第59話:どうしてこうなった
その日の午後、カンボジアの竹建材企業『プレアヴィサル・バンブー』の社長、ソムナン・ヴィサールットは、ハマトクの社長である浜中の案内で会議室へとやってきた。
ソムナン氏の後ろには、鋭い目つきの弁護士と数人の部下が続いていた。
一行の足音が、重厚な絨毯の上を静かに響く。
会議室の扉が開き、室内に待機していたハマトクの社員たちが一斉に立ち上がると、顔の前で合唱して
「チョムリアップ・スゥオ!(こんにちは、初めまして)」と合唱のように声を揃えて挨拶をする。
あらかじめ打ち合わせていた通りなので、遥斗もそれに倣った。
続いて、松下部長が英語でハマトク側の社員を紹介していく。
そして最後に遥斗に視線を向けて
「こちらが本日の通訳者、遠峰遥斗さんです。ご連絡した通り、予定していた弊社の通訳者が急病のため、急きょ外部から遠峰さんにお願いしました」
と紹介する。
浜中は室内にいた遥斗を見た時、一瞬だが「こんな若い青年で大丈夫なのか」「チョーカーとマスク?」と驚いた顔をしたが、部長の松下が静かに頷いたのを見て、すぐに覚悟を決めたらしい。
中小企業とはいえ企業のトップである。
不安そうな顔はすぐに消し、よろしく頼む、と遥斗に一礼した。
「クメール語の話者が倒れたと聞いています。片言でも、その誠意は嬉しい。無理しなくて結構ですよ」
ソムナン社長は柔和な笑みを浮かべ、部下を通じて英語で応じる。
その言葉に、遥斗は一歩前に出た。
「ជម្រាបសួរ。私は今回通訳を務めさせていただきます、遠峰遥斗と申します。このチョーカーとマスクは、ハマトクさんとは関係なく、私のポリシーのようなものなのでご容赦を」
想像以上に流暢で完璧なクメール語が部屋に流れる。
ソムナンはその見るからに日本人である遥斗が完ぺきなクメール語を話すことに驚き固まる。
気が気でないのはハマトク社長の浜中である。
なにしろ彼は、遥斗がどれほどの話者なのか知らないのだ。
一方で先ほど遥斗がクメール語の資料の不備をあっさり見抜いたことを知っている社員たち、とくに五十嵐にしても緊張の一瞬である。
遥斗のリーディングとヒヤリング能力はすでに疑う余地がないが、スピーキングは未知数だったからだ。
だが、そんな一同の不安をよそに、ソムナン社長や部下や弁護士たちは
「すばらしい、ネイティブにしか聞こえませんな」
と答え、柔らかく笑った。
「我が国にも信仰やポリシーを大事にする者は多い。構いませんとも」
遥斗がそれを日本語でハマトク社員に伝えると、緊張した空気が一気に緩む。
社長の浜中も笑顔を変えないまま、鼻で大きく息を吐いて安堵した。
どうやら、この遥斗という若者は、完全に「当たり」らしい。
そして商談は和やかな雰囲気の中で始まった。
結論から言うと、商談は大成功だった。
遥斗は資料に基づく数値や条件を正確に伝えるだけでなく、カンボジア側の細やかなニュアンスを漏らさず汲み取り、時には日本側の意図を柔らかく補足する。
ハマトクとプレアヴィサルそれぞれの社風なども伝えあい、ソムナン社長はハマトクの理念などに深く共感していく。
社員同士のユーモラスな会話もちょこちょこと挟まれたが、たまに遥斗は「日本のノリで謙遜すると、相手は多分その謙遜を真実だと思っちゃうと思うので、少し表現かえますね」とフォローを入れたりと、十分な活躍をしていく。
そして商談がすべて終わり、完全な雑談タイムになった時には――
「なんだこれ……」
五十嵐は口をポカンと開けて、呆然と遥斗とソムナン社長のやり取りを見ていた。
『それで急きょ私が抜擢されまして……テストとしてSharetubeのカンボジアの日常動画を訳すことになったのですが、一見すると店主と客の会話に見えたものが実は野菜をネタにした夫のセクハラとそれに対する奥様の突っ込みで、そのまま訳したところその場にいたアルバイトの仲間に何故か私が白い目でみられまして……』
「ダハハハハハ! ダハハハハハ!」
遥斗の通訳を聞いて、ソムナン社長は腹を抱えて笑い出した。部下たちもくっくっくと静かな笑いを隠さない。
周りのハマトク社員は急に笑い出したソムナン氏にハラハラしたが、遥斗から日本語で伝えられると、それまで雇われた経緯を知らなかった安藤や斎藤は、頬をぴくぴくさせて笑いをこらえた。
あの動画を見せた張本人である五十嵐は、少し腰が引けている。
そして五十嵐は「なんでお前が一番ウケとんねん」と心の中で突っ込んでいた。
「はっはっは、実に奇妙な縁で君と出会えたものだね」
「いやあ、ただのアルバイターの私を抜擢してくれたハマトクさんのオカゲですよ」
ソムナンの言葉に、遥斗は雇い主を持ち上げることも忘れない。
「ハマトクさんとプレアヴィサルさんの商売は、貴方の名前の通り、きっと幸運と繁栄が広がることでしょう」
遥斗が最後にそういうと、ソムナンは一瞬驚いたように目を丸くしたが、そのままにっこりと笑うと
「ハマトクさんとは、これからもいい取引をさせてもらいたい」
と締めくくり、双方大満足の結果となったのだった。
そして、ソムナン氏がホテルに戻るタクシーに乗り込む直前まで通訳としての仕事を果たしていた遥斗だが、なぜかその間際に「何かあったらなんでも相談、連絡してほしい」と裏書付きの名刺を渡されていた。ついでにLimeも交換していた。
五十嵐は「だからなんでお前が一番ウケとんねん」ともう一度心の中で突っ込んだ。
浜中社長や部長の松下は、そんな遥斗を「こいつぜってー逃さねえ」という肉食獣のような目で見ていたが、遥斗は背を向けていたためそれに気づく由もなかった。
その後、無事に商談を成功させた謝礼として二十万円を受け取った遥斗は、その金額の多さにビビりつつも、ハマトク側の「君はそれだけのことをした」という押しにホクホクしながら受け取った。
それだけのことをしたのはシアであるが、それはそれである。
そして、なぜかソムナン氏を送るときと同じくプロジェクトに参加していた社員総出で見送られ、ビルを後にする。
「俺なんかをこんな丁重に見送るなんて、いい会社だなー」
遥斗はのんきにそう思っていた。
見送る肉食獣たちは笑顔だったが、目は笑っていなかった。
帰りは五十嵐が新幹線まで付き添おうとしたが、「せっかく東京に来たし、少しぶらつきたいので」と一人で去っていく。
しばらく秋葉原でアニメグッズやラノベなどを見て回りつつ、PCショップなども回る。
シアという超ハイテクガジェットがいる以上、新しいPCやパーツなど不要なのだが、情報系の男の子には見るだけで楽しいのである。それに他人にシアがアウトプットするものを見せる時などには、地球ではエリドリアのようにホログラムスクリーンを見せるわけにもいかないので、タブレットが必要かなと早速購入する。
なおシアが道具マウントを取りうるさかったが、今日活躍したのはシアなので「これは俺が使うんじゃなくて、お前の力を発揮してもらう時に周りに見せるダミー用。この中で踊るミニシアたんのちょっといいとこ見てみたい」と煽てたらあっさり引き下がった。チョロい。
ちなみに名前は「タブ子」になった。妹ポジらしい。
そうやってぶらぶらしていた遥斗のスマホに、ハマトクの社長から一通のメールが届いた。
要約すると
『遠峰君の働きぶりに感謝します。また機会があれば、是非とも協力を願いたい』
という内容で、遥斗は自身のアルバイト先であることもあり「俺みたいなバイトにも親切でいいとこっぽいし、たまにはいいかな」と、軽く返したのだった。
遥斗が新幹線にのり、埼玉に向かって指定席でゆったりとしていた頃、ハマトク本社の一室では、部長の松下、プロジェクトリーダーの安藤、そして五十嵐がテーブルを囲んで話し合っていた。
「……というわけで、我々は遠峰くんを是非とも獲得したいと考えている。彼は間違いなく、我が社に大きく貢献する存在になるだろう」
松下の言葉に、安藤は頷いた。
「あの語学力は本物ですね。英語はもちろん、ロシア、中国、フランス語と主要言語は全部問題ないとか。どうにかして、うちの社員にできないでしょうか」
「そうだな。もし彼が社員になれば、通訳の仕事だけでなく、海外事業部の主力として……」
社員たちが遥斗の獲得に前のめりになる中、五十嵐は「ふう」と一つ息を吐いた。
「彼は確かに有能で、うちの会社にいたらいいと思う。だが、彼を獲得するにはそれなりの覚悟が必要だとも思います」
五十嵐の言葉に、松下と安藤は顔を見合わせた。
松下が問う。
「覚悟?どういうことだい?」
「履歴書には最終学歴しか書いていませんが、彼は高校を中退して、その後大検をとり、夜間大学に入って、三年から昼間の大学に移ったんだそうです」
「へえ、そりゃすごい。たまにいるよな、そういう人。一度ドロップアウトしてから這い上がった感じ?」
「ドロップアウト」――そう安藤が言ったのは偏見に過ぎない。
かつて夜間大学は、生活費や学費を自分で賄うために、昼間に働きながら学ぶ人のために設けられた制度だった。
しかし現代では、高校卒業は当たり前となり、大学の学費も奨学金や親の支援でまかなうのが一般的だ。
そのため、昼間にフルタイムで働きながら夜間に通う進学スタイルは、今では限られた一部の人たちの選択肢となっている。
だが実際、高校を退学したことで学歴を理由に定職に就けないドロップアウト組が、資格や学位を得るために夜間大学へ進む者が一定数いるのも事実だ。
しかし、安藤の言葉に対して、五十嵐はゆっくりと首を横に振った。
「違う。彼は高校を辞めたあと、すぐに大検の準備を始めて、最初から行きたかった大学を目指したらしい。そこには、小さい頃に恩のある教授がいたんだって。高校の同級生と『一緒に卒業しよう』って約束してた大学で……その約束を守るために、まっすぐ進んだんだよ。その結果、辞めた高校の同級生としっかり同期で入学したらしい」
「それもなかなか義理堅い性格だし、一途ですごいな」
「だが、学費が安くなるから、という理由であえて夜間に入り、三年から昼間に移っている」
安藤が「……は?」と間の抜けた声を上げた。
「そして彼が高校を卒業していないのは、別にドロップアウトしたんじゃない。詳しいことは省くが、同級生にどうしても許せないことをしていた相手から『お前、自分が学校を辞めさせられたくないなら黙ってろ』という要求に対して、相手をぶん殴って大事にしたうえで、周りに迷惑が掛からないように自分で高校を辞めたらしい」
「そいつはまた……」
「覚悟が決まってると思うか?そうだよな。だが、本人はそんなたいそうな覚悟だとは思ってなかったらしい。『だって大検とれば高校卒業してなくても別に退学のデメリットないじゃないですか。まあ、修学旅行とかは残念だけど』だってよ」
五十嵐は肩を竦めた。
「まあ、言われてみればそうだ。大検も大学試験も、試験そのもののハードルが上がるわけじゃない。大学進学に限って言えば、高校は結局、手続きを簡略化したり、サポートしたり、レールを作ってくれているにすぎん。夜間から全日制も、金銭だけで見れば確かに安くなる……だが、だからといって、それを簡単に選ぶか?普通」
安藤と松下は黙り込んだ。
『そうすればできるならそうすればいい。なら悩む必要はない』
彼の考えは簡単に言えばそういうことだ。
『大変なことは面倒だから嫌』
とは思うのだ。
だが
『大変であっても、それで目的が達成できるなら問題ない』
とも考える。
全体的に覚悟の付け方とその決断が早すぎる。
決断力があるとは言えるが、慎重さがまるでない。
それは彼の武器かもしれないが、組織としてはリスクでもある。
「そのくせ、コロナ騒ぎで就職する予定の企業から内定取り消しを受けて落ち込んではいたそうですよ。やるべきことがなくなってしまった、と」
「落ち込む理由はそこなのか」
「あの語学力があればどこでも引くて数多だろうに。よく彼を切ろうと思ったものだ」
「さあな、取り消ししたところはよほど節穴だったんだろ……まあ、俺たちだってあれを目の当たりにしなければ同じ扱いをしてたかもだが――」
「そうだ、あれだけのものを見せられて、放置なんてできるものか」
たしかに異質な部分はある。
とはいえ、彼のスキル、ポテンシャルをそのままにするのは惜しい。
こうしてハマトクは遥斗獲得に向けて、静かに動き始めたのだった。
「……あっれえ?」
一方、遥斗を乗せた新幹線は、急にその速度を落とし始めた。
止まったわけではない。動いているが、ずいぶんと遅くなっている。
車内放送では「ただいま、線路の安全確認のため、速度を落として運行しております」と、アナウンスが流れ、乗客たちはざわつき始めた。その時、車両の端から乗務員服を着た男が、顔を青ざめさせて走っていくのが見えた。
いつもの遥斗であれば、トイレでも我慢してるのかなと呑気に構えていたはずだ。
だが、その時はなぜか遥斗の胸に嫌な予感がよぎり、それは確信に近い何かに変わる。
「何かが起きている、動け」
自分に対して「何か」がそう訴えている気がしてならない。
理由はさっぱりわからない。だが、わからないからこそ、そう感じるならすぐに動くべきだ。
チョーカーに手をやり、遥斗は小声でシアに語りかけた。
「シア、何が起きているか調査できるか? なんとなく嫌な予感がするんだ」
「無線などの傍受、システム介入などをしていいですか?日本では違法行為のためルト様のポリシーに反するかと思いますが」
「……できるだけしないように。だがそうしなければわからないならば許可。ただし、そこで知りえた情報は、本当にお前が緊急度が高いと判断しない限り俺には伝えず消去すること」
遥斗が悩んだのはきっかり2秒。焦ってはいるが、焦ったが故の決断ではない。
考えても自体が好転しない、わからないものに遥斗は2秒以上は考えない。
ある意味いつも通りである。
「Aisa」
そして、許可を得たシアは、封じてきたその能力を十全に発揮して調査を開始。その結果はすぐに確認でき、シアは遥斗に伝える。
「簡易スキャン、システム干渉、傍受を実行しました。周囲の状況を解析した結果、およそ10分後にこの新幹線が爆発する可能性が99.99998%です」
「……は?」




