第70話:諦めんなよ、諦めんなよ!Never give up!
シアに示された訓練ルームの扉が開くと、遥斗は一瞬息をのんだ。
その空間は、殺風景なまでに無機質だった。全面を覆う鋼鉄の壁と床は継ぎ目がなく、どこを見ても鏡のように磨き上げられている。天井には無数のレーザー射出口らしきものが埋め込まれ、壁の一角には、部屋全体を見渡せるガラス張りのオペレーションルームのような小部屋がある。部屋全体が巨大な機械のように感じられ、遥斗はごくりと喉を鳴らした。
やがて、ヴェクシス機関の低い駆動音に混じって、足音が響いてくる。遥斗が振り返り、開かれた扉を見ると、そこにいたのは、ヴェラだった。
先ほどの剣幕は鳴りを潜め、彼女の表情はどこか機嫌がよさそうに見える。だが、不敵に吊り上がった口元は、少し怖い。
「よし、ちゃんと来てたな、ルト。シアルヴェン、トレーニングスーツを出してくれ」
ヴェラが言うと、無機質な壁の一部が音もなく開き、そこから透明な何かでコーティングされた、小さくて妙な物体が出てきた。彼女がそれに手を伸ばして端の部分を押すと、「しゅん」という小さな音と共に透明な何かは消え失せ、代わりに中にあった物体がパタパタと開いたかと思うと、一着のジェットスーツへと変わる。ヴェラが今着ている濃紺のスリムフィットなジャンプスーツと同型だが、より漆黒に近い。
「お下がりだが、くれてやる」
そう言って、ヴェラはスーツを無造作に遥斗に手渡した。遥斗はそれを手に取って袖を通すと、身体に完全にフィットするその訓練スーツの滑らかな感触に驚く。ヴェラがこれを着ていたのかと思うと、少しどぎまぎしたが、そんなことを考えている余裕は、鍛錬が始まるとすぐに吹き飛んだ。
ヴェラはオペレーションルームに入ると、ガラス越しに遥斗を見下ろす。その肩にはリケが乗っており、心配そうに遥斗を見ながら「ケリリ……」と鳴いている。
「心拍数、血流の状態、脈拍、呼吸数、筋肉の伸縮状態。全てモニタリングして最適な負荷をかけ続ける。ホロスクリーンの指示に従って同じ動きをしろ」
オペレーションルームにいるヴェラの声が、スピーカーを通して訓練ルーム全体に響き渡る。同時に、スーツが急激に重くなった。まるで全身に鉄の鎧をまとったようだ。
「うおおおおおっ!?」
ヴェラの指示通りに、スクリーンに映った通りに動き始めると、全身の筋肉が悲鳴を上げる。たった数回の動作の反復で、太ももが鉛のように重くなった。そして動作がスクリーンの指示から離れるたびに、画面上の数字らしき何かが別の値に切り替わっていく。
「なんかこんなゲーム見たことあるわ!マジできつい、ぐおおおおお!」
ヴェラは、モニターを眺めながら淡々と指示を出す。
「鍛錬がゲーム?よくわからんが、スタミナもここで増やすぞ。しばらく筋トレしたら、次は走り込みだ。上からチューブが降りてきたら、そこから液体が出るからそれを飲んでおけ」
「お、スポドリ付きか!」
遥斗が息を切らせながら言うと、ヴェラは鼻で笑った。
「スポドリが何か知らんが、そりゃカク・マグっていう生体活性剤だ。体の筋力を強くしたり、神経を太くして強くする、有機系ナノマシン入りの化学薬剤だ。身体の負担を極力抑えて運動能力を一時的に強化できる。加えて心肺機能の限界値を超えても身体ダメージを抑えることができる。これで限界を超えさせつつ、お前の根性を底上げするぞ」
「限界超えるってどういうこと!?」
「2ラジク。お前の感覚だと15分くらい全力疾走させる。大丈夫だ、膝とか関節の負荷はスーツが全部和らげるし、生体活性剤の薬剤とナノマシンが損傷を修復していくから肉体にはほとんど危害はない。……ただ、全力疾走する苦しみと苦痛がずっと続くだけだ」
「死ぬうううううう!?」
「大丈夫だ。死ぬほど苦しいが、これで死んだやつはほとんどいない」
「いるんじゃねえか!」
「大昔な。ここ100星巡は、そんな話は起きてねえよ」
遥斗は悲鳴を上げながら、ひたすらに走り続けた。
全身の筋肉が燃えるような熱を発し、肺が破裂しそうだ。汗がバイザーを曇らせ、視界がぼやける。酸素が足りず、頭の芯が痺れてくる。
脳内麻薬であるエンドルフィンがでると楽になるというが、薬剤のおかげなのかそんなものは全く起きない。
しかし、スーツの循環システムが酸素を適切に送り込み、体内を巡る何かによって身体が無理やり限界を押し上げられていく。
「ぜぇ、ぜぇ……はぁ、はぁ……」
遥斗は、もはや思考もままならず、ただ足と肺を動かすことだけに集中する。走りながら、この苦しさがいつまで続くのかと、何度も終わりを想像した。しかし、ゴールは一向に見えない。終わりがないマラソンを走っているようだ。喉が焼け付くような痛みを感じ、脚が棒のようになる。それでも、スーツが勝手に身体のバランスを調整し、走り続けることを強制してくる。
身体の機能が限界を超え、意識が飛びそうになったとき、遥斗はかすかにヴェラの声を聞いた。
「ルト、気分はどうだ?強烈な吐き気やめまいは?」
遥斗はただ、はぁはぁと荒い息を繰り返す。
ヴェラの声が、さらに問いかけてくる。
「なんか、変な感覚とかないか?寒気とか、ひどい不安感とか」
遥斗はなんとか首を振った。
「……ぜぇ、ぜぇ……ない、はぁ……とりあえず……ひたすら……ぜぇ、きつい……ふう、だけだ……」
遥斗の声が聞こえたオペレーションルームで、ヴェラはモニターを食い入るように見つめ、小さく呟いた。
「……マジか。こいつ、マジでなんともないのか」
ヴェラが、遥斗に与えている生体活性剤には、ヴェクシス粒子が含まれたナノマシンと化学合成物が大量に混ざっている。それを普通の人間が摂取するとどんな反応を起こすか、彼女は知っている。
強い不快感や精神的な苦痛を伴うのだ。
これは、ガルノヴァ人がヴェクシス粒子を大量に体内に取り込んだ時に、身体が起こす拒絶反応だ。依存性はないし、精神的な不安や、吐き気、めまいなどを起こす一方、健康にほとんど害はないという奇妙な現象。これがあるからこそ、彼らガルノヴァ人はヴェクシス汚染されたところを極力避けるし、摂取する食べ物にも雑味を感じるのである。
だが、遥斗にはその傾向が一切見られない。また、映し出されたバイタルを見ても、すべての値が健康な正常値であることを示している。ヴェラは少し考え込んだ後、ニヤリと口角を上げた。
「こりゃ……少し、無理してもよさそうだな」
その言葉と共に、ヴェラはモニターの数値をさらに引き上げた。
次に始まったのは、反射神経訓練だ。
「ま、待って……呼吸が……ぜひっ…せはっ…息が……」
遥斗がへたり込むと、訓練ルームから「ウィーン、プシュー」という音が鳴り、スーツの負荷が消える。同時に、何らかの液体がスーツの中を循環するような感覚と、ガスが噴出してそれを吸い込む感覚が遥斗の体を駆け巡った。
「ぜは、せはー……あれ、息が戻った!?」
「酸素を最適に体に巡らせて心臓負荷を元に戻したんだ。ナノマシンも反応して血管を補強したから楽になっただろ。続けていくぞ」
「それ、本当に大丈夫なやつ!?拷問に使ってたりしない!?体はともかく精神的にきついんですがっ!?」
「普通はやらん。ガルノヴァ連邦の一般人のする訓練じゃ、そこまで負荷はかけない。中央にある連邦政府の特殊部隊あたりはやるらしいけどな。だが……お前ならいけるだろ?あれだけ啖呵を切ったんだしさ」
そう笑うヴェラの声に、遥斗は唇を噛み締めながら、絶叫した。
「くっそ、やってやるうううううう!」
遥斗は、全方位から飛んでくる光線を、反射神経だけで避け続ける。最初は体が全く追いつかず、何度も掠められた。だが、徐々にパターンを掴み、動きが滑らかになっていく……ような気がしたが、結局は全ての光線を喰らってダウン。
ヴェラの「痛くしないと覚えないだろ」の精神で設定された攻撃は、めちゃくちゃ痛かったにもかかわらず、映し出されたバイタル的には痣一つついてないらしいので安心だった。
「安心じゃねーよ!痛えんだよ!」
「それじゃ次に行くぞ。次はアタシもやるからな」
その次の格闘訓練は、ヴェラが相手だった。実践相手がいた方がいいということと、彼女自身が訓練に参加するためだという。リケだけが、オペレーションルームからこっちを見ていた。
ヴェラの構えは、ボクシングと空手が混ざったようなものだった。彼女は体を傾けたりせず、少し猫背になったまま両手を前に出している。それは、打撃力そのものよりも、最速で神経を叩き、昏倒させるためのものだ。これも祖父に習ったという。遥斗は一応、子供のころに近所の変わった婆さんに教えられて合気道っぽい何かを学んだことはあるが、ぶっちゃけお遊び、暇つぶしのものである。格闘技には素人に毛が生えた程度である遥斗は、当然のようにヴェラに簡単に殴られっぱなしになった。彼女の動きはとんでもなく速い。ただ、スーツが素晴らしく丈夫で、ダメージはほとんどないのが幸いだった。痛いが。
一方、オペレーションルームのリケは、遥斗とヴェラの動きをじっと見つめていた。小さな身体を乗り出すようにしてモニターを見て、二人の動きを追っている。ヴェラが素早く遥斗の横に回り込み、掌底を放つと、リケはヴェラの動きを真似して、へにょんと小さな掌を壁に押しつけた。遥斗がそれを必死に避け、ヴェラが遥斗の足元を払うように蹴りを繰り出すと、リケもまた壁を足で蹴る。リケもお父ちゃんを手伝って何かしたいのだ。
「おとうちゃん頑張れ」と応援しながら、目に見えるすべてを吸収するように、リケは動き続けた。
結局、この鍛錬はしばらくの間遥斗がぼこぼこにされただけで終了した。これはあまり時間をかけないらしい。ヴェラ自身、武器を使うのがメインなので格闘技は最低限でいいのだという。ただ、こういうものは人の適性によるため、遥斗が無手での打撃や近接戦闘をもっと重視したいならそうしてもいいと告げた。遥斗はスーツの支援モードのおかげで、素晴らしい動きができたことに感動していたので、もう少しやりたいと思っていた。
次は座学。体の休息と共に、そこでは情報処理の基礎を学ぶ。
それは、人間がAIの処理速度を最大限利用するために必要な、『俯瞰型情報処理術』と呼ばれるものらしい。全体を俯瞰して映像、音、パルスなどから情報を的確に処理、整理する方法だ。慣れてくれば、複数の情報を同時に理解したり、処理したり考えたりできるようになるという。
「これ、じいちゃんから教えてもらったとっておきだかんな。他には知られてないから他言するんじゃねーぞ」
とのこと。
「あばばばばば」
電極のような妙なものをスーツにつけられたかと思うと、何かよくわからない電流のようなものが体を走り、同時に脳内の感覚が広がっていく。なにか脳がこじ開けられたような感覚に、遥斗は悲鳴とは少し違ったうめき声を上げた。
「あばっ、あばっ、あばっ、あばっ」
「裏技で詰め込むからな。少し我慢だ。安心しろ、一月巡もやれば形にはなる」
「あばば、あばばばば、あばー」
そう言われたが、遥斗には不安しかなかった。「あばばば」言いながらも、とりあえず初日の講習が終わる。
そして、ここからは応用編。シミュレーションモードで敵の攻撃をかわしつつ、決められたオペレーションを達成する。
一種のサバイバルゲームだ。
ヴェラは、AIを使って高速演算をした上でロックした敵に、すかさず攻撃指示の命令をする、といったアクションの練習をする。すべてをAI任せにしないのは、相手がAIを持っていれば、双方でお互いのAIの無効化合戦や演算ジャミングなどをしあうためだ。AIの主が状況を把握しながらAIに適切な指示を出しつつ、相手の急所に武器を叩きこむような戦いが主流である。遥斗の場合はまだそこまでいっていないので、とりあえず現時点では手に指向性型の攻撃道具を持ち、AIはあくまで情報処理と連携だけをして、マスターの意思で攻撃をする訓練をしている。
そして、話は冒頭につながる。
ヴェラの声が、バイザーの中で響いた。
「何やってんだバカ!すぐに動け動け!そんなんじゃあっさり包囲されるぞ!」
遥斗は歯を食いしばり、必死に銃を構え直す。
「くそっ!」
「常にシアに演算をさせろ!そしてAIからくる状況は常に認識しろ!情報に対して一点を凝視するんじゃねえ!全体をふわっと見て補完させるんだよ!どうせAIには処理速度は敵わねえ!だからこそ勘と反射で動くんだ!」
ヴェラの言葉に、遥斗は思わず叫んだ。
「ちくしょうめ!考えるな、感じろって、SF世界で通じんのかよ!」
「なんだそれ、いい言葉だな。それこそアタシら船乗りの極意だぜ」
ヴェラは笑った。その声には、先ほどまでの冷徹なインストラクターとは違う、どこか楽しそうな響きが含まれていた。
「もし、船乗りのマニュアルを作るときがあったらちゃんと書いておいてやるよ。発言者『ルト』って添え書きもつけて、な」
「そりゃどうも!」
遥斗が叫ぶと同時に、フルフェイスのバイザーに情報が一気に浮かび上がる。敵の距離、接近速度、予測行動などが流れるように表示されていく。先ほど指南された『俯瞰型情報処理術』と、広がった感覚を使い情報を認知しようとするが、全体の1%も認識できない。
シアの声がチョーカーから響く。
「右翼より敵機接近。3秒以内に射撃推奨」
反射的に遥斗の手が動き、指が引き金を引く。
シアのアシストによりプラズマの光線が正確に標的を捉え、高速で動いていた機体が爆散した。
「残り126機。現時点のスコアから推測すると、初回でのルト様の攻略可能性、0.000013%」
「こちとら子供のころから理不尽クソゲーもさんざんやってきたんじゃ!やったらああああああ!」
遥斗への宇宙の洗礼は、まだまだ始まったばかりだった。




