第20話 Sideアリシア
〈アリシア視点〉
つまらない!つまらない!つまらない!
私は部屋の長椅子に置いていたクッションを思いっ切り壁に投げつけた。
クッションはボスッ!と鈍い音を立てて床に落ちた。私はテーブルに置かれていたカップにも手をかける。イライラしてこれも壁に投げつけたい衝動に駆られるが、辛うじて我慢した。
部屋の扉が『コンコンコン』とノックされ、廊下から控え目な声が掛かる。
「奥様……何かございましたか?」
クッションの鈍い音にも気づく侍女に嫌気がさすが、それを態度には出さないように気をつけた。
「いいえ。別に何でもないわ。ねぇ、レニーに明日の夕食はどうかまた聞いてちょうだい。今日がダメなことは納得したけど、明日なら?明日ならどうかしら」
二カ月後の王太子殿下の婚約式のせいで、クラッドは最近、帰りが遅い。
……まぁ、クラッドと食事をすると、彼が食べている姿を見るだけで、イライラしてしまうので、彼の帰りが遅くなる分には全く構わない。
それにクラッドが居ない方がレニーを夕食に誘いやすい。だのに、ここ二日、レニーにも夕食を断られる始末。全く面白くない。
夕食が出来たと声が掛かる。私はわざわざ食堂に出向くことも億劫で、侍女に食事を部屋へ持って来るように指示した。
「一人の食事は寂しいし……部屋で食べるわ」
「畏まりました。直ぐに準備いたします」
目の前に置かれた食事は普通の女性が食べる量の約半分ほど。
元々食は細かったが、クラッドが結婚してからぶくぶくと太り始めたのを見ると、太ることに恐怖を覚えるようになってしまった。あんな風になりたくない。私はこの美貌を保つ為にも、食事量を調整していた。
この家の使用人達は私があまり身体が丈夫ではない……そう信じている。お陰で私に無理やり食べさせるような人間はここにはいない。
食事を終え、一人の時間を持て余す。子どもの頃は良かった。クラッドもレニーも私を取り合うように私の機嫌を取りに来ていた。私はいつも二人と一緒にいた。身分も高く、顔の良い二人から想われているのは、ただ、ただ気分が良かった。
学園でも、私は二人と一緒に暮らしているというだけで、羨望の的だった。……特にレニー。
彼は自分では気づいていないが、女生徒達の視線を独り占めするほどの美丈夫だ。彼と並び歩く私に嫉妬する女生徒の視線。どんなに周りがレニーの気を引こうとしても、レニーは幼い頃から私しか見ていない。……本当に気分が良かった。
クラッドも痩せていた時は格好良かったが、レニー程の男らしさは無かった。外見だけで言えば、断然レニーの方が好みだ。
しかし……私はクラッドを選んだ。何故かって?それはクラッドがハルコン侯爵を継ぐことが決まっていたからだ。
二人に想われていても両方と結婚することは出来ない。ならば将来を考えてクラッドを選ぶことは当然といえる。
ハルコン侯爵夫人。私はその名に相応しい、価値のある人間なのだから。
私は貧乏子爵の生まれで、貴族という名が恥ずかしくなるぐらいの暮らししか出来ていなかった。何なら裕福な平民より質素で、領地も猫の額程。そんな貧乏な暮らしでも父には子爵として家門を守るという使命があった。
母親は私が赤ん坊の頃に亡くなり、父は直ぐに再婚した。娘の私より、跡継ぎになる息子を産んでくれる女性だ。
正直、再婚した母親は穏やかな女性だったが、私にはほぼ無関心だったように思う。母を喪った私は乳母に育てられ、新しい母親に馴染むこともなく成長した。だが、弟が生まれたことで父の愛情の全てが弟に注がれるようになった。
その頃になると、私は『なんて可愛らしい。お人形さんみたいね』とよく言われる少女に成長していた。
だからといって、両親に関心を向けてもらえるわけじゃない。私は家族の中で孤独を感じていた。
そんなある日、父親が朝からそわそわしているのを見かけた。メイドに聞けば、遠縁にあたる侯爵が訪問の予定だと聞いた。あぁ……そう言えば事あるごとに父親が『うちはハルコン侯爵と縁続きだから』と自慢していたことを思い出す。
ここからほど近い場所に広大な領地を持つハルコン侯爵。どんな人物なのだろうとその時興味を持った。
初めて会った侯爵は彫りの深い顔立ちに黒髪。そして何より一目で分かるほど質の良い衣装で現れた。子ども心に、自分の父親と侯爵との違いに愕然としたものだ。
ハルコン侯爵には二人の息子がいると聞いた。一人は私と同じ歳だとも。私はますます興味を持った。家にいても楽しくない。私の興味が外へと向くのは仕方ないことだったと思う。
そして、ハルコン侯爵を前にして、父はやたらとペコペコしていた。そんな姿を情けないと思う傍ら、貴族の中で身分というものがいかに大事かを思い知ったのだった。
そこからだ。私がろくに食事をせずに部屋に閉じこもるようになったのは。
お腹は空いた。だが、私は我慢した……父が私の扱いに困ってハルコン侯爵に相談することを願って。
子どもの浅知恵だったこの作戦は、思いのほかうまくいった。残念ながら父がハルコン侯爵に相談したわけではない。ハルコン侯爵の方から、私のただならぬ様子を案じて声を掛けてくれたのだ。……いかに父親から関心を向けられていないのかが露呈したが、そんなことはどうでも良かった。私は八歳の時にハルコン侯爵家へと引き取られることになった。
そこで私の孤独な時間は終わりを告げた……はずだった。
美しく可憐に成長した私は、クラッドのプロポーズを受けた。しかしハルコン侯爵となったクラッドは忙しい、忙しいと私の相手をしてくれない。結婚前には私のわがままを可愛いと受け止めてくれていたのに、今では『もう少し侯爵夫人の自覚を持ってくれると嬉しいんだけどね』とチクリと私に嫌味まで言うようになった。
しかし私にはまだレニーが居る。レニーは騎士だからか、弱い者を守りたいという気持ちが強かった。……だから私はレニーの前では、いつでも弱々しい姿を見せる。
……相手によって態度を変えることなど、朝飯前だ。




