第78話:巻き込まれていく人々(多分これからも増える)
それは、遥斗とのLimeの音声通話でしていた雑談でのことだ。
通話先からは、遠く離れた日本にいる黒髪の青年、遥斗の穏やかで聞き取りやすい声がする。
カンボジアの竹建材企業を経営するソムナン・ヴィサールットは、自身の国の言葉を完璧に操る、自身の子供と同世代のこの異国の青年に、不思議と気を許していた。
経済的に決して豊かとはいえない自国の、それでも一実業家である自身に対して、初めて会ったときから自然体で、畏怖も媚びもなく、ただ誠実であろうとしているのがわかる。遥斗がクメール語を流暢に話す日本人であるという驚きもさることながら、ソムナンはそれ以上にその人柄に強く惹かれたのだ。それは勘のようなものだが、自身はその『人に対する感覚』には従うことにしていた。
別れの時に、「貴方の名前の通り、きっと幸運と繁栄が広がることでしょう」と言われたのも嬉しかった。
その通り、ソムナンという名前は「幸運」、ヴィサールットという姓は「繁栄」を意味する。
自分はそこまで大きな存在ではないことは自覚しているが、それでも自分の名に誇りを持っているし、その意味を理解してくれたことは非常に嬉しいことだ。
また最近は、多感な時期の娘に「パパ、臭い」と少しきつい口調で言われたり、遅い反抗期を迎えた高校生の息子が、何事にも無関心な態度をとることに、ソムナンは内心、寂しさと苛立ちを覚えていた。そんな家族内の些細な、しかしソムナンにとっては重要なことについての愚痴をこぼす相手として、日に10分程度であるが遥斗には何かと話し相手になってもらっていたのだ。
「ハルトくん、またうちのティアリーがね……」
実際、彼は聞き上手であった。
ソムナンがため息混じりに娘の最近の言動を話せば、遥斗はただ静かに、時に相槌を打ちながら聞いてくれる。決してソムナンの育児方針を否定したり、上から目線でアドバイスをしたりはしない。ただ、「同年代の立場で言うと、そういう時はこう思うかもしれないですね」といった、自分にはない目線で話してくれることがあり、それでわずかながら家庭がうまくいったりと、だいぶ助けられてきていた。
一度、こんな愚痴ばかり言って、若い子にはつまらないだろう、と言ったことがあるが、その時は
「いえ、ナンさんの話は結構自分にも勉強になりますし、それに俺も忙しいときには普通に断ってますよね。まあ、おっさんにありがちな若いころの武勇伝を延々聞かされるとかだったらさすがにもっと適当に相手してましたけど」
と言われ、思わず笑ってしまったものだ。
ちなみにカイナ・ハレとハマトク名物のモンスタークレーマーに慣れた遥斗的には、こういう無駄話は嫌いな方ではない。
だってちゃんと話が成立するもの。
遥斗からバイトでのクレーマーの件を聞いた時にはソムナンも
「ジャパン怖い」
と少し腰が引けていたのは秘密である。
さて、話題はソムナン一家がハマっているジャパニーズ美少女スポコンアニメ、カバ娘たちが活躍する「カバ☆バディ」の熱い展開についての話から、最近ソムナン自身が興味を持ち始めた、とある日本の工芸品についてになった。
「最近私は、日本で話題になってるヴェルナクラフトの会員になってね。妻や子供たちに送りたくて何とか手に入れたいんだけど、購入は抽選方式だから大変そうなんだよね……」
ソムナンがそう話すと、遥斗は驚いた声で返事をしていたが、どうも話の雰囲気的に、彼もあの工房のファンらしい。相変わらず気が合うな、と思った。
どこの国で作られているかは知らないが、あの民芸品の美しさは、カンボジアの伝統文化の品々にも決して負けてはいない、生命の強さ、そして物語がある。何より木の温もりや、作り手の魂が宿っているような、そんな感覚を覚えたのだ。
それだけの力が、あの品々にはあるし、なにより公式から配信されている動画に映った村の人々からは、貧困に負けまいとする懸命さが伝わってきた。
そのような異国の品々が、なぜ日本で販売されているかわからないが、ヴェルナクラフトという団体が、その美しさや価値を偽って、人々を騙しているとは微塵も思えなかった。あの工芸品が放つ命の輝きともいえる美しさが、ソムナンにそう強く確信させていた。
そのようなことを熱弁していると、通話先の遥斗は少しの間沈黙した。その沈黙は、ソムナンの言葉を深く吟味しているようでもあり、あるいは何かを考えているようでもあった。
そして、その沈黙を破って遥斗は、ソムナンにとって非常に妙なことを言ってきた。
「ナンさん、もしヴェルナ村――ヴェルナクラフトを作っている現地にビジネスとして協力できる機会があったらどうしますか?例えば、ナンさんの会社の製品の取引とか、建材として竹の加工の技術指導の依頼とか」
「そうだね、もしそんな機会があればぜひ協力したいね。見る限り、あの村の生活様式と、我々の竹材の製品とは相性がよさそうだ。竹は我が国の自然の恵みであり、我々はその加工技術には自信がある。彼らが生活の中で、より安全で、より快適に過ごせるための製品を提供できるなら、これほどうれしいことはない」
ソムナンはそのまま言葉を続ける。
「そうはいっても我々の会社は利益を上げなくてはいけないし、自国の発展をさせることが第一だ。だから他国の小さな村に、会社として大きな慈善的な支援などはできない。しかし、対等な立場で、ビジネスとして協力し、彼らの生活と技術の向上に貢献できるなら、それは私にとっても大きな喜びだよ」
「あー……ただ、小さな村ですし、そこまで大きな利益にはならないかもですけど」
「かまわないさ」
ソムナンは遥斗の、なぜか少し申し訳なさげな言葉に、静かに言葉を返す。
「もちろん、ビジネスである以上、利益は必要だ。会社とその社員、そして彼らの家族を守り、事業を継続させるためには、お金という血液が必要だからね。けれど、それがすべてじゃない。一番大事なのは、お客様も、我々も、そこに関わる人たちの可能性が広がり、幸せが増えていくことだ」
それは、ソムナンが起業した時から決めている、経営理念であり哲学だ。
ハマトクにもこれに近い理念を社訓として掲げていたことで、彼らに対して非常に共感したものだ。
「お金はね、あくまでそのための道具にすぎない。ただ社会においては、お金が一番わかりやすく、そして早く人々の幸せに直結しやすいから、我が社はそれを優先しているだけなんだよ。守りたい人たちが、誇りをもって、ずっと笑っていられるなら──極論、私はお金なんて要らないのさ」
「機会があれば、よろしくお願いします」
その言葉を聞いた遥斗の返答は、非常に速かった。まるで、ソムナンの言葉が、彼の中で何かのトリガーになったかのように。
だが、その意味はソムナンにはいまいちわからない。先ほどの「たとえ話」への答えが、「何をよろしく」なのだろう。
「うん?なんのことだい?」
「そのうちわかります。貴方たちにセリーモアの導きと、星枝の光が届きますように」
ソムナンは、その言葉を聞いて、ピンと来る。
「おお、ヴェルナ村で信じられている精霊と祝福の言葉だね。動画とヴェルナクラフトの公式ページで見たよ。ああ、ありがとう」
そして、その雑談はそれで終わった。ソムナンは遥斗との通話を終えたあとは、カンボジアの蒸し暑い空気の中で、しばし先ほどの遥斗の言葉の意味を考えていたが――いまいちよくわからない。
だがその日の夜、ソムナン宛に一通のメールが届いたことで、すべては動き出した。
「見慣れないアドレス……ヴェルナクラフトからだって!?……何かの詐欺か?」
ソムナンは眉をひそめる。ヴェルナクラフトは会員制であり、彼らの公式な連絡手段は限られているはずだ。だが、送信元アドレスを詳しく確認すると、それは間違いなく公式のドメインと一致している。
「もしかして会員申請の不備か?」とソムナンは不安になる。会員申請の際、日本語から英語、そして英語からクメール語と自動翻訳を重ねながら申し込んだので、入力欄に間違いがあったのかもしれない。特に、会員条件にあった「商品に対するメッセージ」としてアップロードした手書きの文章は、さすがにクメール語では無理だろうと自分が何とかわかる英語にしたこともあり、それでは手続き上ダメだったのかもしれない。
ソムナンがそう思いながらメールを開くと、そこに書かれていたのは丁寧なクメール語でのビジネスレターである。だが、前置きはともかく、本題としては非常に短かった。
『シリアルコードは、貴方の友人である日本人の名前です。貴方が一人の時に入力してください。貴方にセリーモアの導きがありますように』
これだけだ。
しばらくは意味がわからなかった。だが『貴方の友人である日本人』という文章と、それに続くヴェルナ村の祝福の言葉に、「まさか」と心臓が大きく跳ね上がり、体に電流が走ったかのような衝撃。
ソムナンは、自分のPCのお気に入りに入れていたヴェルナクラフトのホームページを、震える指で開く。ログインIDとパスワードは、申請時に登録したものが保存されている。ログイン後、ソムナンは熱くなった思考を落ち着かせながら、日本語で『特別会員用』と書かれているはずのリンクボタンを押した。
画面が切り替わると、そこには特別会員用シリアルコードの入力欄がある。
ソムナンは、椅子から立ち上がり、書斎のドアに鍵がかかっているか、そして周りに誰もいないことを再度確認して、深呼吸を一つ。
彼は再びキーボードの前に座り、震える手でゆっくりと、ローマ字で友人の名前をキーボードで入力する。
『H・A・R・U・T・O』
エンターキーを押した瞬間、画面が即座に切り替わり、短い動画が流れ始めた。まだ公式が一切配信したことがない、村人の生活そのものを捉えた映像だ。
そこには、すでにサイトで紹介されていた、優れた木工の腕を持つセメナや、アミュレットの文様を織り込むリーリーをはじめ、村の職人たちや子どもたち、そしてこれまで見たことのなかった多くの村人たちが映っていた。
彼らは畑仕事や村づくりに励み、その顔には厳しい暮らしの中でも失われることのない力強い笑顔が浮かんでいる。
そしてその中に、明らかにヴェルナの村人とは人種の異なる、黒髪の青年がいた。
何やら図面を持って、村人たちに向かって説明している。
"O Haru-sēl, vesa nali!"
その時、鈴の鳴るような、美しい声が画面から聞こえた。何を言っているのかわからないが、おそらくカメラを持った人物が青年に呼びかけたのだろう。
振り向いた彼は、カメラに気づいたのか目線をこちらに向けると、笑顔で手を振った。
そんな彼の首には、あの美しいチョーカーが輝いている。
そして動画が終わると同時に、ページが再び自動で切り替わった。
そこには、四つの新たなシリアルコードと共に、丁寧なクメール語で何かが書かれていた。
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貴方に特別会員証と、ヴェルナクラフト商品のギフト券を提供いたします。
貴方と、貴方の家族分を合わせて4枚です。
この券の有効期間は現在から1年ですが、使用するのは一月につき1枚までとなります。
1枚使うごとに、抽選なくヴェルナクラフトの全商品から1つ無料で差し上げます。
貴方たちに、セリーモアの導きと、星枝の光が届きますように。
ヴェルナ村と共に歩む、貴方の友人より。
追伸:カバ☆バディのグッズも、その時に一緒に送りますね!
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ソムナンはその文章を読み終えるとしばらく固まって、その後じわじわとこみ上げてくる感情を抑えきれなくなり――そして、一人、部屋の中で大爆笑をしたのだった。




