セデュの誕生日当日の話
大き目の卵4個、小麦粉90グラムに粉砂糖120グラム、バニラエッセンスに塩をちょっぴり。まず卵を卵黄と卵白に分けて、それから…
「あああ、ルーシュミネ様、だめです、もっとゆっくりしないと…」
「垂れてます垂れてます! 殻も入ってます!」
「うるさいなあ、集中してるんだから、静かにしてくれよ…」
真新しい白いエプロンをして初めて厨房に立つ僕を、ハウスメイドのパールとルージュが囃し立てる。
この厨房の主であるはずのクロードはそれを面白そうに眺めながら、ジャガイモの皮むき中だ。僕とセデュのディナーの、下ごしらえをしてくれているんだろう。
セデュは出かけていて、朝からいない。本当は1日オフにする予定だったんだけど、どうしても外せないという用事ができてしまったらしくって、しぶしぶ出かけて行った。
――今日はセデュの誕生日なのだ。なので僕はこうして、厨房にこもって、初めてのお菓子作りに、奮闘しているってわけ。
あいつの誕生日を、忘れていたわけじゃあないけど、プレゼントに何をあげたらいいか決まらなくて、うんうん悩んで、もういっそのこと自分にリボンをつけて「僕がプレゼントだよ!」なんてやってやろうかとも思ったんだけど。
「セディー君はルーネ君が大切なんだなあ。今日もいろいろ、注文をつけていったよお」
ひとりきりのランチの時間、配膳をしてくれてるクロードに呑気な声で言われて、僕はきょとんとしたのだった。
「クロードはセデュのところで働きはじめて、長いんだっけ?」
「前はマルセイユのホテルにいたんだけど、前の奥さんと別れて引っ越すときに引き抜かれてねえ。俺の作る料理がおいしいから、ぜひ専属シェフになってほしいって。あんなふうにハッキリ、目を見て言われて、うれしかったなあ」
「また知らないところで男を堕としてやがったのかーあいつはまったくもー」
軽口を叩きながら白ワイン香るムール貝にフォークを刺す。ぷりぷりの肉身がすごくおいしい。クロードの腕はたしかに一流だ。三ツ星レストランでも通用すると思う。
「でもね、ルーネ君が来るまで、セディー君、料理に注文つけることなんて一度もなかったんだよお。なんでもおいしいおいしいって食べてくれて、俺は満足だったけど…やっぱりねえ、何が好みで何が苦手とか、そういう話もしてくれないと、腕の振るい甲斐がないっていうかさあ」
「セデュって好き嫌いなさそうだもんね」
「うーん、それはいいんだけどお、何でもおいしく食べてくれるのはありがたいんだけどお」
「ちなみに今日は何て言ってたの?」
「ルーネ君はムール貝が好きだけどほじくるのが苦手だから、中身を出して皿に載せて出してやってくれってさあ。ちょっと過保護すぎると思わないかい?」
「…」
もぐもぐとムール貝を咀嚼してるせいで何も言えないって体を作る僕である。セデュの過保護はいまに始まったことじゃあないけど、改めて言われると、なんか、照れる。
「ルーネ君は肉の脂身が嫌いだから出さないでくれとか、魚の小骨も取り除いてほしいとか、玉ねぎは炒めたのは好きだけど生のままだと食べられないとかあ…」
「……」
「甘いのが好きだけどあまりたくさんは食べられないから、デザートは半分くらいの量にしてとも言われたなあ。今の量だと、セディー君は絶対足らないと思うんだけどお」
「………」
「生クリームが苦手でチョコレートが好きで、あと甘く煮た栗を使ったスウィーツが好きで、フルーツは生のままがいちばん好きだから、そういう感じで出してほしいとかあ…生クリームのケーキなんて、セディー君大好きだろうに、君が来てから一回も出せてないんだよ。物足りないんじゃないのかなあ」
「…………」
白ワインをぐいっと呷って、口元を拭って、僕はちょっと考えて。
「…ケーキの作り方、教えてくれる? クロード」
僕の傍らに立つ一流シェフに、そう聞いたのだった。
「うああああ、腕が痛くなってきた。ねえこれいつまでかき混ぜるの?」
「ピンと角が立つくらいです! もうちょっとの辛抱ですよ!」
「もうやめちゃだめかなあ」
「だめですだめです! まだまだ、どろどろですよ!」
「全然ちょっとじゃないじゃないかーもー」
ぶつぶつ文句を言いつつボウルに入った小麦粉と卵と砂糖と塩とバニラエッセンスを混ぜたやつを延々かき混ぜる。
本当に腕が痛い。というか痺れる。疲労がすごい。お菓子作りって、こんな重労働だったのか。クロードに感謝しなけりゃいけないな。
僕の様子を見に来たヨランダは微笑んで頷くだけで何も言わずに行ってしまったけど、ハウスメイドのパール(29歳)とルージュ(20歳)はきゃあきゃあ言いながら僕を応援する。なんか面白がってる感じもする。ろくに家事をしたことのない、生活能力皆無の作曲家が汗水垂らして好きな男のために奮闘する姿だ。他人事だったら僕だって面白おかしく鑑賞してたかもしれない。それにしても疲れた。もうこのへんで切り上げたい。材料に間違いはないんだし、まあなんとかなるだろ、たぶん…。
「坊ちゃんがご帰宅です、パール、ルージュ、お迎えを!」
「はいい! 今すぐ!」
「承りましたあー」
焦った声で告げるヨランダに返答し、バタバタとハウスメイド二人は行ってしまう。
「やっば、かくせかくせ! みつかっちゃう!」
「食料貯蔵庫行ってなよお。俺がなんとかごまかしとくからさあ」
ふんふんと鼻歌を歌いながら呑気に言うクロードの言葉に甘え、ボウルを抱えた僕は食料貯蔵庫に駆け込んだ。
「おかえりなさいませ、坊ちゃん」
「ああ、ただいま。ルーはどこに?」
「ルーシュミネ様でしたら、お出かけになりました! ねっパール!」
「うんうん、そうです! ねっヨランダ!」
「…どこに行ったか、聞いているか?」
「…えーと、私は聞いておりませんねえー」
「私にも何も言っておられませんでしたねえー」
「…そうか」
「さあさ、お仕事でお疲れでしょう、ごゆっくりお休みくださいな、坊ちゃん。坊ちゃんの可愛い水の精さんは、きっとすぐにお戻りになられますよ」
「…」
がやがやと玄関ホールで話す声が聞こえる。
僕は食料貯蔵庫に屈みこんで身を隠しながら、ちょっとだけ頭を出して、なんかガッカリした様子のセデュをぞんぶんに眺める。
セデュの誕生日に僕がふらふらどこかへ行ったと聞かされても、特に疑う様子のないセデュだ。…いや、さすがの僕だって、恋人の誕生日よりほかの何かを優先するなんてことはないんだけどな! ちょっと心外だ! まあ驚かしてやりたいので、ネタばらしはもうちょっと後にしたいけど…。
ボウルの中のどろどろした液体をちょいと摘まんでぺろりと舐める。
そいつは僕の心境みたいに、ひどく甘ったるい味がした。
…約一時間後。
焼きあがった、黄色の物体を前に、僕は腕を組んで呻る。
材料も工程もクロードの指示通り、忠実に…というにはちょいちょいアレンジも入れつつ、やったのだけど。
…いやアレンジがいけなかったのか? だってピアノを弾くくらいしか有用に使えないこの指が、疲れ切ってしまったんだからしょうがない。よく混ざったように見えていたから、そのまま型に入れてオーブンで焼いたのだ。
そして焼きあがったのは、…ケーキというには、あまりにも不細工な、潰れたパンケーキみたいな代物だった。
ただ、こんがりとした焼き色がついた黄色い物体は、とても美味しそうな匂いをしている。ちょっとちぎって食べてみたけど、味のほうは抜群に…というのはちょいと言い過ぎだけど、まあ、美味しいほうだと思う。
…まあ、初めてなんだから、こんなもんじゃないか? いきなり完璧なものが作れるだなんて、うぬぼれもいいとこだ。僕は調理が専門じゃないし。自慢じゃないけど、目玉焼きも満足に作れないんだ。フライパンが重くて。
そんな僕が頑張って作ったんだから、もういいだろ。生クリームでコーティングして、イチゴを乗っければ、…ケーキというよりパンケーキみたいだけど、見た目もごまかせると思う。
「ところで生クリームってどこにあるの?」
「作るんだよお、ルーネ君。ほらほら、手が止まってるぞお!」
そうして僕はさらなる掻き交ぜ地獄に直面し、厨房の床に頽れるのであった。
料理って、ほんとにしんどい。
セデュは書斎でレコードを聴いている。ひとりのとき、あいつは大抵そんなふうに過ごしているらしい。脚本を読んだり、仕事と関係のあったりなかったりする本を読んだり、頬杖ついてぼんやりしたり。セデュのこと、社交的な紳士だと思っていたけど、本来の彼は物静かで、思索の時間が必要なタイプなのかもしれない。
僕はカラカラとケーキ? の載ったワゴンを押して、書斎に向かう。
かたりとドアを開けると、レコードの流麗な調べが溢れだす。
ラフマニノフの、「パガニーニの主題による狂詩曲」、僕が13の時に、チェコのフィルハーモニーと演奏したときの音源だ。
…セデュは書斎のソファに腰かけて、瞳を閉じている、眠っていないのは、その指先が、拍子をとるように小さく揺れているのでわかる。
昔の僕の面影を追っているような彼の姿に、なんだか胸がきゅっとなる。
今の僕は、音楽だけを信じて、それだけのために身も心もすべて捧げるつもりだった13の頃とは、遠く離れてしまっているから。
だから25歳の僕はふるりと首を振って、彼の思索の時間をぶち壊してやるんだ。できるだけ、無神経な大声を上げて、ばったんとセデュの前のガラスのテーブルに、ワゴンをぶつけるような勢いで。
「お誕生日おめでとうセデュ! 君の可愛い恋人が、君にプレゼントを持ってきてやったぞう! 感謝しろよ! そして褒めたたえてくれ! 僕の初めてのお菓子づくりの成功に咽び泣いて喜ぶといい!」
ちょうど、ピアノの旋律がメランコリックに流れる中で、僕は堂々と胸張って言い放つ。
とても、自慢できそうにないぺちゃんこのケーキを、セデュの皿に取り分け、ヨランダが淹れて持たせてくれたコーヒーと一緒にサーブする。
「疲れちゃったよ。もうへとへと。知ってるかい、ケーキ作りってめちゃめちゃ重労働なんだぜ。僕らはもっとクロードに感謝しなけりゃいけないな…」
「ルー、」
ぺらぺら喋りたてる僕の口は、セデュの抱擁によって黙らせられる。
「…作ってくれたのか、私のために…」
「…ん、まあ、誕生日、だしね…」
「ありがとう。とても嬉しい。お前は私の誕生日など、知らないでいると思っていた…」
「ん!? いや、さすがにそれはないよ!? 君は僕を何だと思ってるのさ!?」
「…ああ、悪かった。認識を改めよう」
「もーいいから、食べてよ! みためはこんなだけど、案外おいしいよ!」
フォークでぎこぎこケーキを切って、セデュの口元に運んでやれば、雛鳥のようにぱくりと咥える。…お、されるがままって感じで、なんか可愛いぞ。新しい扉が開きそうだ。
「…どう?」
「…美味しい」
「だろー!? やっぱなー! 僕ってば天才だからなー! お菓子作りでも才能あふれちゃったなー!」
「とても甘いが、舌に塩気が残る。歯応えもあるな…」
「…ケーキに相応しくないコメントどうもありがとう。無理して食べなくてもいいよ、君の誠意は伝わったから…」
「無理などしていないさ。私好みの味だ。記念にとっておきたいが、食べ物ではそうもいかないからな」
「食べてくれるんなら、どーぞ。コーヒーのおかわりもあるよ」
「ありがとう」
きちんとソファに座りなおして、いちおう持ってきていたナイフとフォークで丁寧に切り分け、形のよい口に運ぶ。まるで豪華なディナーでも食べてるみたいだ。実態は潰れたパンケーキまがいの代物だけど。
「…ほんとにおいしい?」
「心配性だな」
「…だってさー、ちゃんと火は通ってるから大丈夫だとは思うけど、万が一君に腹でも下された日にはさ、立ち直れないよー僕」
「美味しいよ、お前みたいな味がする」
「…ん?」
「うん?」
「…まあいいや、聞かなかったことにする」
「そうか」
淡々とフォークを進め、あっという間にセデュはケーキを完食した。
最後に残ったイチゴは僕にくれた。ケーキに載ったフルーツは基本苦手だけど、イチゴだけは僕も好きなんだ。
いつか話したことがあったのか、なかったのか、覚えてないけど、セデュはいつでもこうやって、僕を甘やかすんだ。
「今夜は、ベッドで君の好きな格好してあげるから、考えておいてよ」
綺麗に食べ終わった皿を片付けつつ、耳元にそっと吹き込むと、セデュの耳朶が赤く染まる。イチゴみたいでおいしそうで、思わずはむりと甘噛みすると、セデュは大げさに飛び退いてテーブルに脚をぶつけていた。
「それで用意した衣装がコレ? 君って案外、倒錯的なんだア…」
「…」
セデュの誕生日の夜だ。使用人たちはみんな別棟で休んでいる。二人きりになった寝室で、あてがわれた衣装に、僕はにやにや笑いが抑えられない。
バニーガールとか、スケスケのネグリジェとか、女性用の下着とか? なんでも身に着けてやるつもりだった僕なんだけど。
セデュが用意したのは、コンサートで着るみたいな、燕尾服だった。
「うわ、サイズもぴったりだ。いつ作ったのさこれ?」
「…お前が越してきてから、作らせた。まさか今日初めて、使うことになるとは思っていなかったが」
「ふふふ、そうかー。これ着てシたいってことかー。どんなシチュエーションにするう? 僕はどんな役がいいかな? コンサートを控えたピアニスト?」
「…音楽室に行こう。そこでピアノを弾いてほしい」
「…ピアノ弾きながらするの?」
「…」
セデュは真っ赤な耳朶のまま視線を落として、首を横に振る。
なんだか埒があかないので、着替えた僕は彼の望みどおり、颯爽と音楽室に向かう。
音楽室は防音になっていて、僕の作曲のための音響機材のほか、黒光りするグランドピアノがでんと中央に据えてある。
ドアを閉めてしまえば中の音はそうそう漏れない。別棟にいる使用人たちにも気づかれずに、ぞんぶんに音を出せるってわけだ。
ピアノの前に掛けた僕は傍らに立つセデュを見上げる。ぱちぱちと、長いまつ毛で瞬くセデュは僕を憧憬のこもったような目で見つめていて、なんだか、「そういう気分」じゃあないみたい。
昼に、僕のレコードを聴いていたせいかな。
「何を弾こうか? リクエストある?」
「なんでも、お前の好きなものを」
「うーん。どうしようかなア。今はショパンって気分じゃないし。…ガツガツいきたいから、ベートーヴェンにしようかな?」
頷くセデュを確認し、鍵盤の上に指を浮かせる。すうと呼吸して、僕はそのまま、指が遊ぶに任せる。
ベートーヴェンのピアノソナタ23番、「熱情」と、8番「悲愴」を、アレンジなしに弾きまくる。遊んでいるうち夢中になって、僕は音と一体になって、ここがどこかも忘れてしまう。
まるでコンサートホールにいるみたいに弾く僕は自由だ。体が軽くなって、つまらない悩み事なんかふっ飛んじまう。観客はセデュひとりだけど、僕はそれでいい。それがいい。僕の奏でる音を、水を求めるひとみたいに渇望してくれるのは、世界で彼だけなんだって、思うから。
ピアノを弾いていると時間はあっという間に過ぎる。僕はぱっと手を上げて、セデュが一泊置いてから、惜しみない拍手を捧げるのを聞く。
「素晴らしかった、ルー、ありがとう」
「ねえ、次は連弾しようよ、いいでしょう!? せっかくふたりでいるんだからさ!」
わくわくと浮き立つままの心で僕は強請る。セデュは僕のこういうたぐいのおねだりには、決して逆らえないことを知っているから。
「何を弾こうか」
「きらきら星変奏曲! アレンジも気分で、めいっぱい加えちゃおう!」
「わかった」
僕を抱き寄せるようにぴったりとくっついて、後ろから長い手を伸ばして、立ったままの彼が屈み、僕の肩に顎を載せる。
「弾きづらいな」
「アハ、僕ちっちゃくなってるから、主旋律は君がお願い!」
「もう一台、ピアノを買おう。もっと自由に弾けるように」
「うん、楽しみだね! でも今夜はこれでいいや、君と一つになって、腕が四本あるみたい。おっかしいの」
笑いが抑えられない僕が振り向くと、甘い瞳のセデュは優しい触れるだけのキスをくれる。
「ほら、行くよ、セデュ、せーの」
「…」
きらきら、きらきら、音がはじけて夜に跳ねる。
くすくす笑いあって、僕らはいつまでも遊ぶ。幼いころのように。君と過ごした、遠いイタリアの夏の日のように。
「お前がまた、万雷の喝采を浴びて、舞台に立つ日はいずれ来る。私はそれを信じている」
弾き終わった僕の揺れる手を握りしめた彼が言う。ひとりで立てない僕を支えるような、力強い掌だ。
「私の悲願だよ、ルー、…」
僕はそれが夢物語だって知ってる。僕がまた脚光を浴びて、注目されるようになったら、きっとセデュとはいられない。僕の過去がまた暴かれて、世界中に広まって、…僕を囲った彼が、窮地に立たされるようになるのを、僕は望まないからだ。
彼が僕のために、すべてを擲ってくれたとしても。僕はそれを望まない。
ただ、夢物語を、心の底から信じているセデュが、僕にはひどく可愛く思えて、たまらなくて。
僕の、僕だけの騎士様を、ぎゅっと強く、抱きしめ返すんだ。
もう離れないでいられるように。
朝が来て、ハウスメイドの足音が聞こえるまで、僕らはそのまま、くっつきあっていた。




