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第一話:憧れの残像

【さやか視点】

「今日から営業部でお世話になります。近藤さやかです。精一杯頑張ります!」


 花形の営業一部。眩しいほどの照明の下、私は精一杯の笑顔で頭を下げた。


 つい昨日まで、私は地味な経理課で数字と向き合う毎日を送っていた。異動の辞令を受けた時は、喜びよりも不安が勝った。私のような愛嬌だけで生きてきた人間が、この戦場のような部署でやっていけるのだろうか。


 「さやかちゃん、よろしくね。君の指導係を任された田中信宏でっす。……あ、チャラく見えるかもだけど、ただコミュ力あるだけだから(笑)ちなみにあっちの『ホントに仕事ができる蓮沼さん』が君の教育担当のメインになるから安心してね。」

信宏さんがおどけた調子で指差した先に、その人はいた。


 蓮沼さとしさん。

 この会社で彼を知らない人はいない。圧倒的な実績と、誰に対しても分け隔てない誠実さ。何より、スーツを完璧に着こなすその佇まいは、同じ部署にいるのが申し訳なくなるほど洗練されていた。

「蓮沼さとしです。困ったことがあれば、何でも聞いてください。一緒に頑張りましょう、近藤さん」

 穏やかな微笑み。そして、私を呼ぶ落ち着いた声。


 既婚者だと知っている。私だって、左手の薬指には夫と選んだ指輪がある。それなのに。

 パソコンを覗き込む彼の横顔から漂う、微かな石鹸の香りと、仕事に集中する知的な眼差しに、私の心臓は一瞬、行儀の悪い跳ね方をした。

(……ダメ。私は、仕事をしに来たんだから)


 休憩中、さとしさんはよく信宏さんと談笑している。飄々としていて話しやすそうな信宏さん。

 ……もし、信宏さんと仲良くなれたら。そうすれば、いつかさとしさんと一緒に飲みに行けたりするのかな。なんて、子供みたいな計算をしてしまう自分に、少しだけ自己嫌悪した。



【さとし視点】

 増員の話を聞いた時、正直に言えば懸念の方が大きかった。

 この多忙な部署に、畑違いの経理からやってくる若手社員。どれだけ教育に時間を割けるだろうか、と。

 けれど、現れた彼女――さやかさんを見た瞬間、そんな計算は霧散した。

 花が咲いたような愛嬌のある笑顔。周囲をパッと明るくするその空気感は、殺伐としたオフィスにはあまりに不釣り合いで、そして、毒のように魅力的だった。


「さやかちゃん、めっちゃ可愛い愛嬌ある子じゃん。なあ、さとし。お前、鼻の下伸ばすなよ?」

昼休憩、信宏さんがニヤニヤしながら肩を叩いてくる。


 「……何言ってるんですか。仕事ですよ、仕事」

 俺は努めて淡々と返し、カップコーヒーを口に含んだ。

 動揺を悟られてはいけない。自分は既婚者であり、彼女の先輩だ。彼女もまた、新婚だと聞いている。守るべき一線は、鋼のように硬く、高いはずだった。


 それなのに。

 仕事を教える際、彼女の指先がわずかに震えているのを見て、守ってやりたいという傲慢な欲求が首をもたげる。彼女の髪から時折漂う、甘い果実のような香りが、私の理性を静かに削っていく。



 数日後。オフィスの一角で、信宏さんと楽しそうに笑い合う彼女の姿が目に入った。

「信宏さん、本当におもしろいですね!」

「だろ? さとしは固すぎるんだよ。今度、三人で飲みに行こうぜ」


 弾むような彼女の声。

俺には見せたことのない、無防備な笑顔。

胸の奥が、ちりりと焼けるような感覚。


 これが「嫉妬」などという浅ましい感情であるはずがない。俺はただ、教育担当として彼女の仕事の進捗を懸念しているだけだ。

 そう自分に言い聞かせながら、俺はいつも以上に完璧な――「理想の上司」の仮面を深く被り直した。


(……さやかさん。君はまだ、何も知らなくていい)

 私が心の奥で、どれほど歪なシナリオを書き始めようとしているのか。

 この時の私は、まだ自分自身の狂気にさえ、気づかない振りをしていた。

 お読みいただきありがとうございます。

完璧な上司・さとしと、愛嬌たっぷりの若手社員・さやか。

 二人の「運命の歯車」が静かに回り始めた瞬間を描きました。

 誰からも「理想」と言われるさとし、なぜこれほどまでに自らを律しようとするのか……。

 明日22時更新の第2話では、二人の距離がさらに急接近する「夜のひととき」をお届けします。

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