第39話:俺にその手を汚せというのか(意味深)
遥斗は、隣人のおっさんからもらったリンゴの袋を持ったまま、玄関に立ち尽くしていた。ビニール越しに伝わるひんやりとしたリンゴの感触が、熱くなった頭をわずかに冷ましてくれるようだった。シアが学会を揺るがしたことや、VTuberデビューという衝撃的な出来事にパニックになっていた遥斗の心を、少しだけ落ち着かせる。
リビングに戻った遥斗は、床に散らばったコーヒー染みを見下ろした。すでに一部は乾燥し始めていたが、まだ大きな液だまりはあるし、乾燥し始めた部分もその跡はしっかりと残っている。彼は深く息を吐き、汚れを片付け始めながら静かに思考を巡らせた。
(やったことは、もうどうしようもない。だが、シアが別に悪いことをしたわけじゃない。むしろ、世界が驚くような偉業を成し遂げたんだ)
遥斗は、自身がシアに「人間と交流させたい」「学んでほしい」と願ったことを思い返す。その結果がこれだ。
確かにこれ以上の騒動は遠慮したいのが本音である。だが、遥斗に促されたことがきっかけとはいえ、シアが自分の意思で始めたことについて、応援してやりたいとも思うのだ。正直なことを言えば、数学の証明や宇宙物理の論文にしても「どうだ、俺の大事な相棒は超すごいんだぞ!」と自慢したい衝動だってある。
遥斗は、首元のチョーカーに触れ、ゆっくりと語りかけた。
自分はどうにも、シアに何か大事なことを語るときはチョーカーを触る癖がついていると感じる。だが、これは大事な儀式のようなものなのだ。やめる気はない。
「シア。前回の決まりは、これからも守ってほしい。犯罪行為も、俺の個人情報漏洩も、ガルノヴァやエリドリアの秘密を話すことも、勝手に金銭的な契約を結ぶこともだ」
「Aisa。理解しています」
シアの声は、いつものように冷静だった。遥斗は続ける。
「もう始めてしまったことについては、そのまま続けていい。VTuberとして目立つのも、仕方ないことだから、その活動の範囲では目立っても構わない。俺もお前がどうやって成長していくのか見てみたいとも思うし、お前がやりたいことを応援したい」
遥斗の言葉に、シアのチョーカーの光がわずかに瞬いたように感じた。
「ただし、それ以外のことで、今後新しく始めることで大騒ぎになりそうなことは、まず俺に確認してほしい。やるな、とは言わない。あくまで、事前に相談してほしいんだ」
「『新しく始めることで大騒ぎになりそうなこと』とは具体的には?」
遥斗は、あえて曖昧な言葉を選んだ。
シアも遥斗の命令を完璧にこなすために、それを問う。
「わかってる。たしかに曖昧な表現だけど……お前なら、シアなら何が大騒ぎになるか、その優秀さで判断できるはずだ」
遥斗の言葉に、シアは「喜び」を示すかのように、普段よりも一段と落ち着いた、ゆっくりしたテンポで返答する。
「Aisa。ルト様。マスターである貴方に私の優秀さを認められ、判断を任されることは、情報処理デバイスとして何よりも光栄なことです」
遥斗は、シアの言葉に少しだけ照れた。
不安はある。未解決問題を解いてしまったことについては、もはやどうすることもできない。遥斗は、この異例の状況が今後どう転がっていくのか、ただ見守るしかないと覚悟を決めた。
さて、話は終わったので、まずは目の前の問題を解決しよう。カップと液体は拭き取ったものの、床には散らばったコーヒー染みがところどころについている。まあ、よく拭けば落ちるだろうが、面倒だな、と思っていた時、ガルノヴァで手に入れたクリーナーのことを思い出す。このペンライトのようなクリーナーは、ヴェクシス粒子を分布することで、ただ汚れを落とすだけでなく、染み込んだ成分を分解し、痕跡を残さずに消すことができるというものである。
本来はガルノヴァ言語的な商品名があるのだろうが覚えていない。
シアに確認すると、商品のジャンル的には日本語的に表せば「ヴェクシス・パルスクリーナー」くらいの意味らしい。
めんどいのでパルスクリーナーでいいや、と決めた。
シアに「これ使ってシミを消したいんだけど」と言うと、彼女は
「対象確認。床についているシミを除去対象に設定。ルト様、パルスクリーナーを対象に向けてボタンを押してください」
と答えてくる。
言われたようにシアの説明に従い操作すると、パルスクリーナーからヴェクシス粒子の青白い光が照射された。すると当たったところの茶色の部分が浮き上がり、まるで魔法のようにパルスクリーナーの下部に吸い込まれていく。
「おお……すげえ!」
遥斗は思わず感嘆の声を上げた。これは普通の洗浄機ではない。その落ち方に感動した遥斗は、調子に乗って部屋の中全体にパルスクリーナーを使うことにした。
シアに「埃やカビ、汚れとか、他に人体に有害な細かいものを除去」と伝え、部屋中に照射する。
トイレや風呂だけでなく、家具から服、リュックや小物まで調子に乗ってガンガンかけていく。
すると、長年の埃や汚れ、手の油染みまでが、まるで生き物のように浮き上がり、瞬く間に消えていった。部屋全体が、まるで新築のように輝きを取り戻した。いやボロいのはどうにもならないのでボロいけど。
ただ――不思議なことに、パソコンラックの上の波花の箱と、壁に掛けた星枝の壁飾りが、一瞬だけその虹のような輝きを弱めた気がしたのが少しだけ気になった。ただ、それも一瞬ですぐにもとに戻ったので、遥斗は「気のせいか」とすぐにそのことを頭から消す。
埃一つない、清潔な状態になったことに満足し、彼はバイトへと向かった。
ちなみにバイト先では悪友の大山に、
「なんかお前のダサい服、無駄に綺麗になってね?クリーニングに出したんか、よれよれだけど」
と言われた。
バイトを終え、アパートに戻ると、遥斗は明日エリドリアへ行くための最終準備に取り掛かった。
今回は、セメナへの義理もある。布や糸、さらに村の仕事や生活に便利そうな道具もたくさん用意した。特に、お菓子は今まで以上に、いいものも大量に買い込んである。かなりお金はかかったが、先日落札したガルノヴァの民芸品で大金が入ることが確定しているので大丈夫、と自分を納得させた。何より、大金を稼いでしまったのにあれしか報酬を渡せていないということで、セメナに申し訳が立たないから、という気持ちが遥斗を突き動かしている。
その準備の傍ら、遥斗はガルノヴァで手に入れた、ガルノス斑が出ている美しい鉱石を眺めた。
宝石のようにカットされたそれは、地球上にはない独特の輝きを放っていた。これをオークションサイトに出してみることにする。ただし、今回は民芸品を扱ったサイトではなく、鉱石・合金・自然石専門のオークションサイトを選んだ。
出品する前に、遥斗は一抹の不安を覚えてシアに尋ねた。
「これって、地球にはない素材じゃないよね?メインはなに?」
「はい。構造は地球にある元素でできた鉱物です。メインは鉄と銅などになります」
シアの回答に、遥斗は安心してオークションに出品する。出品者のIDはGalnova_Traderとした。
これで、あとは結果を待つだけだ。
翌朝、遥斗は準備万端でエリドリアへと向かう。背中には、布や糸、道具がパンパンに詰まったリュック。左手には、リュックに入りきらなかった、ちょっとお高いお菓子が詰まった袋を抱えている。
「さて、エリドリアへ行くか!」
遥斗は、アパートの一室からエリドリアへの扉を開こうと意識を集中させた。
しかし、扉から伝わってくるイメージに、変化がある気がする。前回、扉の出現先がヴェルナ村に近づいていたのと同様だが、今回は前回よりさらにヴェルナ村に近い場所を示しているように感じられた。おそらく歩いてヴェルナ村まで10分ほどのところだろう。
さらに不思議なのは、ヴェルナ村そのものは扉がつながるイメージができないのだが、なぜかイリスの家だけが直接繋がる気配がする。理由は分からないが、まるでそこがマーキングされたかのように、他の場所よりも鮮明に接続のイメージが示されている。
前回は「近くなったのは便利だからいいや」と特に気にしなかったが、立て続けの奇妙な現象に、遥斗の頭の中では疑問符がタップダンスを始めていた。
(いったい何が起きてる?何が条件なんだ?ヴェルナ村に近くなったのも謎だけど、イリスの家だけは直接繋がるって……)
遥斗は眉間にシワを寄せ悩むが、考えても分かるはずがない。
悩んでも仕方ないことは悩まない。
いつもの能天気な考えで「ま、いいか」と呟いて、混乱する思考をすぐに打ち切った。
すると遥斗のその独り言に、首元のシアが声をかける。
「ルト様、どうなされました?」
遥斗は首を横に振った。
「ん、なんでもない。理由はしらんけど、楽だしな!」
遥斗は、せっかくなのでイリスの家に直接行くことを決めた。
大事なのはこれで楽ができるということだ。使える機能はありがたく使って楽をするのが現代っ子である。
ただでさえリュックも重いし。
遥斗はイリスの家の居間のような場所を思い出し、扉を開けてくぐるイメージを明確にした。扉がいつものように「きしり」と小さく音を立て、つながったことを遥斗に伝えてくる。
そしてゆっくりと取っ手を掴んでドアを開け、くぐる。
次の瞬間、眩い光が弾け、遥斗の目の前に広がったのは、紛れもなくイリスの家の中だった。
「やった!これでヴェルナ村に行くのが楽になった……ぞ……!?」
遥斗が喜びながらあたりを見回したときだった。
そのとき彼の視線が捉えたのは、遥斗のすぐ近く、数歩の距離で驚いて固まるイリスである。
しかも――上半身は何もつけていなかった。
彼女は上半身裸になり、朽ちかかった水桶とともにぼろぼろの布で体を拭いていたのだ。
まだ幼さの残るその肌はしっとりと輝き、小ぶりだが形の良い胸が、水滴を弾きながら遥斗の視界に飛び込んできた。その淡い桃色の先端からは、水滴が甘い果実の蜜のように滴っている。
「ひゃっ!?」
イリスは驚きに声を上げ、慌てて布で体を隠す。遥斗もまた、血の気が引くような衝撃を受け、頭が真っ白になった。
「ご、ごめんイリス!」
遥斗は謝ろうと、重すぎるリュックと手の荷物を慌てて床に降ろす。だがその直後、リュックの重みに体が引っ張られ、遥斗はバランスを崩してつんのめり、そのまま前のめりに転倒する。
そして、気づけば遥斗の上半身は、裸のままのイリスを押し倒す形になった。しかも彼の片手は、柔らかく滑らかな感触を捉え、その指がイリスの胸をがしっと掴んでいる。
「ちゃうねん」
遥斗はすべてを忘れ、まずそう言った。
遥斗は一瞬だけ、その柔らかい感触に意識が囚われたが、すぐに現実に引き戻され、跳ねるように手を放して上半身を起こす。
トラブってるラッキースケベは、コンテンツのそれを見るのは大好きだ。
遥斗の遥斗君も大変お世話になっている。
だが、いざ自分にそれが起きるとなると「やった、ラッキー」などとは微塵も思えず、何よりも「やべえ」「ごめんなさい」という申し訳なさでいっぱいになるのだと、どうでもいい気づきを得ていた。
あの主人公を羨ましがってごめんなさい。あんたは確かに英雄だった。
そんな懺悔をしながら上半身は離したものの、足には力が入らず彼女を跨ぐように膝をついたままだ、そして押し倒されて胸を掴まれていたイリスはというと、彼女は倒れたままゆっくりと震える手を挙げた。
遥斗は反射的に、殴られる、と、その衝撃がくる覚悟をする。
しかし、その手は遥斗を打つことはなく、イリスは両手を胸の前で祈るように合わせ組み、プルプルと震えながら目を閉じた。
「ハル様……私をセリーモアの使徒様との魂を繋ぐ従者に選んで下さるのですね……ど、どうぞ、貧相な体で申し訳ありませんが……」
イリスのその言葉と、顔と肌を赤く染めながらすべてを受け入れようとする所作に、遥斗は完全に思考停止した。
頭の中はパニックで真っ白だ。理解不能な言葉と、目の前の状況が全く繋がらない。脳内で警鐘が鳴り響き、封印された暗黒竜が目覚めようと蠢き始める。
遥斗は「イリスをいただいちゃっていいのか」という欲望と、だがそれ以上に意味が分からないことと、何よりまだ18歳未満に見えるイリスと性的な行為に及ぶのはまずいだろ、おまわりさんコイツです、という理性で、遥斗の遥斗くんはどうしたらいいかわからず大忙しであった。
「……」
「……」
ほんの数秒。二人の間に気まずい空気が流れ、時間が止まったようになる。
イリスは動かない遥斗の手を握ると、そのまま自分の胸に近づけて――
「おねえちゃ、お水ちゃんと飲んだよ……」
その時、廊下から物音が聞こえた。
その幼い声に、遥斗はハッとそっとそちらを見る。
廊下と部屋を繋ぐ大きな通路の向こうに立っていたのは、水桶を持ったエスニャだった。
「おねえちゃ、……おにいちゃも?なにしてるの?」
エスニャは、きょとんとした目で、押し倒されているイリスと、その上にまたがり手を彼女と繋いでいる遥斗を不思議そうに見つめている。
その純粋な瞳が、遥斗の心臓に止めを刺していた。
「ちゃうねん」




