第43話
レニー様に掴まれた手首が熱い。私は無意識にその手首をさすっていた。
馬車に乗ってからも一言も発しないレニー様。しかも全く目も合わせようとしない。
体全体からは『怒ってますよ』というオーラがほとばしっているため、迂闊に私も声をかけられない。
馬車の車輪の音だけが、響く車内……居た堪れない。
アリシア様と何かあったのかしら?喧嘩したとか?
ただ……私に八つ当たりをするような人だったかしらと首を傾げたくなる。
結婚当初の彼ならいざ知らず。最近のレニー様は随分と成長なさったと感じていたのに……って、歳下の私がそんな風に考えること自体、馬鹿にしてると思われても仕方ないけれど、口に出さなければ思っていないのと同じだ。
ダンスの途中で足が止まり、顔色が悪くなった。呆然と立ち尽くすレニー様に気付いた時には、既にクラッド様が声を掛けていたっけ。
クラッド様に引きづられるようにして退室したレニー様を追いかけたが……そういえばアリシア様はあの後どうしていたかしら?
私はその時のことを必死に思い出していた。すると、急に馬車が止まる。
体が少し前のめりになるが、何とか耐えた。
御者台から繋がる窓が叩かれる。
「旦那様、護衛の者が手紙を預かって来たと」
御者の言葉にレニー様は馬車の窓を開ける。
「何だ」
声を掛けて来たのは、ハルコン家の護衛だった。侯爵家にもなると、夜会に護衛がついて行くらしい。なるほど……勉強になる。
「アリシア様よりお手紙を預かっております」
護衛の言葉にレニー様は窓から手を出し、手紙を受け取る。
窓を閉めた馬車は、また静かに走り出した。
きっと仲直りの手紙だろう。……あぁ、この重苦しい空気から逃れられる。私はそう安堵したのだが── 。
グシャッ!!
レニー様は物凄い形相で、その手紙を握りつぶす。……仲直りは失敗に終わったらしい。そして何故か私を睨みつけた。……え?何?何なの?アリシア様とレニー様が喧嘩をするのは勝手だけど、私を巻き込まないで欲しい。
私はあえて、レニー様から目をそらし、窓の外を見る。月に照らされた街並みが流れるように去っていった。
屋敷に着いた途端、レニー様は乱暴に馬車の扉を開けると、私に一言「話があるから、サッサと降りてくれ」と言った。話?私と?
仏頂面のレニー様は一応私に手を差し出す。私はその手をおずおずと取った。
「お帰りなさいませ旦── 」
執事の出迎えの挨拶もそこそこにレニー様は早口で言った。
「デボラと話がある。執務室には誰も入れるな」
私は馬車を降りる時からレニー様に手を掴まれたままだ。
私を引っ張るようにして早足で歩くレニー様に、私は段々と腹が立ってきた。
アリシア様と何があったのかは知らないが、こんな態度をとられる覚えはない。
私は思わず、レニー様の手を振りほどいた。
「さっきから、何なのですか!?」
廊下で立ち止まった私にレニー様は苛ついたように舌打ちをした。
「チッ!とにかく!ここでは話せない。さあ!」
レニー様は再度私の手を取ると、先ほどより強い力で握りしめる。流石に、振りほどけそうにない。結局、私は渋々レニー様について行くしかなかった。
執務室へ入るなり、レニー様は言った。
「レオとは何者だ?」
その名を聞いて、私は思わず反応してしまった。ピクリと肩が揺れる。
「ちょっとした知り合いです」
「ちょっとした?嘘をつけ!そいつとく、口付けをしていたと……」
口付け!?そんなことをした記憶はない。
「そんなことしません。誰がそんなデマを……」
そう口にしながら、私はふと考えた。
レオのことを知っている人物はあの社交クラブに出入りする人間に絞られる。あの夜会には、クラブで見かけた顔もチラホラあったが……まぁ、あのタイミングなら一人しか思い浮かばない。
「デマ?ならばそいつは何者か言ってみろ!」
あのクラブが男娼達の集う高級娼館だということは契約書がある為、言えない。言えないし、そんなところに行っていたのかと責められるのも面倒だ。
というか……アリシア様の狙いがイマイチ分からない。
「平民の若者ですが、幼い妹さんの面倒を見ていて── 」
嘘は言わない。ただ隠すだけ。それなら契約を破ったことにならないだろう。
「ほう。同情が愛情にでも変化したのか?それとも金を恵んでやってるのか?パトロン気取りで平民を誑し込んでいるのか?」
レニー様はまるで私が浮気をしていると決めつけているような口調で吐き捨てた。
その物言いにカチンときた私も我慢出来ずに言い返してしまった。
「そんな覚えはありませんけど、レニー様にとやかく言われる覚えもありません」
「なっ……!僕には言う権利がっ……!」
「そんな権利あるわけないじゃないですか。だって、愛人を作ってもいいと言ったのは貴方の方です」
私の言葉にレニー様は目を見開いて固まった。
売り言葉に買い言葉とはよく言ったものだ。まさしく今の私の状態を言うのだろう。
不味かったか……?
青ざめて立ち尽くすレニー様の様子に、私は自分の仕出かした事の大きさを知る。
今の発言……もしや私がレオを愛人と認めたことになるのかしら?もちろんそんな事実はないし、私とレオはそんな風になり得ない。
しかし、レニー様のさっきの言葉も随分と酷いものだった。それに私は間違ったことは言っていない。
愛人を作ってもいいと言ったくせに!自分は他に愛する人がいるくせに!
アリシア様に何を言われたのか分からないが、私の言い分を一部も聞き入れない彼に、今更ながら腹が立つ。
私の目の前に居るレニー様は何も言わず、床に視線を落とした。今頃自分が前に私に放った言葉を思い出しているのだろうか。
無言のレニー様と向き合っていても無駄だと思い、私はサッとレニー様に背を向けた。
「お、おい!」
「もうお話がないようですので、失礼します」
レニー様は慌てたように私に声をかけたが、無理に止める気はないようだ。
私はそのまま、執務室を退出した。心なしか強く扉を閉めたのは、私のイライラの表れだ。
廊下では心配そうな表情の執事が待っていた。
「奥様……」
「今日は疲れたわ。湯浴みの準備は?」
執事が尋ねたいことぐらい察しはつくが、私から執事に言いたいことは何もない。
「そ、それは準備出来ておりますが、旦那様と何か……?」
「そう。じゃあ湯浴みをしたら休ませてもらうわね。あぁ……明日ハロルドがこの屋敷に到着する予定だけど」
「部屋の準備は済ませております。それより、あの旦那様と……」
「今日は疲れたの。おやすみなさい」
私は執事の質問に答える事なく、自室を目指して彼に背を向けた。
湯浴み中も、寝台で横になっても、私のイライラは収まることがなかった。
最近はレニー様と上手くやっていけると感じることも多かったのに。結局、彼はアリシア様の言葉を信じたのだ。
まぁ……そうか。愛する人の言葉の方が彼にとって重いのだ。妻の言葉よりも。
そう思うと何だか虚しくなってきた。
そういえばマドリー夫人に『アリシア様に気をつけろ』と言われたことを思い出す。うーん……アリシア様の狙いが分からない。レニー様の態度からアリシア様は彼から自分への好意を自覚しているであろうことは想像出来る。
だが、自分は既にクラッド様と結婚しているのだし、クラブに情夫もいる。これ以上レニー様に何を求めるのか……。
欲張り過ぎると良くないと思うのだが……私にはアリシア様の気持ちが分からず混乱するばかりだ。




