プロローグ:錆びた取っ手の誘い
埼玉の片隅、古びたアパートの一室。
遠峰 遥斗は、押し入れの前で立ち尽くしていた。
23歳、フリーター。大学卒業後、内定していた中小企業がコロナの煽りで潰れ、入社直前に内定取り消しを食らってから早一年。業務スーパーとホームセンターのバイトで食いつなぎ、趣味のプログラミングでミニゲームやアプリを作って細々と暮らしてきた。そんな日々の中で、こんな異常事態は初めてで、正直戸惑っていた。
今日は久々の完全オフの日だった。昼まで惰眠を貪り、起きてからは作りかけのアプリ制作を進めようと机に向かおうとした——その時だった。目の前、ついさっきまでただの壁だった場所に、木製と思わしき扉が現れていた。
『思わしき』と曖昧に感じたのは、その扉があまりに神秘的で、遥斗にとって異質なものに映ったからだ。
古いオーク材のようなざらついた質感に、苔のような緑がうっすら浮かび、表面には渦巻く紋様が深く彫られている。錆びた鉄の取っ手を近くで見ると、かすかに冷気が指先に伝わり、ほのかに湿った木材の匂いが漂ってきた。部屋の蛍光灯がその扉を白く照らし、薄暗い影が床の埃っぽいフローリングに伸びていた。
「何だこれ……昨日バイト帰りに見た夢と関係あるのか?」
遥斗は首をかしげ、昨夜の記憶を辿った。深夜、24時間営業の業務スーパーのバイトからへとへとで帰宅した後だった。部屋に転がり込み、動画配信サイトでお気に入りのゲーム実況チャンネルを流しつつベッドに横になると、うとうとしている間に奇妙な光景が浮かんだ——光る扉が現れ、わずかに開いた隙間から深い森と瞬く星空がちらりと覗いていた。
夢にしては妙にリアルで、木々の香りまで感じた気がしたが、疲れ果てていたせいでそのまま深い眠りに落ちた。朝起きた時には『変な夢だったな』と思ったが、まさかそれがこんな形で現実になるとは思ってもみなかった。
彼は床に置いたバイト先のスーパーの袋——中には主食のインスタントラーメンとPC作業中に食べる甘いチョコバーが詰まっている——を肩にかけ、目を細めた。
「どうするか……って、まぁ開けてみないと分かんねぇよな。面白そうじゃん。もしやばかったらすぐ閉めりゃいいし」
そしてなにより、こんな非現実が俺の人生に欲しかった変化なのかも――。
心のどこかで『いやいや、こんな怪しい扉、触るべきじゃないだろ』と警鐘が鳴ったが、好奇心がそれを押し潰した。遥斗は深呼吸し、冷たい取っ手を握った。
正直、この時点では遥斗は『この扉がどこかにつながってる』なんて本気で思っていなかった。異世界もの小説はそれなりに読み漁ってきたが、『まさか、いやいや、そこまでテンプレみたいにはならねぇだろ』と軽い現実逃避をしていたのも事実だ。とはいえ、いきなり扉が現れた時点で十分非現実的なことが起こっているのだから、否定しきるのもおかしな話だった。
それでも、取っ手を握った瞬間、昨夜の夢がふと頭をよぎった。
あの森と星空の世界だ。
『どこか面白い場所につながっていてほしい』——そんな思いが自然に湧き上がり、彼はそれを頭の中で強く念じた。すると、まるで応えるように、扉がギィッと軋む音を立てて開き始めた。
扉の隙間から、部屋の蛍光灯とは明らかに異なる柔らかな光が漏れ出し、次の瞬間——視界が一変した。
足元には苔むした石畳が広がり、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。頭上には鬱蒼とした木々が枝を広げ、葉の間から鮮やかな青空が覗いていた。耳に届くのは鳥のさえずりと、遠くで何かの動物が低く嘶く音。頬を撫でる風はひんやりと心地よく、木々のざわめきが静かに響き合う。遥斗のTシャツとジーンズがこの自然の中で妙に浮いている気がした。
振り返ると、先ほどくぐった扉がぽつんと立っているが、アパートの白い壁は跡形もなく消えていた。
「うわ、マジかよ……映画のセットじゃないよな?」
遥斗は目を丸くし、口を半開きにしたまま周囲を見回した。
「そうか、マジか……いや、マジかよ、これ!」
頭の中で何度も同じ言葉が反響し、心臓がドクドクと高鳴る。ポケットからスマホを取り出すと、案の定『圏外』の表示が点滅していた。
「まぁ、そうなるよな。電波塔ないもん。さて、どうする? 戻るのもアリだけど……いや、せっかくのオフだし、少し探検するか!」
Tシャツとジーンズのラフな姿のまま、彼は苔むした石畳を軽く蹴り、森の奥へと勢いよく歩き出した。