第58話∶あれ?俺またなんかやっちゃいました?
その日の昼下がり、遥斗は五十嵐に引きずられるようにして、東京行きの新幹線に放り込まれていた。新幹線のプラットフォームは人々の喧騒に満ちていたが、一歩車内に入ると、そこは別世界のように静かで落ち着いた空間が広がっている。
指定席に腰を下ろし、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら、遥斗はぽつりと呟く。
「新幹線の指定席なんて、初めてだなあ」
隣に座った五十嵐は、眼鏡の奥で目を大きく開きながら遥斗を見た。
「そうなのかい?」
「新幹線自体、ほとんど乗らないですからね。大学の時に同期と関西のテーマパーク行くのに使ったくらいですが、みんなお金ないので自由席でしたし。大学に行くのに東京はよく行ってましたが、埼玉の端っことはいえ、一時間が三十分になるくらいですから、それで新幹線代は出せません」
五十嵐は苦笑する。
「それもそうか。だが今はその三十分が惜しい。指定席にGOが出たのも、本社がそれだけ君を買ってるということだろう」
遥斗は少しだけ居心地が悪そうに首をすくめた。
「それにしても本当に俺でいいんですか? 大きな商談って聞いてますけど、バイトの俺に責任を求められても困りますよ。もちろん、できる範囲で全力は尽くしますが」
「わかっている。本社でも外部のプラットフォームや大使館、大学にアプローチしているので運が良ければ代理は見つかるかもしれない。だが数日余裕があるならともかく、あと一時間後に、となると本当に絶望的なんだ。もし運よく別のプロが見つかって君の出番がなかったとしても、今日のハマトクでの日当以上の手間賃は約束しよう。それより今のうちに契約のための履歴書を作らせてくれ」
五十嵐はそう言って、ノートパソコンを立ち上げた。
「へえ、結構いいやつですね」
「お、わかるかい?そうだろ、最近新しいのが支給されたんだ」
得意げな五十嵐に対し、遥斗の首元のチョーカーからシアの声が響く。
"ルト様、今そこの粗末な情報端末を褒めましたか?"
遥斗は慌てて、周囲に聞こえないように小声で「今は黙ってようね」と注意する。ちなみにリケも外の様子が見たいのか、遥斗の袖口からこっそり目玉をのばして「ケリリリリ!」と興奮したように小さく鳴いていたため冷や冷やしている。
「ん? 何か言ったかい?」
五十嵐が訝しげに尋ねるが、遥斗は何事もないように「いや何も」と答えた。
「そうか、では済まないが、君の経歴をお願いできるかな? 大学にいってた、といったけどどこだい?」
「えっと、これって卒業した学部だけかけばいいんですか?」
遥斗の質問に、五十嵐は首を傾げた。
「うん? どういうことだい? ……ああ、転科したとかかな。それなら一応全部教えてほしい」
「えっと……それなら――」
遥斗が経歴を話し始め、五十嵐はそれをノートパソコンに打ち込んでいく。最初は「ふーん、そこそこいいところだな、ま、俺ほどじゃないけど」くらいの軽い気持ちで聞いていた。ついでに言えば、その経緯が少しだけ変わっていたので、少し興味を持ったくらいだ。
だが、話を聞いていくうちに、五十嵐の顔に「?」の文字が浮かび始める。
五十嵐は意味が分からず、どうしてそうなったのか差し支えなければ聞かせてほしい、と尋ねた。すると、遥斗は特に気にした様子もなく「いいですよ」とあっさり説明を始めた。
だが詳しく聞いてもやはり意味が分からない。
念の為に高校はどこか聞いたら、余計に訳が分からなくなった。
「……それ、マジ?」
「はい、そうですよ。まあ少し珍しいかもですが、そういう人は他にもいると思いますけど」
「……いや、まあ経歴だけならそういう人もいるだろうけど……こういっちゃなんだけど、君、結構やべーやつって言われない?」
「服のセンスはやべーってよく言われます」
「そっかぁ……」
五十嵐は、書き上げたばかりの履歴書を改めて見つめる。
そこに書かれている内容は、どれも「ありえないこと」ではない。「ありえること」だけだ。確かに少しだけ変わってはいる。だが、世の中を探せば、こういう人もそれなりにいるだろう。
しかし、問題はそこではなかった。
履歴書には書かれていない、遥斗から聞いた話の内容が、異質過ぎたのだ。
彼は、おそらく善人だ。五十嵐は彼の話を聞いてそう確信していた。
そして、大学だけ見れば学力はそこそこだが平均よりは高いレベルにある。また潔癖ではなく、清濁を飲み込む程度の融通も利くようだ。そして約束には誠実で極めて義理堅い。
性格も人当たりがよく、常識的な判断もできる。
ここまではいい。実に好感が持てる。
問題はあり方で、彼は「非常に穏やかだが感情のために理性的に非合理を選び、その目的達成のためには合理主義者」というチグハグさを持つ。
例えば彼は悪意をぶつけられても攻撃的にはならず、その場が納まるなら自分が殴られた程度なら我慢することを受け入れるだろう。その方が合理的だからだ。そのためには多少のことは我慢できる。
だが一線を越えた場合、例えば彼の大切な存在を傷つけたり、譲れないものを侵そうとした時に限り、彼は悪意に対して明確に牙を剥く。それも相手の予想しない形で。
キレたら何をするか分からないのではなく、理性的にキレて一番嫌なことをしてくるタイプである。敵対者はその時初めて遥斗の異質さに気付くのだ。
「だからってそんな事する奴がいるか」と。
これは……個人的な交友としては面白いが、組織として抱え込むにはなかなかに爆弾である。だが、おそらく彼はこちらが誠実である限りは誠実さで返すだろう。五十嵐は自分が「まあ誠実な方」だと思うし、会社も不満はあれど「悪くない会社」「社会に対して立派に向き合う会社」とは思っている。
ならば、彼と関りを持つことは自分も会社もきっと悪いことにはならないだろう。
だが今は――
「……とりあえず、経歴は卒業の学部だけ書いておくか」
今は緊急事態の最中である。余計な話が邪魔にならないよう、彼は書き上げたドキュメントのバックアップだけ取り、情報を削ったものを書き直すとメールで会社に送信した。
東京、大手町。
高層ビルが立ち並ぶビジネス街の一角に、ハマトクの本社ビルはあった。少し古びた十階建てのビルの数フロアを借り上げているようだ。遥斗は、五十嵐に連れられてエントランスをくぐり、エレベーターで目的の階へと向かう。
エレベーターの扉が開くと、そこにはすでに三人の男女が待ち構えていた。責任者らしき初老の男性、そして五十嵐より少し上の40前後の男性と、その部下らしい20代くらいの女性である。彼らは五十嵐の姿を認めると、女性が頭を下げた。
「五十嵐さん、お疲れ様です! お連れの方が……」
遥斗の姿を見るなり、彼らは一瞬言葉を失った。童顔でぽややんとした、どう見てもただの学生アルバイトにしか見えない青年……下手したら高校生に見える彼が、我が社を救うかもしれない通訳者とは信じられないのだろう。しかし、五十嵐が「この方が遠峰さんです」と紹介すると、部長はすぐに表情を引き締め、深々と頭を下げた。
「遠峰さん、ご足労本当にありがとうございます。部長の松下です。こちらはプロジェクトリーダーの安藤と、その部下の斎藤です。まさかこんなにお若い方が……」
「いえ、俺なんかでよければ」
遥斗は恐縮しながら挨拶を返した。年上とは言えフレンドリーな五十嵐とは違い、明らかな重役オーラを持つ初老の人に頭を下げられるのは違和感しかない。
そのまま彼に案内されて、こじんまりとしたプロジェクトルームに案内される。
五十嵐はプロジェクトには関わっていないらしいが、遥斗を見出したということで、同行するように言われ付いてきている。
「それで安藤、結局他の通訳の方は?」
五十嵐が尋ねると、安藤は悔しそうに顔を歪めた。
「無理だった。数日後なら予約できるし、今後何かあった時には対応してもらえるようにはできたが、今日すぐには……。本当に遠峰さん頼みだ」
部長の松下もそのことは知っているのだろう。彼は肩を落とし、改めて遥斗に頭を下げた。
「遠峰さん、本当にありがとうございます。事前の説明でもあったかもしれませんが、いくつか改めて確認させてください」
遥斗は頷く。松下は、今回の商談について簡易だが丁寧に説明を始めた。商談は三十分後で、すぐに着替えてほしいこと。本来通訳を務めるはずだった社員が緊急で倒れたため、今回は代理の通訳であり、契約に関する重要な部分は英語になることは、すでに相手には伝えてあること。契約そのものは今までの商談の拡張であり、資料もあるので専門的な部分は無理に訳さなくていいこと。重要なのはクメール語で会話しようとする誠意を見せることであること。そして、ここで知ったことは守秘義務があることなど。
遥斗は、「相手にはすでに状況を伝えている」という点に好感を抱いた。想定外の事情とはいえ、それを隠したり繕ったりしない態度は誠実さを感じたからだ。
「わかりました。できることはやらせてもらいます」
遥斗の言葉に、松下と安藤は安堵の表情を見せた。遥斗は案内された着替え室に入り、用意されたスーツに着替える。高級な生地と仕立ての良さは、服のセンスがウンコな遥斗にも「なんかいいやつっぽい」と感じさせるだけのオーラがあった。
着替えを終え、会議室に向かうと、遥斗は契約書にサインを求められた。報酬金額は五万円。ただし成果によっては追加報酬あり、と書かれている。
サインをしようとペンを握ったその時、プロジェクトメンバーの斎藤が口を開いた。
「あの、遠峰さん。そのチョーカーはちょっと……。それにマスクも商談時までには外してもらえませんか?」
遥斗は顔を上げ、斎藤を見た。
「事前に、チョーカーとマスクはしたままでいいと承諾されてると聞いてますが」
斎藤は知らなかったようで、安藤の方を向いた。安藤は確かに聞いていたものの、いざとなるとその異質な姿に不安を感じたらしい。
「そ、それはなんとかならないか。なんなら報酬を増やしてもいい」
だが、遥斗はきっぱりと断った。
「約束していたはずです。それに、駄目なら例え報酬が十万円でも引き受けません」
遥斗の揺るぎない態度に、松下は青ざめた。これは、覚悟してる男の目だ、と感じ取れたからだ。安藤と斎藤は「出来ないから断る理由を探してるのか、それとも報酬を値上げするためにゴネようとしてるのか」と懐疑的である。
すると五十嵐が口を挟んだ。
「部長はお気づきだと思いますが、彼がそういうならそれは間違いなく本気です。遠峰くん、もし仮にチョーカーとマスクを外して通訳するなら100万出すと言われたら受けるかな?」
「受けません。100万でも200万でも、いくら積まれても同じです。これはお金ではなくポリシーみたいなものなので」
「……とのことです。部長、このままで構いませんよね?私としても弊社がした約束をあとから反故にするのに賛同はできません」
まだ短い付き合いだが、遥斗の異質さ、あり方の恐ろしさは先ほどの新幹線の中で僅かながら理解した五十嵐だ。遥斗がそう答えてくるだろうという自信があった。
慌てたのは松下だ
ここで彼を帰すわけにはいかない。
「も、もちろんいいとも! 安藤、斎藤、余計なことを言うな!」
松下の剣幕に、安藤と斎藤は不満そうではあったが、それを明確に顔に出すのはまずいと思ったらしい。すぐに「申し訳ございません」と謝罪し、引き下がった。
ちなみに本当に慌てていたのは遥斗である。そりゃシアが居なければ通訳などできないのだから、チョーカーのシアと口を隠すマスクがないなら100万どころか1億だろうが断っている。
シアにも確認してもらいつつ、遥斗は無事に契約書にサインを済ませ、あとは商談相手が来るのを待つだけ、となった。会議室に座り、遥斗は一息ついた。
「一応、少しでもある程度知識があった方がいいと思うので、今回のプロジェクトに関する書類があれば見せてください」
遥斗の言葉に、安藤は「今から?」と思いつつも予備の書類を差し出した。そこには日本語、英語、そしてクメール語で書かれた書類がある。安藤は説明を始めた。
「今回の商談に関することをまとめたレジュメです。商談中にこれを使って説明する予定でした」
遥斗は黙ってその書類を読み始める。それぞれの言語で書かれた、およそ五枚ほどの書類だ。
遥斗は一枚あたり五秒ほどで目を通していく。その速度に周りは「ちゃんと読んでるのかよ……」と不安げな表情を浮かべる。五十嵐もまた、信じられないものを見るような目で遥斗を見つめていた。実際、遥斗は自分で読んでいるのではなく、シアに丸投げしているため、一枚に一秒もかからないのだが、一応読んでるふりはしておかなければならない。一分半ほどで、遥斗はすべての書類に目を通し終えた。
「あの」
遥斗が口を開くと、部長の松下は訝しげに尋ねる。
「なにかわからないことでも?」
「これ、日本語と英語は一致してますが、クメール語の方は一部意味が違ってるところがあります。どっちが正しいんですか?」
会議室にいた全員が、一斉に「は?」と声を漏らした。
「ここです。英語のほうは『提供されたサンプルは参考用』ってなってますが、クメール語は『サンプルで品質保証』ってなってます。あとこっち、欠陥品に対しての補償範囲が微妙に違います。これだとハマトクさんが納入時にミスで壊した分も、相手の企業が負担することになってますよ」
遥斗の言葉に、松下は顔を青ざめさせた。
「い、急ぎ確認して!」
部下の斎藤は慌てて書類を手に取り、翻訳ツールと辞書で確認し始める。そして、数分後に顔を真っ青にして叫んだ。
「か、確認しました! 確かに誤記です! 急ぎ修正してプリントし直します!」
契約書自体は英語が正式なため契約には間違いはない。だが、もしこのままの書類を商談で見せていたら、相手は「話が違う」と激怒していただろう。フロアにはどよめきが広がる。
「あ、ありがとうございます、遠峰さん。助かりました」
「あ、いえ。最大限全力で支援するって約束なので」
松下の礼に、遥斗はなんでもなさそうに答える。その態度に、松下は「こ、これは彼に頼んで正解だったかもしれん」と先ほどまでの不安が吹き飛び安堵のため息を漏らした。
安藤が、感嘆の入り混じった表情で五十嵐に話しかける。
「五十嵐……」
「なんだよ」
「お前、とんでもないの見つけてきたな」
「だろ?」
五十嵐は得意げに笑った。
なお五十嵐も内心はビビっていた。




