第38話:私は悪くねぇ!
熱い液体がテーブルを滑り、焦げ茶色の染みが白いテーブルにじわりと広がる。その醜悪な染みを横目に、遥斗は自分の首筋に触れ、チョーカに宿るAIのシアに、かすれたような声で問いかけた。
「これってまさか……シア!?」
「はい」
シアの返事は、いつものように感情の起伏を感じさせない、澄んだ声だった。遥斗の好きな、頼れる声であるはずが、今はそのあまりの冷静さが、彼の焦燥感を一層煽る。
「ポンコツゥ!なにやってんの!約束したでしょうが!」
遥斗はたまらず立ち上がり、足元に散らばるコーヒーを拭うのも忘れてシアに詰め寄る。といっても、シアは彼の首にいるデバイスなので、力なく首筋に触れるだけだ。
まさか、自分のAIが、朝のニュースで報じられるような大偉業を成し遂げていたとは。
一応、いくらシアとはいえ、ネットの中で人間として振る舞うのは初めてだろうから、ちょっとした失敗はしても仕方ないとは思っていた。だが、世界中の数学者が頭を悩ませる未解決問題をあっさりと、それも複数を同時に解き明かしていたなんて、その行動は遥斗の想定を遙かに超えていた。
分かってはいる。シアにとってそんなものは、難問でもなんでもないのは。それでも、理性では理解しても感情はそうではない。遥斗の常識が音を立てて崩れていく。
「ルト様に命じられたことはすべて守っていますが、何か問題がありましたでしょうか。あと、ポンコツ違います。できるデバイスです」
シアは冷静に、そしていつもの反論をした。
遥斗は頭に血が上りながらも、ぐっと言葉を飲み込む。確かに、自分がシアに課したいくつかの条件を今一度、正確に確認してみる必要がある。
(俺は確かに、犯罪行為は禁止した。金銭的な契約を勝手に結ぶのもダメだと。俺の個人情報を漏らすのも、ガルノヴァやエリドリア世界のことを勝手に話すのも禁止したはずだ……)
遥斗は脳内で、シアに課した条件を一つ一つ、まるでチェックリストのように精査していった。
しかし、どの項目もシアが直接的に破ったようには見えない。
むしろ遥斗自身が「ネット上で人として活動していろんな人と交流しろ」と煽ったところがあるのだ。
彼女はただ、その中で与えられた能力を最大限に活用しただけだ、という揺るぎない事実が遥斗を打ちのめす。
彼の頬がひくひくと神経質にひきつり、奥歯を強く噛みしめる音が小さく響いた。
「ぐぬぬ……」
「ほらー」
「シアさん、性格変わってません?」
シアの得意げな声が響く。まるで、完璧に論戦に勝利したかのような、わずかな優越感がその声に混じっているように遥斗には聞こえた。
その時、テレビのニュースが再び数学問題の話題を深掘りし始めた。スタジオのキャスターの興奮した声が部屋に響き渡る。画面には、難解な数式がグラフと共に表示され、世界中の著名な数学者たちが驚愕の表情を浮かべている映像が次々と切り替わる。
「解決された問題は、『リーヴァン予想』『ポヤヤンカレの多様体仮説』『ワイルドの最終定理』の三点であるとのことです。これらの回答は、数学に関する国際的な数学の研究団体『オイラー・フォーラム』に送付されたもので……」
ニュースに映し出される難解な数式を、急遽呼ばれたであろうどこかの大学の数学教授が、これがいかにとんでもないことかを説明している。
そういった、世界中の数学者が驚嘆しているという言葉に、遥斗は目眩を覚えた。
肩の力が抜け、全身の骨が抜き取られたかのような感覚に襲われる。
「なんでこんなことをしたんだ、シア……」
遥斗は力なく、ほとんど呟くように言った。
「そこに処理的な問題があれば、それを解決するのは情報処理デバイスの本懐ですので。あと、パズルには飽きたからです」
シアはあっけらかんとして答える。その涼しい声に、遥斗は呆れて叫んだ。
「パズルに飽きたってなんぞ!?」
実は、シアはSNSのアカウントを作ったあと、「シアには人間とネット上で交流してほしい」という遥斗の『命令』に従い、さっそく色々なところに『シア』として出向いた。
どんなところがいいかと考察したシアは、彼女の膨大な演算能力と論理性に最適と判断したパズルコミュニティサイトに踏み入れて、そこで提示される難問を次々と解いていったのだ。
すると、全問正解した人だけが入れる掲示板ルームにたどり着き、そこで情報交換を行っていた。
「そのパズル梁山泊というサイトにて、人間にしてはそこそこ高度な思考を行う者たちと意見交換をしていたのですが、私が同じパターンのものはすぐ解けてしまうので、他に何か複雑なパズル、新しいパズルはないかと尋ねましたところ、「ここの問題そんなにあっさり解いたの!?ならいっそ数学の未解決問題でも解いたらwww」と、そこのサイトとはパターンの違うパズル問題のあるサイトを教えていただいたのです」
「パズル認識だった!それで未解決問題を解かないでくれます!?」
遥斗は額に手を当てて天を仰いだ。
まさか遊びのような感覚で数学界を揺るがすなど、遥斗の想像の斜め上を行く行動だった。
「まあ、今回は悪いことじゃないし、これで何か人が不幸になったり、責任問題になるわけじゃなさそうだから、いいけど……」
自分に言い聞かせるように呟く。
そう言って自分を納得させないと、小市民でしかない自分は、ガクガクブルブル震え続けることになるからである。
本当に誰も不幸にならないことなのが救いだった。
なお、数学に人生を捧げ魂を売った天才という名の変人たちは狂喜乱舞しているが、ただの職員やマスコミ関係者は残業必至となりデスマーチが開始されていることは遥斗は知る由もない。
「これだけか?ほかには同じようなことしてないだろうな?」
「数学の未解決問題はそれだけです。他も飽きましたので」
「いや飽きるとかそういう問題ではなく――」
『さらに追加ニュースです!なんと宇宙発展機構(United Nations for Space Advancement)、通称「UNSA」に、長年未解決であった「複数間天体問題」を解決する論文が送られてきたとのことです。これもまだ未確定ながら、その内容は確度が高いもので、もし正しければ、宇宙物理学に大きな進展をもたらすと――』
遥斗の口が、あんぐりと開いたまま固まった。彼の首に収まっている、シアがピクリと揺れた気がした。
顔がみるみるうちに青ざめていくのが自分でも分かった。
「……数学ではなく物理ですので。そしてこちらは遊びではなく、人間たちが困っているようなのでお手伝いをしてあげただけです」
シアの静かな声が、遥斗の耳に届いた。
「お前っ、揚げ足取りでごまかしてるだろ!詭弁だぞそれ!絶対ネットの悪い影響を受けてるぞコイツ!」
そう怒鳴ると、またテレビの方が騒がしくなる。
『さらに情報がありました。数学の解決問題、UNSAの論文、それぞれは【シア】という人物が送ったものであるということです。ただし名前以外は一切不明であり本名なのかもわかっていません。これに対してオイラーフォーラム、UNSAは「偉大な賢者よ、どうか名乗り出てほしい。我々は貴方を歓迎する」と共同でメッセージを――』
遥斗は、ぎぎぎと音を立てるかのようにゆっくりと首を動かし、自分の首筋に巻き付くチョーカーに、恐る恐る手を伸ばした。
「……シア?」
「これは草」
「草、じゃねーよアホぉぉぉ!!」
遥斗は頭を抱えた。このAIは、ネットミームまで学習してきている。
人間の文化を理解して影響されるという、この変化はシアのアイデンティティが作られていくようで喜ばしいものであるのだろうが、それはそれだ。
自分はとんでもないパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。
遥斗は混乱の極みにあったが、何とか冷静さを取り戻そうと必死だった。呼吸を整え、両手で顔を覆う。このままでは、いつか本当に取り返しのつかない事態になりかねない。
「とにかく!大騒ぎになるようなことは禁止!お前ならどういうものが大騒ぎになるかくらいわかるでしょ!」
「えー」
「えー、じゃありません!」
遥斗は絞り出すような声で言った。
シアは不満げに点滅して、その不満さをアピールしている。
「他にとんでもないことはしてないだろうな!」
「先の事例のような、未解決問題や各学会が騒ぐようなことはしていません。あとは、一般人でもしている通常の書き込み、サイトの利用だけです」
シアは淀みなく答えた。その言葉に嘘はなさそうだ。しかし、遥斗の胸に拭いきれない不安が残る。
「本当だな!?本当だな!」
遥斗は念を押す。シアの返答は、やはりいつもの平坦な声だ。
「本当です。私は嘘はつきません」
まあ、嘘はついてないとは思う。
そもそも『嘘』はつけないのだろうし、遥斗の『命令』にはちゃんと従うのが『シア』というデバイスのアイデンティティだ。
そこは疑わなくていい。
だが、嘘でなくても人はごまかされるし、勘違いもするのだ。
ここで齟齬があればまた胃が大変なことになる。
「ああ、嘘はついてないだろうな。だが、お前はまだ絶対なにかやっている」
「なぜそのように思うのですか?」
「カンだ」
「えー」
シアの反応はスルーして、遥斗は慎重に確認する。
「よし……なら言い方を変えよう。ネット上で「目立つようなこと」はしたか?」
「……」
遥斗は、明らかに押し黙ったシアに追及すると、シアのチョーカーの光が、小さく明滅するだけで応えない。
「言ってみ?今考えたこと、言ってみ?」
遥斗は、不安を隠しながら催促する。
もしこれが、またしても世界のどこかを震撼させるような事態だったら、遥斗の胃は本当に穴だらけになるだろう。
「言っても怒りませんか?」
シアの返答に、遥斗は顔をひきつらせながらも、必死で笑顔を作った。心臓はドクドクと警鐘を鳴らしているが、ここで怒れば二度と何も話してくれなくなるかもしれないという危機感が遥斗を突き動かした。
「オコラナイヨ」
ポンコツ扱いはするけどな、と、そこだけ声に出さずに告げる。
するとシアはゆっくりと答え始めた。
「V…ver…に……」
「? なんだって?」
なぜか歯切れの悪い返答をするシアに遥斗が首を傾げて催促する。
「VTuberになりました。シア・ルヴェンという名前で活動を開始しています」
遥斗の目の前に、透明なディスプレイが浮かび上がった。そこには、世界的な動画配信サイトである「ShareTube」の画面が表示されていた。そしてとあるチャンネルの切り替わり動画が流れると、そこには信じられないほど高クオリティで作りこまれたVRモデルの女性がいた。眼鏡をかけ、長く流れる黒髪の長身の女性は、クールで有能な秘書のような雰囲気をまとっていた。そして、そのプロポーションや外観は、遥斗の性的な趣味を完全に理解しているかのような、完璧なバランスだった。
そして声は完全にシアだった。
「私はとある天才科学者に作られたアンドロイドです。道具としての本懐を遂げるため、今は敬愛する主に仕えております。より主のお役に立つため、人間社会を学ぼうと配信を開始しました。皆様、どうぞよろしくお願いいたします」
ライブ配信ではなく、通常の配信だったのだろう。特に当時の反応などはないようだ。
だがそのクオリティの高さ、声の良さにファンがすでにつき始めているようで、「やべえ、めっちゃクオリティ高いんですけど!?」「ママだれだろう」「声が大変けしからん。聞いてるだけでビクンビクンしちゃう」「ガチ恋待ったなし」などなど一気に登録者が増えていっている。
「ぽ、ぽ、ぽ、ぽんこつぅぅぅ!!」
遥斗の絶叫が部屋中に響き渡った。
「何がだめなのですか。あとポンコツ違います。できるデバイスです」
「やかましいわっ!」
シアは反論するが、遥斗の耳にはもう届かない。
そのとき、アパートの玄関から「ピンポーン」と軽快なチャイムが鳴り響いた。
遥斗はびくりと肩を震わせた。
その音に、一瞬でVTuber騒動も頭から吹き飛ぶ。
「しまった、朝から騒ぎ過ぎた!隣のおっさんが怒ったのか!?」
いつもなら「うるさい!」と壁をドンと叩いたり、壁越しに怒鳴りつけてくるくらいなのに、直接乗り込んできたということは、よほど怒っているに違いない。遥斗は不安にかられながら、震える手で、ゆっくりと扉を開けた。心臓が嫌な音を立てる。
そこに立っていたのは、やはり想定した通り、隣のおっさんだった。
遥斗は恐る恐る口を開く。
「あ、あの……」
おじさんはちらりと玄関の内側を見渡した。遥斗のアパートはワンルームだが、玄関には一応靴置き場がある。そこに女物の靴が一つもないことを確認すると、おじさんの視線は遥斗の首筋に付けられたチョーカーに留まった。そして、にっこりと微笑んだ。その笑顔には、どこか安堵のようなものが含まれているように遥斗には感じられた。
「お隣さん。これ、俺の田舎から届いたリンゴなんだ。おすそ分けだ」
差し出されたビニール袋の中には、艶やかな赤色のリンゴがいくつか入っている。蜜の香りが、かすかに遥斗の鼻腔をくすぐる。
「は、はあ……あ、ありがとうございます。あ、すみません、朝からうるさくして……」
遥斗が恐縮して頭を下げると、おじさんは手をひらひらと振った。
「いいんだ。それより、いいチョーカーだな。大事にしなよ」
「あ、はい……」
遥斗が戸惑いながら答える間に、おじさんは満足そうに頷き、ゆっくりと去っていった。その背中には、何とも言えない余裕が感じられた。
「なるほど、さすがルト様の隣人です。いいセンスをしていますね」
「……どういうことなの……」
隣人のあまりの変わりように、本日何度目かのため息をつく遥斗であった。




