死神は、静かに去る。
宜しくお願いします。
古き森、シルヴァーナ。
月光が届かぬほど深い木立の中に、一軒の家が音もなく現れた。
瓦屋根、土壁、障子。
海の潮の香りが、苔むした空気に広がる。
だが、匂いは一瞬で消え、屋敷は最初から森の一部だったかのように景色に馴染んだ。
明かり一つ灯っていない静かすぎる屋敷の縁側に座る人物は、家が現れたことで鬱蒼と茂っていた木々の隙間にぽっかりと空がひらき、見えるようになった夜空に浮かぶ月をぼんやりと見上げていた。
◇
リシア・シルヴァリスは、悠久ともとれる長き時間を生きる命に疲れていた。
三百年を超える生は、記憶を重くし、感情を薄れさせる。自身が望んだわけではない。
ただ、生まれついた種がそうであっただけ。
古老と呼ばれた賢者は、何歳まで生きたか。
本人も途中で数えるのをやめてしまったという。彼は多分……六百と少々。
長命種と呼ばれる我らは、短命種の三倍ほど生きる。時の流れが違いすぎて、共に生きるには心が擦り減る。
だから我らは、森に逃れた。
森はいい。
長い長い時をかけて、ゆっくりと変化していく。
人の手が、入りさえしなければ。
リシアは倒木の根元で膝をつき、最後の息を吐きかけていた。
永き刻を生きるのに疲れて、死を望んだというのに。
何故だろうか。
今になって忘れていた幼き頃の記憶を思い出す。
父と母と、自分をはぐくみ育ててくれた同胞たち。
人の世で言う、これが走馬灯というものなのか。
だとしたら、随分と長い夢になりそうだ。
ゆうに三百年を超える思い出だ。忘れていた思い出すら甦るという超常。どんなに慌てたからといって四半刻くらいは掛かるだろう。
四半刻か……。
銀の髪が土に触れ、碧い瞳が閉じられる。
エルフは自然に還るまで死なない。
魂が肉体という枷から外れても、その肉体が朽ちるまで孤独なまま待つしかなかった。
そうして肉体が朽ち果ててのち、漸く魂もほどけて消える。全てが自然に還るのだ。
息が弱まる。
だが、死はまだ訪れない。
その時、何処からか影が伸び、リシアの顔に翳りが落ちた。
「随分とまぁ……遠い所まで来たもんだ」
男の声に、リシアは薄っすらと瞼を上げる。
黒い髪、黒い目、全身黒ずくめの衣装。
見た目の年は若い。だが、人間ならどうだろう。壮年に入る前か、後か……。
穏やかな声だ。だが、少々疲れている話し方をする。
ふふ、この様な時になっても人間を観察するのか、私は。
「食べれるか? 少しだけ入ってる汁飲むだけでもいいけど」
見慣れない容れ物を差し出される。
あれは鉄だろうか。いや、違う気配を感じる。新しい鉱物か。
ああ、世の中はまだ私も知らないことで溢れているのだな。
温かな空気を感じる。あと、未知の香り。
リシアは最後の力で受け取った。
これは、どんな食べ物なのだろうか。見たこともない食材ばかりが、串に刺さって入っている。
食べる勇気というより、咀嚼し嚥下する力が残っていない気がして、器に口をつけて中の水気を一口飲む。
温かい……。
やはり、知らない味だ。
深みはあるけど、味は濃すぎない。
「不思議な味だ」
「おでん缶は、非常食としても優秀だ。これに秘伝の濃厚ソースがしっかり絡んだ肉厚なロースカツサンドがあれば無敵だな」
「それは、また……」
少しばかり、自分の胃には重そうだ。
缶の中身だけでも、量が多そうなのに。あと、ロースカツサンドとはどんな食べ物だろうか。
やはり、人の世は奥深い。
人の世?
リシアは、包むように両手で持っていたおでん缶から視線を上げて男を見た。
「……人間?」
「まあ、そんなところ」
曖昧だ。
そう、この男の気配は曖昧なのだ。
探るように、じっと相手の目を見ていたらやる気のなさそうな素振りで男は立ち上がり、手を振った。
途端に景色が歪み、オークの幹がねじれながら立ち上がったかと思うと枝が自然に弧を描いて屋根を編み季節ごとに色を変える葉が生い茂る。壁面には蔭翳の蔦が這い、銀の脈のような光を放っていた。
「ああ……そんな……」
リシアは息を呑んだ。
これは、走馬灯か?
走馬灯なのか?
五体を投げ出し、あとは朽ちるだけだったリシアの体はしっかりと二本の足で立ち上がっていた。
足が、一歩出る。
――――シルヴァの樹冠宮。
それは、リシアの幼い日の住処。
帰りたくとも、帰れない場所。
「これは、夢か」
夢でもいい。
手にしていたおでん缶はいつの間にか消えていた。
宮の中から、風に乗って優しい声が響く。
『リシア、帰ってきたのね』
その声に誘われるように、リシアは樹冠宮に入った。
奥へ、奥へと。
幼き日のあの頃のままの樹冠宮。記憶を辿り、そよぐ声を辿り、母がいた部屋へと足を進める。
そうして、たどり着いた場所で一人の女性が暖炉の前に立っていた。
傍らの長椅子には男性の姿も見える。
「あ、ああ……嘘……」
銀の髪、碧い瞳。
病魔に侵される前の美しき姿に胸が締め付けられる。
三百年前に森の病で逝ったはずの母、アルウェン。病を封じ込めることに尽力し、力尽きた父、エルヴィン。
「嘘っ……お母様、お父様!」
リシアは駆け寄り、母に抱きついた。
温かい。
優しい花の匂い。
「お母様……本当に?」
アルウェンは微笑み、我が子を安心させるように髪を撫で頬を掌で包む。
「ずっと待ってたわ」
中の様子を男はドア枠に凭れながら見ていた。手に持つおでん缶からは、ふんわりと湯気がのぼっている。
香りが届いたのか、そこで思い出したようにリシアは振り返った。
「これは、奇跡か?」
「さぁ、どうだろうな」
「……人では、ないのだな」
「……ああ」
彼は少し考えてから、やはり何処か疲れたような声で答えた。男は存在自体が気怠げで怠惰だ。
「俺は、通りすがりの死神。君が一人で死なないように、ちょっと寄り添ってるだけ」
「そうか」
リシアは何故か納得できた。
怠惰で気怠げで、丁寧な言葉遣いなのに何処か横柄で。限りなく優しい。
「ありがとう」
肉体が朽ち果て魂が解放されるまで、無限に続くかもしれない永遠の半死を怖れた。
自ら死を望んだくせに、誰かに寄り添って欲しかった。
自らが、自らの夢の一部になる。
リシアは母の腕に抱かれて、父の腕に母ごと抱き締められて、ゆっくりと目を閉じた。
「おやすみ」
穏やかな声は、いつもちょっと疲れている。
森の民だったもの。
今は森の一部となったもの。
倒れた古木の幹に背を預け、根元で悠久の眠りについたもの。
静かに微笑む彼の姿が霧のように薄れ始め、やがて完全に消えた。
時を同じくして、この森の何処かに現れた家も跡形もなく消滅していた。
リシアの夢見た記憶は、魂と共に森に還る。
お時間頂き、有難うございました。
おでん缶男、とうとう名前出てこなかったよ……。
おでん缶は、末期の水。
迷い家に取り込まれた死神って、ちょっと間抜けだな、とツボったので。




