第66話:がんばれ♡がんばれ♡
遥斗が扉をくぐると、そこは宇宙船シアルヴェンのコックピットルームだった。今回は直接コックピットに繋がるよう試してみたのだ。
扉をくぐる時に気づいたのだが、シアルヴェンの内部であれば、まるで船の神経系に触れるように、どこへでも扉を繋げられそうな感覚があったからだ。まるで船そのものが、遙斗の意図に応じて柔軟に道を開いてくれるかのようだった。
さらに、ほんの一瞬だが、ザルティスの停泊ドックにも繋がりそうな、細い糸のような感覚もあった。
だが、それは風に揺れる蜘蛛の糸のように頼りなく、今試すにはあまりにも不安定で危険な気がした。
遙斗はそっとその感覚を脇に置き、コックピットの空気に意識を戻した。
さて、前回、ザルティスからシアルヴェンが宇宙へ飛び立つ瞬間を見たいとヴェラに話していたので、てっきりまだドックに停泊しているものだと思っていた。
ところが、コックピットの正面に広がる巨大なスクリーンには、真っ黒な宇宙の深淵に無数の星々が瞬いている。
星屑のような光とヴェクシス機関の青白い光がスクリーンの縁のフレームに映りこむと、まるでコックピット全体が星空に浮かんでいるかのような錯覚を覚えた。
「あれ? もう宇宙に出てる?」
「ケリー?」
遙斗が思わず声を上げると、肩に乗ったリケも一緒に小さな首を傾げ、不思議そうに鳴いた。
コックピットは静かだったが、どこか遠くで低く唸るようなエンジンの振動が、床を通じて遙斗の足裏に伝わってくる。すると、突然、シアルヴェンが反応した。
"Garu-Rut, karasu! Karuvi Vera ruv tas, tasuk karu."
その声は、古い機械が無理やり言葉を紡ぎ出しているような、いつものガチャガチャとした無機質な響きだった。
あえてそういう設定にしているということも今は理解しているが、どうにも不思議な感覚である。
遙斗は眉をひそめ、首を振る。
「うむ、何言ってるかわからん」
『失礼しました、言語を日本語に設定――。ミスター・ルト、こんにちは。キャプテン・ヴェラは小用をしておりますが、すぐに戻ります』
シアルヴェンの声は一転して滑らかになり、柔らかく丁寧な口調に変わった。
おそらくこれは、シアの影響だろう。遙斗は肩をすくめ、軽く笑った。
「ああ、わかったよ、シアルヴェン。ガルノヴァの言葉……たしか、ガルスクリ、だっけ?そっちにしていいぞ。通訳はシアにしてもらうから」
"Aisa"
シアルヴェンが応えると、リケが不思議そうに周囲を見回した。
「ケリー?」
コックピットは金属と光沢のあるパネルで覆われ、ガルノヴァの先進技術が随所に感じられるが遥斗以外に人気はない。
だが、シアのような妙な力はあちこちに感じるので、リケはそわそわと小さな体を動かし、きょろきょろと周囲を見回しながら、時折「ケリリ」と小さく鳴いた。
遥斗はリケの小さな背中を軽く叩き、「落ち着けよ」と笑う。リケはすぐに遙斗の肩にしがみつき、安心したように鼻を鳴らした。
そのとき、コックピットフロアの扉がシュッという軽い気圧の音とともに開き、そこからヴェラが軽快な足取りで現れる。
彼女の頭上にはゴーグル型のデバイスが無造作に乗っかっていて、濃紺のスリムフィットなジャンプスーツに身を包んでいる。ガルノヴァで使われている素材なのか、微細な光沢が走り、動きに合わせて深い青から紫へとほのかに色が変化した。その変化はまるで深海の波のように滑らかで、遙斗は一瞬、その美しさに目を奪われる。きっとそこには何か機能的な理由があるとは思うのだが、遥斗にはわからない。
その機能美を誇るジャンプスーツの上に、無数のポケットが付いたくたびれたカーキ色のベストを羽織っている。油汚れや焦げ痕が残るそのベストは、まるで彼女の冒険の歴史を物語るようだ。
ガルノヴァの技術であれば、このようなシミや汚れはすぐ取れるのかもしれないが、それが残っていることが、いかにも彼女らしい。
彼女は遥斗に気づくと、片手を軽快に上げてみせた。
「おお、ルトか。オッス……って、それ、なんだ?」
ヴェラは片手を上げ、遥斗に挨拶するが、その視線は遥斗の肩にいるリケに釘付けになっていた。
リケは興味津々でヴェラを見つめ、小さな手を振ってみせる。
「動いてんな。なんのデバイスだ?」
「デバイスじゃねーよ。リスザルのリケだ。地球の動物だよ」
本当はエリドリアの魔法生物だが、それを説明すると面倒くさい。完全な嘘ではないので、そう説明する。
ヴェラはその猫のような目を見開きながら、興味津々にリケに近づいてきた。
「動物!?マジかよ、人間以外の生命体なんて微生物以外じゃコケとかカビくらいしか見たことねえぞ!?……すげえな。こ、今回はこれを売るのか?でも生きてる天然物の動物なんていくらになるかわからねえし、販売ルートだって見つけるのが大変そうなんだが……」
「売らんわ!こいつは俺のペットだよ!家族!」
「ケリ!ケリテテス!」
売られると聞いて、リケは慌てて遥斗の頭を抱えるようにしがみつき、両手で髪をつかんで抗議の声を上げた。
ヴェラは慌てて手を振りると、彼女のベストのポケットの小さな工具たちがカチャリと音を立てる。
「うお、悪かった!ペットって概念があるのは知ってるんだが、超金持ちの道楽ってイメージしかなくてよくわからねえんだ。普通、愛玩生物って若い女がなるもんだしな。コケくらいなら育ててるやつはたまにいるし、知り合いにもいるけど」
「急に重い話ぶっこまないでくれない?……コケとかカビは見たことあるのか?」
「ああ、そりゃな。カビとか細菌、ウイルスとかは人間が居ればだいたいどの星でもいるしな。コケとか菌くらいなら、リゾート星じゃなくても存在してるところはそこそこある。開拓時代に人間にくっついて広まった奴だな。もっともヴェクシス汚染されてないような地域のものはめちゃくちゃ高いけどな」
ヴェラの言葉に、遙斗はふと納得する。確かに、いくら動植物が貴重といっても、宇宙を旅する人類が知らず知らずのうちに細菌やコケを運んでいたとしても不思議ではない。とはいえ、コケを愛でる趣味というのは、遙斗にはどこかシュールに思える。地球のマリモを思い出し、なんとなく自分を納得させた。
「まあいいや、とりあえず生き物っていうなら、スキャンだけはしとくぞ。変な病気を持ってても困るし。痛くはないから安心しろ」
ヴェラはベルトからスキャナーを取り出し、シアルヴェンにリケのスキャンを指示する。
彼女の指先は、工具の扱いに慣れた無駄のない動きで、スキャナーの設定を素早く調整した。
遥斗は「魔法生物だから大丈夫かな」と一瞬心配したが、リケは興味津々でヴェラの差し出すスキャナーと、コックピットの機器を眺め、ふんふんと鼻を鳴らしている。
どうやら、スキャナーの光を新しいおもちゃだと思っているらしい。
「ところで、ヴェラ。なんでもう宇宙に出てるんだ? ザルティスから飛び立つとこ見たかったんだけど。俺が来てから飛ぶって話じゃなかった?」
遙斗が少し不満げに言うと、ヴェラはゴーグルを軽く持ち上げ、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「あー、それはすまん。だけど仕方なかったんだよ」
「何が?」
「ザルティスの出港時に検問があって、船内スキャンされるんだ。お前の入星許可、取ってねえだろ? ザルティスに住んでた記録もねえ。だったら、お前、ザルティスに密航した扱いになるぞ」
「え、なんで?」
「だって、記録にない奴が出ていくときに見つかったなら、そら密航して入ってきたってのが一番自然じゃん。つーかよ、密航扱いっていうか、ザルティスにいた時点で完全に密航なんだわ。別にザルティスの中にいる奴らをいちいち調べたりはしないけど、さすがに出入りするときにはばれる。だから今回は我慢してくれ。次回はちゃんとお前の分の手続きをするからよ」
と、ヴェラは説明するが、実際のところザルティスの管理はかなり緩く、遙斗のような『記録のない者』でも後払いで入星手続きを済ませることは可能だった。
ただし、その手続きには結構な費用がかかる。ヴェラがそのことを黙っていたのは、単純に金銭的な負担を避けたかったからだ。
とはいえ、もし手続きをすれば、遙斗がどうやってザルティスに潜り込んだのかを当局が調べる可能性があり、それを避けたかったという言い訳も一応ある。
まあ、セーフだろう、とヴェラは心の中でつぶやいた。
「そ、それより、ドラヤキ、あるんだろ? は、早く出してくれ! もう100シクタも食ってねえんだよ!」
ヴェラは完全に中毒者のような目で、遙斗の持っているリュックに視線を突き刺した。
遙斗は少し引いたが、リュックを肩から下ろしながら答える。
「あー、それなんだが…すまん、ちょっとバタバタしてて、いつもより少ないんだ。栗どらも買えなかった」
「なにぃぃぃ!?お、おまえ、それはどういうことだよ!アタシはずっと『明日になればクリドラが……』って思いながら何とか耐えたんだぞ!?ちゃんとお前に渡す対価だっていろいろ考えてたんだからな!」
ヴェラは苛立たしげに髪をかき上げると、ゴーグルが少しずれて彼女の額に軽く当たった。
だが、そんなことはどうでもいいとばかりに遥斗を凝視する。
「知らんがな。いつも買ってるとこ、今日休みだったんだよ。明日なら買えるけど、次に向かう星って明日着くのか?」
「1寝巡って、20シクタくらいだろ?無理だよ!お高いゲート使っても普通に100シクタはかかるわ!」
「んじゃ、あきらめろ。船が移動中は俺が来るのは避けた方がいいんだろ?」
ヴェラはうめくように、低い声を漏らした。唇をきつく引き結び、悔しそうに顔を歪ませる。
視線は遥斗のリュックと、はるか遠い宇宙の星々の間をさまよい、葛藤しているのが見て取れた。
彼女の脳内で、甘いどら焼きの誘惑と、航行中の不安定なゲート使用によるリスクが、激しく綱引きをしている。だが、もはやその理性の綱は切れかかっていた。
「ぐぬぬぬぬ……!いや、もういい!今までだって、それに今回だって動いてるシアルヴェンの中にお前は飛んできたんだ!じゃあ大丈夫なんだよ!だから買ったらすぐ来てくれ!」
「俺はいいけど、本当に大丈夫なのか?」
「お前が使ってる『ゲート』が完全に異質なものであることはもう理解してる!もし超文明の遺物関連だっていうなら調べてわかるようなもんじゃないんだ。だったら使えるもんは使った方が絶対にいい!」
ヴェラがそう叫ぶと、熱弁を応援するように、遥斗の後ろにあった扉がぺかー、ぺかーと光った。
まるで「そうだよ、さっさと使うんだよオラァン!」と煽るかのようである。
もちろんその前にいる遥斗にはそんなことはわからないし、仮に見ていたところで「なんか扉が光ってんな、最近イキがいいな」、くらいにしか思わなかっただろうが。
「ほら、この扉もそうだっていってる!な!そうだろ!」
ぺかー……しーん……
ヴェラが勢いよく扉を指さした瞬間、扉は光を止め静まり返った。
遙斗は「えっ?」と声を漏らし、ヴェラが指さす扉を凝視した。
「そこで黙るなよ! 一回乗っかってたじゃん!」
ヴェラがそう叫ぶと、
『問われたら応えるわけにはいかねーんだよ、察しろよウチの方!』
とばかりにガタガタ震える扉。
もちろんそれは気のせいであり、ヴェクシス機関の振動かなにかで揺れているだけで、扉にそんな意図はない。
ないのだ。
「だから無視すんじゃねえ!ってコイツすり抜けた!?なんでだよ!」
やっきになって扉を取っ手を掴み開こうとするヴェラ。そのたびにカチャカチャとベストの工具が音を立てた。
『いける、いけるって!』
『向こうのより先にウチの番候補が世界を超えるんだよぉ!』
だが、そのたびに扉はヴェラを煽るかのように光るだけで、その手からすり抜け続ける。
『ちっげーよ、煽ってねーよ、超文明さんも頑張ってんだよ!』
ぺかー、ぺかー!
「くそ、舐めやがって!コイツ絶対にわからせて――……あん、どうしたルト。宇宙嵐の中で重力錯乱 を食らったみたいな顔しやがって」
遥斗は目を丸くしながら、恐る恐る聞く。
「なあ、ヴェラ……お前、それ、見えるの?」
「……えっ?」




