第1話:苔の道で交わす約束
森の空気が湿り気を帯び、鼻に土と草のほのかな匂いが混じる。
地面には赤や黄色の小さな花が点在し、足元の苔が柔らかく沈んだ。遥斗は鼻歌を小さく口ずさみながら歩き、時折立ち止まって木々の幹やあたりを眺めた。
太い根が地面を這い、ふわふわの苔に覆われた様子は、まるで自然が描いた芸術のようだ。風が葉を揺らし、遠くで鳥のさえずりが響く。
「こういうとこ、キャンプに最高だな。テント張ってラーメン茹でて……って、待てよ、俺何持ってきてんだっけ?」
彼は肩の袋を覗き込み、思わず笑った。異世界に殴り込んだというのに、服以外の唯一の装備がこれだ——生活感丸出しのインスタント麺とチョコの棒菓子――『チョコナッツ棒』の詰まった袋。内心、「何だこの状況」と突っ込みながらも、目の前の景色に目を奪われた。
「まぁせっかくだし、この特等席で食うのも悪くないか」
その時、背後の茂みがガサガサと揺れ、乾いた葉が擦れる音が響いた。遥斗が振り返ると、木々の間から一人の少女が姿を現した。年の頃は16か17くらいだろうか。色白で繊細な顔立ちは日本人とは異なり、粗末な装いも相まって年齢がはっきり読み取れない。ただ、頬に残るわずかなあどけなさから、見た目より若いのかもしれない。
背まで伸びた薄茶色の髪は少し乱れ、後ろで麻紐で緩く束ねられている。麻の服は薄汚れ、裾には草の汁が緑に染まり、擦り切れた端が風に揺れていた。腰には草を刈るための小さなナイフや籠がぶら下がり、片手には青い葉の草がぎこちなく握られている。彼女の瞳は透き通った緑で、遥斗を見つめる視線には驚きと警戒が混じり、かすかに眉が寄っていた。
「……あなた、どちらの方?」
彼女の声は静かで、緊張が細かく震えていた。言葉の端々に古風な丁寧さが滲み、まるで昔の物語の少女のような響きだ。だが、遥斗にとってその音は全く知らない言語のはずだった。聞き慣れない音の連なり、抑揚もイントネーションも日本語とはかけ離れている——それなのに、彼女の意図が頭にすっと流れ込んできた。
「日本語じゃないのに意味が分かる?」
遥斗は一瞬訝しみ、「異世界ってこういうもんか」と内心で呟いたが、今は立ち止まっている場合ではない。驚きを飲み込み、気さくに笑って手を振った。
「俺、遠峰遥斗。いや、ちょっと迷っちゃってさ。ここどこ?」
彼は気さくに笑い、肩の袋を下ろして苔の上に置いた。だが、少女は一歩下がり、手に持った薬草をぎゅっと握り潰して青い汁を滲ませた。
「迷った……ですか?ここはエリドリア国、ヴェルナ領の森の外れです。私は村娘のイリス・テルミナと申します。ですが……貴方様のその奇妙なお召し物、見たことがありません。盗賊ではないのですよね?」
彼女の緑の瞳は遥斗のTシャツとジーンズをじっと見つめ、疑いの色を隠さなかった。遥斗は苦笑いし、「危害を加える気はないよ」と両手を軽く上げようとした——が、ビニールの買い物袋をまだ握っていることに気づき、「おっと」とコホンと咳払いして慌てて下ろした。
「盗賊じゃないって!ほら、俺こんな感じだし、武器も持ってないよ」
彼はTシャツの裾を引っ張って見せ、ポケットを叩いて空っぽをアピールした——が、スマホがゴツンと当たった感触に「見なかったことにしよう」と内心苦笑した。ようやくイリスの眉がわずかに緩んだが、警戒の視線は消えていない。
「確かに、盗賊にしてはおかしな姿です。トーミネ・ハルートゥ……様でしょうか?もし貴族様でしたら、ご無礼をお許しください。貴方様、あまりこの辺りをご存じないご様子です。遠くからおいでになったのでしょうか?」
口調は丁寧に改まったが、声には硬さが残り、遥斗を値踏みする目つきが鋭い。遥斗は首をかしげ、適当に誤魔化した。
「えーと、トーミネが姓で名前がハルトだよ。あと貴族じゃないかな。いつもバイト先のマネージャーに命令されてひーこら働いてる労働者だし。遠くってか、まぁそんなとこかな。日本って国から来た。えーと、テルミナさん?」
「……エリドリアの平民にとって、姓は姓というより地域や役割を示すものなんです。私はヴェルナ村の娘としてテルミナを名乗っています。どうか、イリスと呼んでください。ハルートゥ様」
彼女の名乗りには微かな誇りが滲むが、「ハルートゥ」の発音がどこかぎこちない。遥斗は笑って答えた。
「ああ、うん。分かった。イリスね。俺は呼びづらかったらハルでいいよ。日本じゃ腐れ縁の悪友もそう呼んでるし」
イリスは小さく頷き、遥斗の言葉を噛みしめるように目を細めた。風が彼女の髪を軽く揺らし、薬草の青い香りが漂う。
「ニホン……聞いたことのない国です。この辺りに慣れていない旅の方なら、なおさらこの森の奥に迷い込まれるのは危ないですよ。今はいいですけど、夜になれば狼や盗賊が出ることもあります。どうしてこんな場所に?」
「いや、ほんと偶然でさ。面白い場所探してたらここに出ただけ。危ないなら村まで案内してくれないかな?」
遥斗は笑顔で頼んだが、イリスは一瞬黙り込んだ。薬草を手に持ったまま、彼女は遥斗の顔と地に置かれた袋を交互に見つめ、唇を軽く噛んだ。頭の中で何かを考え巡らせた後、やがて小さくため息をついた。納得と諦めが混じったような吐息だ。
「……分かりました。村まではお連れします。ですが、あまり近づかないでくださいね。妙な動きをしたら、暴れますから」
彼女の声には警告が込められ、伸ばされた手が籠の縁をぎゅっと握る。嫌われたものだ、と思いながらも、日本の街中でもないなら当然かと、遥斗は苦笑いをしながら「了解」と軽く手を挙げ、彼女の後を追った。彼女が握ったのが籠のすぐ隣のナイフでないのがまだ救いだろう。
森の小道を進む間、二人の間に微妙な緊張が漂っていた。イリスは時折振り返り、遥斗が近すぎないか、あるいは迷うほど離れていないかを鋭い目で確認しながら歩いていく。石畳は次第に細くなり、苔の隙間から小さな石が顔を覗かせる。周囲の木々がさらに密に生い茂り、葉擦れの音に混じって遠くの川のせせらぎが聞こえ始めた。
遥斗は周囲を見回し、木々の間から漏れる陽光に目を細めながら、気を張るイリスとは対照的に気軽に話しかけた。
「なぁ、イリス。このエリドリアってさ、どんなとこ?王様とかいるの?」
「エリドリアは広い国です。ヴェルナ領は小さな辺境にすぎませんが、王都には陛下がいらっしゃいます。私のような村娘には遠い話ですけど……あなた様には関係ないでしょう?」
イリスは足を止めず、淡々とした声で答えたが、最後に微かな刺が混じる。
彼女の言葉には、どこか遥斗を試すような響きがあった。
「関係ないってわけじゃないよ。俺、色んなとこ知りたいタイプでさ。イリスは薬草とかの採取?」
彼はイリスの籠を指差した。彼女は一瞬目を瞬かせ、驚いたように遥斗を見たが、すぐに目を逸らした。
「ええ、そうです。弟と妹を養うために採っています。薬草は村の交易所で売れるんです。でも、あなた様には珍しくもないでしょうね。異国からの旅人なら、もっと立派な物をお持ちかと」
その言葉に、遥斗はピンときた。彼女はまだ自分を疑いつつ、探りを入れている。
「立派かどうかは分かんないけどさ、これなら珍しいかもな」
遥斗は袋からチョコナッツ棒を取り出した。鮮やかな包装に包まれた細長い棒で、陽光にキラリと反射する。中にはナッツがぎっしり詰まった甘い塊が入っているが、イリスは当然そのことを知らない。
彼女は不安げに一歩下がって籠を胸に抱えた。
「何ですか、それ?鮮やかな色の包み……何か仕掛けがあるのですか?」
彼女は警戒を強め、声に緊張が滲む。遥斗は笑って手を振った。
「仕掛けなんかないよ。『チョコナッツ棒』って呼んでるお菓子。案内してくれるお礼ってわけじゃないけど、いくつかあげるよ。甘いから食べてみて。多分——びっくりするよ?」
彼は二つほど棒状の菓子を差し出した。
「びっくり?」と首を傾げたイリスは、躊躇しながらも恐る恐るそれを受け取る。
だが彼女は菓子だというそれを包んでいるものが、あまりにも鮮やかで綺麗だったので、どうしたらいいか分からず固まってしまう。
それを見た遥斗は改めてもう一つ同じものを取り出すと、今度は包装を剥がし、イリスに差し出した。剥がした包装紙が風に揺れ、微かな音が響く。
意図がわかったのか、少し恥ずかしそうにしながら彼女はそれを指先でつまみ、小さくちぎって口に入れて、次の瞬間――彼女の表情が一変した。
「……っ!何、この甘さ!?蜂蜜より濃くて、ナッツの香ばしさが広がって……こんな味、初めてです!」
目を輝かせ、残りを頬張った彼女の警戒が一瞬緩む。そしてあと二本、手付かずのチョコナッツ棒が手にあることにしばらく何か考えた後、顔を上げて遥斗をまっすぐ見つめた。
「ハル様、ニホンは一体どんな国なんですか?こんな美味しいもの、弟と妹にも食べさせたいです……。あの、ハル様が私にくださったこのお菓子、弟妹に分けた後、余りを村で売ってもいいでしょうか?きっと、これが交易所で売れれば、弟妹に暖かい服を買ってあげられるかもしれません。……頑張っているのですが薬草を売るだけでは難しくて」
遥斗は少し驚いて彼女を見た。
正直、「あげたもんだから好きにすればいい」と言おうと思ったが、イリスの真剣な目を見て、これは彼女なりの誠実さだと気づいた。自分に食べてほしいと渡されたものを、その気持ちを無視して勝手に売るのは、彼女にとって不実で許せない行為なのだろう。
しかも自分のためではなく、彼女には幼い家族がいてそのために使いたいらしい。
そのまなざしと言葉に気高い精神を感じた遥斗は、心のどこかで熱いものが湧き上がるのを感じつつ、笑顔で応えた。
「あ、別にいいよ。それはもう君にあげたものだから好きにしていいけど――」
と、そこまで言いかけて考えた。「これ、売れるのか?」と。
この世界ではこんな安物のお菓子でさえ驚くくらいに価値あるなら、この世界で活動する資金調達や、取引にもつかえるのでは、とそう考えたのだ。
「あの、ハル様?」
「ああ、ごめんごめん。もちろんいいとも。それにイリス、これは取引なんだが、俺のパートナーとしてしばらく手伝ってくれないかな」
「取引、ですか?それにパートナーって?」
「ああ。さっきも言ったけど俺、色んなとこ知りたいタイプでさ、いろいろ聞きたいんだ。それにこの辺り初めてだろ?だから少し常識も疎くてさ……。村のことや常識、それにこういったお菓子を売るのに必要なこととかを教えてほしいんだ。他にも、旅をしてる俺じゃできないことを手伝ってくれたらうれしい」
「この辺りで商売をされたい、ということでしょうか?」
「ああ。まだまだ結構持ってるし、数日後にはまたここら辺に戻るつもりだしね」
今は手持ちしかないが、日本で買えば安値でいくらでも手に入るものだ。それにお菓子だけではなく、いろんな日用品とかだって売れるかもしれない。
塩とか砂糖、香辛料とかを売ったり、ライターやら石鹸とかを売って大儲け、とか異世界転移物では定番だしな、とわくわくしてくる。
ただ、この世界の常識を知らないまま手を出すのは怖い。
あまり無節操に売ったあとに「胡椒は国家が管理している、勝手に売ったら縛り首」とか言われたらシャレにならない。
「だから、俺へ常識を教える授業料、そして商売の手伝いをしたそのお礼として、俺が売るつもりのこういったお菓子を君に分けてあげるし、売り上げ次第だけどお金もちゃんと払うよ。どうかな」
遥斗の問いかけにイリスは目を伏せ、少し考え込んだ。
内容から考えると、この取引は破格だ。自分に都合がよすぎるといってもいい。もしかしたら、騙されているかもしれない。
他領の間者かも、とも考えるが、自分などが教えられることなどたかが知れている。教えたところで、ヴェルナ領どころか村が困るような秘密なんて何も知らない。
なによりこんな目立つ間者がいるだろうか。
なら、これはチャンスなのだろう。
なによりこれで弟や妹にいい思いをさせられるかもしれない。
イリスは唇を軽く噛み、悩んだ時の癖なのか再び籠の縁をぎゅっと握る。やがて、決意したように顔を上げた。
「……わかりました。お手伝いします」
「取引成立、だな。よっし!イリス、君は今から俺のパートナーだ!」
ニヤリと笑い、手を差し出す。イリスは一瞬目を丸くしたが、小さく頷いてそっと握り返した。
「でも、変な気は起こさないでくださいね。まだ完全に信じたわけじゃありませんから」
彼女の言葉に、遥斗は笑った。
「了解。徐々に信じてもらえばいいさ」
そして、二人は村への道を歩き出した。森の木々が少し開け、遠くに粗末な土造りの家々が陽光に照らされて浮かび上がる。イリスは遥斗の隣で、籠を手に持ったまま小さく呟いた。
「ハル様って、妙な人ですね。この森は危ないのに、怖がらないんですか?」
「怖がるより、面白い方が勝つタイプでさ。イリスと会えたのも運命かもな」
イリスは頬を軽く赤らめ、目を逸らした。
「運命だなんて……大げさですよ。でも、このお菓子と今の言葉で、少しだけ安心しました」
遥斗は「なんか妙な感じで俺の言葉が翻訳されてるっぽいな」と内心呟きつつ、新たな世界での冒険に胸を躍らせていた。
木漏れ日がきらきらと揺れる中、木々の間を抜ける風が、二人の距離をほんのわずかに近づけていた。