 進ませないための補助だ。


 調合は、慎重だった。

 量ではなく、使う時期が重要だからだ。


 最初の患者にそれを用いたのは、発症から三日目の男性だった。


 三日後。

 熱は下がり、再発もしなかった。


 一週間。

 二週間。


 症状は、戻らない。


 リーナは、静かに記録を重ねていく。


 成功例。

 失敗例。

 使えた条件と、使えなかった条件。


 それは、派手さのない作業だった。

 だが――。


(……これが、答え)


 彼女は、確信していた。


 王都に戻れと言われても、この方法は使えない。

 なぜなら――。


 これは、初期でなければ意味を持たない。


 そして、王都の疫病は。

 すでに、その段階を過ぎつつあった。


 辺境の夜は、静かだった。


 薬草院の窓から見える星を眺めながら、リーナは小さく息を吐く。


 怒りは、もうない。

 あるのは、ただ一つ。


 自分が見つけた、この答えを。

 必要とする人にだけ、使うという決意だった。



 辺境に、見慣れない馬車が到着したのは、ある晴れた朝だった。


 王都の紋章でもない。

 かといって、商人のものとも違う。


 深い藍色の地に、銀の意匠が施されたそれは、明らかに「公的」なものだった。


「……客、ですか?」


 薬草院の老薬師が首を傾げる。


 リーナ・ヴァイスは、手を止めずに答えた。


「ええ。多分、私です」


 そう言い切れる理由が、あった。


 ここ数週間。

 辺境の患者の症状は、明らかに変わっていた。


 同じ病名。

 同じような初期症状。


 それでも――重症化しない。


 その事実は、ゆっくりと、しかし確実に外へ漏れていく。

 薬草の取引を通じて。

 行商人の噂話として。


 馬車から降りてきたのは、二人の男だった。

 一人は書記官。

 もう一人は、無駄のない動きと、鋭い視線を持つ人物。


「リーナ・ヴァイス殿で間違いありませんか」


「はい」


 男は、名乗った。


「私は隣国ヴァルディア王国宰相補佐官。こちらは、我が国の宰相――ユリウス・フォン・クロイツ」


 その名を聞いて、老薬師が息を呑む。


 だが、リーナは驚かなかった。

 ただ、その視線を静かに受け止めた。


「突然の訪問をお詫びします」


 宰相ユリウスは、淡々と告げる。


「貴女が治療に関わった患者について、いくつか調査を行いました。その結果――我が国で発生している疫病と、極めて高い一致を確認しています」


 その言葉に、リーナの胸が静かに鳴った。


 ――やはり。


「王都では、既存の治療が効果を失い始めています」


 ユリウスは感情を交えず、事実だけを述べる。


「しかし、貴女が関わった患者は、再発していない。重症化もしていない」


「……初期だったからです」


 リーナは、そう答えた。


「進行していなければ、抑えられます。けれど、それ以上なら……」


 彼女は、言葉を切った。


 宰相は、わずかに目を細める。


「その“以上”について、詳しく」


 試すような問い。

 だが、圧はなかった。


 リーナは、これまでと同じように、静かに説明した。

 体質。

 生活。

 時間。


 治せる段階と、治せない段階。


 それは、王都では一度も聞き入れられなかった話だ。


 だが、ユリウスは遮らなかった。

 ただ、黙って耳を傾ける。


 説明が終わったあと、彼は一つだけ問うた。


「もし、我が国で治療を任せた場合。条件は?」


「……初期患者のみです」


 即答だった。


「進行した患者は、救えません。薬を投与しても、意味がない」


 宰相は、短く頷いた。


「正直だ」


 それが、評価だった。


「リーナ・ヴァイス。貴女に、我が国への同行を願いたい」


 老薬師が驚きの声を上げる。


 だが、リーナはすぐに答えなかった。


「……私には、王都を追われた身分があります」


「承知しています」


 ユリウスは、即座に返した。


「だからこそ、です」


 その言葉は、静かだったが、揺るぎがなかった。


「評価されなかった能力は、能力がなかったのではない。見る目がなかっただけだ」


 リーナは、初めて、わずかに目を伏せた。


 胸の奥で、何かがほどける感覚があった。


「お返事は、急ぎません」


 宰相は言う。


「ただ――我が国では、貴女の判断を尊重します。治せないものを、治せとは言わない」


 それは、何よりの条件だった。


 その夜。

 リーナは、薬草院の窓辺に立ち、星を見上げていた。


 王都を去ったあの日。

 すべてを失ったと思っていた。


 けれど。


(……私は、間違っていなかった)


 そう思えたことが、何より大きかった。


 翌朝。

 リーナ・ヴァイスは、辺境の薬草院を後にした。


 自分の答えを、正しく使ってくれる場所へ向かうために。



 隣国ヴァルディア王国の王都は、王都薬師団とは違う意味で緊張に包まれていた。


 疫病の流行は、すでに公にはされていない。

 だが、城の奥。

 貴族の屋敷。

 王宮に近い医療施設。


 そこでは、確実に患者が増えていた。


 リーナ・ヴァイスが最初に通されたのは、簡素な診察室だった。


「重症者はいません」


 宰相ユリウスは、静かに言った。


「今のところは、ですが」


 その言葉に、嘘はない。

 だが、安堵も含まれていなかった。


「条件は、守られていますか」


「ええ。貴女が示した通り、発症から日が浅い者のみです」


 リーナは、短く頷いた。


 それでいい。


 診察は、想像していたよりも地味だった。

 劇的な回復も、奇跡の瞬間もない。


 あるのは、観察と確認だけ。


 脈。

 皮膚の色。

 呼吸の深さ。


 そして、問診。


「昨日、何を食べましたか」

「同じ症状の方は、ご家族にいらっしゃいますか」


 患者たちは戸惑いながらも、正直に答えた。


 リーナは、記録を取りながら静かに判断していく。


 ――これは、間に合う。

 ――これは、様子を見る。

 ――これは……。


 彼女は、一人の患者の前で、わずかに手を止めた。


「この方は?」


「三日前に発熱。昨日から意識が朦朧としています」


 リーナは、静かに首を横に振った。


「……治療対象から外してください」


 周囲が、息を呑む。


「なぜですか」


 医師の一人が、抑えた声で問う。


「この段階では、流れを止めても意味がありません。体が、すでに壊れ始めています」


 その言葉は、冷酷に聞こえたかもしれない。


 だが、リーナの声には、迷いがなかった。


 無理に薬を使えば、かえって苦しませる。

 それは、救いではない。


 治療は、計画通り進んだ。


 初期患者にのみ、補助的な処方を行う。

 生活指導。

 経過観察。


 三日後。

 一週間後。


 熱は下がり、再発は見られなかった。


「……抑えられています」


 王国医師団の一人が、驚きを隠さずに呟いた。


「完全に治ったわけではありません」


 リーナは、淡々と訂正する。


「進行を止めただけです。でも、それで十分です」


 十分。

 その言葉の意味を、ここにいる全員が理解していた。


 宰相ユリウスは、治療の一部始終を、黙って見ていた。


 最後の患者を診終えたあと、彼は一歩前に出る。


「一つ、確認したい」


「はい」


「貴女の方法では……王都で発症している重症者は、救えない」


 それは、問いではなかった。

 確認だ。


 リーナは、目を伏せずに答えた。


「救えません」


 その場が、静まり返る。


「それでも、貴女はこの方法を選ぶ」


「はい」


 治せないと分かっていることに、手を出さない。

 それもまた、医療だ。


 ユリウスは、ゆっくりと頷いた。


「理解した」


 それだけだった。


 だが、その一言には。

 評価も、信頼も、すべてが含まれていた。


 その夜。

 リーナは、王都から届いた報告書に目を通していた。


 重症者、増加。

 貴族階級にも拡大。


 そして――第一王子、倒れる。


 リーナは、静かに紙を置いた。


(……もう、遅い)


 それは、冷たい断定だった。


 だが、同時に。

 彼女がこの数ヶ月、積み重ねてきた判断の、必然的な結論でもあった。



 王都からの使者が到着したのは、治療が一段落した翌日のことだった。


 隣国ヴァルディア王国の王城に、急ぎの来訪者がある。

 そう告げられたとき、リーナ・ヴァイスは、すでに察していた。


 遅すぎたのだ、と。


 使者は、王都薬師団の正式な紋章を掲げていた。

 かつて、彼女が毎日目にしていたもの。


 だが、今はもう。

 それは、懐かしさよりも、距離を感じさせる印だった。


「リーナ・ヴァイス殿」


 使者は、丁寧すぎるほどの礼を取った。


「王都にて、疫病の状況が急変しております。つきましては――」


 その言葉の続きを、彼女は待たなかった。


「戻ってこい、という話ですね」


 使者は、一瞬言葉に詰まった。


「……はい」


 否定できない。

 否定するつもりもない。


 王都では、すでに第一王子が倒れている。

 薬師団も、もはや手詰まりだ。


 それは、リーナが誰よりも理解していた。


「王子殿下は、現在も高熱と意識障害が続いております」


 使者の声は、かすかに震えていた。


「王族医師団、薬師団ともに、あらゆる手を尽くしました。しかし……」


 しかし、の先は言わなかった。

 言う必要がなかったからだ。


 リーナは、静かに目を閉じた。


 頭に浮かぶのは、王都で見てきた症例。

 進行の速さ。

 再発の頻度。


 そして――時間。


(もう、初期ではない)


 結論は、最初から変わらない。


 目を開き、彼女は使者を見た。


「条件は、守られていません」


「……」


「私は、初期の患者しか診ないと伝えていたはずです」


 使者は、唇を噛みしめた。


「承知しております。しかし……それでも、殿下だけでも」


 その言葉は、命令ではなかった。

 懇願に近い。


 リーナの胸が、わずかに痛んだ。


 救えたかもしれない命。

 もっと早く、聞く耳を持っていれば。


 けれど――。


「殿下の症状は、すでに進行段階に入っています」


 彼女の声は、冷静だった。


「流れを止めても、意味がありません。体は、壊れ始めています」


 使者の顔色が、はっきりと変わる。


「……それでも、診ていただくことは」


「できません」


 きっぱりとした否定。


 その場に、重い沈黙が落ちた。


 宰相ユリウスが、一歩前に出る。


「彼女の判断は、我が国の公式見解でもある」


 低く、揺るぎない声。


「治せないものを、治せと命じることはしない」


 使者は、深く頭を下げた。


「……承知しました」


 それが、限界だった。


 使者が去ったあと。

 リーナは、しばらくその場を動けずにいた。


 選ばなかった道。

 救えなかった命。


 それでも。


「後悔は、していないな」


 ユリウスの問いに、彼女はゆっくりと頷いた。


「……はい」


 それが、医療者としての答えだった。


 夜。

 リーナは、机に向かい、記録を閉じた。


 王都の疫病は、もう彼女の手を離れた。

 だが、それは――。


 彼女が間違っていたからではない。


 時間を、失ったからだ。


 その事実だけが、静かに残っていた。



 王都から届いた報せは、簡潔だった。


 第一王子、容体悪化。

 意識回復せず。

 医師団、対応不能。


 それだけで、十分だった。


 リーナ・ヴァイスは、書簡を読み終えると、静かに机の上に置いた。


 驚きはない。

 動揺もない。


 ただ――確認だった。


(やはり、間に合わなかった)


 宰相ユリウスが、彼女の様子を見て、低く声をかける。


「診に行く必要は、あるか」


 問いは短い。

 だが、その裏に含まれる意味は重い。


 リーナは、少しだけ考えた。


「……診断だけなら」


 治療ではない。

 救命でもない。


 事実を、確かめるためだけの訪問。


 それを、ユリウスは理解した。


「手配しよう」


 王都への道は、以前よりも静かだった。


 かつて感じていた圧迫感はない。

 見慣れたはずの城門も、どこか遠い。


 王城の医療棟に通されると、空気は重く澱んでいた。


 廊下の先。

 一室の前で、足を止める。


 そこに立っていたのは、王都薬師団副団長だった。


「……来たのか」


 その声には、かつての威圧はなかった。


 疲労と、後悔だけが滲んでいる。


 部屋に入ると、強い薬の匂いが鼻を突いた。


 第一王子は、静かに横たわっていた。

 呼吸は浅く、不規則。


 リーナは、近づき、淡々と観察する。


 皮膚の色。

 脈の乱れ。

 反応の鈍さ。


 数分で、すべてが分かった。


「……どうだ」


 副団長が、掠れた声で問う。


 リーナは、ゆっくりと顔を上げた。


「発症初期であれば、治療は可能でした」


 その言葉に、誰かが息を呑む。


「体質と、食事と、時間。その条件が揃えば、進行は止められた」


 静かな声。

 責める響きは、ない。


「ですが――」


 彼女は、視線を戻した。


「今は、臓器が広範囲に損傷しています。流れを止めても、意味がありません」


 それは、診断だった。


 副団長は、膝から崩れ落ちそうになり、壁に手をついた。


「……では、最初から」


「ええ」


 リーナは、遮らずに答える。


「もっと早く、生活と体質を見るべきでした。症状だけを抑え続けたことで、時間を失いました」


 沈黙が、部屋を満たす。


 その中で、彼女は最後の言葉を告げた。


「治せたはずの病でした」


 一拍。


「……あなた方が、私を切り捨てなければ」


 それ以上、何も言わなかった。


 必要な言葉は、すべて伝えた。


 王城を出たとき、夕暮れが空を染めていた。


 ユリウスが、隣を歩く。


「後悔は」


「ありません」


 即答だった。


「私は、できることをしました。できないことに、手を出さなかっただけです」


 それでいい。

 それが、医療者としての線だった。


 王都を離れる馬車の中。

 リーナは、窓の外を見つめながら、小さく息を吐く。


 かつて、価値がないと言われた日々。

 追放されたあの瞬間。


 すべてが、ここへ繋がっていた。


 隣国に戻れば、患者が待っている。

 初期の段階で、救える命が。


 リーナ・ヴァイスは、もう振り返らなかった。


 過去ではなく、

 選ばれた未来のために。


 それが、彼女の出した答えだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


本作は「治せなかった」のではなく、

「治せる時間を失ってしまった」病をテーマに書いています。


医療や薬学の描写は、あくまで物語としての表現であり、

実際の医療行為や治療法を示すものではありませんが、

「病気にはタイミングがある」「判断には線引きが必要」という考え方は、

現実の医療にも通じる部分があると感じています。


主人公リーナは、感情で復讐をするのではなく、

自分の専門と判断を貫いた結果として、

静かな結末にたどり着きます。

それが少しでも印象に残っていただけたなら幸いです。


ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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