第28話
気まずい沈黙が続いた後、レオが小さな声で尋ねた。
「あの……どうしてここに?」
中々直球過ぎる質問に私はつい笑みが溢れた。
「招待されたから……というのが正しいところね。立場上断りづらくて」
私が苦笑すると、レオはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「なら……そういう目的ではなくて?」
レオが警戒していた理由が分かって、私はますますおかしくなって笑った。
「ああ!あなた、それでカチコチだったのね。私があなたを襲うって?大丈夫。そんなつもりはないわ。最低三時間はここで過ごさなきゃいけないって聞いて絶望していたところよ」
「絶望……フフッ、フフフッ」
レオは私の答えに口元を隠しながら抑えたように笑った。
「おかしい?」
「ここには……色んな人が来ますが、皆男を探しに来ているのだと思っていました」
「はっきりと言うのね」
「す、すみません」
レオはまた畏まったように俯いた。
「いいのよ。私もさっきフリオに聞いてそう思っていた所だから」
そう言った私の視線の先には、二階の部屋へ先ほどのご婦人と入っていくフリオの姿があった。
「生きていく為に……仕方ない人もいます」
私と同じようにフリオの姿を追っていたレオがそう言った。
「あなたも?」
「俺は……女性の相手なんて出来ないけど、ボーイならって思って勤めたんです。お金が欲しくて。でもまさかボーイまでそのターゲットになってるとは思ってなくて……」
「今までは?」
私が尋ねると、レオは私に視線を戻した。フリオの姿はもう部屋の中へと消えた。あの部屋の中で行われることは秘密。想像は出来るが私もそれを詮索するつもりはない。
「こうしてお客様と話すのは初めてです。ボーイが指名されてるのなんて、見たこと無かったし」
「災難だったわね」
そう微笑んだ私に、レオは小さな声で言った。
「でも貴女で良かったです」
「そう?まぁ、私の目的があなたの体でないことは間違いないから安心して。私、ここでこうして皆を観察して過ごすから、仕事に戻って?」
私がそう言うとレオはゆっくりと首を横に振った。
「貴女を一人にしたら、また別の男がここに来るだけです。フリオさんもそれが分かっていたから、貴女を俺に託したんだと思います」
フリオの考えに私は思い至らなかった。なるほど、彼は彼で私のことを考えていてくれたようだ。
「そうなのね……彼も案外良いところがあるんだ」
「そうですね。俺の名前は中々覚えてくれないですけど」
とレオは笑った。その笑顔がブルーノにそっくりで、私は胸の奥がまたチクリと痛んだのだった。
アリシア様が部屋から出て来ないまま、三時間が過ぎた。レオとの会話はとても楽しく、時間はアッという間に過ぎる。
「もう三時間も経つのね」
「意外と早かったですね」
レオもそう思ってくれていたようで、ホッとした。私にやましい気持ちがないことも分かってくれていたようだ。
「どうしましょう……私一人で帰っても良いのかしら?」
私は三時間前にアリシア様が入って行った扉に目をやった。
「三時間以上は追加料金がかかります。今出て来ないのであれば、まだ最低でも一時間は出て来ないかも……」
レオもその扉に視線をやった。開く気配はない。
「ねぇ、紙とペンを用意して貰えるかしら?」
私の言葉にレオは直ぐに席を立つと、白い便箋とペンを持って来てくれた。私はそれを受け取ると、急いでアリシア様への伝言を書き付ける。最後に自分の名前を書く段になって『デボラ』と書けば良いのか『デビィ』と書くのが正しいのか悩む。
ペンが止まった私にレオは不思議そうに尋ねた。
「どうしました?」
「名前よ。ここでは本名を使うなと言われたの……どちらで書けば彼女に伝わるかしら……と思って」
悩んだ私は仕方なく『デビィ』と書いた。彼女は私に『デビィ』と名付けたことを覚えているのかしら?
「……貴女の本当の名前は?」
それを見ていたレオが躊躇いがちに尋ねる。
「デボラよ」
ニコリと私が微笑むと、レオも同じように微笑んで言った。
「素敵な名前です」
「ありがとう。じゃあ、私は行くわ。手紙をアニー様に。それでお会計は……」
「入場料は予約された段階でいただいています。追加料金はないので、このままお帰りいただいて構いません」
「分かった。じゃあ……お仕事頑張って。あなたとお話するのは楽しかったわ」
「俺も楽しかったです。ここに居ると聞こえてくるのは愚痴ばかり。でも貴女は違った。チェス……俺にも教えてください」
あらら。これはレオなりの営業トークなのかしら。でも、もう私はここに足を踏み入れることはないだろう。だから私はこう答えた。
「機会があれば」
私の意図を汲んだようにレオは頷いた。
「貴女にここは似合わない」
レオの言葉に私も返す。
「あなたもよ。事情があるのは察したけれど……無理はしないでね」
レオがブルーノに似ているからだろうか。私は何となくレオが心配になった。レオは少しハッとした表情を浮かべたが、直ぐに笑顔になる。
「お帰りはコチラです」
私はレオの案内を受け、きらびやかだが、どこか混沌としたこの屋敷を後にした。
「おかえり」
クラブから戻った私を出迎えたのは、何故かレニー様だ。
「ただいま戻りました……って何故ここに?」
「し、執事が忙しそうだったから、僕が代わりにと思って」
いや、執事が忙しくても侍女もメイドも居るだろうに……。当主が出迎えるのもおかしな話だ。だが私にはそんなレニー様に構っている余裕はない。疲れた。
「ふぅ。慣れないドレスで少し疲れたので私は部屋へ戻りますわ」
レニー様に出迎えられたとて、湯の準備が出来ているのかを尋ねることすら出来ない。私はとにかくこの少しタイトな真紅のベルベットのドレスを早く脱ぎたかった。馬鹿にされないようにと気合いを入れたが、結局マドリー夫人に会うことすらなかったのだ。……ここまで豪華にせずに済んだかもしれない。
「そ、そんなに洒落て行かなければならないクラブだったのか?」
「マドリー公爵夫人が主催とお聞きしましたので、少し気合いを入れすぎましたわ」
あぁ……肩が凝る。レオと話すまでの約三十分、無意識に身体に力が入っていたのかもしれない。
「ア、アリシアとは仲良く出来たか?」
レニー様にそう言われて私の胸は少し痛んだ。貴女の愛する女性は男娼と秘め事に耽っていましたよ……そう思うとレニー様が哀れに思える。
きっとアリシア様と私が揉めていないのか気になって、わざわざ出迎えまでしてくれたのだろう……彼の行動の理由が分かって、私はますますレニー様に同情してしまいそうになる。
「お互い他の方々とのお喋りに花を咲かせていましたから。社交ですもの、色んな方と交流をいたしませんと」
アリシア様とは馬車を降りてあの屋敷で落ち合ってから、彼女がケインと消えるまでの間しか話していない。仲良くしようにも無理な相談だ。
「そうか……そうだな。君は社交に長けているけど、アリシアはあまりそういうのが得意ではないから……」
ああ、アリシア様を心配しているのね。……大丈夫、アリシア様はケインととても仲良くしてましたよ……とは言えない。可哀想なレニー様。
「アリシア様はあのクラブには良く顔を出されているようでしたから、見知った顔もいらっしゃったみたいで。楽しそうになされてましたよ」
あの場で起きたことは他言無用と契約書にサインさせられている。レニー様を安心させてあげたいが、言葉を選ぶのが難しい。




