役立たず薬師として追放された私ですが、 疫病を止められたのは「初期だけ」でした ~今さら王都に戻れと言われても、もう遅い~
リーナ・ヴァイスは、自分が王都薬師団の中で「いてもいなくても同じ存在」だということを、よく理解していた。
特別な家柄でもない。
目を引く容姿でもない。
誰かに強く主張できるような自信もない。
あるのは、薬棚の整理と、患者の記録を黙々と書き写す作業に慣れきった指先だけだった。
王都薬師団本部は、白い石で造られた壮麗な建物だ。
高い天井、磨き上げられた床、壁に並ぶ歴代薬師長の肖像画。
だが、リーナの居場所は、そのどれとも無縁だった。
彼女に与えられている机は、廊下の突き当たりにある小部屋の片隅。
光の入りにくい場所で、書類と記録簿に囲まれて一日を過ごす。
それが、彼女の日常だった。
――本当は、分かっている。
この仕事は「誰でもいい」のだ。
だからこそ、彼女が任されている。
薬師団が誇る上級薬師たちは、今日も診察室で声高に議論を交わしていた。
「症状が出てからでは遅い? そんな悠長な話をしている場合か!」
「重要なのは即効性だ。熱を下げ、痛みを抑え、動けるようにする。それで十分だろう」
廊下越しに聞こえてくる声に、リーナはペンを走らせながら、そっと視線を落とした。
彼らの言うことも、間違いではない。
目の前で苦しむ患者を楽にすることは、確かに重要だ。
けれど――。
リーナは、記録簿の端に小さく書き添えた文字に、指を止めた。
〈発症三日前より、同様の食事内容〉
〈家系内に、過去同症例あり〉
〈症状軽減後、二週間で再燃〉
誰にも注目されない、小さな記録。
だが、彼女にとっては、そこにこそ意味があった。
薬で症状が治まっても、また同じ患者が戻ってくる。
同じ訴えを、同じ表情で。
――それは、本当に「治っている」と言えるのだろうか。
その疑問を、口にしたことは一度もない。
言えば、決まってこう返されるのを、彼女は知っていたからだ。
「余計なことを考える暇があるなら、手を動かせ」
「君は診断係ではない。分を弁えたまえ」
そして今日も、リーナは薬棚の前に立っていた。
整然と並んだ瓶を拭き、在庫を確認し、使用期限を書き直す。
単純で、誰にでもできる作業。
その背後から、重々しい足音が近づいてきた。
「……まだ終わっていないのか」
低く、苛立ちを含んだ声。
振り返ると、そこに立っていたのは薬師団副団長だった。
高価な外套を纏い、眉間に深い皺を刻んでいる。
「申し訳ありません。もう少しで――」
「言い訳はいい」
彼は、リーナの手元を一瞥し、鼻で笑った。
「まったく……こんな雑務に時間をかけるから、いつまで経っても役に立たないんだ」
胸の奥が、きゅっと縮む。
けれど、リーナは何も言わなかった。
ただ、小さく頭を下げる。
「……失礼いたしました」
「次の会議までに、この疫病の患者記録をまとめておけ。
どうせ、君にできるのはそれくらいだろう」
そう言い捨てて、副団長は踵を返した。
その背中を見送りながら、リーナは静かに息を吐く。
――やっぱり、そうなのだ。
彼女は「役立たず」。
薬師団にとって、価値のない存在。
それでも。
机に戻り、積み上げられた記録簿を手に取ったとき、リーナの目はわずかに揺れた。
疫病と呼ばれている、この奇妙な症状。
発症する者と、そうでない者。
軽く済む者と、命を落とす者。
その違いは、あまりにもはっきりしすぎている。
(……偶然、なわけがない)
誰にも聞かれないよう、リーナは心の中で呟いた。
まだ、この時点では。
彼女自身も知らなかった。
この「誰にも価値を認められない日々」こそが、
やがて国を揺るがす分岐点になるということを。
◇
疫病は、静かに、しかし確実に広がっていった。
最初は、ただの流行病だと考えられていた。
季節の変わり目によくある、発熱と倦怠感。
数日寝込めば回復する――はずだった。
だが、回復しない患者が出始めた。
同じ薬を投与している。
同じ治療を施している。
それでも、ある者は立ち上がり、ある者は衰弱していく。
王都薬師団の診察室は、日に日に騒がしさを増していた。
「次は、第三区画からの患者だ!」
「また高熱だ、解熱剤を倍量で出せ!」
「記録は後だ、今は数を捌け!」
怒号と足音が飛び交う中、リーナは壁際に控え、運び込まれてくる患者の顔を一人ひとり見つめていた。
汗に濡れた額。
震える指先。
浅く、乱れた呼吸。
そして――皮膚の色。
(……やっぱり)
胸の奥で、小さな違和感が形を持ち始めていた。
症状の重い患者には、ある共通点がある。
それは、薬の効き方ではなく――体そのものだ。
リーナは記録簿を抱え、診察室の隅で静かに筆を走らせた。
〈発症者の多くが、特定の家系に集中〉
〈同じ治療を行っても、回復速度に大きな差〉
〈症状軽減後、一定期間で再燃〉
だが、その記録が誰かの目に留まることはなかった。
「リーナ、何をしている」
背後から声をかけられ、彼女ははっと顔を上げた。
そこに立っていたのは、薬師団副団長と、第一王子の側近だった。
どちらの表情も、苛立ちと焦りを隠そうともしていない。
「記録の整理を……」
「そんなものは後回しだ」
副団長は吐き捨てるように言った。
「今は一人でも多く、動ける患者を増やすのが先だ。君のその“観察”とやらは、何の役に立つ?」
リーナは言葉を探した。
今なら、言えるかもしれない。
この疫病は、単なる感染症ではない可能性があること。
体質と生活が深く関わっていること。
けれど――。
「……失礼しました」
結局、彼女の口から出たのは、それだけだった。
王子の側近が、冷ややかな視線を向ける。
「役に立たない薬師に構っている暇はない。王子殿下も、この状況を快く思ってはいないのだ」
その言葉に、診察室の空気が一段と重くなる。
その日の夕刻、最悪の報せがもたらされた。
王都西区で、重症患者が急増。
しかも、その中には――貴族の子息が含まれていた。
「なぜだ……!」
「これだけ手を尽くしているのに……!」
上級薬師たちの声が、焦燥に染まっていく。
そして、いつの間にか。
その視線は、一点に集まっていた。
――記録係の、地味な薬師。
リーナ・ヴァイス。
「そういえば、疫病の初期対応をまとめていたのは、君だったな」
副団長の声が、妙に落ち着いて響いた。
「え……?」
「君の報告書だ。あれを元に治療方針を決めた。違うか?」
違う。
彼女は、そんな権限を与えられていない。
だが、その場で反論する者はいなかった。
「もし、判断に誤りがあったのなら……」
「責任を取る者が必要だな」
誰かが、そう呟いた。
その瞬間、リーナは悟った。
(……ああ)
これは、もう。
薬の話ではない。
責任の行き先が、決まってしまったのだ。
リーナは、そっと記録簿を胸に抱きしめた。
そこに書かれた小さな文字たちは、今日も誰にも読まれない。
けれど――それでも。
(間違っているのは、私じゃない)
そう、初めて。
彼女は、心の中でだけ、はっきりと断言していた。
◇
正式な会議が開かれると知らされたのは、その翌朝だった。
場所は王都薬師団本部の大会議室。
普段は式典や報告に使われる、重苦しい空間。
リーナ・ヴァイスは、最も端の席に座っていた。
白い長机の向こうには、薬師団幹部たち。
さらにその奥、ひときわ高い位置に、第一王子の代理として王族の紋章を背負った男が座っている。
その場にいる誰もが、彼女を見ようとはしなかった。
「――では、本題に入ろう」
副団長が、低く咳払いをして口を開く。
「今回の疫病拡大についてだ。被害は王都全域に及び、すでに貴族階級にも重症者が出ている」
沈黙が落ちた。
誰もが分かっている。
この会議は、原因究明のためではない。
「我々は最善を尽くした。あらゆる薬を用い、医療資源を動員した。それでも状況は好転していない」
副団長の視線が、ゆっくりと動く。
そして――止まった。
「……だが、一つ、問題があった」
その言葉と同時に、数人の幹部が一斉にリーナを見た。
まるで、合図でもあったかのように。
「疫病初期にまとめられた治療方針案。その基礎資料を作成したのは、誰だったか」
一瞬、息が詰まる。
リーナは、静かに立ち上がった。
「……私です」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
会議室の空気が、ざわりと揺れる。
「やはりな」
「最初からおかしいと思っていたんだ」
「下級薬師の分際で、余計な観察などを……」
小声の囁きが、次々と重なる。
副団長は、それを制することもなく続けた。
「君の報告には、体質や生活習慣といった、根拠の曖昧な内容が多く含まれていた。それが、判断を誤らせた可能性は否定できない」
否定できない。
――それは、証明されたという意味ではない。
だが、ここでは十分だった。
「……」
リーナは、何も言わなかった。
言葉を尽くせば、議論になる。
議論になれば、証拠を求められる。
そして彼らは、最初からそれを求めていない。
「責任は、誰かが取らねばならない」
王族の代理が、淡々と告げた。
「国民の不安を鎮めるためにも、象徴が必要だ」
象徴。
その言葉が、静かに胸に落ちる。
「よって、王都薬師団は決定した」
副団長が、書類を一枚取り上げる。
「リーナ・ヴァイス。君を、薬師団から除名する」
空気が凍りついた。
「併せて、王都滞在の資格を剥奪。辺境の薬草院への配置転換を命ずる」
それは、実質的な追放だった。
研究も。
診察も。
この場所で積み上げてきた、ささやかな日々すら。
すべて、ここで終わる。
「異議はあるか」
形だけの問い。
リーナは、ゆっくりと首を横に振った。
「……ありません」
その声は、震えていなかった。
副団長は、どこか安堵したように頷く。
「ならば、これにて決定とする」
会議は、それで終わった。
誰も、彼女を引き留めなかった。
誰も、彼女の記録に目を通そうともしなかった。
会議室を出るとき、リーナは一度だけ振り返った。
長い机。
高い椅子。
誇らしげに掲げられた薬師団の紋章。
(……ここでは、駄目だった)
ただ、それだけのことだ。
廊下を歩きながら、彼女は胸の奥に手を当てた。
怒りは、なかった。
悲しみも、意外なほど薄い。
代わりに、静かな確信があった。
(私の見てきたものは、間違っていない)
誰が否定しようと。
どんな結論を下されようと。
この疫病は、まだ終わっていない。
そして――。
彼女がここを去ることで、事態が良くなることも、決してない。
リーナ・ヴァイスは、そのことを、誰よりも正確に理解していた。
◇
辺境の薬草院は、王都とは比べものにならないほど静かだった。
人の出入りは少なく、建物も古い。
石壁には蔦が這い、風が吹けば軋む音がする。
それでも――。
リーナ・ヴァイスは、この場所に足を踏み入れた瞬間、胸の奥がわずかに緩むのを感じていた。
ここには、急かす声も、責任を押し付け合う視線もない。
あるのは、薬の匂いと、ゆっくりと流れる時間だけだった。
「今日から、こちらで働いてもらう」
薬草院の管理を任されている老薬師は、淡々とそう告げただけだった。
追放された理由も、王都での立場も、彼は一切気にしない様子だった。
「診察室はあそこだ。患者は多くないが、一人ひとりが重い事情を抱えている」
「……分かりました」
それで十分だった。
最初の数日は、薬草の整理と、簡単な診察に追われた。
怪我、慢性的な痛み、長引く熱。
だが、王都とは決定的に違う点が一つあった。
患者が――何度も、同じ顔で訪れるのだ。
「薬を飲むと、少し楽になるんです。でも、数日経つとまた……」
「前と同じような熱が出まして」
リーナは、その言葉を聞き流さなかった。
診察を終えたあと、彼女は必ず患者に問いかけた。
何を食べているのか。
どんな仕事をしているのか。
家族に、同じ症状の者はいないか。
それは、王都では「無駄」と切り捨てられた問いだった。
夜、記録簿に向かいながら、リーナは静かに考える。
(やっぱり……)
疫病と呼ばれていた症状と、ここで診ている患者たち。
共通しているのは、病そのものではない。
体の中で、何かが起きている。
薬を飲めば、一時的に楽になる。
だが、それは「原因」に触れていない。
数週間後。
リーナは、ある確信にたどり着いていた。
この病は、外から入ってくる毒ではない。
体の中で、条件が揃ったときに――作られてしまうものだ。
特定の体質。
特定の食事。
そして、時間。
(だから、初期なら抑えられる)
症状が軽いうちに、流れを断てばいい。
だが、進行してしまえば、臓器そのものが壊れる。
壊れたものは、戻らない。
それは、どれほど薬学が進んでも変わらない現実だった。
リーナは、薬棚から数種の薬草を取り出した。
どれも、王都では「効果が薄い」と切り捨てられていたもの。
だが、彼女は知っている。
これは、治すための薬ではない。
進ませないための補助だ。
調合は、慎重だった。
量ではなく、使う時期が重要だからだ。
最初の患者にそれを用いたのは、発症から三日目の男性だった。
三日後。
熱は下がり、再発もしなかった。
一週間。
二週間。
症状は、戻らない。
リーナは、静かに記録を重ねていく。
成功例。
失敗例。
使えた条件と、使えなかった条件。
それは、派手さのない作業だった。
だが――。
(……これが、答え)
彼女は、確信していた。
王都に戻れと言われても、この方法は使えない。
なぜなら――。
これは、初期でなければ意味を持たない。
そして、王都の疫病は。
すでに、その段階を過ぎつつあった。
辺境の夜は、静かだった。
薬草院の窓から見える星を眺めながら、リーナは小さく息を吐く。
怒りは、もうない。
あるのは、ただ一つ。
自分が見つけた、この答えを。
必要とする人にだけ、使うという決意だった。
◇
辺境に、見慣れない馬車が到着したのは、ある晴れた朝だった。
王都の紋章でもない。
かといって、商人のものとも違う。
深い藍色の地に、銀の意匠が施されたそれは、明らかに「公的」なものだった。
「……客、ですか?」
薬草院の老薬師が首を傾げる。
リーナ・ヴァイスは、手を止めずに答えた。
「ええ。多分、私です」
そう言い切れる理由が、あった。
ここ数週間。
辺境の患者の症状は、明らかに変わっていた。
同じ病名。
同じような初期症状。
それでも――重症化しない。
その事実は、ゆっくりと、しかし確実に外へ漏れていく。
薬草の取引を通じて。
行商人の噂話として。
馬車から降りてきたのは、二人の男だった。
一人は書記官。
もう一人は、無駄のない動きと、鋭い視線を持つ人物。
「リーナ・ヴァイス殿で間違いありませんか」
「はい」
男は、名乗った。
「私は隣国ヴァルディア王国宰相補佐官。こちらは、我が国の宰相――ユリウス・フォン・クロイツ」
その名を聞いて、老薬師が息を呑む。
だが、リーナは驚かなかった。
ただ、その視線を静かに受け止めた。
「突然の訪問をお詫びします」
宰相ユリウスは、淡々と告げる。
「貴女が治療に関わった患者について、いくつか調査を行いました。その結果――我が国で発生している疫病と、極めて高い一致を確認しています」
その言葉に、リーナの胸が静かに鳴った。
――やはり。
「王都では、既存の治療が効果を失い始めています」
ユリウスは感情を交えず、事実だけを述べる。
「しかし、貴女が関わった患者は、再発していない。重症化もしていない」
「……初期だったからです」
リーナは、そう答えた。
「進行していなければ、抑えられます。けれど、それ以上なら……」
彼女は、言葉を切った。
宰相は、わずかに目を細める。
「その“以上”について、詳しく」
試すような問い。
だが、圧はなかった。
リーナは、これまでと同じように、静かに説明した。
体質。
生活。
時間。
治せる段階と、治せない段階。
それは、王都では一度も聞き入れられなかった話だ。
だが、ユリウスは遮らなかった。
ただ、黙って耳を傾ける。
説明が終わったあと、彼は一つだけ問うた。
「もし、我が国で治療を任せた場合。条件は?」
「……初期患者のみです」
即答だった。
「進行した患者は、救えません。薬を投与しても、意味がない」
宰相は、短く頷いた。
「正直だ」
それが、評価だった。
「リーナ・ヴァイス。貴女に、我が国への同行を願いたい」
老薬師が驚きの声を上げる。
だが、リーナはすぐに答えなかった。
「……私には、王都を追われた身分があります」
「承知しています」
ユリウスは、即座に返した。
「だからこそ、です」
その言葉は、静かだったが、揺るぎがなかった。
「評価されなかった能力は、能力がなかったのではない。見る目がなかっただけだ」
リーナは、初めて、わずかに目を伏せた。
胸の奥で、何かがほどける感覚があった。
「お返事は、急ぎません」
宰相は言う。
「ただ――我が国では、貴女の判断を尊重します。治せないものを、治せとは言わない」
それは、何よりの条件だった。
その夜。
リーナは、薬草院の窓辺に立ち、星を見上げていた。
王都を去ったあの日。
すべてを失ったと思っていた。
けれど。
(……私は、間違っていなかった)
そう思えたことが、何より大きかった。
翌朝。
リーナ・ヴァイスは、辺境の薬草院を後にした。
自分の答えを、正しく使ってくれる場所へ向かうために。
◇
隣国ヴァルディア王国の王都は、王都薬師団とは違う意味で緊張に包まれていた。
疫病の流行は、すでに公にはされていない。
だが、城の奥。
貴族の屋敷。
王宮に近い医療施設。
そこでは、確実に患者が増えていた。
リーナ・ヴァイスが最初に通されたのは、簡素な診察室だった。
「重症者はいません」
宰相ユリウスは、静かに言った。
「今のところは、ですが」
その言葉に、嘘はない。
だが、安堵も含まれていなかった。
「条件は、守られていますか」
「ええ。貴女が示した通り、発症から日が浅い者のみです」
リーナは、短く頷いた。
それでいい。
診察は、想像していたよりも地味だった。
劇的な回復も、奇跡の瞬間もない。
あるのは、観察と確認だけ。
脈。
皮膚の色。
呼吸の深さ。
そして、問診。
「昨日、何を食べましたか」
「同じ症状の方は、ご家族にいらっしゃいますか」
患者たちは戸惑いながらも、正直に答えた。
リーナは、記録を取りながら静かに判断していく。
――これは、間に合う。
――これは、様子を見る。
――これは……。
彼女は、一人の患者の前で、わずかに手を止めた。
「この方は?」
「三日前に発熱。昨日から意識が朦朧としています」
リーナは、静かに首を横に振った。
「……治療対象から外してください」
周囲が、息を呑む。
「なぜですか」
医師の一人が、抑えた声で問う。
「この段階では、流れを止めても意味がありません。体が、すでに壊れ始めています」
その言葉は、冷酷に聞こえたかもしれない。
だが、リーナの声には、迷いがなかった。
無理に薬を使えば、かえって苦しませる。
それは、救いではない。
治療は、計画通り進んだ。
初期患者にのみ、補助的な処方を行う。
生活指導。
経過観察。
三日後。
一週間後。
熱は下がり、再発は見られなかった。
「……抑えられています」
王国医師団の一人が、驚きを隠さずに呟いた。
「完全に治ったわけではありません」
リーナは、淡々と訂正する。
「進行を止めただけです。でも、それで十分です」
十分。
その言葉の意味を、ここにいる全員が理解していた。
宰相ユリウスは、治療の一部始終を、黙って見ていた。
最後の患者を診終えたあと、彼は一歩前に出る。
「一つ、確認したい」
「はい」
「貴女の方法では……王都で発症している重症者は、救えない」
それは、問いではなかった。
確認だ。
リーナは、目を伏せずに答えた。
「救えません」
その場が、静まり返る。
「それでも、貴女はこの方法を選ぶ」
「はい」
治せないと分かっていることに、手を出さない。
それもまた、医療だ。
ユリウスは、ゆっくりと頷いた。
「理解した」
それだけだった。
だが、その一言には。
評価も、信頼も、すべてが含まれていた。
その夜。
リーナは、王都から届いた報告書に目を通していた。
重症者、増加。
貴族階級にも拡大。
そして――第一王子、倒れる。
リーナは、静かに紙を置いた。
(……もう、遅い)
それは、冷たい断定だった。
だが、同時に。
彼女がこの数ヶ月、積み重ねてきた判断の、必然的な結論でもあった。
◇
王都からの使者が到着したのは、治療が一段落した翌日のことだった。
隣国ヴァルディア王国の王城に、急ぎの来訪者がある。
そう告げられたとき、リーナ・ヴァイスは、すでに察していた。
遅すぎたのだ、と。
使者は、王都薬師団の正式な紋章を掲げていた。
かつて、彼女が毎日目にしていたもの。
だが、今はもう。
それは、懐かしさよりも、距離を感じさせる印だった。
「リーナ・ヴァイス殿」
使者は、丁寧すぎるほどの礼を取った。
「王都にて、疫病の状況が急変しております。つきましては――」
その言葉の続きを、彼女は待たなかった。
「戻ってこい、という話ですね」
使者は、一瞬言葉に詰まった。
「……はい」
否定できない。
否定するつもりもない。
王都では、すでに第一王子が倒れている。
薬師団も、もはや手詰まりだ。
それは、リーナが誰よりも理解していた。
「王子殿下は、現在も高熱と意識障害が続いております」
使者の声は、かすかに震えていた。
「王族医師団、薬師団ともに、あらゆる手を尽くしました。しかし……」
しかし、の先は言わなかった。
言う必要がなかったからだ。
リーナは、静かに目を閉じた。
頭に浮かぶのは、王都で見てきた症例。
進行の速さ。
再発の頻度。
そして――時間。
(もう、初期ではない)
結論は、最初から変わらない。
目を開き、彼女は使者を見た。
「条件は、守られていません」
「……」
「私は、初期の患者しか診ないと伝えていたはずです」
使者は、唇を噛みしめた。
「承知しております。しかし……それでも、殿下だけでも」
その言葉は、命令ではなかった。
懇願に近い。
リーナの胸が、わずかに痛んだ。
救えたかもしれない命。
もっと早く、聞く耳を持っていれば。
けれど――。
「殿下の症状は、すでに進行段階に入っています」
彼女の声は、冷静だった。
「流れを止めても、意味がありません。体は、壊れ始めています」
使者の顔色が、はっきりと変わる。
「……それでも、診ていただくことは」
「できません」
きっぱりとした否定。
その場に、重い沈黙が落ちた。
宰相ユリウスが、一歩前に出る。
「彼女の判断は、我が国の公式見解でもある」
低く、揺るぎない声。
「治せないものを、治せと命じることはしない」
使者は、深く頭を下げた。
「……承知しました」
それが、限界だった。
使者が去ったあと。
リーナは、しばらくその場を動けずにいた。
選ばなかった道。
救えなかった命。
それでも。
「後悔は、していないな」
ユリウスの問いに、彼女はゆっくりと頷いた。
「……はい」
それが、医療者としての答えだった。
夜。
リーナは、机に向かい、記録を閉じた。
王都の疫病は、もう彼女の手を離れた。
だが、それは――。
彼女が間違っていたからではない。
時間を、失ったからだ。
その事実だけが、静かに残っていた。
◇
王都から届いた報せは、簡潔だった。
第一王子、容体悪化。
意識回復せず。
医師団、対応不能。
それだけで、十分だった。
リーナ・ヴァイスは、書簡を読み終えると、静かに机の上に置いた。
驚きはない。
動揺もない。
ただ――確認だった。
(やはり、間に合わなかった)
宰相ユリウスが、彼女の様子を見て、低く声をかける。
「診に行く必要は、あるか」
問いは短い。
だが、その裏に含まれる意味は重い。
リーナは、少しだけ考えた。
「……診断だけなら」
治療ではない。
救命でもない。
事実を、確かめるためだけの訪問。
それを、ユリウスは理解した。
「手配しよう」
王都への道は、以前よりも静かだった。
かつて感じていた圧迫感はない。
見慣れたはずの城門も、どこか遠い。
王城の医療棟に通されると、空気は重く澱んでいた。
廊下の先。
一室の前で、足を止める。
そこに立っていたのは、王都薬師団副団長だった。
「……来たのか」
その声には、かつての威圧はなかった。
疲労と、後悔だけが滲んでいる。
部屋に入ると、強い薬の匂いが鼻を突いた。
第一王子は、静かに横たわっていた。
呼吸は浅く、不規則。
リーナは、近づき、淡々と観察する。
皮膚の色。
脈の乱れ。
反応の鈍さ。
数分で、すべてが分かった。
「……どうだ」
副団長が、掠れた声で問う。
リーナは、ゆっくりと顔を上げた。
「発症初期であれば、治療は可能でした」
その言葉に、誰かが息を呑む。
「体質と、食事と、時間。その条件が揃えば、進行は止められた」
静かな声。
責める響きは、ない。
「ですが――」
彼女は、視線を戻した。
「今は、臓器が広範囲に損傷しています。流れを止めても、意味がありません」
それは、診断だった。
副団長は、膝から崩れ落ちそうになり、壁に手をついた。
「……では、最初から」
「ええ」
リーナは、遮らずに答える。
「もっと早く、生活と体質を見るべきでした。症状だけを抑え続けたことで、時間を失いました」
沈黙が、部屋を満たす。
その中で、彼女は最後の言葉を告げた。
「治せたはずの病でした」
一拍。
「……あなた方が、私を切り捨てなければ」
それ以上、何も言わなかった。
必要な言葉は、すべて伝えた。
王城を出たとき、夕暮れが空を染めていた。
ユリウスが、隣を歩く。
「後悔は」
「ありません」
即答だった。
「私は、できることをしました。できないことに、手を出さなかっただけです」
それでいい。
それが、医療者としての線だった。
王都を離れる馬車の中。
リーナは、窓の外を見つめながら、小さく息を吐く。
かつて、価値がないと言われた日々。
追放されたあの瞬間。
すべてが、ここへ繋がっていた。
隣国に戻れば、患者が待っている。
初期の段階で、救える命が。
リーナ・ヴァイスは、もう振り返らなかった。
過去ではなく、
選ばれた未来のために。
それが、彼女の出した答えだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は「治せなかった」のではなく、
「治せる時間を失ってしまった」病をテーマに書いています。
医療や薬学の描写は、あくまで物語としての表現であり、
実際の医療行為や治療法を示すものではありませんが、
「病気にはタイミングがある」「判断には線引きが必要」という考え方は、
現実の医療にも通じる部分があると感じています。
主人公リーナは、感情で復讐をするのではなく、
自分の専門と判断を貫いた結果として、
静かな結末にたどり着きます。
それが少しでも印象に残っていただけたなら幸いです。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




