三条家の娘
三条家は、広大な敷地に洋館と和の庭園を備えた邸宅であった。そこに生まれた三条美咲は、他の子どもたちとは異なる空気の中で育てられてきた。
父・三条義晴は、冷静で隙のない実業家だった。一代で金融グループを築き上げたその手腕は、社内外から尊敬と畏怖を集めている。家に帰れば家族に対しても例外なく、静かで厳格な姿勢を崩さない。
「美咲。姿勢が崩れている。背筋を伸ばしなさい」
朝食の席で、ナプキンを広げる前にその声が飛んでくる。美咲はすぐに背筋を正し、正しい順序でカトラリーを取り直した。
母・三条和子は、旧華族の流れを汲む名門の家に生まれた女性で、現在は音楽学校の理事長を務めている。優美で知的、そして厳しい。娘には品格のすべてを教え込もうとしていた。
「美咲。スープを飲むときは音を立ててはなりません。あとで鏡の前で練習をいたしましょう」
「はい、お母様」
この返事にも抑揚や声の大きさを求められる。和子は常に冷静に美咲のふるまいを観察し、どんな細部にも妥協を許さなかった。
それは美咲にとって、苦しいことではなかった。――少なくとも、彼女がグレイシア・オズワードとしての記憶を取り戻してからは。
彼女は、元々そういった空気に馴染みのある者だった。前世では公爵令嬢として育てられ、求められたのはまさに「気品ある完璧な淑女」。
違うのは、あの頃の「完璧でなければ存在を否定されるような環境」とは異なり、今の両親には、確かな“愛”があることだった。
義晴は言葉にこそ出さないが、美咲が熱を出した日には、静かに部屋の外に立ち続けていたし、和子も厳しいながら、毎朝必ず紅茶を淹れてから声をかけてくれる。
美咲――いや、グレイシアにとって、それは何よりの救いだった。
「私は三条家の娘として、恥ずかしくない生き方をいたしますわ」
誰に聞かせるでもない小さな決意を、美咲は窓の外にささやいた。朝の光が、邸宅の大理石の床に静かに差し込んでいた。