第47話:待たされてた人妻とおっさん
「ルシ!」
バルバとティアリスが、その名を叫びながら広場へ飛び出した。遥斗も彼らに続き、外の光景に目を凝らす。広場の中心、先ほどルシが実験を行っていた場所には、ドッジボールほどの大きさの焦げ跡ができ、いまだ煙が微かに立ち上っていた。
その焦げ跡のすぐそばに、ルシは尻もちをついたまま座り込んでいた。杖は地面に向けたまま、呆然と手のひらを見つめている。煤で頬が汚れているものの、怪我をしている様子はない。
「ルシ、大丈夫!?」
ティアリスが駆け寄り、その肩を抱き起こした。ルシはゆっくりと顔を上げると、放心したような表情でティアリスを見つめ返す。
「奥様……今度は、今度は大きな反応を……」
ティアリスの顔が輝いた。「ええ、そうでしょう!あのときの効果ね!」
しかし、遥斗はバルバと顔を見合わせた。
「でも、さっきは何もなかったよね?」
と。
先ほどの拍子抜けするような結果を目の当たりにしていただけに、目の前の光景が信じられない。
「もしよろしければ、もう少しだけ試させてくださいませんか?」
ルシは立ち上がり、先ほどよりも真剣な眼差しで遥斗を見つめた。その瞳には、単なる驚きだけでなく、未知の現象を解明しようとする探究心が強く宿っている。遥斗は、彼女の言葉に頷き、ポケットからゴミとしてまとめて捨てるつもりだったチョコボンボンの包み紙を取り出した。
ルシはそれを受け取ると、先ほどちぎって使っていたチョコナッツ棒の残りの包み紙も取り出し、二種類の銀色の包み紙を数メートルほど離して地面に置いた。一つは先ほどの焦げ跡の近くに、もう一つは少し離れた乾いた土の上に。
ルシは再び杖を構え、深く集中する。先ほどのような派手な魔術ではなく、彼女が選んだのはごく初歩的な「火の粉」の魔術だった。
「火よ、宿れ――『火の粉』」
杖の先から放たれるのは、ごく小さな、粉末のような赤い光。それは地面に当たると、ほんの瞬きのように煌めき、すぐに消える。チョコボンボンの包み紙に当たっても同様で、焦げ跡も残さず、何もなかったように消え去った。
だが、次にチョコナッツ棒の包み紙に火の粉が触れると、火の粉はまるで燃料を与えられたかのように、マッチの火ほどに大きくなったのだ。そして、それが消えることはなく、しばらくの間、揺らめきながら燃え続けた。やがて、小さな炎は力尽きたように消えていった。
遥斗が今の現象を確認するようにルシに問うた。
「今、のは……?」
「今のは火の魔術の初歩、火の粉の魔法です。『火種となって燃え続けろ』と魔力を込めて放ちました。その結果、この銀紙に当たった魔術は私の魔力に込めた『意思』を反映して、魔術の現象を強くしている……!」
ルシの声は興奮に震えていた。彼女の表情は、完全に「魔術の謎」を前にした研究者のそれだ。バルバとティアリスも、目の前で燃え続けていた小さな炎を前に、驚きを隠せない。
確かに効果はあった。だが、なぜチョコボンボンの包み紙では何も起こらず、チョコナッツ棒の包み紙だけが反応したのか。
バルバは首を捻る。
「しかし、おかしいな。以前は別のチョコの包み紙でも確かに効果があったのだ。とすれば、この菓子の包み紙だけが特別というわけではなさそうだが……」
「だとすると、逆にこのちょっとお高いチョコボンボンの包み紙だけが、ダメだったってことなのかな?」
遥斗も腕を組み、考え込む。
彼らは、依然としてその違いの理由が不明なことに、困惑の色を深めていた。
誰もが理由を理解できぬなか、遥斗の首にあるチョーカーだけが、その状況を静かに解析をしていた。
広場での実験を終え、一行は再び交易所の中へと戻ってきた。遥斗は、先ほどの実験結果について、まだ整理しきれていない様子で言った。
「……とりあえず、アルミ箔がついているタイプのお菓子は、原因がわかるまでは包みを剥がして売るか、あるいはお菓子そのものを売らない方針にしましょう。原因がわからないと、迂闊に売るのは怖い」
バルバとティアリスは、「そんなー」と声が聞こえてくるかのようにも、しおしおと肩を落とした。彼らにとって、魔術触媒の効果を持つ包み紙は、大商材になり得たからだ。
「そもそも、俺もそんな効果があるなんて知りませんでしたからね」
遥斗は苦笑しながら続けた。
「確証を得ないと迂闊に売るわけにはいきません。その代わりといっては何ですが、持ってきた布とか、他のものを売ってもいいですよ」
「おお!それは願ってもない!」
遥斗の言葉に、バルバの顔がパッと輝いた。
彼は身を乗り出し、前のめりになって問いかける。先ほど見た極上の布地。それが取引できるなら、ある意味魔術の触媒という未知のものよりも扱いやすいし、莫大な利益も得られる。
遥斗は、広げられた布地を指差しながら、ゆっくりと告げる。
「まず、大前提ですがこれらは『ククル織り』や『月繭紬』ではなく、全くの別物です。特に、光沢のある『シルク』は『コットン』の5倍から10倍はします」
バルバは感嘆の声を漏らした。
「むむう、ククル織と月繭紬はそこまで差がないと聞いているが、これらはそうなのだな。理解した。それを踏まえて値付けをしましょう」
「もう一つ、取引には条件があります」
遥斗の言葉に、バルバたちに緊張が走る。その条件が如何なるものかで取引を結べるかが決まるのだから当然だ。
遥斗は一度、イリスやマレナ、そして村人たちをゆっくりと見渡した。
マレナだけが、遥斗の意図を察したように、口元に微かな笑みを浮かべていた。
イリスや他の村人たちは、なぜ自分たちを見るのだろう、と不思議そうに遥斗を見つめている。
「ヴェルナ村の発展に、交易や商売を通じて、できる範囲で協力してほしい。たとえば、村の工芸品の買い取りや交易の回数を増やすとか。もちろん、ヤーネット商会に無理はさせませんし、損をするような取引をしろとは言いません」
遥斗の言葉に、バルバは大きく頷いた。彼は遥斗がこの村に属している存在だと思っているのだから、当然の条件だと受け止めたのだ。何なら遥斗は最近イリスのところにやってきた入り婿か、それに準じる存在だと思っている。前回まで見なかった若者がここまでするのはそういう関係だとくらいしか思えないからだ。どこぞの商家や貴族とコネがある旅人がこの村でイリスを見染めて、村も新しい血を入れるために歓迎した、と考えれば自然だからだ。
「もちろん構わないとも! 俺もこの村には恩義がある。商売の一環で貢献できることをハル殿が望むなら、俺にとっても喜ばしいことだ!」
バルバは力強く答えた。彼は遥斗がどこからこれほど素晴らしい品々を仕入れているのか、その出所が気になってはいた。だが、敢えて口には出さない。余計なことを聞かないのも商人の知恵であり、何より、遥斗がこの村を拠点としようとしている事実こそが、彼にとって最も重要なことだったからだ。
しかし、イリスや村人たちは驚きを隠せない。イリスが代表するように問いかける。
「ハル様、ご提案はとても嬉しいですけど、どうしてそこまで……?これはハル様の持つ品物で成立した取引です。村は関与していないはずです。なのになぜ、我々にそこまでしてくださるのですか?」
村が遥斗を特別に厚遇したわけでも、遥斗が格別の恩義を感じるようなことをした覚えもないはずだ。
バルバたちはその言葉に「ハル殿は、この村の人間ではない……?」とハッとするが、口を挟むわけにもいかずに黙っている。
遥斗は、困ったように頭を掻いた。
「うーん、知り合って、こうやってみんなと仲良くできたから、というのはもちろんあるんだけど……それ以上に、俺は『ここ』しか来れないからね。この意味、今日俺が来たところを見たイリスならわかるでしょ?」
イリスは言われて、一瞬何か考えると、はっと何かに気づいたように目を見開いた。
彼女も気づいたのだ。遥斗がヴェルナ村を支援する、その本当の意味を。
遥斗がエリドリアに来られるのは、このヴェルナ村に隣接する森か、イリスの家、つまりヴェルナ村だ。そうなれば拠点となるのはヴェルナ村しかない。もし村が彼を受け入れなければ、もし村が衰退したら、彼の異世界での活動はすべて閉ざされると言っていい。彼の異世界生活の全てが、この小さな村の安定にかかっている。だからこそ、この村の発展は、彼自身の活動の基盤を築く上でも、何よりも『都合がいい』のだ。イリスは遥斗は『海を越えた遠い別の国』からきていると思っているが、彼にとってはそれが『ここ』であることに変わりはない。
そしてここからはイリスもわからないことだろうが、遥斗は一つ、予感していることがある。
おそらく、異世界に来るには何らかの『縁』が必要なのだろう。それは今のところ精霊の森であり、イリスの家であり、ガルノヴァでは宇宙船のシアルヴェンなのだ。
そして今、その『縁』は少しずつ拡大している。もしかしたら、ヴェルナ村にも『縁』ができれば、さらに移動できる範囲も広がるのではないか。
だが、それはつまり『縁』と成るものが失われれば、扉は繋がらなくなるということでもある。
だから、遥斗は決めたのだ。エリドリアでは精霊の森、イリスとの縁、そしてヴェルナ村を。ガルノヴァでは宇宙船シアルヴェン、そしてヴェラとの縁を守るのだ、と。ヴェルナ村の発展と安定は、遥斗にとってマストなのである。
ただ、それが完全に遥斗任せであってもいけない。自分が万が一、何らかの理由で来れなくなったとしても、その反動でヴェルナ村が破綻するような事態は避けたい。だから、自分がするのはヴェルナ村が自分たちで発展していけるような「下地作り」だと、遥斗は考えていた。
遥斗が考え込んでいる間、マレナがイリスにこっそりと耳打ちした。
「イリス、ハル坊がいない時は、あんたがバルバ殿との窓口になりな。ああ、長老たちにはあたしから言っておいてやるよ」
イリスは再び驚きに目を見開いた。マレナはにやりと笑う。
「ハル坊の役に立ちたいだろう?必要なことは全部仕込んでやる。だが、薬草師としての仕事もおろそかにはできないよ。それでも、やる気はあるかい?」
イリスは、村の未来を築く新たな役割に、なにより遥斗を助けられる『役目』に目を輝かせた。そして、強い決意を込めて小さく「はい」と答える。
この二人の会話は、遥斗には聞こえていなかった。
バルバが見積もりを始める中、遥斗は途中だった工芸品作成の報告を聞くため、スガライが持っていた大きな麻袋へと向かった。ティアリスも興味があったらしく、見積もりはバルバに任せて遥斗たちに近づいてくる。
遥斗としても、今後のヴェルナ村の特産品の取引のことを考えれば、見てもらうのはちょうどいいので見てもらうことにした。
スガライが麻袋の口を開くと、そこには、遥斗が注文した品々が整然と並べられている。魔術刻印の入ったポプリ袋、そして革製の護符の数々――それらはまさに遥斗の要望通りに作られていた。
「ハルさん、これが今回ご依頼いただいた品だよ」
リーリーとスガライが誇らしげに品々を差し出した。ポプリ袋の一つを手に取ったティアリスが、その肌触りに驚いたように目を瞬かせる。
「これは……!この袋の布も、糸も……もしかして、『コットン』を使っていらっしゃるの?」
リーリーは頷いた。
「はい!ハルさんからお預かりした麻以外の布と糸です。袋の中には、イリスが調合した癒しのポプリが入っています」
ティアリスの表情は一気に明るくなり、興奮気味に遥斗へと視線を向けた。
「こ、これを売り出すのですか!?」
「いえ、これは俺が自分のところで売るものなので……」
遥斗の言葉に、ティアリスは残念そうな顔をするが、すぐに気を取り直した。彼女もまた、コットンがどれほど貴重な素材であるかを理解しているからだ。
リーリーは続けて説明した。
「ポプリは約束の数、ちゃんと作ったよ。それと、ハルさんから貸していただいた道具がものすごく使いやすくて、麻の布と糸で作ったのもいくつか作ったんだ。価値はないかもだけど、これも上げるね」
そう言って、リーリーは麻製のポプリ袋を数個差し出した。遥斗はそれを遠慮するのもどうかと思い、素直に礼を言って受け取る。そのポプリ袋は、粗い麻布に彩り豊かな刺繍が施され、中からふわりと心地よい香りが漂っていた。マレナの施した刺繍は、野花や精霊を模した素朴ながらも緻密なデザインで、見る者の心を和ませる。革細工の護符も、丁寧に鞣された革に精巧な魔術刻印が施され、飾りとしても十分かっこいい仕上がりだ。
「今回は、セメラさんたちが忙しそうだったので、木片の護符はパスしたの。その代わり、この癒しのポプリと、革細工が中心だよ。あとは、マレナさんたちが麻の布でたくさん作った刺繍もあるので、そっちにもできる範囲で魔術刻印を入れたんだ」
リーリーがそう言い終えると、遥斗は驚きに目を見開いた。
「そんなにたくさん作ってくれたんですか!?」
遥斗の反応に、リーリーは少し照れたように頬を染めながら応える。
「うん、道具もよかったけど、ハルさんが残していってくれたお菓子を食べてから作業すると、ものすごく調子がよかったんだ。もしかしたら、さっき言ってた魔力回復の効果かもしれない。だからだと思うけど、いつもよりずっといい魔術刻印ができたんだよ!だから効果も上がってるよ!」
そう言って、リーリーはドヤッと胸を張る。
その言葉に、遥斗は期待を込めて尋ねた。
「ほんとですか!? い、一体、どのくらいの効果になったの!!?」
リーリーは少し考えたあと、はっきりと告げる。
「えっと、ポプリの『森の癒し』は……寝ているとよく足が攣りやすい人が、攣らないですんだ、とか」
「お、おう」
一応、気がする、よりは効果があると言えるのだろうか。
「『葉の代償』は……森でカミカミ虫に噛まれるのを一回だけ防げる、くらい」
カミカミ虫がどの程度のものかわからぬ。
あとで聞いたらアリくらいの虫のことらしい。
「え、えっと、なんか守護するやつは!?」
遥斗が思わず身を乗り出すと、リーリーは得意げに答える。
「『聖樹の守護』は、子供がよくいたずらでやる『今夜おねしょしやすくなっちゃうお呪い』とかを解呪するくらい。ちなみに解呪しなくても寝る前におしっこすればだいたい防げるけどね」
それはそもそもお呪いが効いているのだろうか。
遥斗は訝しんだ。
「『風の囁き』は、嫌な予感がするからドアをゆっくり開けてみたら、目の前で鳥の糞が落ちてきた、くらいかな。だいぶパワーアップだよ!」
「そっかー」
遥斗は、目を輝かせて語るリーリーを、はしゃぐ子供を見る目で微笑ましく見守った。
なお相手は子持ちの人妻である。
その頃、レンダの森の奥深く。
鬱蒼とした森の中を、冒険者ギルドから調査の依頼を受けたパーティが慎重に進んでいた。
『折れぬ大剣』の報告のあった場所では戦闘の跡があり、魔狼のものと思われる焦げた死体があった。
ここで魔狼が出たという報告に間違いはないだろう。
自分たちが遭遇しなくてよかったと心底思う。
そして今は、他にこの森で何か異変がないかを調べつつ、この森で手に入る果実や鉱石、動物や弱い魔物を倒して素材を集めているところである。
「おい、なんだこりゃあ……?」
先頭を歩いていた男が、突然立ち止まり、驚いたような声を上げた。他のメンバーも警戒しながら、彼の視線の先を追う。
そこにあったのは、倒木が折り重なった場所の奥、地面から突き出るように現れた、奇妙な物体だった。
それは、乳白色に光り輝く繭のように見えた。表面は独特の光沢を放ち、微かに脈打つような文様が浮かび上がっている。
しかし、よく見るとそれは文様ではなく、何か内側から破って出たかのような、不規則な亀裂の跡だった。
まるで、巨大なタマゴの殻。
そして、その殻の周囲の地面には、まるで巨大な何かが這いずり、あるいは引きずるようにして移動したかのような、はっきりとした跡が続いていた。その跡は、彼らが来た方向とは逆に、ヴェルナ村へと続く道の方角を指しているように見えた。
だが、その跡も急に存在が消えたか宙に浮いたかのように痕跡がぷっつりと消えている。
これは新種の動物の卵かもしれない。そうでなくても、このように輝くタマゴの殻なら素材や触媒として売れるかもしれない。
そう思って男が恐る恐る一歩足を踏み出し、手を伸ばそうとした、その時だった。
目の前の不思議な物体が、幻術が解けたかのように空気中に溶け始めたのだ。光の粒がふわりと舞い上がり、瞬く間にその姿を失っていく。それはあまりにも唐突で、そして幻想的な光景だった。
「な、なんだ、今のは……?」
男は伸ばしかけた手をそのままに、呆然と呟いた。他のメンバーも、目の前で起こった信じられない現象に、言葉を失い立ち尽くしている。
誰もがその謎の現象を理解できぬまま、ただ消え去った空間を見つめ続けるのだった。




