第1話
「僕には愛する人がいる。君との結婚は世間体を保つためのものだ」
結婚式の夜。さぁ、初夜だ!という時になって、私の夫レニーはそう言った。
「そ、それはどう言う……」
意味なのですか?
尋ねようかと思ったが、きっとそのままの意味なのだろうと考え直して、私は口を噤んだ。
ハルコン侯爵家の次男、レニー様との婚約が整ったのは一年前の事だった。
私は幼馴染だった婚約者を亡くし、失意の底にいた。
彼との関係は恋人同士というより、親友と言う言葉の方がしっくりきていたと思う。
お互い、幼い頃から色んな夢を語り合った。将来のこと、そして領地の未来……友達のような私達だったが、きっと良い夫婦になれる……そう二人で確信していた。
そんな中、私の両親はひたすら私の相手を探していた。放っておいて……そう何度も口から出そうになったが、貴族の娘としての務めは家のために誰かに嫁ぐこと。そう思えば、反抗する事も出来なかった。
ハルコン侯爵家から婚約の打診があった時、両親は手を叩いて喜んだ。
『ハルコン侯爵家なんて!デボラ、貴女ついてるわ!』
『次男だと言うが、ブラシェール伯爵を賜るらしい。本当に良い縁談だ』
私としては、幼馴染のブルーノ以外との結婚など想像もした事なかったが、裏を返せばブルーノ以外なら、誰でも同じだ……という事だ。両親が喜んでいる。これはきっと良い縁談なのだと、私も納得して、ここに嫁いだ。
だが、挙式の間中、仏頂面だった夫の真意がここにきて、はっきりしたようだ。
「本当に不本意だが……初夜は済ませなければならない。子作りは貴族にとっていわば義務だ。さっさと済ませよう」
私の気持ちなど蔑ろにしたまま、夫はおざなりな初夜を終わらせた。
「じゃあ、私は自分の部屋へ戻る。君はゆっくり休むと良い」
事が終わり、私の血のついたシーツを剥がすと夫はガウンを羽織ってシーツと共にさっさと部屋を出て行った。
体が痛む。初めては痛いと聞いていたが、こんなに痛いものだとは思わなかった。
私の頬が濡れているのは、身体の痛みか、心の痛みか……。
いや、泣くな。私だってブルーノ以外なら、誰でも同じだと思って嫁いだではないか。両親が喜んでいるから……そんな理由で結婚した私が彼を責めるのはお門違いだろう。
私はグイッと涙を拭う。
貴族の結婚など、こんなもの。彼と温かい家庭を築く……それは無理でも伯爵夫人としての務めだけは果たそう。私はそう考えていた。
私と結婚してブラシェール伯爵となった夫とはその後、殆ど顔を合わせる事はなかった。
夫は近衛騎士として王族に仕えている。昼間は顔を見ないとしても、朝も夜も全く姿を現さない。
「レニー様はいつもはどこでお食事を召し上がっているのかしら?」
私の問いに執事は少し困った様に眉を下げた。
「ご実家の……ハルコン侯爵家でございます」
ハルコン侯爵家の王都のタウンハウスにもう義父母は居ない。義父が亡くなったのは私が嫁ぐ一年以上前の事。結婚式で顔を合わせただけの義母は領地でのんびりと暮らしていると聞いている。
今、ハルコン侯爵を継いでいるのは夫の兄であるクラッド様だ。
「そうなの」
私のこの言葉に特別な意味は無かった。悲しんでいるのでも、驚いているのでもない。ただ理解したというだけだったのだが、執事は申し訳なさそうな顔で私に言った。
「今、ハルコン侯爵であるクラッド様が殿下に付いて他国へと行っておいでですので、きっとアリシア様が寂しがっているだろう……と」
アリシアというのは、義兄であるクラッド様の伴侶。そうハルコン侯爵夫人の名だ。どうしてここで彼女の名前が?と私は首をかしげる。
「アリシア様はクラッド様、レニー様と御兄妹の様に仲良く過ごした幼馴染なのです。その上アリシア様は少し体が弱く……レニー様はその……アリシア様を心配して……」
段々と執事の声が小さくなっていく。何故、そんなに言いにくそうなのかしら?
「そう。分かったわ」
この私の返答にも、何の感情も乗っていない。これまた『理解した』というだけだったのだが、
「決して、不純な関係では御座いません!ご安心下さい!」
と執事は私に必死に弁明するかの様に声を大にした。
はて?不純な関係とは?
私は執事の態度や言葉に益々訳が分からなくなり、思わず眉間に皺が寄ってしまった。
それを執事は私が疑問に思っていると取ったのか更に言い訳の様に『二人は仲の良い幼馴染だ』を繰り返した。それを聞いても私は『そうですか』としか感想を持たないのだが……まぁ、これ以上言い訳を聞いていても埒が明かない。私はナプキンをテーブルへ置き席を立つ。
「では……私は仕事に戻ります」
私は必要以上に言葉を発しなかっただけなのに、何故か執事は顔を青くさせていた。
伯爵夫人の仕事とは、この屋敷を切り盛りする事にある。私は屋敷の一室を自分の書斎として使えるように整えて貰っていた。
「使用人のお給金を見直す必要があるわね」
侯爵家と同じ給金を支払う様になっている帳簿を見て私が言うと、執事はあからさまに嫌そうな顔をした。
「旦那様からのご指示ですので」
「家政は私に任せていただいているわ。それに使用人の数も多すぎる。この屋敷の大きさに合っていない」
「勝手なことをしないでください」
「レニー様は侯爵家での暮らしに慣れていらっしゃるから、細かな事まで分からないのでしょう。そこを調整するのが妻の仕事ではなくて?」
机の前の執事の顔を見上げる。私の家は伯爵位だ。伯爵には伯爵の暮らし方がある。それは私の方が理解しているはずだ。
「……畏まりました」
私は私のやるべきことをやる。初夜から一度も顔を見せない夫にも何も思うことはない。『子作りも仕事のうち』そう思っていたが、彼はそれすらも放棄したようだ。……まぁ、好きな女性がいるのであれば、他の女を抱くのか嫌なことぐらい想像に容易い。
初夜のあの一度で子どもを授かれば良いのだが……そう私も思うようになっていた。
二日後の夜、湯あみも済ませ、寝る準備を整えていた私の部屋をノックする音が聞こえた。
「はい?」
こんな時間に誰だろう。
廊下から声が聞こえる。
「僕だ。少し話がある」
結婚当日に顔を見たきりの私の夫だった。
「どうぞ。お茶でも飲みますか?」
部屋へ招き入れた私は一応声を掛ける。
「いや。話が終われば直ぐに出ていく」
そう言われると思っていた。お茶を勧めた私でさえ、二人で向かい合ってお茶を飲む姿など想像出来ないのだから。
「お話とは何でしょう」
「使用人を減らしたと聞いた。給金も」
「はい。この家に見合う人数と給金にしたつもりです」
「勝手なことを。クビにした人間にだって生活が……」
「家政は任せていただけると聞いておりましたので。それに辞めて貰った者には退職金と次の働き口に推薦状を書きました。私だって彼らの話を何も聞かずこんな事をしたわけではありません」
「別にうちは金に困っていないだろう?」
「領民から頂いた大切な税収です。無駄遣いをしたくありません」
私は別にケチケチするつもりはないのだが、レニー様はそんな私に顔をしかめる。
「言っていることは理解出来るが僕の給金だってあるだろう?とにかく、当主である僕にいちいち楯突くとは……君は本当に可愛げがないな」
「別に可愛いと思ってもらう必要はありません。世間体を保つための結婚である事は理解しておりますので、外ではちゃんとレニー様を立ててみせます」
彼は体裁の為に結婚したのだから、それさえやっておけば文句を言われる筋合いはない。
「……勝手にしろ」
レニー様は怒った様に部屋を出て行った。
ハルコン侯爵家といえば歴史のある名家だ。お兄様であるクラッド様は殿下の側近として王宮で働きながら、大きな領地を治めていた。だが、このブラシェール伯爵家は、ハルコン侯爵家の嫡男以外が代々名乗ってきた。代々といっても、ここ最近はその名を継いできた者がおらず、領地もハルコン侯爵家の半分以下だ。今までの侯爵家での暮らしぶりと同じ様にはいかない。
「勝手にしますよ」
私は一人の部屋でそう呟いた。