ダイエットは生きザマだ
とある高校の放課後。喧噪に包まれた廊下は部活に向かう生徒たちの熱気で満ちていた。その中で一人の少女だけが壁際に身を寄せ、自分の身体が誰かの邪魔にならないよう、息を潜めて歩いていた。だが、そんな少女の気遣いを嘲笑うかのように部活に向かう男子生徒の集団が少女に声を掛けた。
「おい太田、俺の視界に入るんじゃねえよ、暑苦しいんだよこのブタが!」
廊下ですれ違いざまに男子生徒から罵声を浴びせられたのは、高校2年生の女子高生、太田幸子だった。身長は155cm、体重は90kgと、かなりの肥満体型。
「あの、ごめんなさい」
「悪いと思うんなら、その当たり判定の大きさを何とかしてくれよなあ」
「う、うん…」
花の女子高生のはずが、体型が理由で日常的に虐めを受けている。あるいは、存在自体を無視されるかの2極化していた。それでも中学生までは、同じ体型の友人がいた事で、虐められる対象が分散していたが、別々の高校に行ってからは、すっかり虐めの対象が自分だけになってしまった。
あまりに辛すぎて死にたくなった事もあった。しかし、実際に行動に移す勇気も無ければ、そんな行動力すらなかった。
だが、そんな彼女を一つの出会いが変える事になる。
ある日の学校の帰り道、コンビニでドリンクを買おうとしていた所、後ろから声を掛けられた。
「さっちゃん、さっちゃんじゃない?」
聞き覚えのある声。それに、自分をさっちゃんと呼ぶのは、中学時代のぽっちゃり仲間の細井瑠奈だ。太田は声に気付いてすぐに振り向く。すると、そこには中肉中背の可愛い女の子がいた。自分の予想と反して細井ではなかった。誰だか分からないが、少なくとも太田には見おぼえがなかった。
「えっと、どなたですか? 私の知り合いですか?」
「私よ、細井よ」
「え、ルナちゃん!?」
「うん、ルナよ。さっちゃん久しぶり!」
言われてみれば細井の面影がある。しかし、太田の記憶の中の細井は、自分とほとんど変わらない体型だった。しかし、目の前の女性は明らかに細く、とても細井とは信じられなかった。
細井の足元に目を落とすと、自分とは正反対の引き締まった足首がサンダルの細いストラップに収まっていた。対して自分の足は床のタイルに重くのしかかり、ローファーの革を内側から悲鳴を上げんばかりに押し広げている。その残酷な差に太田は胸が締め付けられる思いがした。
「本当にルナちゃんなの? すっごい痩せたね」
「えへへ、ダイエット始めたんだ。さっちゃんは全然変わってないね」
「そうかもね。それにしてもダイエットなんてすごいね、見違えたよ」
「でもまだ60kgあって、まだまだ道半ばなんだけどね」
「へえ、すごいなあ。何キロまで落とすつもりなの?」
「私の身長だと、50kgくらいかな。とりあえずあと10kgくらい」
すると細井はパッと顔を輝かせる。
「そうだ、さっちゃんも一緒にダイエットしない。一緒にやったらきっと楽しいよ」
「私が、ダイエット?」
「うん、中学時代は私とほとんど一緒だったんだから、さっちゃんもきっとできるよ」
太田は少し考える。冴えない高校生活、日頃の虐め、そのほとんどが体型が起因している。もしかしたらダイエットを始めたら、それらが改善されるのかも知れない。どうしようか、これもせっかくのきっかけだし、ダイエットをやってみようか。
「私にできるかな?」
「きっとできるよ。やろうよ」
「そうだね…」
そう言われ、太田はなし崩し的に返事をしてしまった。とは言え不安は強い。
実は太田自身、過去にダイエットに挑戦した事があった。食事量を半分に減らしてみたが、数日で我慢の限界を迎え、結局1週間程度しかもたなかった。しかも、その間に減った体重も、ほんの数日で元に戻ってしまったのだった。
「それじゃあさ、私が所属している健康増進部の部長がうちのご近所さんなんだ。すっごい頼りになる先輩だから、先輩に指導してもらおうよ。先輩から直接指導してもらえればきっと上手くいくよ」
「先輩から? 知らない人とか、何だか不安だなあ」
「まあ、ちょっとマイペースな先輩だけど頼りになるから。話だけでも聞いてみない?」
「まあ、話を聞くだけなら」
「それじゃ、先輩に話を通しておくね」
「うん…」
そうして話はトントン拍子に進んで、次の土曜日に健康増進部の部長と会う事になった。
待ち合わせ場所のファミレス、サイゼリアに太田は待ち合わせ時間より30分程早く着いて、ドリンクバーを注文して待機する。
そうして20分程ジュースを飲んで待っていると、細井が一人の男を連れてやってきた。どうやら彼が健康増進部の部長だろうか。自分が2年生で、同級生の細井が先輩だと言っていたから、恐らくは高校3年生。
サラサラとした髪の隙間から覗く耳や首元には脂肪の厚みを感じさせる緩みは一切なく、半袖のシャツからは逞しい上腕が伸び、前腕には小さく血管が浮き出ている。
「太田さんお待たせ。こちらが健康増進部の部長の京加賀先輩」
「どうも、京加賀だ。君が細井の言っていた太田か?」
「は、はい、太田です。本日はよろしくお願いします」
太田は立ち上がってペコリと会釈をする。だが内心、初対面でいきなり呼び捨てされた事にちょっとムッとした。
挨拶を済ませると、細井は太田の隣の席に座り、京加賀は二人の向かい側の席に座った。
「それで、お前がダイエットをしたいという事か。なるほど、初めて会った時の細井とそっくりだな」
「まあ、その、ダイエットをするというか、一応、どんな感じかお話しだけでも聞かせてもらいたいなと思って」
すると、急に空気が変わった。京加賀が細井を睨みつける。
「おい細井、話が違うじゃないか。お前、ダイエットを始めたい友達がいるからアドバイスして欲しいって言ったよな? こいつ、まだダイエットを始める覚悟ができてないじゃないか!」
京加賀に睨まれて細井は肩を竦めて恐縮する。
「あの、すいません。私の確認不足で」
「ふざけるな。俺は企業の営業回りをやってるんじゃないんだぞ。せっかくの貴重なプライべートな時間を割いてやってるのに、話だけなんて間抜けな話があるか。帰らせてもらう!」
そう言うと京加賀は立ち上がった。しかし、立ち上がってからしばし考えた。
そもそも京加賀は太田と細井の間でどのようなやり取りがあったのか、細かいニュアンスまでは把握していない。もし太田が言うように、最初から話だけという流れだったとしたら太田に落ち度はない。細井の自分への伝え方に問題があった可能性がある。
仮に細井の伝え方に問題があったのならば、それは細井の責任だ。そうであれば、部長の自分も連帯責任があるというものだ。京加賀の部長としての責任感が、このまま帰る事を許さなかった。
それだけではない。京加賀は太田の目にうっすらと涙が滲んでいるのが見えた。言い過ぎてしまっただろうか? 女性を泣かせておいて、その涙を拭わないまま立ち去る事にも強い罪悪感を感じた。
更に太田は、90kgの巨体を目いっぱいに縮こませ、申し訳なさが態度から滲み出ていた。恐らくは彼女なりに今日ここで話を聞く事に、きっとそれなりに強い覚悟を持って臨んだ事だろう。そんな彼女の覚悟をこんな簡単に足蹴にしてしまっていいのだろうか。
立って2,3秒の間に京加賀の頭に様々な思考が駆け巡る。そして再び着席する。
「すまん、言い過ぎた」
京加賀は太田に向かって軽く頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。
「いえ、私の方こそ申し訳ありません。先輩の貴重な時間を台無しにしてしまって」
「いやいい。これも何かの縁だ、とりあえず基本的な話はしてやろう」
「あの、すいません」
太田は自分のせいで先輩を怒らせてしまった事、細井に迷惑をかけてしまった事を申し訳なく感じ、謝罪の言葉が零れた。
「まあいい、とりあえずドリンクを持ってくるから少し待ってろ」
そう言うと京加賀はドリンクバーを注文し、ドリンクコーナーからアイスコーヒーを持ってきて一口飲んだ。京加賀はストローは使わず、グラスに直接口を付けて飲む。コーヒーが喉を通るたび、喉仏が大きく上下する。その首筋や、襟元から覗く胸周りはやはり余分な脂肪は見られない。
「さて、どこから話すか。まあ、基礎的な事から話してやろう。太田、お前、ダイエットって何だか分かるか?」
「ダイエット? 痩せる事ですか?」
「まあ、減量もダイエットに含まれているが、少し違う」
「えっ、痩せる事をダイエットというんじゃないんですか?」
「いいか、ダイエットというのは健康増進を目的とした食事制限、あるいは生活習慣全般を指す。つまり、減量した結果、健康を損なってはそれはダイエットとは言わないんだ」
「それは知らなかったです」
「ダイエットをするという事は直接的には生活習慣を変えるという事だ。そして生活習慣とは生きザマだ。つまり、俺に言わせればダイエットをするとは、生きザマを変える事、もっと言えば生まれ変わる事だ。改めて聞くが、お前は古い自分を捨て、生まれ変わる覚悟はあるか?」
「生まれ変わる…」
太田は改めて普段の自分を省みる。毎日の虐めと無視で辛く死んでしまいたいくらいだった。むしろ生まれ変われるものなら生まれ変わりたいと思った。
「あの、死んだら生まれ変われますか?」
「さあな。死んだら死ぬだけだ。気安く死ぬとか言うもんじゃない」
「じゃあ、どうしたら生まれ変われますか?」
「俺は生まれ変わるとは考え方を変える事だと思っている。ついでに一つ、マザーテレサの言葉を教えてやろう」
そう言うと、京加賀はアイスコーヒーに口を付ける。
「思考に気を付けなさい、それは言葉になるから。言葉に気を付けなさい、それは行動になるから。行動に気を付けなさい、それは習慣になるから。習慣に気を付けなさい、それは性格になるから。性格に気を付けなさい、それは運命になるから」
それだけ言って京加賀はドリンクバーで、今度はアイスティーを持ってきた。
「思考を変える、言い換えるなら覚悟を決める事だ。覚悟に勝る決断はない」
「私、生まれ変わりたいです。先輩、助けてください」
太田は目に涙を滲ませ、京加賀の目をジッと見つめる。すると、京加賀も太田の目を見つめ返した。目が合った太田は少し恥ずかしかった。しかし、嬉しさもあった。
いつもの太田は虐めの対象だ。あるいは存在自体を無視されている。京加賀がしっかりと自分に向き合ってくれるのが嬉しかった。しかし、もしここでダイエットを始める事を拒否したら、京加賀はきっともう二度と自分を見てもらえないだろう。そうなるのが何だか怖かった。ダイエットをしたいという気持ちと、誰かに存在を認めて欲しい、そんな気持ちが混在していた。
「いいだろう、腹は決まったみたいだな。いいか、ダイエットの道は辛く険しいぞ」
「はい、頑張ります!」
すると京加賀はフッと笑う。
「なんてな、嘘だよ」
「えっ、嘘? 何がですか?」
「ダイエットが辛く険しいというのがだ」
そう言うと京加賀は細井の方を見る。
「おい細井、お前はどうだ。ダイエットは辛いか? お前は辛くて苦しい事を友達にやらせようとしてるのか?」
「いいえ、私はダイエットすごく楽しいです。そりゃ、辛い事が全くない訳じゃないですが、辛い事と楽しい事を天秤にかけたら、楽しい事の方がずっと上回ります」
「じゃあ、ダイエットの何が楽しい?」
「それは、友達や家族が認めてくれる事、毎日鏡を見る事、毎日体重計に乗る事、とにかく毎日が楽しいです」
太田の家の風呂の脱衣所には洗面台に鏡が置いてある。太田がそれを見るのが嫌だった。だらしない自分の身体が映ってしまうからだ。それに体重計も、自分が太っている現実が突きつけられてしまうため、乗りたいと思った事はなかった。年に一度の健康診断での体重測定が地獄のようだった。
ダイエットを始めれば、自分も体重計に乗るのが楽しみになる時が来るのだろうか。
「体重計は嘘をつかないからさ。相手がたとえ天皇陛下だろうと、ローマ法王だろうと、総理大臣だろうと、みんな平等。努力を怠ったら叱られるし、頑張ったら褒めてくれるの」
「体重計に褒められる?」
「うん。何だか褒められてる気分になるの。体重計に乗るのが毎朝の楽しみ」
すると京加賀が言った。
「で、ダイエットをいつから始めるつもりだ?」
「もちろん、今からですよね」
「その通りだ。明日と言うのは明るい日と書くが、明るい未来が来るのは今日を頑張った者のみだ。今日を頑張らない者に明日はない。例えるなら宿題を一切やらないまま迎えた8月31日が毎日繰り返されるだけだ」
「宿題を一切やらないまま迎えた8月31日が毎日。それは悪夢ですね」
「そうだろう。だったらやるしかない」
「私にやれますか?」
「それはお前次第だ。まあ、9月1日が来ないなら、永遠に8月31日を繰り返すのも案外悪くないかも知れないけどな」
「いえ、私は宿題を全部終えて9月1日を迎えたいです。そのために力を貸してください、京加賀先輩!」
「いいだろう。それじゃ早速本題に入ろうか」
覚悟を決めた太田の目は、希望に満ちていた。
続く☆




