最終章:心の灯火、降りしきる記憶
雪山を下りるエレナの足取りは、かつて南国を飛び出した時とは比べものにならないほど、確かな重みを持っていた。
彼女の手には、銀の若菜を閉じ込めた魔導の小瓶。そして、内側から静かな光を放つランタンがあった。
護衛のカシムは、その光に導かれるように歩きながら、ふと足を止めて空を仰いだ。
「エレナ。あんたが持ってきたのは、ただの草じゃないみたいだな。……この冷気が、ちっとも怖くない」
カシムの言葉通り、エレナが積み重ねた孤独は、今や周囲を包み込む柔らかな優しさへと形を変えていた。
数週間後。灼熱の王国アステリアの国境に、一隻の魔導艇が降り立った。
出迎えたのは、司教ソロンを筆頭に、熱狂に浮かされた大群衆が押し寄せていた。彼らにとって「立ち止まること」を説くエレナは、繁栄を阻む異端者に他ならなかった。陽炎の向こうから、糾弾の叫びが熱風となって襲いかかる。
「エレナ! なぜ戻った。この国に静寂など不要だ。我らには永遠の繁栄と太陽の光があればいい!」
ソロンの叫びが響く中、エレナは静かに一歩前へ出た。彼女は何も言わず、ただ手にしたランタンを高く掲げ、銀の若菜を地に置いた。
その瞬間、アステリアの熱風が止まった。エレナが雪山で聴いた、あの「ふしぎな静寂」が街を支配する。
そして、人々の驚愕の眼差しの中で、真っ青な空から、信じられないものが舞い落ちてきた。
「雪……?」誰かが呟いた。
それは夢のように淡く、幻のように深い、白の欠片。 雪は、灼熱の砂に触れても消えず、むしろ地層の奥深くに眠っていた太古の記憶を呼び覚ましていった。
一粒の砂、一つの命が積み重ねてきた数億年の「生」の軌跡が、心地よい温もりとなって人々の魂に浸透していく。
エレナは目を閉じ、天の声と地のささやきを聴いた。
人々は初めて、隣にいる者の孤独に気づき、その孤独が自分と同じように長い進化の果てにある「尊い命の証」であることを知った。
ソロンの焦燥も、人々の喧騒も、降りしきる雪が優しく覆い隠していく。
「お母さん、わかったよ」
エレナは心の中で語りかけた。
この星が、植物が、そして自分が積み重ねてきた選択。そのすべてを認め、孤独を大地に積み重ねることで、人はあらゆることに優しくなれる。遠くのものは近くのものになり、さびしさは懐かしさへと変わる。
エレナはもう、過去の「記憶を編む」だけの守護者ではない。彼女は今、自らの孤独を種に、この星の未来に「光を編む」者となったのだ。
南国の空に舞う、初雪。
それは、長い旅を終えた巡礼者が世界に贈った、最も静かで、最も温かい「冬の心」だった。
エレナはリリと交わした約束を思い出し、微笑んだ。
積層星の深く冷たい層の下では、次の禁の若葉が、また数十億年の試行錯誤を積み重ねながら、新たな軌跡として芽吹く時を静かに待っている。
(完)




