『ウンディーネは黄昏に踊る』番外編 シーツの上の告白
小鳥が啄むような音を立てて、キスの雨が降る。
僕は相変わらず硬直したまま、それを受け入れる。
だってやっぱり、慣れないのだ。ごそごそとからだに這わされた掌が、ぷつり、ぷつりと僕のシャツのボタンを外して、ゆっくりと肌をあらわにする。
腕を抜くよう促されていうとおりに動けば、剝がされたシャツはぽとりと、ベッドの脇に落とされる。
いつもは服を脱ぎっぱなし放りっぱなしの僕に、小言を言うセデュなのに。
今日は最後まで、するのかな、と思うと、緊張で掌が汗ばむ。
どうしよう、何も準備してこなかったぞ。だいじょうぶかな。頭の中をぐるぐると焦りが駆け巡って、パニック状態の僕は、促されるまま腰を上げ、ずるりとジーンズまで脱がされてしまった。
それもやっぱりノールックでぽいと投げ捨て、セデュは僕の上にのしかかって、再びキスを、唇から顎、首筋、鎖骨と、点々と、しるしでもつけるみたいに落としていく。
まさぐる手指が、僕の下着にかかって、一杯一杯で、僕は思わず、叫んでしまった。
「ちょっと待って! 僕ばっかり脱がさないで! 君も脱いでよ、不公平だろう!?」
シャツとスラックスを身に着けたままのセデュはぼんやりと僕を見て、ああ、と夢の中にいるように頷く。なんだろう、こいつももしかして、僕と同じように、一杯一杯だったのかな。
のろのろとセデュがシャツに手をかけ、感慨などないように、一息にがばりと脱ぎ捨てる。
健康的な彼の日に焼けた肌がむき出しになって、僕の心臓は痛いくらいだ。
貧弱で、骨ばっかりの僕の身体と違って、どこに出しても恥ずかしくない彼の半裸は、ギリシャ彫刻の若者像のように均整がとれていて、ふっくらと盛り上がった胸元や引き締まった腹には、いい感じの筋肉もついている。年頃の女の子たちが観たら、失神しそうなほどきれいだ。僕は女の子じゃないから、失神はしないけど!
スラックスのジッパーに手をかけ一瞬考えたようにぴたりと止まった彼は、そこから手を離してまた僕に屈みこむ。
そのまま再開しようとする彼に、僕は精一杯の抵抗をした。
ばたばたもがいて、ぽかぽかセデュの背中を叩いてやった。
「まだ全部脱いでない! ずるい! 僕にも見せろよ、君の情けない下着姿をさあ!」
「どんな姿でも、お前は美しいよ」
「今そーゆーのいいから! 不公平だって言ってるんだってば! やーめーろーよー!」
暴れる僕に戸惑った様子のセデュはぴたりとキスをやめて、僕の顔をのぞき込むように首を傾ける。
「これ以上するのが嫌なら、何もしない。お前が決めてくれ」
「べ、べつに、いやってわけじゃあ…」
「つづけてもいいのか?」
「う、ううう、うん…」
「下着の中に触れても?」
「そ、それは、まだ、待ってほしい、っていうか…」
「…そうか」
セデュは腰回りに回していた掌を外すと、僕の平らな胸に、這わすようにする。
ない胸を揉んでいるみたいだ。乳首がこすれて、くすぐったい。
「…なんだよお、僕おっぱいないから、そんなことしても、きもちよくないぞ」
「…ふれさせてほしい。ここはだめか?」
「…だめじゃないけど…」
「それじゃあここは?」
「う、うーん…べつに、へいき、かも…」
「ここは」
「…ううう、いちいち聞かなくていいよ! ちんちん以外なら触っていいってば!」
「…そうか」
輪郭をたしかめるように、僕の二の腕、背中と撫でさすっていた掌が、再び腰のあたり落ち着いて、きつく抱き寄せるようにする。
ぴったりと肌と肌が重なって、鼓動が伝わる。
ドクドクと早鐘を打つのは、僕の鼓動か、それともセデュの鼓動だろうか。
汗ばんだ胸と胸が触れあって、人肌が暖かくて、僕はついついうっとりとなって、彼の背中に腕をまわして、抱擁に応える。
なんだかすごくきもちがいい。何時間でも、こうしていたいくらいだ。
…下半身に、彼のかたいものがあたっているのは、気になるっちゃなるけど、それもお互い様だ。
「…苦しくはないか」
半勃ちの僕のものを気遣って、セデュが言う。自分は僕よりずっとしんどいだろうに、相変わらず人のいいやつだ。
「だいじょうぶ。へへ、きみとこうしてると、やっぱりおちつく…」
「…私はあまり、落ち着かないが」
「そうなの? え、じゃあ一回離れる?」
背中から手を離し、シーツの上を退ろうとする僕を、彼のあっつい掌が留める。
そのまま掴まれた掌を自分の心臓に寄せたセデュは、ほう、と苦し気なため息を吐いた。
「お前のそばにいると――お前とこうして、ふれあっていると、私は、どうにかなってしまいそうだよ」
赤く染まった耳朶で、潤んだ瞳で、そう言って、セデュは僕の掌に、噛みつくみたいなキスをした。
それからはもう、セデュのされるがままだ。
だらりと横たわった僕はぺろぺろと犬のように執拗に嘗め回してくるセデュの舌に困惑し、混乱し、セックスって、どうやるんだっけ、なんて必死に考えていた。
考えていたらセデュが僕の脇に鼻を突っ込んで舐め出したので、さすがに僕は飛び起きた。
「ちょっとちょっとどこ舐めてるのさ!? え!? と、特殊なプレイはもうちょっと慣れてからにしないかな!?」
「特殊、だろうか…」
「特殊だろどう考えても! 僕は女の子の身体をそんなふうに舐めたことなんてなかったぞ!」
「私は、お前の身体なら、どこでも舐めたい、のだが…」
「いやいやいや、お金で買うお姉さんみたいなことはやめてくれよ!? え、僕がおかしいのかこれ!?」
「…ほかのひとのはなしは、いましないでほしい」
「…あ、ごめん…」
シュンと肩を落とすセデュはやっぱり従順な犬みたいで可愛いけど、彼のフツウがこれだっていうのなら、僕にもモヤモヤするものが残る。
…それってつまり、セデュは、結婚を前提におつきあいしていた彼女とも、別れた前の奥さんとも、こんなふうな、濃厚? なプレイをしっていたってことだろう! ちょっと聞き捨てならない。モヤモヤとイライラで爆発しちゃいそうだ。…しないけどね! そんなみっともないマネは!!
「きみは…なれてるのかもしれないけどさ…ぼくは、付き合ってた子たちとは、単純なやつしか、してなかったから、驚いたっていうか。特殊なやつも、経験ないわけじゃないけど、そういうのはちょっと、非日常的というか…」
「…」
眉間に皺を寄せて、セデュが黙り込む。あ、なんかいいな、愁いを帯びたその顔、映画のワンシーンみたいだ。
…映画俳優の彼は、映画の中で幾多の女性たちとラブシーンを演じもしたし、私生活でも、それなりに、いろんなことを経験済みだろうし、…男相手にここまでできる彼は、もしかしたら、男性経験も豊富なのかもしれない。
8年ぶりに彼と再会したのは、パリの場末の、男娼窟だった。
彼に問い詰めたことはないけど、セデュは定期的に、ああいうところで男を買っていたんだろうか。
だとしたら、どんなアブノーマルなプレイが飛び出すかわかったもんじゃないぞ。男同士のあれって、男女のそれより激しめなんだって、僕にも知識だけはある。
…やばい、モヤモヤイライラを通り越して、なんだか落ち込んできた。せっかくのセデュとの初夜、だっていうのに、これじゃあ台無しだ。ああ、こんなこと思い出すんじゃあなかった。というかあらかじめ聞いておくんだった。そしたら衝撃ももっと少なかったろうに! 腐った芸能界に8年近くいた彼は、もしかしたら枕をさせられたことだってあったかもしれないし、相手は女性だけじゃなかったかもしれない! …だからやめろって、そんなことばっか考えるな、僕のバカ!
「きみって性病の検査とか、したことある?」
勝手にひとりで追い詰められた僕はとうとう、そんな最低な言葉を放っていた。
どう考えても初夜にふさわしい言葉じゃない。というか普通の男なら、ドン引きで逃げ出して当然の質問だ! 僕なら逃げる、こんな、情緒のカケラもない、面倒な男!!!
「…定期的に検査はしている」
「あ、そうなんだ…」
「病気は持っていない。というか、病気があったら、役者としては致命的だ。女優に伝染す可能性があるなら、ラブシーンなど演じられない」
「そ、そうだよね。そりゃあそうか…」
「…」
「…」
「…やはりこわいか、私とするのは」
「…」
そんな悲しそうな顔で言わないでほしい。僕だってきみとしたいし、もっといちゃいちゃくっついていたい!
けど、なんて伝えたらいいのかわからない。追いかける恋は経験がないんだ。僕はいつだって、追いかけてきてくれる女の子に応える一方だったから。
「…きみは、男を抱いたこと、あるの」
そして僕はついに言った。言ってしまった。答えなんか聞きたくないのに。今すぐ耳を塞いで、わーわー騒ぎ出したいくらいだ。
「………」
セデュは黙り込んで、眉間の皺が一層深くなる。ああ、なんだかやばい兆候だ。全部ご破算になる未来が見える。僕の軽はずみのせいで、僕にデリカシーがなさすぎるせいで!
「やっぱりいいや、聞かなくても」
「…」
「別に、ビョーキじゃないなら、僕に関係ないもんな! 君が何人と寝てようが、男娼窟で毎晩男漁りしてようが、僕は気にしないよ! だって今君は僕のものだからね! そうでしょう?」
「…」
うわ、即答なしかよ。なんだろ、彼の痛いところを突いちゃった感じかな? なんか全部有耶無耶にして軌道修正しようとしたんだけど、明後日の方向に行っちゃった気がする。どうしよう。
…せめて、君が僕のものだってことだけは、肯定してほしかったんだけどな。
それさえ確信できるなら、僕は君が女と寝てようが男と寝てようが、全然いいんだ。だって僕は君のことが、すきになっちゃったんだから――
「経験はない。お前と違って」
「うん…え?」
「お前と違って」
「いや二度言わなくてもわかってるから。というか、僕だって男性経験なんてないよ??」
セデュはがばりと顔を上げて、僕の目をじっと見て、それからなぜか、両手で顔を覆ってしまった。
「ど、どうしたのさ、いきなり…」
「………」
セデュは口がきけないみたいに首を横に振って、しばらくそのままでいる。むりやり手を外してみると、なんか、こみ上げる感情で、ぐちゃぐちゃになったみたいな、僕の演奏を初めて聞いたときみたいな、涙目があった。
「……おまえは、ああいうところで、客をとって、いただろう…」
「え、あ、男娼窟のこと?」
「……既に、男を知っていると、思っていた…」
「えええ、はあー、そっか、うん、そう、だよね…」
「…お前は既に、…嬲りものにされて、痛めつけられてきたのだとばかり…」
「……」
「私が、もっと早くお前を見つけられていれば、そんなことには、ならなかったろうにと…」
「…それで、今まで、躊躇ってたのか」
宝物みたいに、僕のことを、大切にしてくれていたのか。
じわじわとこみ上げてくるものがある。これは、嬉しさだろうか。
セデュに、確かに、愛されていると感じる、喜び、だろうか。
「…ちゃんと話さなくって、悪かったよ。…僕に男性経験はない。そもそもあそこに行ったのも、あの時が初めてだった」
「……」
セデュは感無量とでもいうように、こくりと頷く。その潤んだ目と、ぼさぼさの髪が、少年みたいでかわいらしい。
僕はどれだけ君を、傷つけてしまっていたんだろう。たまらなくなって、僕は彼を抱きしめる。
ぎゅうと抱き合うと、懐かしい体温が重なって、溶けちゃいそうな気分になる。
「もういい、君のすきにしていいよ。僕だってずっと待ってたんだ。君に触れられるのを」
「…ルー、」
「君が、100人切りのカサノヴァでも、べつに僕は気にしない。もういいんだ、もう、そういうのは…」
「……経験は、ないと言ったが」
不服そうな声にきょとんとなって、僕は彼を見下ろす。
「…え?」
「………」
「え、それって、まさか、もしかして…」
「………」
みるみる真っ赤に染まるセデュの、愁いを帯びた顔が、なんだか不貞腐れているみたいに見える。
完璧な美を体現しているかのような、その顔が、不本意な自白を強要されてでもいるようで、僕は唖然として、そして。
「願掛けだ。いなくなったお前と、また会うための、」
「え…」
「私は、女性も男性も、経験がない」
照れるでもなく、胸を張るでもなく、淡々と彼は言って、視線をふいと落とす。
「マジで童貞だったのかきみ…」
「何とでも言え。今更恥じらう年頃でもない」
「え。ええ、えええええ…まじかあー…」
「…失望したか」
ぐったりとシーツに倒れ伏して頭を抱える僕に、ぽつんと言ってくる。
30すぎて童貞なんて、マジで君のほうが、妖精じゃあないか! なんて、笑うことはさすがにしない。さすがに。なんだか、彼がそうなった要因は、僕にも責任がある、ようだし。
なにより、世界中の女の子が憧れる世紀の色男が、セクシーなカサノヴァが、ぴっかぴかの、手つかずの、新品だなんて! 信じられるかい、僕にはとても信じられない!
でも彼がこんなことで嘘を吐かないことを僕は知ってる。何より、僕にとっては最高の事実だけれど、彼にとっては、不名誉でもある、みたいだし。
やばい、にやけが抑えられない。どうしたって笑みが零れる。でもセデュをバカにしているみたいに思われるのもいやだから、なんとか抑えないと…
ほっぺたを抓ったりひっぱたり、俯いたままむにゃむにゃやってたら、セデュの手が伸びて顎を掴まれ、くいと上を向かせられる。
「…笑ってるな」
「ごめ、ごめん、くく、バカにしてるわけじゃないよ、ぷぷ、ほんとだぜ…」
「別にかまわない。私の身体を、お前のために捧げられるのなら、本望だ」
「………」
なんでもないことみたいに言わないでほしい。ヒュッと息が詰まって、僕はそれ以上、揶揄うことも、ふざけることも、できなくなってしまう。
「つづけても、かまわないか」
さんざん、それこそ、10年以上? 待たされたセデュは、ご褒美を待ちわびる犬のように、僕に尋ねる。
ここで僕がいやだと言ったら、きっと彼は何もしないんだろう。
その脅威にすら感じる我慢強さで、また、待ち続けるんだろう。
そんなの、あまりにかわいそうで、かわいくて、いとおしくて、たまらないにきまってる!
「いいよ。つづき、しよ? ぼくがきみのはじめてを味わえるなんて、光栄だ」
にっこり笑って伝えれば、もう限界だとでもいうように、セデュがむしゃぶりついてくる。
何度も何度もキスをして、また僕を舐めて、セデュは溶けてるみたいな飴色の瞳でつぶやく。
「海のような味がする…」
「あ、さっきまでプール入ってたから、塩素だよ、たぶんそれ…」
「グロリアには、なにもされなかったか」
「大丈夫。心配しないで、なにもなかったって…」
男にレイプされかけたことは黙っておく。グロリアとセデュの仲が、ますます面倒なことになりそうだから。
「君はいつもと違って、なんだか汗の香りがするね、ふふ、いいにおい」
「…昨夜から、シャワーも浴びていなかった…やはり一度、身体を流そう、…」
「へーきだよ、ぼく、きみの匂い、すきなんだ。香水の匂いもすきだけど、きみの汗のにおいもすき。なんだか甘く感じて、頭の芯がしびれるみたいに、どきどきするんだ…」
「ルー、名前を、呼んでくれるか」
「…ん。セデュ、ぼくを抱いて。だいすきだよ」
うっとりとしたような彼の潤んだ瞳に映る僕は、なんだか溺れているみたいだ。
部屋にはいつのまにか、夜のとばりが下りていた。




