「もう、あなたのために生きるのはやめたの」お母さま、ありがとう。さようなら。婚約破棄された私が母親を介護するまでの話
婚約破棄を言い渡されたのは、秋の終わりだった。
灰色の雲が屋敷の上を流れ、広間に集う貴族たちの目が、冷たくリゼルナに注がれた。
婚約者だったアルレクが、声高に告げる。「この婚約は無効だ」と。
リゼルナは一瞬、何が起きたのかわからなかった。ただ、母のセルマがその場にいないことだけが、奇妙に胸に引っかかった。
周囲の視線が痛いほどに重かった。
ああ、また母に迷惑をかけてしまった。家名に傷がつく。
そんな思いが胸を締めつけ、リゼルナは、何も言い返せないままうつむいた。
宴が終わり、屋敷に戻ると、母が玄関で待っていた。
セルマの顔は化粧の下で固まっている。扉が閉まると、すぐに鋭い声が飛んできた。
また台無しにしてくれたわね。
せっかくの縁談を、どうしてあなたはいつもみじめに終わらせるの?
リゼルナは反論しなかった。
何を言っても、セルマは耳を貸さない。
それどころか、娘の落ち度は母の恥だと、繰り返し告げた。
夜になり、書斎で母に呼び出される。重たい扉を開けると、母が机の前で手紙を破っていた。
アルレク家からの書簡だった。
あなたは私の期待をことごとく裏切る。
あんな歩き方、あんな話し方、誰が好きになるというの。
母は冷えきった声でそう言い、リゼルナの目を一度も見なかった。
リゼルナは、心の奥で、わずかな反発を覚えていた。
けれど声に出せない。
母が絶対だった。
母の意向に逆らうことは、幼いころから許されなかった。
社交の場でも、家のなかでも、セルマはリゼルナの欠点を指摘した。
ドレスの色を笑われ、髪型を嘲られ、少しでも言葉が詰まれば「貴族らしさが足りない」と叱責された。
昔、まだ幼かったころ。
母の膝に座って絵本を読んでもらった記憶だけが、唯一の救いだった。
それも、今となっては夢のなかの出来事のようだ。
その夜、リゼルナは自室の窓辺で、薄暗い庭を見つめていた。
窓の外の空気は冷たく、息を吐くと小さな白い雲になった。
これが、私の人生なのだろうか。
心のなかで問いかけても、答えはなかった。
冬のあいだ、屋敷は沈黙に満ちていた。
社交界での評判も、母セルマの顔色も、かつてないほど冷ややかだった。
リゼルナは食事の席に座るだけで緊張した。
母はナプキンの持ち方、スープの飲み方ひとつにも口を出した。
父は屋敷にいても沈黙を守るばかりで、母と娘の間には介入しなかった。
新たな縁談の噂が家にもたらされたことがあった。
けれどセルマは、リゼルナが不出来だから話は進められないと公然と断った。
「この子に家を出させるのは恥」
とまで言い切り、客人の前でリゼルナを貶めた。
リゼルナは唇を噛みしめて俯いた。
いつも母が言う「私の人生は家の名誉のためにある」という言葉だけが、心のなかで何度も響いた。
冬が終わるころ、セルマは家中の使用人に細かく命令を出すようになった。
自分の部屋の掃除、衣服の仕立て、手紙の文面――そのどれもがリゼルナの役目になった。
母の髪を梳かしながら「下手ね」と吐き捨てられた日、リゼルナは幼い自分を思い出した。
子供のころ、母に抱きしめてもらった記憶を探そうとしても、もう何も思い出せなかった。
セルマは友人を家に招くと、リゼルナを呼びつけて「出来の悪い娘です」と人前で平然と言った。
リゼルナは微笑みをつくった。
それが母の機嫌を損ねない唯一の方法だった。
ある晩、書斎に呼ばれ、セルマは娘の机上の便箋をすべて調べていた。
リゼルナが友人に宛てて書いた手紙も、封を切られて机の上に広げられていた。
「あなたのような娘が誰かの妻になるなど想像もしたくない」と、母は静かに言った。
その声音には怒りよりも、諦めのような重さがあった。
春が近づき、庭の樹々が芽吹きはじめた頃、リゼルナは母の指示で屋敷の帳簿をまとめたり、家事の段取りを学ぶ日々を送った。
母はあらゆる小言を繰り返し、時折ため息まじりに「どうして私には、誇れる娘が与えられなかったのかしら」と呟いた。
夜、リゼルナは屋敷の回廊を歩いた。
誰もいない静かな廊下の向こう、母の寝室から灯りが漏れていた。
その灯りの下で母は、昔と変わらぬ姿勢で机に向かい、何かを考えていた。
自室に戻ると、鏡の前で髪を梳かす。
指先は冷たく、頬はどこか他人のもののようだった。
このまま、私は母の娘として生きていくのだろうか。
その夜、リゼルナは初めて、家の外の夜空に向かって、小さく祈った。
春が過ぎ、リゼルナの屋敷での日々は、少しずつ色を変えていった。
庭のユニサリスの花が咲くころ、セルマの様子は、最初はほんのかすかな変化として現れた。
ある晩、食卓で母が塩壺と砂糖壺を取り違え、味の違うスープを平然と口にした。
「味が変じゃない?」
とリゼルナが訊ねても、母は小さく首を傾げただけだった。
翌朝には、いつもと同じ口調で「髪の分け目が変だ」と細かく注意をしてきた。
母の変化は、冬の雪解けのようにゆっくりと広がった。
ある日、リゼルナが帳簿を片付けていると、母が部屋の隅で小さく丸くなって座っていた。
「何をしているの」
と声をかけると、「……昔の首飾りが見当たらない」と呟いた。
母は、自分でしまいこんだ宝石箱の在り処を忘れていた。
リゼルナは黙って押し入れから箱を取り出し、埃を払い、母の前にそっと置いた。
セルマは宝石箱を開けると、懐かしそうにひとつの指輪を撫でた。その横顔に、幼いころリゼルナが膝枕をねだって甘えた日々が一瞬だけ重なった。
春の終わり、リゼルナに再び縁談が舞い込んだ。
相手はイオネス家の末子、ゼルティン。名家ではないが、領地経営も堅実で、可もなく不可もない家柄だった。
父は慎重に話を進め、母はそのとき珍しく黙ったままだった。
リゼルナは、淡々とした心持ちで新しい婚約を受け入れた。
母から「今度はうまくやりなさいよ」とだけ言われた。
子どものころ、母に手を引かれて初めて舞踏会に行った夜を思い出した。
緊張で上手く踊れなかった自分を、帰り道だけは優しく抱きしめてくれたこと。
それなのに、年月を経て、二人の間に埋まらない溝ができてしまったこと。
婚礼は静かに執り行われた。
ゼルティンは物静かで、強い主張を持たない青年だった。
新しい家は、華やかさこそなかったが、落ち着いた空気が流れていた。
嫁いだ先でリゼルナは、家事の手伝いや、義母の世話、書簡の整理など淡々とこなした。
時折ふと、自分が本当にここで生きているのか、現実感が薄くなることもあった。
夜更け、義母に頼まれた刺繍をほどきながら、遠い日の母の歌声を思い出すこともあった。
幼いリゼルナを膝にのせ、優しい声で短い歌をくちずさんでいたセルマ。
翌朝には、また厳しい母親に戻ってしまったけれど。
それは突然だった。
秋の初め、実家から書状が届いた。
母の様子がはっきりと変わったこと、誰が見ても以前のセルマではないこと、かそでは手が回らず、屋敷の者たちも困惑していること――
一体、何が?
最初はわけがわからなかった。
義母とゼルティンに相談すると、「迎えに行こう」と言ってくれた。
リゼルナは躊躇したが、結局、実家へ馬車を走らせた。
屋敷のなかは、見違えるほど静かになっていた。
母は自室の椅子に座り、何も見ずに窓の外ばかり眺めていた。
「リゼルナよ」
と声をかけると、母は一度だけ頷いた。
その目に、知性も意志も浮かんでいなかった。
父は痩せていた。
「頼む」
とだけ言い、肩を落としていた。
リゼルナは、母を連れて新しい家に戻ることを決めた。
ゼルティンの家での暮らしは、以前と変わらぬ静けさがあった。
けれど、そこに母が加わったことで、リゼルナの心のなかには新しい波紋が生まれていたのだった。
母セルマを新しい家に迎え入れてから、日々は淡々と過ぎていく。
しかし、
母はもう、あの厳しく冷たい人ではなかった。
朝、着替えを手伝うときも、セルマは幼子のようにリゼルナの指示をじっと待った。
ふいに不安そうな目で、娘の顔をまじまじと見つめることがある。
そんな時、リゼルナはなぜか胸がざわついた。
――この目を、私は一度も向けられたことがなかった。
幼い頃の記憶は、いくつも鮮明に残っている。
日差しの中、庭で摘んだ花を母に差し出した日のこと。
「そんな泥だらけの手で、花を触るんじゃありません」
たった一言で、小さな手の中の色とりどりの花は、ただの汚れになった。
自分は母にとって誇れる娘ではないのだと、何度も思い知らされた。
けれど、ごくまれに、ふいにやさしい瞬間があった。
熱を出して寝込んだ夜、母が冷たい額にそっと手を当ててくれた。
「あなたがいなければ、私はもう少し自由だった」
そう呟かれた後でさえも、その手のぬくもりを、どこかで渇望していた。
介護の日々の中で、リゼルナはふとした折に、母の手を見つめることが多くなった。
かつては鋭く、何かを指し示すばかりだったその手が、今は頼りなくリゼルナの指を探している。
ある日、母が食事を嫌がり、皿を払いのけた。
スープがテーブルクロスにこぼれる。
リゼルナは静かに席を立ち、布で汚れをぬぐった。
――昔、私が水差しを倒したとき、母は何も言わず私の頬を打った。
「どうして、あなたはいつも私をがっかりさせるの?」
その言葉を、何度繰り返し聞かされたか知れない。
なのに今は、母が失敗しても誰も咎めない。
リゼルナはただ「大丈夫」と言い、母の手を取りなおす。
そんな自分が、哀れなのか、強くなったのか、時々分からなくなる。
夜、セルマが眠りにつくとき、時折、リゼルナの名をつぶやいた。
「リゼルナ……どこ?」
眠りと目覚めの狭間で、母は迷子になった子どものように手を伸ばす。
リゼルナは、その手を取った。
小さく、しわだらけで、もうかつての力強さは残っていない。
「ここにいるわ」
そう答える自分の声が、遠い場所から響いている気がした。
介護の日々が続くほどに、リゼルナの心には複雑な感情が渦を巻いた。
母に仕えること。それはかつて、「お前が家のために働くのは当然」と刷り込まれた役割とどこか似ている。
ただ、今は命じられるのではなく、自分が選んでいる。
けれど、そこに生まれるわずかな優越感や、痛みを返すささやかな機会を、リゼルナは否応なく意識していた。
母が夜、急に泣き出した。
「いやなの。こわいの」
子どものような声に、リゼルナはため息をつき、ベッドサイドに腰かけた。
「昔、わたしが怖がって泣いたとき、あなたは静かにしなさい、としか言わなかった」
母はじっとリゼルナを見ていた。
その瞳に何が映っているのか、もう分からない。
ふと、子どもの頃のある夜が思い出された。
雷の音に怯えて毛布にくるまっていた小さな自分。
母が部屋に来て、窓を開け、「こんなもの、恐れることはないの」と、あくまで理屈で、やさしさはなかった。
けれど、背中にかけてくれた毛布の重みだけが心に残っている。
今、自分が母に毛布をかけてやる。
体の向きを直し、乱れた髪をそっと梳かす。
「泣かないで」
そう声をかけたのは、慰めたかったからではない。
むしろ、かつて自分が欲しかった言葉を、ようやく母に投げかけることができた、その事実が胸に疼いた。
昼間は淡々と世話をこなす。
髪を梳き、食事を用意し、散歩に連れ出す。
母はときおり苛立ち、リゼルナにきつく当たることがある。
それでも、昔のような圧倒的な力はもうない。
春の明るい日、リゼルナは母を庭に連れ出した。
エルヴォニアの花が咲き乱れ、空は静かに澄んでいた。
母は木陰の椅子に座り、しばらく無言で風を感じていた。
リゼルナも隣に座った。
「覚えてる?」
ふいに母が、小さな声で尋ねた。
「あなたが最初に花を摘んできた日のこと。私は叱ったけれど……本当は、きれいだと思ったのよ」
リゼルナは何も答えなかった。
けれど、母の横顔を見て、涙がこぼれそうになった。
かつて、認めてほしくて必死だった自分。
家のなかで母に褒められたくて、どんなに頑張っても、それは決して届かなかった。
今や、そんな願いも色あせて、ただ過去の遠い幻影に変わっていた。
母が弱り、子どもに戻ったような顔で名を呼ぶたび、
「ざまあみろ」
と思う瞬間がある。
でも、口に出すことはなかった。
夜更けに、母の寝台の傍らでひとりになると、
リゼルナは時折、何も感じない自分自身に怯えた。
愛されなかった哀しみよりも、その哀しみにさえもう慣れてしまった空虚さの方が、重かった。
母の寝息を聞きながら、リゼルナは幼いころに戻った夢を見た。
母に手を引かれ、初めて夜会に出た日のこと。
あの日の母は美しく、誇らしげだった。
けれど、ほんの一瞬、緊張で指を震わせるリゼルナの手を、そっと握り返してくれた。
あの瞬間だけは、母の愛が確かにそこにあった気がした。
春の日差しの中、リゼルナは母の髪をゆっくり梳いた。
母はもう、何も言わなかった。
ただ、穏やかな顔で眠っている。
これからも介護の日々は続く。
けれどリゼルナの中では、痛みも怒りも、すこしずつ遠ざかり、
最後に残るのは、静かな余韻と、ほんの少しのやさしさだった。
わたしはあなたのために生きることをやめる。
これからは、わたし自身のために春の花を摘むのだ――
そう心のなかで呟きながら、
リゼルナは、母の手を最後までしっかりと握りしめるのであった。