プロローグ
「あら」
「お嬢様っ!」
突然、足元の感覚がふっと消えた。視界がぐらりと揺れて、私を呼ぶ侍女の顔が一瞬にして遠ざかっていく。どうやら私は落ちているらしい。下へ、どこまでも、深く。
(これは……少しまずい状況なのではなくて?)
冷静さを失わずにそう思う自分に、わずかに安心する。パニックに陥るような粗相は、貴族としての品位を損なうものである。
周囲を見回しても、見えるのは真っ白な空間だけ。まるで何も存在しない、空っぽの世界。けれど不思議なことに、不安よりも安らぎの感覚が勝っていた。ふわふわと身体が宙に浮かぶような感覚。温かくて、優しくて、まるで――
(母様の腕の中のよう……)
それは私にとって、幼いころの記憶のなかでもっとも安らげる場所だった。けれど、今はもう戻ることは叶わない。
(それにしても……どうしてこんな場所に?)
思い返せば、さっきまで私は確かに屋敷にいた。侍女と一緒に、午後の紅茶の準備をしていたはず。それが、急に足元が崩れ――
(……そう、不思議な穴に落ちたのよね)
まるで絵本の中の冒険譚みたいな話だけれど、現に私は今、落ち続けている。しかも、かなり長い間。普通の落下ではあり得ない。これは尋常ではない事態だ。
(魔法……かしら?)
そう思っても、魔力らしきものは感じられない。けれど何かに守られているような、穏やかな感覚は確かにあった。
(……あら?)
意識がふわりと揺れる。頭がほわほわと軽くなって、まぶたが勝手に下がってくる。いけない、これは眠気。しかも、ただの眠気ではない。意識を奪おうとする強い力がある。
(……本当に、まずいわ。こんなところで……気を……)
抗おうとしたけれど、まどろみはそれすらも優しく包み込んでしまう。
(せめて、姿勢だけは……崩さず……)
意識が完全に落ちるその瞬間まで、背筋を正していられたかどうか、それだけが少し気がかりだった。
そして、私――グレイシア・オズワード公爵令嬢は、意識を失った。
これからも連載していく予定なのでどうぞよろしくお願いします!
面白いと思ったら感想などと書いてもらえると嬉しいです…!




