第87話
「お兄様、お父様の具合はどう?」
我が屋敷に訪ねてきた兄に開口一番私がそう問うと、兄は苦笑した。
「伯爵になっておめでとうとか、そういう言葉はないのか?……って、まぁ、お前が気になるのはそこだよな。実はな、父さんは最近頗る調子が良い」
「本当!?」
私は兄の答えに目を輝かせた。
「あぁ、もちろん病気が治ったわけじゃないことは、家族も皆、理解している。だがな、顔色もずいぶんと良くなったし、床に臥せっていることもなくなった。薬がとても合っているようだと、助手も言っていたよ」
その言葉にレニー様もホッとしたような表情を浮かべた。
「それは良かった。デボラもずっと気にしていたので」
「そう言えば……お義姉さんは?タウンハウスに居るの?」
一緒に訪ねて来ると思っていた私は兄一人での来訪に違和感を覚えた。
ここ最近は父のことで度々領地に戻る兄に代わり義姉が王都のタウンハウスの留守を預かっていた筈だが。
「いや、数日前に領地へ越したんだ。俺と共に領地で暮らす」
「タウンハウスはどうするの?」
今までは兄は王都と領地を行ったり来たりだったが……。
「売り払おうかとも思ったんだが、いずれ必要になる時がくるだろうと思ってそのままにすることにした。管理は委託してるから気にするな」
「別にそんなことを気にしているわけじゃないわ。お義姉さん領地に行く気になったのね」
実は義姉は王都を離れることに些か抵抗している節があった。彼女の実家は領地を持たない宮廷貴族だ。王都から離れる事に不安があるような様子が私からも見て取れた。
「実は……妊娠したんだ」
兄がハニカミながらそう言った。そんな兄を見るのは初めてだ。
「そうなの?おめでとう!もう!早く言ってくれたら良かったのに」
「いや……まぁ、少し恥ずかしくて」
照れ隠しなのか、兄は鼻先を指でポリポリと掻いた。
「それで領地に?」
レニー様も横から会話に入ってきた。
「そんなところです。やっと安定期って言うんですかね?それに入って……やはり夫婦一緒に居た方が良いと二人で考えたんだ」
兄が結婚してもう五年程。待望の妊娠だ。
「確かに。夫婦は一緒に居た方がいい」
レニー様の言葉に兄が反応した。
「だけどレニー殿は騎士という仕事柄留守にすることも多いのではないか?」
そう言われてふと考える。── そう言えば最近は長期で留守にするようなことがなかったな……と。するとレニー様はさも当然といった風に答えた。
「デボラと三日以上離れることは難しいので、そういう仕事は断っています」
「へ?そうでしたの?」
私は思わず素っ頓狂な声を出した。
唖然としている私とは対照的にレニー様は清々しい程あっさりと語った。
「更に言えば僕だけじゃなく、なるべく妻帯者には遠征を控えるように計画しているんです。夫婦は側に居るべき……それは僕も貴殿と同じ考えです。副団長ですし、それぐらいは口を出せる立場なので」
『職権乱用』そんな言葉が私の心に渦を巻く。独身の近衛から反発を受けるのではないかしら?
私が目をパチパチと瞬かせると、レニー様は笑顔で言った。
「デボラ心配しなくていい。妻帯者が遠征すると、浮気を心配する奥方も少なからず居るんだ。ご夫人方は僕のお陰だと喜んでくださってるよ」
「確かに……まぁ、地方の娼館なんかはその手の騎士を相手にしている所も多いと聞くがな……」
兄もレニー様に同意するように呟いた。しかし、羽を伸ばすにはもってこいの場所かもしれないし、それを楽しみにしていた団員もいるのではないかと思うと、何となく複雑な心境だ。
「皆様の不満がなければ……良いかもしれませんね」
私は曖昧に言葉を濁す。
「デボラ安心して。僕は絶対に浮気などしないと誓うから」
レニー様は私の手を握るとキラキラした瞳で私にそう言った。
身内の前でいちゃつくのは些か恥ずかしく、私は赤面し、しっかりと握られた手を引き抜こうとするが、レニー様の力は思いの外強く、結局されるがままだ。
「……仲が良さそうで安心したよ」
兄の苦笑に、私はますます顔を赤くしたのだった。
レニー様が甘々で困る。使用人達の生暖かく見守る視線がむず痒い。
「デボラ、明日観劇に行かないかい?」
「デボラ、庭に薔薇園を作ろうと思うんだ。ほら、君は花が好きだろう?赤い薔薇の花言葉はずばり『貴女を愛しています』だしな」
「デボラ、そう言えば美味しい魚が食べたいと言っていたよね?新しく出来たレストランが美味い魚料理を出すらしい。どう?今夜行かない?」
一日に何度彼は私の名を呼ぶのだろう。
「レニー様、毎日毎日私に何かプレゼントしてくださらなくていいのですよ?」
「プレゼント?別に何か贈り物をしているわけではないのだが……?」
「私のことを考えてくださる時間そのものが、私にとってはレニー様からの贈り物です。それに何もせずにゆっくり二人で過ごす時間、それも大切な宝物になりますよ」
私がそう言えば、レニー様は少しだけ情けない顔で私を見た。
「迷惑……じゃないよな?」
「もちろんです」
私がそう笑顔で答えると、ホッとした表情で彼は私の肩にそっと額をつけた。
「好きすぎて、どうしていいか分からないんだ」
名実ともに本物の夫婦になったというのに……彼は何故か不安に駆られることが多いようだ。
私は彼の柔らかな髪をそっと撫でた。
「私も大好きですよ。だから安心してください」
彼は無言で何度もウンウンと頷いた。肩に伝わるレニー様の額の熱が私を温めていく。
結婚してもうすぐ一年。あの初夜から彼がこんな風になるなんて、誰が予想しただろう。そして、私も。こんな風に誰かを愛することが出来るなんて私でも想像していなかった。
「ずっと側に居てくれる?」
大きな体を私に預けた彼が小さく不安気な声で尋ねる。
「ずっと側にいます。この命が尽きるまで」
私は彼の髪をそう言って撫で続けた。




