第84話
私は急いでハロルドに手紙を書いた。なんとか新鮮なりんごを実家へ届けられないかと。
ハロルドからの返事はこうだ。
「伯爵がお召し上がりになる分ぐらいでしたら、私が馬でお届けいたします。ご安心ください」
私はハロルドに心から感謝した。馬車で運ぶより確実に早く届ける事ができる。私は同時に兄へ手紙を書いた。父にブラシェールのりんごを食べさせて欲しい……と。
「こんなことをしても気休めにしかならない事は分かっているのですが、何もしないままでは不安に押し潰されそうで」
私はりんごの件をレニー様に話す。いつの間にか自分の心のモヤモヤをレニー様に話すことで、心が少し軽くなっている自分が居た。
夫婦の寝室で二人一緒に休むようになってから、もうどれぐらい経っただろう。
彼はただ私の話を聞き、そして二人でその日起きた出来事を話し眠りに就く。ただそれだけ。
父の体調が思わしくないことを聞いてからというもの、彼はいつも弱気な私を優しく励ましてくれていた。
── 真夜中。
ふと目を開ける。父のことを考えているとついつい眠りが浅くなりがちだ。私は音を立てないように顔を横に向けた。
レニー様の美しい横顔が見える。しっかりと閉じられた瞼に長い睫毛。高い鼻に少し薄い唇。
見れば見るほど美丈夫だと分かる。
最初に出会った時……物凄く無愛想で何なら軽く睨まれていたことを思い出す。結婚式の間はずっと仏頂面で、この結婚への不満が溢れ出ていた。
(まさかこんな風に二人並んで穏やかに夜を過ごすようになるなんて……あの初夜の日に想像なんて出来なかったわ)
私は思わずフッと笑みを漏らした。
愛する人がいると言われた。世間体を保つためだけの結婚だと。
私もそれを受け入れた。政略結婚だからと。
(その上、愛人を作っても良いと言われたのよね)
あの時はいけ好かない奴だと本気で腹が立った思ったことも覚えている。手元にもう一杯水の入ったグラスがあれば、迷いなく思いっ切り水をぶっかけていただろう。
「そんなに見つめられると穴が開きそうだよ」
長い睫毛が震え、レニー様の瞼がゆっくりと開く。
「すみません……起こしてしまいましたか?」
レニー様も私の方へと顔を向けた。
「眠れない?」
レニー様が手を伸ばし、私の頬に掛かる髪をゆっくりと耳へかけた。
「いえ……たまたま目が覚めてしまって」
父のことを口に出せば、彼はまた私を優しく励ましてくれるだろう。だが、あまり心配もさせたくない。
「……そうか」
レニー様は私を見つめながら優しく目を細める。
「我慢はしなくていいから。不安があれば僕にぶつけて」
彼には私の眠りが浅い理由はお見通しなのだろう。
私は小さく微笑んだ。
「はい。その時は遠慮なく」
レニー様は私の頭をそっと撫でた。
「僕たちは夫婦だ。何でも分け合おう」
夫婦。そうか……私は領地を良くすること、領民を不安にさせないこと。それが私の役目だと、貴族の役割だと思っていた。
だけど、私たちは夫婦。目の前の人を幸せに出来なくてどうする。そんな人間が他人を幸せになんて出来るわけない。
だが……まだそれを口にする勇気はなかった。私はその代わりに「ありがとうございます」と礼を言って、私を撫でる手を取って自分の頬に当てた。
それから二週間程経っただろうか。
「整地も終わり、簡易的ながら馬車が通れる程の道が出来たようです。ハロルドから手紙が」
家令に手渡された手紙には、王都までの道が確保出来たことと一緒に、父へりんごを何度か届けた旨が書かれてあった。
りんごについては兄からも手紙を貰っている。ブラシェール伯爵領産のりんごはとても甘く、香りが高い。家族みんな喜んで食べていると。
だからといって父の病気が良くなるわけではない。ただ、今すぐにどうこうなるような状態ではないことに、私はほんの少し安堵していた。
「今が旬の果物は何かしら?まずはお店で売り始めようと思っているけど、そのうち新しく店を出すことも考えなければね」
「あぁ、そう言えば。レオナから言われていたワゴンなのですが── 」
そう言いながら家令は資料を捲る。
「公園で果実飴を売るって言っていたアレね。用意出来た?」
「はい。装飾はこんな感じで──」
家令の手元の資料を確認する。今の店の外観とどことなく似通った雰囲気のワゴンのイラストがそこには描かれていた。
「いいんじゃない?でも、これ誰が描いたの?凄く上手いわ」
絵の才能など微塵もない私には、それはとても可愛らしく素敵な絵に見えた。技法とか技巧とかはよく分からないが、細部まで細かく描かれている。
「それが実は── スタンなのですよ」
家令は少し勿体ぶって作者の名前を告げた後、微笑んだ。
「スタン?」
「はい。奴の隠れた才能です」
あの大きな体と大きな手でこんな繊細な絵を描くのか……いやいや、それこそ偏見だった。見た目で人を判断してはいけない。
「絵の才能があったなんて知らなかったわ」
「画家を目指してたのかって尋ねたら『単なる気分転換だ』って。趣味だと言うには上手いですよね」
「本当ね……あ!そうだわ!いいこと思いついた!あのねスタンに── 」
私のアイデアに家令も大きく頷いた。
「それはいいアイデアですね!メニューの横にその絵を描くなんて……」
「それがあればどんな物が出てくるか想像しやすいし、選ぶ手助けになるでしょう?スタンにお願い出来るかしら?」
「畏まりました」
家令は頭を下げ、私の部屋を後にする。しかし彼は扉の前で振り返ると言った。
「奥様、あまり根を詰めないでくださいね。眠れないようでしたら、寝る前にホットミルクでもご用意しましょうか?」
「ありがとう。……なら、今日はそうしてもらおうかしら?」
夜眠りが浅いことも、父のことを考えなくて済むように仕事に没頭していることも、家令にはお見通しのようだ。
正直……大切な人を喪うことが怖い。ブルーノがこの世から去って、私は身近な人の死にとても臆病になってしまった。
そんなある日。
「デボラ!やったぞ!」
レニー様が手に封筒のようなものを握りしめて、私の部屋へと現れた。
「レニー様?ど、どうされたのです?そんなに慌てて」
普段なら王宮で勤務中のはず。何故屋敷に居るのだろう?
「北の僻地からソロモン博士を呼ぶことが出来た!伯爵を診てもらえる!」
レニー様がとても興奮しているのだけはわかる。だが、彼の言葉が私には何のことだがサッパリ分からず、首をただ傾げるしか出来なかった。




