第80話:ちょっとだけよん
シアルヴェンの船体が、低い唸りと共に激しく振動し、変形を開始した。その変形プロセスは、ただの機械的な動作を超え、まるで巨大な生物の呼吸のようであった。
まず、船体の左右に備えられた一対の巨大なスタビライザーのような構造物が、作動音もほとんど立てずに内側へ静かに折りたたまれ、船体をコンパクトに収束させる。次に、船体の上部と下部がそれぞれ前方へと滑らかにスライドし、剥き出しになった中央の接続区画が露わになる。そこから、いくつものアームと接続用ポートが、まるで獲物を捕らえようとする巨大な昆虫の触手のように展開していく。
ドック・コネクトは、単にハッチを物理的に接続する作業ではない。それは、互いのヴェクシス機関から出ているヴェクシス場の同期、そして生命維持システムをシームレスに結合させるための、いくつかの複雑なプロセスを踏む。変形を終えたシアルヴェンは、その機能的な美しさを湛えながら、獲物を狙い定めたかのように静かに《ドゥルメーザ》の指定されたポートへと接近していった。
遥斗は、メインスクリーンに映し出される、息をのむほどに滑らかな変形プロセスにすっかり魅入られていた。この巨大な機械が、まるで意思を持った生物のように構造を組み替えていく光景には、興奮を隠すことができない。彼は、この瞬間『撮り船』と呼ばれる者たちの、高性能な船を記録に残したいという純粋な熱狂が、少しだけ理解できたような気がした。
……まあ、これを見る前から『変形!ドッキング!』とウキウキだったことは言わないでおこう。
シアルヴェンのアーム群は、《ドゥルメーザ》の船腹に展開された接続口を寸分の狂いもなく正確に掴み、金属がぶつかり合う重厚な音を立ててガチリと噛み合った。
「よし、接続初期段階は終了だ。この後、半シクタ(約三十分)かけて気密調整と生命維持システムの同期を完了させる。その間に準備するぞ」
接続完了を見届けたヴェラが、満足げに手を叩いて言った。
「準備?」
遥斗が思わず首を傾げると、ヴェラは立ち上がって、パイロットシートに座る遥斗の傍に近づいた。
「アタシが汗だくだかんな。作業で汚れたし、一回、風呂で体を洗うわ。ついでだ。お前も汗かいてるみたいだし来いよ。一緒に入ろうぜ」
「い、一緒に!?」
ヴェラが唐突に言った言葉に、遥斗の脳内では花火が盛大に打ち上がった。
それは脳内夜空に色取り取りの光の花を咲かせ、やがて巨大な文字で『お・風・呂』と描かれる。
たーまやー。
「シアルヴェンにはスチームシャワーだけじゃなくて、ちゃんと風呂があるんだ。……もしかして、ニホンにはシャワーとか風呂とかないのか?」
動揺を隠せない遥斗に、ヴェラは不思議そうな顔をすると、ためらいもなく彼の体に顔を寄せた。彼女の赤い髪が遥斗の肩をかすめ、微かに鼻を鳴らし、肩口の匂いを嗅ぐ。
「でもあんま体臭とかしてねえし、水浴びくらいすんだろ?」
「あ、いや、あるけど……」
ヴェラは顔を離し、納得したように頷く。
「まあ変な匂いはしてねえけど、これから他の宇宙船に行くんだ。万が一にも変なもんを持ち込むわけにもいかねーしな。向こうのチェックで引っかかったら何言われるかわかんねーし、お前も入れ。ウチの船び風呂はな、爺ちゃんがよく婆ちゃんと一緒に入ったんで、二人分のスペースがあるんだ」
「う、うん! 行く!是非とも一緒に入らせていただきます!人の家に行く前に清潔にするのは基本中の基本だもんな!」
遥斗は、股間の暗黒竜が目覚めかけるのを必死に抑え込みながら、努めて平静を装った。彼の脳裏には、湯気が立ち込める空間、濡れタオル、そして湯船に身を沈める豊満なヴェラの肢体が幻影のように浮かび上がる!
――まて、暗黒竜、暴走をするんじゃない!
覗きだとかは絶対にしない遥斗であるが、同意の元で一緒に入るなら別である。
これは、やましい気持ちではないのだ。これはガルノヴァの文化であり、ならばそれに付き合うのが異文化コミュニケーションというものだ!
脳内のイリスがこめかみに血管を浮かべながら「ハル様?」と自分を見つめている気がしたが、これは致し方ないことなのだ!是非とも許していただきたいのだ。
「ここだ、さあ、入るぞ」
ヴェラに従いついていった先に開かれた扉。しかし、その先に広がる光景は、遥斗の想像とは全く異なっていた。
そこは六畳ほどの、冷たい光を放つ無機質な部屋だった。彼の脳内にあった檜の湯船も、シャワールームと呼べるものも見当たらない。あるのは、部屋の中央に並んだ二つの縦長のカプセルだけだ。まるで棺桶を立てたような、シンプルで無機質なデザインである。ここは脱衣所か何かで、風呂場はさらに奥にあるのだろうか?
「えっと……このカプセルに服を入れるのかな。ぬ、脱いでいいか?」
「なんで脱ぐんだ?服はそのままで入れ。脱ぐ必要ねえよ」
そう言うとヴェラは片方のカプセルに滑り込み、スライド式のドアがシュッという静かな音と共に閉まる。
「え、え?」
「はよ入れ。もうすぐドッキングも終わるんだ」
「う、うん」
せかされて、遥斗もわけがわからないまま、慌てて隣のカプセルへ飛び込んだ。
扉が閉じると当時に、内部スピーカーからヴェラの声が聞こえる。
「ああ、そうだ。お前、髭は無くていいか?」
「ひげ?……まあ基本は毎日剃ってるけど」
「わかった……設定よし、と。それじゃ準備はいいか? シアルヴェン、カウント三つで頼む」
"Aisa"
「ちょ、ちょっと待っ――」
なにがなんだかわからないまま、何かがどんどん決まっていく。
"Trek, Dar, Ek— Ruvtas!"
シアルヴェンのカウント。
そしてピッという電子音。
カプセル内が青白く鋭く発光し、遥斗の視界が一瞬歪む。そして顔に謎のマスクのようなものがあてがわれたと思った瞬間、全身が一気にぬるりとした謎の液体に満たされた。直後、体はビリビリと微かに震え、肌に付着していた汗や垢だけでなく、毛穴が開いて中の汚れまで霧状に分解されていくのを感じる。
遥斗は三十秒もしないうちに、体中が新品のようにピカピカになっていた。液体が抜け、温風のような温かい波動が体を包む。着用していた服のシミやシワまで消え、まるで新品のように整っていた。
最後にフローラルな香りの何かが降りかかり、カプセルドアはゆっくりと開いた。
遥斗は自分の腕を見下ろす。
清潔感は素晴らしい。お肌は驚くほどすべすべで、髪の毛は天使の輪ができるほどつやつや。顔もつるつるで髭の剃り残しは一切ない。
だが、湯船に浸かる心地よさも、ヴェラの濡れた赤い髪や上気した肌も、何一つとしてない。
おかしい――。
「へえ、ルト……ひょろひょろだと思ったのに、結構筋肉ついてきてんな」
「訓練のおかげだな。や、やめろよヴェラ、胸板を触るなって」
「いいだろ減るもんじゃないし。ほら、代わりにアタシのほうも触ってたしかめていいからよ。アタシのも結構あんだろ」
「……う……や、やらかい」
「こ、こら!触っていいのは腕だよ腕!ど、どこ触ってやがる!」
「ご、ごめん!で、でも、確かに腕に筋肉はあるけどやわらかいよ……」
「うう~……」
とか、
「ふう、あったまるな……どうしたんだよ、アタシの方をずっと見て」
「いや……火照った顔のヴェラって、色っぽいなって」
「バ、バカ野郎!なにいってんだよ!」
「あはは、本心だよ」
「……アホルト……ぶくぶくぶく……」
と、顔を真っ赤にして湯船に沈むヴェラはどこに行ったというのだ!?
遥斗はぎりぎりと歯を食いしばらせる。
そんなものは始めから現実に存在していない。
現実は、あまりにも非情であった。
遥斗が虚無感に襲われながら隣をみると、ヴェラもカプセルから出て、満足げに大きく伸びをしている。
「あー、さっぱりした。やっぱり風呂は最高だな」
「……うん」
『フロ』とは『風呂』ではなく、『フロ・バスラ』という言葉の略らしい。
なるほど、どうりでわざわざ『フロ』という音とともに、謎翻訳で『風呂』という概念が伝わってきたはずである。これはおそらく、エリドリアで『イグノータン』という単語が『冒険者/開拓者』という二重の概念で伝わったのと同じ現象だろう。
遥斗に対して相手の意思がイメージで伝達されるこの世界において、『特殊な装置に浸かって体を綺麗にする』という目的の行為が、『風呂』という、彼が理解できる内容で届いたのだ。
さらにそれがガルスクリにおける『フロ』という音と重なって、あの甘美な勘違いが起きたのだろう。
許されない。
こんなものは風呂ではない。蒸し風呂ですら遥斗的にはサウナであって風呂と言いたくない派である。
風呂はやはりお湯につかってこそなのだ!あのほっとする至福の時がなくて何が風呂か!
ヴェラは、なぜか拳を震わせながら熱い目をしている遥斗に、不思議そうに首を傾げる。
「なんだよ、その顔。文句あんのか?」
「いや……別に」
(こんにゃろうめ、いつか絶対に日本の温泉にでも連れて行って、体と心をトロトロに蕩けさせてやる……!)
遥斗は心の中でそう固く決心し、暗黒竜は、しばしの休息のため再び眠りについた。




