第40話:精霊様が見てる?
イリスは、まだほんのりと水気の残る肌に、そっと上着を羽織った。肌触りの良い麻の生地が、わずかに熱を持つ身体を優しく包む。
目の前のエスニャには、にこやかに
「ハル様に背中を拭いてもらっていたんだけど、私がくすぐったくなって動いちゃったから二人で倒れちゃったの」
と、一切の動揺を見せずに伝えた。
エスニャは、その言葉を何の疑いもなく受け入れたらしい。
「おにいちゃが来てくれて嬉しい!」
と無邪気な笑顔を見せる。
それを見ていた遥斗は、この場をなんとかごまかせたことに安堵の息をついた。だが、エスニャが大人になった時、もしこの日のことを思い出す日が来たら、何を思うのだろうか。そのことを考えると心臓が止まりそうになるので、彼は考えることをやめた。
「よし、エスニャ。あとでたっぷり遊んであげるからな。今はイリスとお話するから待っててな」
遥斗の穏やかな声に、エスニャは「うん」と嬉しそうに返事をし、部屋の奥へと消えていった。小さな背中が完全に視界から消えた瞬間、遥斗は迷いなく、そして床に額をぶつける勢いでイリスの目の前にスライディング土下座をした。それはもう、前に森の中で五体投地したときよりもさらに素晴らしい、残像が残るかのような一切の無駄のない土下座である。
「ちょっ、ハル様!?何をなさっているのですか!」
イリスは慌てて遥斗の肩に手を置き、彼を立たせようとする。しかし、遥斗は「申し訳ありませんでしたぁぁぁぁぁ!!」と叫ぶだけでぴくりとも動かない。まるで地面に縫い付けられたかのように、その姿勢を崩そうとしなかった。
「私は、ハル様に怒ってなどいませんよ……だから、頭など下げないでください」
イリスの言葉に遥斗は顔だけ上げるが、その姿勢は変わらないままだ。とはいえ不安げにこちらを見ているイリスを見ると、これ以上土下座し続けるのも、イリスを追いつめることになるのかもしれない。遥斗はせめて誠意は見せようと、正座する。イリスはその奇妙な座り方の意味は解らないが、とりあえず座っていることはわかったのでほっとした。精霊の使徒様に平伏以上の謝罪をされるなんて、もう如何とらえていいかわからない。だが、遥斗は申し訳なさそうな顔をしたままだ。
「いやマジで俺が悪いんだよ……こればっかりは自分のミスだ」
そう自身の過ちについて深く省みていた。なにしろ、自分が便利だからとイリスの家に直接「飛んで」きてしまったことが悪いのだ。森から律儀に歩いてくればよかったものを、楽だからという安易な理由で、まるで自分の家のように女性の家に入り込んでしまった。猛省すべきだ。もう二度とこんな無作法な真似はしない、と心に誓い、遥斗は震える声でそう告げた。
あの国民的青ダヌキの友達のダメ少年を笑えない、と深く自戒する。
だが、その言葉を聞いた瞬間、イリスの顔から血の気が引いた。
「私は間違えた」と遥斗の口から聞こえた彼女は悲しそうに顔を伏せ、その美しい瞳には、今にも零れ落ちそうなほどの絶望が宿っていた。
そう、精霊の使徒様は「間違えた」だけなのだ。
「やはり……私ではダメなんですね……」
イリスのつぶやきに、遥斗は困惑する。何がダメだというのだろうか。
ダメどころか小ぶりだが素晴らしい果実だった、と本音をいえば解決するのだろうか。
多分違う気がする。
一方でイリスの目には、目の前でひたすら申し訳なさそうに慌てふためく、異国からの旅人と名乗る不思議な人が映っていた。
彼の行動も言葉も、イリスには深く、別の意味に響いていた。
この時、イリスの脳裏に、古くから伝わる『セリーモアの紡ぎ歌』が鮮明に蘇る。
それは、遥か昔からこの地に伝わる、精霊セリーモアの使徒と、その使命を支える従者として選ばれた人の子の物語だった。
イリスは、自身の胸に渦巻く感情に気づき、その浅ましさに顔をしかめた。
自分は、遥斗を嫌ってはいない。まだ会ってから一ヶ月も経っておらず、顔を合わせた日数は三日程度でしかない。
だが好ましくは思っているし、その程度の関係でも嫁入りの話が出ることなんてよくあることである。
だから、もし遥斗がただの旅人だとして、自分をちゃんと娶る覚悟があるというならお受けしてもいい、くらいの気持ちはある。
ただ、自分はどうせなら心から好いた相手と添い遂げたいとも思っているし、そもそもその覚悟を彼に聞いたわけでもない。
そんな自分が、彼を心から愛したからではなく、ただ自分の「目的」のために魂を繋ぐ従者になろうとしていたのだ。
なんて不敬なことだろう。
精霊様の使徒に対し、そのような不純な動機で近づこうとした自分には、あの穢れなき精神を持つ魂を繋ぐ従者の資格なんてあるわけがないではないか。
しかし、遥斗は、そんなイリスの葛藤を知る由もなく、頭を掻きながら焦ったように言葉を続けた。
「あの、本当に俺が悪かったんだ。森から歩けばいいのに、楽だからって、勝手に入ってしまった」
遥斗は、この時もまだ、イリスがなぜそれほど悲しそうなのか、うまく理解できていなかった。ただ、目の前の女性をこれ以上傷つけたくない一心で、言葉を紡ぐ。
「えっと……俺の故郷にさ、すごく遠くの場所と繋がれる魔道具の扉があるんだよ。見つかったら大騒ぎになりそうだから、皆には内緒にしてるんだけど。その扉は村の隣にある精霊の森に繋がるようになってたみたいで、それで森で君に会ったんだ。で、今日、いつものようにその扉を開けたら、なぜかイリスの家の裏庭に繋がってて。何も考えずに試して、そのまま入ってしまったんだ。本当にごめん!」
遥斗は必死に説明した。しかし、イリスの表情は、ますます困惑の色を深めていく。
(国を越える魔道具!?そんなもの、聞いたこともない……)
「い……いいんです……。精霊様の御業は…時に人知を超えた形で現れるものだと、古くからの伝承にもございます。ハル様が、ご自身の意思とは関係なく、ここに導かれたのであれば、それはきっと……」
イリスは遥斗の言葉の意味を考える。
遠くの地を結ぶ魔道具。そんなものが存在するとは到底思えない。だがそのような説明をするということは、ハル様は、ご自身が精霊の使徒であることを、何らかの理由で隠されているのではないか?
あるいは、精霊様の深遠な意図によってその真の身分を、一時的に忘れさせられているのではないか?
「人の器に入る」とはそういうことなのではないだろうか。
もしそうだとしたら、自分は彼を「精霊様の使徒」という存在として崇めるのではなく、目の前にいる「一人の人間」として、それこそ、彼と出会ってこれまで過ごしてきたように、純粋な敬意と友情を持って接するべきではないのか。
そう、マレナが言っていたように――。
その時、コンコンと、控えめながらも確かなノックの音が、部屋に響いた。
「イリス〜、いるかい?」
扉の向こうから聞こえるのは、そのマレナの声だった。
遥斗がいるとは知らないのだろう、きっといつものように、刺繍の図案や、薬草の相談にでも来たのだろう。といっても、隠すようなことでもない。
イリスは遥斗に目配せすると、彼もさすがに立ち上がってドアをみた。
イリスは「はい」と返事をすると、扉が開き、マレナが部屋に入ってくる。
その視線はすぐに、なぜかまだ頬を赤くしているイリスと、普通に立ってはいるものの気まずそうにしている遥斗に注がれた。マレナは全てを察したかのように、ニヤリと口角を上げた。
「イリス……ヤッたんかい?」
「ばっふううううううう!?」
マレナの直球な問いに、遥斗が噴き出した。
そして先ほどまでのイリスの肢体を思い出したのか、「煩悩退散!煩悩退散!」と言いながら床に転がりだす。
多分本当にコイツが精霊の使徒だったら精霊はすぐに使徒をクビにしている。
「やってません!」
そんな遥斗をスルーして、イリスは顔を真っ赤にして即座に否定した。
マレナは残念そうに肩をすくめた。
「なんだい、つまらないねえ」
マレナはそう言って、イリスの近くに歩み寄った。
ちなみにマレナは、イリスが遥斗のことを『精霊の使徒様』と思っていることを知っていた。
あの日の翌日、イリスは真っ先にマレナに相談したからだ。
イリスはマレナに、遥斗が森の中で忽然と姿を消したこと、そしてその直後、エスニャが体調を崩した際に、遥斗が残していった不思議な菓子を食べさせたら劇的に回復し、むしろ以前より元気になったことまで告げた。そして、彼女は興奮した面持ちで、熱烈に訴えたのだ。
「あの方は精霊セリーモア様の使徒様に違いありません!」
と。
そしてその時のイリスは続ける。
「マレナさん……信じられないでしょう?まさか、精霊様の使徒様が、こんな風に、私たちのような民の前に現れるなんて……でも、私は嘘はついてません。精霊セリーモア様に誓って」
イリスの言葉に、マレナはふふっと面白そうに笑う。
「いや、お前さんが言ってることは信じるさ。本当にハル坊が使徒様かどうかは別だけどね。確かに、ハル坊は不思議な坊やだよ。ただ、あたしはどっちでもいいのさ」
イリスは不思議に思った。マレナは、この村で誰よりも精霊セリーモアへの信仰が篤く、その伝承にも詳しいはずだ。精霊様への不敬を何よりも嫌う彼女が、なぜ「どっちでもいい」などと言うのだろうか。
「だって、精霊様の使徒様は、人の器に入ってやってくるんだろう?なら、正体が何であれ、今は人じゃないか。だから、わざわざ態度なんて変える必要はないのさ。いつも通り、あんたらしく接していればいい」
マレナの言葉に、イリスは目から鱗が落ちるような思いがした。しかし、同時に、胸の奥に秘めていた別の感情が顔を出す。
「でも、やっぱり……私なんかじゃ……」
イリスが言葉を濁すと、マレナは再び、イリスの耳元に口を寄せ、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「それに、もし本当に使徒様なら、最初に会ったお前さんは『魂を繋ぐ従者』に選ばれたのかもしれないねえ……ふぇふぇふぇふぇ、お前さんの婿探しは苦労しなくて済みそうじゃないか」
マレナの言葉が、イリスの脳裏に雷鳴のように響き渡る。そうだ、あの歌には、使徒に選ばれし者が『魂を繋ぐ従者』となる、と記されていた。
もし、もし本当に遥斗が精霊の使徒で、そして自分が選ばれたなら。二人は最後には結ばれて――イリスの顔は、さらに真っ赤に染まった。
熱を持った頬を両手で覆い、まるで初恋をした子供のように頭を抱え込んだのだ。
そして、本日のあの騒動である。
イリスは遥斗を精霊の使徒様だと確信し、しかも半裸の自分が押し倒されたことで、自分は選ばれたのだ、そして受け入れれて寵愛をもらえればきっと『あの子』は――。
そう思い、思わず彼を誘おうとして大失敗したのだ。
イリスは、いま再びマレナの言葉を目の前にして、頭を抱えたまま、呻くように言った。
「だって私なんかじゃ……不敬ですし……それに、私は……」
そうしどろもどろになるイリスの耳元に顔を近づけると、マレナが小声で囁く。
「相手がただの旅人だろうと精霊様の使徒様だろうと、今は人の身なんだから好いてんならヤッちまえばいいんだよ!ハル坊は単純そうだから、一回やらせてあげりゃコロッと堕ちて本気で好きになって、婿入りでも、従者に選んでもくれるだろうし、なんでもするさ!」
その考えは間違ってない。多分子供ができるとか関係なく、なし崩しでもやっちゃったら責任を取ろうとしちゃうタイプである
そして経験値豊富な女性に遊ばれて「遊びなんだし、一回ヤッただけで彼氏ヅラしないでよね」とか言われたらしくしく泣いちゃうし、そこに保護欲が湧いた別の女性に優しくされてもまた堕ちちゃうのだ。
多分恋愛ゲームの攻略対象だったら、攻略難易度最低のチョロインと言われる男、それが遥斗だ。
「だからそういうんじゃありません!」
イリスは思わず声を荒げた。
遥斗は、転がったままだが、その言葉が少し気になっているようで転がる回転速度が遅くなっている。さっさと立て。
「でも嫌いでもないんだろ?」
マレナの追い打ちに、イリスはさらに顔を赤くし、わたわたと反論の言葉を探す。しかし、その言葉を遮るように、部屋の奥からエスニャがひょっこりと顔を出した。
「マレナおばあちゃ、おはやー。どうしたの?」
「おうおうエスニャ。今日は元気そうだね。なんでもないよ。ちぃーっと、イリスにハル坊と仲良くなる秘訣を教えてあげただけさ」
マレナの言葉に、エスニャは首を傾げる。
「おねえちゃとおにいちゃ、仲いいよ?さっきも裸のおねえちゃの体を拭いてあげてたの!」
エスニャのあまりにも純粋で、悪意のない告白に、遥斗は「うわあああ!」とさらに大きな呻き声をあげ、再度床を転がる速度を上げた。
そしてイリスは全身から湯気が出るのではないかと思うほど顔を真っ赤にし、プルプルと身体を震わせている。
「なんだ。やっぱりヤッてたんかい……」
「ヤッてません!!」
マレナの再びの問いに、イリスは涙目になりながら叫んだのだった。
転がる遥斗の振動が伝わったのか、壁に掛けられた星枝の壁飾りが、ケラケラと笑うように僅かに揺れていた。




