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第二話:理性の綻び、果実の毒

【さやか視点】

「さやかちゃん、こっちこっち!」

信宏さんに誘われたのは、駅前にある少し賑やかな居酒屋だった。


 そこには、ジャケットを脱ぎ、シャツの袖を少し捲り上げたさとしさんが先に座っていた。仕事中の完璧な姿も素敵だけれど、少しリラックスした彼を見て、私の心臓はまた勝手なリズムを刻み始める。


「蓮沼さん、近藤さんじゃ堅苦しいだろ? 今日は無礼講だし、下の名前で呼ぼうぜ。なあ、さとし?」

信宏さんの強引な提案に、さとしさんは少し困ったように、でも優しく微笑んだ。

「……そうだね。じゃあ、さやかさん、かな。改めてよろしく」


「さやかさん」

 その響きだけで、お酒よりもずっと早く酔いが回ってしまいそうになる。


 信宏さんが趣味の競馬やゴルフの話で盛り上げてくれる中、さとしさんは絶妙なタイミングで相槌を打ち、私のグラスが空きそうになると「大丈夫? 無理しないでね」と優しく気遣ってくれる。

信宏さん曰く、さとしさんは家庭でも「理想の夫」らしい。家事もこなし、奥様を大切にする完璧な人。

(そんなに完璧なのに……どうして私は、この人の「隙間」を探してしまうんだろう)


「おっと、ちょっと失礼」

 信宏さんが席を立った。

 賑やかな店内の喧騒が、急に遠くなる。訪れたのは、二人きりの、重たいほどの静寂。


「新婚生活はどう? 近藤……あ、さやかさん。その指輪、まだ少し指に馴染んでいないみたいだね」

 さとしさんが、私の左手に視線を落とした。その眼差しは、仕事の時とは違う、どこか湿り気を帯びた熱を持っていた。


「え……あ、はい。まだ、慣れなくて……」

 なぜだろう。幸せなはずの家庭の話なのに、胸の奥がモヤモヤとする。

「さとしさんは……奥様のこと、本当に大切にされてるんですね」


私が問いかけると、さとしさんは一瞬、伏せ目がちに微笑んだ。

「……そうだね。彼女は、私に相応しい人だよ」

「愛している」ではなく「相応しい」。その言葉の冷たさに気づく前に、お皿を下げようと伸ばした私の手が、さとしさんの手と重なった。


 指先から伝わる、彼の体温。

 反射的に手を引くことができなかった。

目が合った瞬間、時間が止まったような気がした。吸い込まれそうな深い瞳。そこには、私が知る「理想の先輩」ではない、得体の知れない「誰か」が潜んでいるような――。



【さとし視点】

 信宏さんに誘われ、予定通り居酒屋へと向かう。

そこには、期待通り――いや、期待以上の笑顔で待つさやかさんがいた。


「さやかさん」

 その名前を口にするたび、自分の理性が薄い氷の上を歩いているような危うさを感じる。信宏さんが場を回してくれるおかげで、俺は「理想の先輩」という役柄を演じ続けることができた。

 しかし、信宏が席を外した瞬間、私は自分の制御が少しだけ利かなくなるのを感じた。


「その指輪、まだ少し指に馴染んでいないみたいだね」

 そんなこと、言うべきではない。彼女の幸せな領域に踏み込むのは、プロの教育担当として、あるいは一人の既婚者として失格だ。

 だが、私は見たかったのだ。彼女の薬指で光るその「結晶」が、いかに彼女を縛り、そして私との間に壁を作っているのかを。


「さとしさんは……奥様のこと、本当に大切にされてるんですね」

彼女の純粋な問いに、俺は曖昧な微笑みを返した。

(大切にしているのは間違いない。だけど……何だろう…。このチクチクする感じは……。)


 その時、テーブルの上で彼女の手が私の手に重なった。

 甘い果実の香りが、居酒屋の脂っこい空気の中で鮮烈に弾ける。

 俺はすぐには手を引かなかった。いや、引けなかった。


 彼女の瞳の中に、戸惑いと、そして微かな期待が混じり合っているのが見える。

 私は、自らが描く「略奪のシナリオ」の第一章が、確実に足音を立てて近づいていることに、気づいてしまった…。


(さやかさん、君は気づいていないだろう。その綺麗な瞳が、今、どれほど私の心を魅力しているのかを。)

「理想の夫」という仮面の下で、俺は静かに舌を巻いた。


 彼女の指輪を外すのは、夫ではない。この私でなければならない――。

 そんな狂気が、酒のせいか、それとも彼女の香りのせいか、隠しきれない熱となって指先から彼女へと流れ込んでいった。

 第2話までお読みいただきありがとうございます。

理性の仮面が少しずつ剥がれていくさとしと、無自覚に彼の「隙間」に踏み込んでいくさやか。

 二人の手が重なったあの瞬間、時間は確かに止まっていました。


 次回、いよいよ運命の出会い編・最終回です。

雨の夜、二人がお互いの心に誓った「決意」とは――。

明日22時の更新をお待ちください。

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