『ウンディーネは暗夜に咽ぶ』番外編 ルーとその音楽についての小編
セデュのいない空白の時間、セデュに抱いてもらえない虚無の時間、僕はぼんやりとベッドに横たわったまま天井を見ている。ベルギー製とかいうシャンデリアが真昼の陽光にきらきらと煌めくのをただ見ている。万華鏡のような煌めきは壁に虹色の影を作る。
僕が退院してすぐは仕事も休んで僕にずっと付き添ってくれていたセデュだけど、僕が四六時中セックスばかり強請るのでちょっと離れてた方がいいって思ったのかもしれない。今はもう仕事に復帰して、毎日忙しく飛び歩いている。
今日は確か夕方ごろに帰ると言っていた。僕を抱いた後のベッドの中で。
毎晩飽きずに僕を抱いてくれて、それで朝が来たらシャッキリしてエッチなことなんか知りませーんみたいな顔でスーツを纏って家を出ていく。なんというか体力とバイタリティが凄い。僕にはとても真似できない。
セックスのとき、本当はもっと酷くしてほしいんだけど、セデュはいつも僕を優しく扱う。
嘗め回され、性感を高められ、僕が気持ちよくなるように動いてくれる。
こんなんじゃ全然罰にならない、むしろご褒美じゃないかってセデュを責めても、彼はそういう僕の自罰思考には応えてくれない。
セデュは楽しいのかな、僕といて。僕のために尽くしてばっかりで。
せめて僕の身体で。セデュが気持ちよくなってくれてるといいんだけど。毎回きちんとイってくれてるから、たぶん、全然気持ちよくないってことはないはずだ。うん。
ごろりと俯せになって、そのままずりずりと這ってベッドサイドの引出しをかき混ぜる。ペンと空白の五線譜を引き摺りだして、チェストに屈みこむ。
セデュへの感謝の気持ちに何かあげたいって考えたら、僕にはこの身体か、音楽くらいしかあげられるものがない。
だから久しぶりにペンを走らせる。
ひとりでいると、僕の周りには父さんや母さんや姉さんが現れて、もっとしっかりしろ、ちゃんとしろ、まじめにしろって責め立てる。
怒ったような声、悲しげな声、嘆き、悲哀、憤怒、失望、軽蔑、罵倒、…。
僕の頭の中でわんわん鳴り渡るそれが耳から零れだして暴れて、僕はそいつらを捕まえようとペンを走らせる。
ピチカート、ポーコ・ア・ポーコ、クレッシェンド、ラララ…。
殴り書きみたいに乱暴な筆遣いで、次々と溢れ出す罵声を綴る。ずいぶん乱暴な曲だ。プレゼントにするには相応しくないような。
でも今の僕には優しい穏やかな曲なんて思いつかない。セデュにいくら大切にされても、僕は自分が許せないままだ。
専属シェフのクロードがベッドまで運んでくれたサンドイッチにぱくつきながらペンを休めず書き続けて、夕方ごろに曲は完成した。
セデュは家に戻ってくると、まず寝室の僕の様子を見に顔を出す。
僕が今日も外出せず、なんならずっとベッドの上にいたことを知らされると、心配そうな、愁いを帯びた顔で僕を見る。
けれど、無理に僕を外に連れ出したりはしない。僕が自分から出られるようになるまで、待ってくれているんだろう。
でも今日はいつもとは少し違う。僕からのプレゼントがあるからだ。
きっとセデュは喜んでくれるはずと信じてスコアの束を彼に見せると、予想に反して、セデュは苦し気に眉を顰めていた。
「どうしたの? 僕の新曲だよお、ほらほら」
「…これが、今のお前の心境か」
「曲調のこと? まあ、そうかもね。今の僕に聞こえてる音だよ…」
「作曲することは、苦しくはないか」
「え? どうして」
「幼少期のお前の音楽との関わり方は…あまり健全とはいえないものだったようだから…」
まるで君が拷問にかけられてるみたいにつらそうにセデュは言う。
僕から音楽を取り除いたら何も残らないんだって知ってるはずなのに、どうしてそんなことを言うんだろう。君が僕を見つけたのだって、音楽を介してだったのに。
「音楽はお前を幸福にしてくれるものではなかったのだろう」
「そんなことない、ちがうよそれは、ぜんぜんちがう…」
僕はセデュの言葉を遮って、首を横に振って、君に縋りつく。わかってほしかった、僕の心が全部君に理解されるはずはないってわかってるけど、でも、せめて、僕たちの繋がりだけは、否定してほしくなかった。僕たちの繋がり、セックスだけじゃない、音楽を介した、とくべつな繋がりだけは。
「ぼくがピアノをやってなかったら、コンクールに出なかったら、きみとは出会えなかった。きみに見つけてもらえることもなかった。きみと仲良くなることもなかったんだよ」
「それはそうだろうが、しかし…」
「ぼくはとうさんに感謝してる。ぼくが生きるために必要なことだったんだ、もし音楽がなかったら、いまごろぼくは、どこかで野垂れ死にしてるさ。誰にも知られないままで…」
「ルー、」
「きみはぼくの音楽が好きだったはずでしょう、ぼくの弾くピアノも、ぼくの作る曲も…なくなったら困るでしょ? ねえ、そう言ってよ…」
「…なくなったら、悲しいよ、でも、お前が苦しむくらいなら…」
「ぼくが苦しいのは音楽のせいじゃない、ぼく自身の問題なんだ、だからそんなふうに言わないで、ぼくを否定しないで…きみが喜んでくれないなら、もうなんの意味もない…」
スコアを引き裂こうとする僕の手を君は止める。握りしめて、そのまま僕を抱き寄せる。
「すまなかった、お前を否定したいわけじゃない。…嬉しいよ、お前が私のために作ってくれたものなのだろう…」
「…ん、」
「大切にさせてくれ、お前ごと、…」
「…うん」
僕は君の肩に頬を乗せて、外の匂いを纏った君の香りを嗅ぐ。僕の好きな香水の匂いと、君自身の香りに僕はやっと落ち着いて、呼吸ができる。
結局のところ、僕自身にも君にも、音楽は剥がしようもなくまとわりついていて、それなしではありえないような関係なんだ。僕にはそれがよくわかってる。君はいまいち、わかってないみたいだけど。
「きみのヴァイオリンで弾いてみせて。聴きたいな、きみの演奏で…」
「それはいいが…練習の時間をくれ」
「間違えてもいいよ、それも味だよ」
「お前の曲を下手な演奏で汚すわけには…」
ほらね、やっぱり君はこんなにも、僕の音楽を愛してくれてるんだ。
僕自身と別ち難く絡みついた宿命のようなもの。それごと愛されてるんだって考えるだけで、僕の心は少しだけ前向きになれる。
父さんたちの幽霊が消え失せて、静かな音が流れだす。湖畔の水辺にいるような、療養所の窓辺で、君を待っていた日のような。
そんな時間を積み重ねて行って、君の重荷にならないくらい、ちゃんと生きられるように、きちんとひとりで歩けるようになりたい。
僕はそうひとりごちて、君にまた寄りかかる。
背中に回される君の手に安堵して、僕は目を閉じた。君の口づけが優しく僕に触れるのを期待して。そして願いは叶えられる。…




