第61話
「兄さんは既に王宮へ行ったらしい。ちょっと王宮へ行ってくるよ」
三角巾を外したレニー様の腕につい視線を向けた。
「あ、あぁ、これか。もう随分と良くなったから」
軽く手を挙げて見せるレニー様に私は苦笑した。
「『三角巾が鬱陶しい!』と仰っていましたけど、本当に大丈夫なのですか?」
私はそっとレニー様の手首に触れる。確かにもう腫れは引いているようだ。
レニー様はコキコキと手首を動かしてみせる。
「ほら、もう痛くないし」
「レニー様の気持ちは分かりますが、一度お医者様に確認して下さいね。……それと、クラッド様とあまり言い争わないように……」
レニー様は私の頭にポンと手のひらを乗せた。
「分かってる。冷静に話し合うつもりだから。ただ、ちゃんと兄さんの話しを聞きたいんだ」
「それを聞いて安心しました」
私が微笑むと、レニー様は安心させるように、ニ、三回頭をポンポンとした。
彼はそのまま手を振って屋敷を出て行く。私はその背を見送った。
扉がバタンと閉まると、スススッと私に家令が近づいて来た。
「……最近、何だか良い雰囲気ですね」
彼の口元はニヤニヤと笑っていた。なんとか耐えようとしているのだが、我慢できなかったらしい。
「そう?……夫婦なら当たり前でしょう」
思わず私は家令の視線から目をそらす。
「奥様、耳まで赤いですよ」
まだ家令はニヤニヤしていた。
「そ、そんなことないわよ!さ、仕事!仕事!」
私は切り替えるようにスカートを翻し玄関ホールを離れた。
レニー様とクラッド様のことが気にならないと言えば嘘になるが、私は全てをレニー様に任せたのだ。喧嘩にならないことを祈るだけ。
その上、今日は大切な用がある。私は書斎で仕事をしながら時計をチラリと見た。── そろそろか。
ちょうどそんなことを考えていた時、タイミング良く部屋をノックする音が聞こえた。
「奥様、お客様が到着されました」
部屋の外から家令が声をかける。
「分かった、直ぐに行くわ」
私はその声を拍子に、椅子から立ち上がった。
客が待つ応接室へと急ぐ。
家令は私の少し後ろを歩きながら「彼は……例の?」と尋ねてきた。
「前に執事から聞いた人物であることは間違いないわ。でも『彼』じゃないから安心して」
私の言葉に家令は首を傾げた。
私が扉を開くと、応接室には所在なさげにポツンとレオが座っていた。彼女は扉を開けた私の姿を認めると、弾かれたように勢い良く立った。
「デボラ様!こ、こんにちは!」
レオは体を直角に折り曲げるように頭を下げた。
「フフフ。そんなに畏まらないで。とりあえず座りましょう」
私がレオの向かいに腰掛けると、レオは改めてポスッと長椅子に腰を下ろす。私と目が合うと、彼女は眉を下げ口を開いた。
「あ、あの……どうして私は呼ばれたんでしょう?」
「ごめんなさいね。お仕事の時間は大丈夫だったかしら?」
「は、はい。今日は商会の仕事は休みで……。妹は今は教会で勉強を。それよりここに呼ばれた理由をお聞きしても?」
レオは不安そうに私の答えを待っていた。
「今日は貴女にお願いがあって呼んだの」
「お願い……?」
まだレオは私の真意を量りかねているようだ。
「そう。実はレオに仕事を頼みたいの」
私はそう言いながら、家令から丸めた紙を受け取ると、その紙をテーブルに広げた。
レオもその紙を覗き込む。
「これね。新しくオープンするうちの店なの。ここが厨房。ここにショーケースを置いて、ブラシェール伯爵領で採れた果実を加工した品々を売るの。最初はジャムとか、果実飴や、クッキーやフルーツケーキ。それにフルーツティーの茶葉ね。それとこっちが小さなカフェになっていて、ここで売っている物を提供する。お客様は実際の味をここで確かめることが出来るようにするつもり」
私は店のイメージを描いたその紙を指差しながらレオに説明する。レオはそれを不思議そうに聞いていた。
「バザーで売っていたような品々ですね。凄く素敵だと思いますが……何故これを私に?」
「このお店、貴女に任せたいの」
私の言葉にレオは少し切れ長の目を猫のように丸くした。
「それはどういう意味……」
「私は信頼出来る人にここを任せたいの。だから貴女を呼んだのよ」
彼女は少し怒ったような、困ったような顔をした。
「同情ですか?」
「私の話しを聞いていたかしら?私は貴女を信頼しているから任せたいと言ったのよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「信頼?知り合ってまだ日も浅い私を、ですか?」
「長く過ごせば信頼に足るの?時間で全てが解決出来ると?ならば貴女の伯父様を貴女は信頼しているのかしら?」
私の言葉にレオは俯いて唇を噛んだ。少し言い過ぎたかもしれない。
「ごめんなさい。口が過ぎたわ。ご家族の事を── 」
「いえ……貴女の言う事は間違っていない」
「……もちろん無理にとは言わない。このお店は二階部分か住居になっていて、移り住んでもらう必要もあるし、選ぶのは貴女よ」
彼女は顔を上げて私を見る。
「引っ越しを?」
「ええ。住み込みって言うのかしら?……ここなら伯父様に見つかったとしてもブラシェールの名で保護されるわ」
私の意図が理解出来たようにレオは小さく息を吐いた。
「施しはいらないと──」
「何を甘えた事を言っているの?これは仕事よ。貴女の能力が足りなければ、貴女を選んだ私の責任。その時は考え直すわ」
暫し無言の時間が続いた。
たっぷりとした沈黙の後、レオは静かに口を開く。
「妹を守りたいんです」
「そのために男装を?」
「伯父の家を出た後、女二人暮らしでは危険だと思って。それに商会での仕事も男だと力仕事が回ってきて給料が良いんです」
そう言った彼女の細い腕を見る。確かに筋肉質ではあるが、彼女の苦労が窺えた。
「給料はこれぐらいを予定しているの」
私は金額を書いた紙をそっとテーブルの上に置く。彼女はそれを手に取ると、目を丸くした。
「こんなに?」
あの社交クラブでの給金は分からなかったが、商会の渡している金額なら予想はついた。昼間商会で力仕事をしているよりはずっと良い給金だと思うが、責任も重い。
「それ相応の仕事量だと思っているもの。お店が軌道に乗れば、従業員を雇うことも可能よ。読み書きは?」
「出来ます」
「計算は?」
「── 簡単なものなら」
彼女は少し恥ずかしそうにそう言った。
「厨房にはうちの料理人が一人。それと昼間の混みそうな時間帯に一人手伝いを寄越すわ。それ以外は貴女が店を切盛りしてちょうだい。仕入れ等は私も手伝うけど、後々はそこも任せられるといいなって思ってる」
私の言葉にレオは目を白黒させる。
「そ、そんな重要な仕事を……」
「もちろん最初は皆で頑張りましょう。どう?」
ここまで私が話したのは、彼女の目が輝き始めたからだ。彼女の出した答えは──
「やります。やらせてください!」
彼女は頭を勢いよく下げた。もう少しでテーブルにぶつけそうな程だ。
「ウフフッ。良かった、引き受けてくれて」
私が後ろに控えていた家令に合図すると、彼は直ぐに書類をテーブルに乗せた。
「契約書よ、よく読んでサインを」
「よ、用意がいいんですね。……読むのに時間がかかるかもしれませんけど── 」
「時間はあるわ。その間にお茶を淹れ替えさせましょうね」
メイドがお茶を運んでくる。フルーティーな香りが鼻腔をくすぐった。
私はゆっくりとカップを口に運ぶ。うちの果物を使ったフレッシュフルーツティーだ。開店する店のカフェメニューにと考えているが、かなり美味しい。── 自画自賛だけど。
彼女は読み飛ばすことなく、全てを読み終えてから言った。
「ここにサインしたらいいんですね」
家令は横からサッとペンをテーブルへ置く。
彼女は恐る恐るといった風にペンを手に取ると、丁寧に空欄に名前を書いた。
「レオナっていうのね。可愛い名前だわ」
彼女の本名に私は笑顔になる。
「あ、ありがとうございます」
レオ── いや、レオナは少し頬を染めて私につられて微笑んだ。




