第41話:もしもし、ポリスメン
イリスの家の広間は、薬草の香りと落とされた灰の匂いが混じっていた。
恐らく、朝食に使ったであろう囲炉裏の横には、イリスが先ほどまで体を拭くために使っていた朽ちた桶が置かれてる。
その中で、マレナの茶化すような声と、イリスの必死な否定が、まるで水面に広がる波紋のように交錯していた。
一通り叫んで少し落ち着いたらしいイリスは、「み、皆さんを呼ぶ準備をしてきますね」と声を詰まらせながらいうと、桶と布を片づけながらエスニャを部屋に返すために部屋を離れた。
そのとき、遥斗の首筋に巻かれた首輪から、微かな振動と共にシアの声が直接響いてくる。
"ルト様、イリスさんがあなたを特別で神秘的な存在だと認識している可能性が高いです。ルト様をセリーモアの使徒だと、そして自らが『魂を繋ぐ従者』に選ばれなかったことを嘆いていたようです"
シアのエリドリア言語の学習は、遥斗が思っていた以上に進んでいたようだ。淀みなく伝えられる情報に、遥斗はゴロゴロと転がるのをぴたりと止め(まだ転がってた)、イリスがあの時呟いていた言葉を思い出す。
先ほどの衝撃的な一幕は、手に残る彼女の胸の柔らかさ、そして半裸の彼女という強烈なもので紐づけられたせいか、完全に脳裏に焼き付いている。遥斗は必死に邪念を捨てながら思い出すと、確かに彼女は「使徒」「魂を繋ぐ従者」という言葉を言っていた。
遥斗はマレナに顔を向けた。
「マレナ婆ちゃん、今シアが言ってた『精霊の使徒』とか『魂を繋ぐ従者』って、一体どういう意味なんだ?」
「ああ、それはな、『セリーモアの紬ぎ歌』に謳われている話さ。遙か昔、この世界を紡いだ創造主であり精霊の母であるセリーモア様が、世界に混乱が訪れた時に、精霊界から使徒を遣わすという伝承があるんだよ。その使徒が人間界で最初に心を許し、使徒の導き手となるのが『魂を繋ぐ従者』と呼ばれているんだよ」
マレナは遥斗の顔をじっと見て、さらに言葉を続けた。
「そしてな、使徒は、この世界に様々な奇跡をもたらすと言われておるんだ。思い当たる節はないかい? 例えば、ハル坊が森の中で突然姿を消したこととか。しかもその日、エスニャが体調を崩したんだが、お前さんに貰ったという不思議な食べ物を口にしたら、あっという間に回復したんだそうだよ」
遥斗はマレナの話に目を見開いた。自分が消えるところを見られたこともそうだが、さらにエスニャが体調を崩していたことにも驚き、慌てて尋ねた。
「え、エスニャが!? 大丈夫なのか」
「ふぇふぇふぇふぇ。さっき見ただろう、元気だよ。それもこれも、お前さんがもたらした奇跡のおかげだと、イリスは信じとるんだよ」
遥斗は内心で情報を整理する。
自分がやったことと、イリスの反応、そしてマレナの説明を照らし合わせる。
エスニャの回復については、原因は不明だが、この村の文化レベルでは栄養学の概念が乏しいことを考えると、たまたま日本から持ってきた栄養ゼリー飲料が、エスニャの不足していた栄養素に合致していた可能性は十分にある。
そして、自分が突然消え、戻ってきた後に、不思議な食べ物を与えたことで家族が劇的に回復したとあれば、敬虔な信者であるイリスが、遥斗を神聖な存在だと信じ込んでも仕方がないかもしれない。
「え、じゃあ……イリスは、俺を精霊の使徒だと勘違いしてるってことなのか?」
マレナはそんな遥斗の様子を見て、ニヤリと笑った。
「なんだい、やっぱり使徒様じゃないのかい。ほれ、そうだろうと思ったさね」
遥斗は脱力しながらため息をついた。
「そりゃそうだよ。大体、俺は観光気分でこっちに来てるんだから。まさか自分が精霊の使徒だなんて、そんな大それた話、あるわけないだろ」
「ふむ……観光気分ねえ。その割には、この村のために色々動いてくれるじゃないかい。子供たちにお菓子をくれてやったり、みんなに仕事を依頼したのだって、別に必要はなかっただろうに」
「それは……成り行きなんだよ。お菓子を売ったのだって、路銀というか、楽しむのにこの国のお金があった方が便利だろ、くらいの軽い気持ちだったし……」
「そしたら村の銅貨がなくなるんじゃないかと気にしたわけかい。なんとまあ、小さなことを気にする使徒様だよ。ふぇふぇふぇふぇ」
マレナの楽しそうな笑い声に、遥斗はまた頭を掻いた。
「だから使徒じゃないって……まあ、そのことを気にしたのはそうなんだけど、なんでそこまでちゃんと理解してるんだよ、マレナ婆ちゃん」
遥斗は、自分が村の銅貨不足を気にしていたこと、それによる問題もちゃんと理解しているようなマレナに、驚きを隠せない。こういうことは、相応の経験か、専門の学問を経ないとわからないものである。
「ふん、伊達に年取ってはおらんよ。だいたい見当がつくもんだ」
マレナの言葉に、遥斗は感心したような、呆れたような顔をした。
「それにしても、使徒と勘違いした、か……。一応、あとでイリスには説明するけど、誤解、解けるかなあ?」
遥斗の問いに、マレナは首を傾げ、考えるそぶりを見せた。
「さあねえ。ハル坊が使徒であることを隠している、セリーモア様がハル坊に器を与えた時に、そう思うように仕向けた、って考えればそれまでだからねえ。なんなら、ハル坊の国に連れてってやったら、さすがに理解するんじゃないかい?」
「うーん……連れて行く以前に、どうも扉は俺以外には見えないっぽいんだよね。まだちゃんと確認したわけじゃないけど。マレナ婆ちゃん、そこに扉があるんだけど、見える?」
遥斗は試しに、自分がやってきた扉の場所を指し示す。
マレナは少しのぞき込むようなしぐさをするが、すぐに肩をすくめた。
「……見えないねえ。なるほど、そりゃ厄介だねえ」
マレナは納得したように頷いた。彼女には遥斗の言葉を疑う様子はない。
彼女は遥斗が消えたところも、現れたところも見てないのにもかかわらず、遥斗のいうことをそのまま受け入れているようだ。
「ま、あたしゃあの子が魂を繋ぐ従者になろうがならなかろうが、幸せになるならいいのさ。イリスは、真面目で優しい子だけど、あまりにも色々なしきたりや伝承に縛られ過ぎてる。ハル坊がちゃんと娶ってくれるんなら、それに越したことはないね。いい雰囲気だったんだろ? お互いあそこまで真っ赤になってたんだから。あの子じゃダメかい? それとも他に思い人でもいるのかね」
マレナの直球な問いに、遥斗は少し顔を赤くする。
一応、遥斗にも女性の友人は日本に何人かいなくもない。バイト先の春日結衣などは友人といえるし、大学時代にゼミが一緒だった友人たちの中には女性もいる。ただ、それはあくまでグループ交流のようなものの延長であるし、その中では多少親密といえなくもない女性はいたが、彼女は大手の総合商社に務めており、遥斗の就職が流れたあとは特に接点がない。
高校時代に彼女はいたことはあるが、基本的に調子に乗りやすい上に恋愛観的には微妙に重い遥斗を子供っぽく感じたらしく、大学進学してしばらくしてあっさりサークルの『大人な』先輩に乗り換えられてこっぴどく振られている。
はっきり言えば、現在において相応に交流がある女性となると、思いつくのはイリスと、あの豪快で気風のいいガルノヴァのヴェラくらいである。当然ヴェラを遥斗は好ましく思っているし、機会があれば親密になりたい欲求はあるが、そういう関係かと聞かれると今のところノーだろう。
「いやさあ……別にそういうわけじゃないんだけど……」
遥斗は内心で考えた。イリスのような家族思いの子が恋人になってくれたなら、嬉しいのは確かだ。
しかし、彼女はまだ年端もいかない少女に見える。
23歳の自分が手を出すのは、倫理的に問題があるのではないだろうか。
互いに惹かれ合った結果、自然とそういう関係になるのは仕方ないとしても、「可愛いし好みだからアプローチしよう」と無責任に考えるのは、大人の男が未成年に向ける行為ではないと思う。
ここが日本でない以上、日本の法やモラルに拘るのはあまり意味がないことなのかもしれないが、そうすぐに切り替えられるものではない。
だからこそ、先ほどは必死に煩悩を退散させたのだ。
これがヴェラならば、流されて受け入れていたかもしれない。一度手を出せば、多分そのまま本気で好きになってしまうだろうから、迂闊に手を出さないとは思うが、それはその時になってみないとわからない。
そこで遥斗は、肝心なことを確認してなかったことに気づき、マレナに尋ねた。
「あのさ、マレナ婆さん、イリスって今、何歳なんだ?」
「イリスかい? 18だよ。もう結婚して、いつ子供ができてもおかしくない頃だね」
「え、マジで!?」
遥斗の顔が驚愕に染まる。むう、そうなると話は変わってくるぞ、と。
それなら問題ないんじゃね、とか、いやお前この世界来れなくなったらどうすんの、など、脳内遥斗君たちが再び大会議を開き始めた。
その時、廊下から再び足音が聞こえ、イリスが戻ってきた。
先ほどまでは麻の服だったが、あれはどちらかといえば内着に近かった。それが今は、薬草を取っていたときの彼女の服装と同じものになっている。
「着替えてきました。それでは行きましょうか」
遥斗は、ここでなあなあにしたら、また誤解が広がると、覚悟を決めたようにイリスに向き直る。
「イリス……。その……勘違いさせちゃってるみたいだけど、俺、精霊の使徒じゃないんだ。さっきの『魔道具の扉』の話も、細かいところは少し違うけど本当のことなんだ。俺は、ここではない日本っていう国から、自分でもよくわからない扉を越えて、ここに来た、ただの人間なんだ。だから、どうか……俺を、そういう神様みたいな特別な存在だとは思わないでほしい」
遥斗は必死に訴えた。
「変にあがめられたくないし……なにより、それでイリスとの関係が変わるのが、俺は嫌なんだ」
遥斗の言葉に、イリスは一瞬驚いたような顔をした。しかし、隣のマレナを見てすぐに悟ったのか、一度目を閉じて頷くと、すぐにその表情は、吹っ切れたような、清々しいものに変わった。
そして彼女は静かに、しかしはっきりと口を開いた。
「すみません、私が愚かだったんです。勝手にハル様をそのような存在だと、決めつけていました。まだ今でも、もしかしたら、と思うことはありますけれど、でも、もういいんです」
「どういうこと?」
遥斗はイリスの言葉の真意を測りかねた。
「もし使徒様だとしても、ただの人だとしても――ハル様は、何も変わらないのでしょう? 私は、最初に会った貴方、今まで見てきた貴方をそのまま受け止めて、信頼できる方だと思ったから今があるんです。そしてハル様が使徒様でも、ただの人でも、私が貴方に向ける感謝には何も変わりません。なら、それでいいと思うのです。貴方が、私を『パートナー』と言ってくれた。それだけで十分です」
「……」
イリスの瞳は、一点の曇りもなく、遥斗を真っ直ぐに見つめていた。その純粋な眼差しと、曇りのない笑顔に、遥斗の心臓は少しドキリと音を立てた。恐らくそれは、恋愛感情ではない、人としての純粋な好意だろう。しかし、遥斗は打算抜きの好意にひどく弱い。これは、少し自分も男を見せるべきだ、と内心で思い始めた。
その時、遥斗は懐に手をやり、はっと思い出したように口を開いた。
「そうだ! あの、イリスに、お土……プレゼントがあるんだ」
遥斗が取り出したのは、ガルノヴァで手に入れた、あのガルノス斑の出ている鉱石をあしらった、ネックレスだった。その石は、光を受けて幻想的な輝きを放っている。なお、「お土産」と言わなかったのは、彼のなけなしの男気である。なんとも、しょっぱい男気だが。
イリスはその美しいネックレスを見て、驚きに目を見開いた。その隣で、マレナは「ほぉ!」と感嘆の声を漏らし、口笛を軽く吹いた。器用な婆さんである。
「こんな素晴らしいもの……私には、とても受け取れません……」
イリスは恐縮するように、手を引っ込めようとする。しかし、遥斗はそれを制し、イリスの手を優しく握ると、ネックレスをイリスの手に握らせた。
「いや、受け取ってほしい。もともと君にプレゼントするために持ってきたんだし。それに、もしさっきの俺の行為を許してくれるというなら、ぜひもらってほしい」
遥斗は続けた。
「特別なものだけど、高価なものじゃないんだ。別の場所への旅の中で、君に似合うと思って買ってきたんだ。大事なパートナーの君に」
そこには、本当にシンプルな言葉だけがある。アピールのためカッコつけようとは思ったが、結局女性を喜ばせるような美辞麗句は遥斗の語彙にはない。そのため、カッコつけようとしてるにも関わらず何一つ飾らない事実だけを告げることになったのだ。
その結果、その言葉は意思を伝える謎の翻訳により、誠実な親愛の思いがストレートに伝わってくる上に、貴方が特別だということを微妙に詩的な言い回しをした言葉として、イリスは認識した。
それこそ、ほんの少し言葉をいじれば熱烈な恋の告白と受け取られてもおかしくないような、だが一応はギリギリ親愛と言えるくらいのそれである。
「そういうとこですよ、ルト様」
シアが遥斗には聞こえないほどの小さな声で呟いた。
イリスは、遥斗の真剣な眼差しと、その言葉に、感極まったようにネックレスを受け取った。彼女の顔には、満面の笑みが浮かび、遥斗は内心で「よっしゃ、好感度上がったかも」とガッツポーズ。恋愛関係になるならないは置いておいて、自分が好ましく思っている女の子の好感度は上げられるときには上げとかないとである。
イリスは嬉しそうにネックレスを首につけ、大事な宝物のようにぎゅっと握りしめた。
「ありがとうございます、ハル様! 大切にします! それでは、皆さんを呼んでまいりますね!」
イリスは弾むような足取りで部屋を出ようとする。
「じゃあ俺もいくよ。村の中も、もっとじっくり見てみたいし」
「なら婆もいくかね。運動はせんとね」
遥斗もイリスに続いて外に向かおうとすると、マレナもついてきた。
外に出れば、抜けるような青空が広がり、柔らかな日差しが降り注いでいた。木々の枝葉は風にそよぎ、小鳥たちの囀りが心地よく耳に届いてくる。草の青々とした香りが鼻をくすぐり、爽やかな風が頬を撫でた。
まさに絶好の散策日和だった。
その中で嬉しそうに歩くイリスを後ろから見ながら、遥斗はマレナにこっそり呟いた。
「まさか、あんなに喜んでくれるとはなあ。こんなに喜ばれたら、誕生日プレゼントとか、もっと気合いれないとだし、どうしようか迷うなあ」
遥斗は、せっかくイリスの好感度を上げていくことも考えたので、その辺が気になったらしい。
ところが、それを聞いたマレナが不思議そうに首を傾げた。
「誕生日プレゼント? なんだい、そりゃあ」
「え、こっちに誕生日プレゼントの文化はないの? その人が生まれた日を祝うんだけど」
「ふーん……誕生祭ならあるけど、それは村の皆で祝う大きな祭で、別にそういう個人的なプレゼントはしないね。ハル坊の国ではやるのかい。人数多いだろうし大変じゃないかい?」
マレナは訝しげな顔をするが、遥斗はその反応が腑に落ちない。
プレゼントを贈る文化がないのはまあいい。だが『大変』の意味が違う気がする。
確かに友人や大切な人が多ければ、一年を通して考えれば大変だが、どうもマレナが感じている『大変』とはニュアンスが違う気がした。彼女の言う『大変』は、個人の誕生を祝う行為そのものがそうであるという、違和感に思えたのだ。
遥斗はその時、とあることに気いた。もしや、と思い、マレナに詳しく尋ねてみる。
「あ、あのさ……ちょっと確認なんだけど、この国って、生まれた瞬間って何歳になるんだ?」
「そりゃあ、1歳だよ。当たり前じゃないか。この国の一年の始まりは春の始まりの日でな。一年の始まりに精霊祭をやり、二日目に世界が生まれたことを祝い、三日目に人が作られたことを祝うんだよ。そしてその三日目に、皆が年を数えるんだ」
「数え年だった!」
遥斗は愕然とした。
この国では、新年の三日目に全員が一斉に年を数える、数え年制度であることがわかったのだ。
「え、じゃ、じゃあイリスが生まれたのって、1年のどのくらいの時期なんだ?」
「ああ、それなら冬の終わりだね。春の直前だよ。次の精霊祭が来たら、イリスも19になるのかね。早いもんだねえ」
マレナの回答に、遥斗の脳内で衝撃の計算結果が弾き出された。
「それじゃ、イリス、今16歳じゃん!!」
「いえ18ですよ」
「18っていっただろう」
イリスとマレナは、不思議そうに驚愕する遥斗を見た。
「おまわりさん、こいつです」
慌てる遥斗の首元で囁かれたシアの小さな呟きは、誰にも届かなかった。




