黒猫が見ていた ~安堂理真ファイル27~
新潟市中央区内のマンションの一室から、男女二名の死体が発見された。両者とも明らかな他殺体で、男性はガラス製の灰皿で頭部を殴られており、女性は包丁で背中を刺されていた。水曜日の朝、男性が出社してこず、連絡も取れないことから同僚がマンションを訪れたことで事件が発覚した。被害者の部屋の玄関ドアには鍵が掛かっていなかったという。部屋に足を踏み入れ、血の海と化していた現場を目撃し、悲鳴をあげた同僚は、震える手でスマートフォンから110番通報をした。
「殺害されていたのは、瀧田芳典さんと、鶴川美智香さん。現場となったマンションは瀧田さんの持ちもので、鶴川さんは瀧田さんの恋人よ。死亡推定時刻は、二人とも昨日――火曜日の午後八時から九時のあいだだと見られてるわ」
現場となったマンションのリビングで、新潟県警捜査一課の丸柴栞刑事は説明した。すでに鑑識が調べを終えており、当然死体も運び出されているため、ここで殺人事件が起きたことを物語るものは、床に人のシルエットを象って張られた二人分の白いテープと、赤黒く凝固した血痕だけだ。フローリングに染み込んだ血液は洗浄しても落ちることはないだろう。いわゆる“心理的瑕疵のある物件”となったこの部屋に新たな買い手が付くのか、難しいところだとは思う。
刑事の話を聞いているのは、私――江嶋由宇と、私の隣に立つ、安堂理真の二人。素人探偵として県警と協力していくつもの事件を解決に導いた実績を持つ理真が、またも新たな殺人事件に駆り出されたのだ。私は彼女の親友であり、探偵活動の際には助手役も担っていることから、たいてい理真と私は二人セットで呼ばれることになる。
「ほぼ同時に殺されたってこと?」
理真が尋ねると、丸柴刑事は、
「『ほぼ』は取っちゃっていいかもね。死亡推定時刻としては一時間の幅を見てるけど、一分と間を空けずに二人は殺されたんだと思う。現場の状況から考えて、犯行の様子は、おそらく、こう。
二人がリビングにいるときに、犯人が玄関から入ってくる。犯人は、まずテーブルにあった灰皿を取り上げて瀧田さんの頭部に一撃。鶴川さんのほうは、ダイニングキッチンに逃げ込み、そこで包丁を手に取り反撃を試みたのだけれど、犯人に包丁を奪われて、返り討ちに遭ってしまった。凶器の灰皿には瀧田さんの、包丁には瀧田さんと鶴川さんの指紋しか残っていなかったから、犯人は手袋をしたまま犯行に及んだんでしょうね。で、犯人はその直後に現場から逃走した、と」
「犯人はマンションの部屋に入ってきてすぐ、手袋を外さないままに二人に襲いかかったのかもね」
「そうね。特に事件の日は寒波の襲来で、いつも以上に冷える夜だったからね。外を歩くのに手袋は欠かせなかったわ」
「金品の類いは?」
「まったくの手つかず」
「部屋に入って、手袋も外さないまま犯行に及び、かつ、金銭目的でないとなると、犯人像は絞り込まれてくるよね」
「言ってみて」
「犯人は、ずばり、瀧田さんか鶴川さん、どちらかの恋人――というか、浮気相手。恋人が自分とは別の異性と一緒に――しかもマンションの部屋に――いる現場を目撃して、かっとなったか、口論の末、犯行に及んでしまった」
「手袋を外すのも忘れたまま、ということね」
「そう。で、瀧田さんの浮気相手が犯人だったのなら、部屋の合い鍵は渡されていただろうからそれで玄関の鍵は開けられるし、逃走時に施錠していかなかったのは、気が動転していたのか、あるいは、施錠して逃げてしまっては、部屋の鍵を持っている人物が犯人だと特定されてしまうと考えて、あえて鍵は掛けなかったのかもしれない」
「犯人が鶴川さんの浮気相手だった場合は?」
「合い鍵を持っているわけがないから、そもそも玄関に施錠はされていなかったと思われる。鍵がないんだから、逃走時に施錠も出来るわけがない。犯人が瀧田さんの部屋に踏み込んだ理由は、鶴川さんのことを尾行していたから。街で偶然、鶴川さんが別の男と歩いているのを目撃して、あとをつけて現場に辿り着いたのかも」
「ふむ。私たち――警察――の推理も、おおむねそんなところよ」
「で、容疑者は、どっちなの?」
「両方」
「両方?」
「そう。いま、理真が言った容疑者候補となる人物は、どちらも実在してるのよ」
「瀧田さんも、鶴川さんも、どちらも二股をかけてたってこと?」
「正確には違うわ。瀧田さんは二股交際をしていて、彼側の容疑者のことは浮気相手と称して確かだけれど」
「鶴川さん側の容疑者は違う?」
「そう」
「何者?」
「端的に言えば、ストーカー」
「ああ……」
「前の職場で同僚だった男から、しつこく言い寄られて困ってる、って友人に話していたことが分かってるわ。だから、もし、そのストーカーが犯人だとしたら、理真が言ったように偶然に鶴川さんが男――瀧田さん――と一緒にいるところを見かけて、あとをつけたというのが正解でしょうね」
「浮気相手とストーカーか。どちらにしても、マンションに一緒にいるところを目撃して、かっとなって、というのはありえるわけだ。で、有力な容疑者が二人も挙がっているのに、私が呼ばれたということは……」
「そうなの。浮気相手とストーカー、どちらが犯人なのか、絞り込めないでいるのよ。なにせ、二人とも動機があることは明らかで、しかし、アリバイはないという状態だから」
「アリバイはないんだ」
「浮気相手のほうは、街をふらついていて、ストーカーのほうは、ひとり暮らしで自宅にずっといた、と証言しているけれど、証明は出来ていないわ」
「現場に、髪の毛とかの遺留品も?」
「浮気相手のほうなら、指紋がいくつか検出されたわ。瀧田さんのマンションに何度か訪れたことがあったそうだから。合い鍵も渡されていたそうよ」
「念のために訊くけど、ストーカーのほうに瀧田さんとの面識は?」
「ない、と思われてる。今の段階ではね。本人もそう証言してる」
「浮気相手とストーカー……」
「そろそろ名前で呼んでもいいでしょ。浮気相手のほうは、平崎羊子さん。ストーカーのほうは、糸寺亨さん、よ」
「犯人は、そのどちらか……」と理真は、部屋の隅に視線を送り、「“目撃者”が証言してくれればいいんだけどね」
「無理言わないでよ」
丸柴刑事はため息をついた。理真は、その“目撃者”に近づいて屈み込む。理真にあごを撫でられると、“目撃者”は目を細めながらゴロゴロと喉を鳴らした。被害者のひとり、鶴川美智香の飼い猫、“チイタ”という名の黒猫だった。
鶴川美智香から、『会社の研修旅行に行く水曜から金曜のあいだ、猫を預かってほしい』と通信アプリで瀧田芳典に連絡が入ったのは月曜日のことだった。本来は別の女性の友人宅に預かってもらう予定でいたのだが、その友人が急用で家を空けてしまうことになったため、急遽、瀧田を頼ったらしかった。通信履歴によると、瀧田はその申し出をこころよく受け入れ、鶴川が旅行に出る水曜日の前日、火曜日の夜に猫を迎え入れることになっていた。
仕事を終え帰宅した鶴川が、愛猫を入れた猫用キャリーバッグを手に家を出たのは午後七時頃と見られている。運転免許を持っていない鶴川が瀧田のマンションに行くためには、公共交通機関を利用しなければならない。タクシー会社への聞き込みにより、その時分に鶴川らしき人物がタクシーを利用した形跡は認められなかったため、バスに乗ったのであれば、と仮定し、死亡推定時刻から逆算したのだ。
バスで瀧田のマンションへ辿り着くためには、一番近いバス停からでも数分程度歩く必要がある。もしも、犯人がストーカーの糸寺であった場合、鶴川を目撃したのはこのときだろうと見られている。一緒にバスに乗り込んだのであれば、顔を知られている糸寺に鶴川が気付かないはずはなく、バス車内でひと悶着あった可能性が高いが、犯行当日に当該区間を運転したバス運転士からは、そういった車内トラブルがあったという証言は得られていないためだ。
マンション建物に入った鶴川は、瀧田の部屋を訪れる。このマンションは古い物件のため、共用玄関に鍵はなく、住人でなくとも建物内に入り込むだけなら何の障害もない。監視カメラが設置されているのは共用玄関前だけで、裏口に回り込めば回避できてしまう。死亡推定時刻前後の映像には、平崎、糸寺、どちらの姿も映ってはいなかった。そして、死亡推定時刻の午後八時から九時のあいだに、鶴川をストーキングしてきた糸寺か、あるいは、たまたま訪れる気になった平崎か、どちらかが瀧田の部屋に入り込み……。
「ちなみになんだけど」と丸柴刑事も、猫――チイタ――のそばに屈み込み、頭を撫でながら、「瀧田さんの浮気相手の平崎さんは、有休消化で九州の実家に帰省していて、帰宅は金曜日の夜になるはずだったんだけれど、週末に大雪が降る予報で飛行機が飛ぶか心配になったから、予定を大幅に早めて火曜日の夜にこちらに戻ってきたそうよ」
「そのことを瀧田さんには?」
「知らせていなかったって。通信アプリのメッセージにそういったことが伝えられた記録はないし、電話の通話履歴もないから、それは本当みたいね」
「であれば、恋人へのサプライズが目的で部屋を訪れた、という可能性はあるかもね」
「ありえるわね。浮気相手の平崎さんは金曜日まで戻ってくることはないと思っていたから、瀧田さんは鶴川さんの猫を預かる気になったのかもね」
その、預かるはずだった(実際、二人の死体が発見されるまで、ずっと現場にいたわけなので、実質的に預かられる立場となってしまったのだが)猫は、通報を受けた警察が到着したとき、現場となったリビングの隅に用意されていた猫用ベッドの上で、悠々と鎮座していたという。奇禍に遭い動かなくなった主人の様子を見に行ったのか、その毛には被害者――鶴川美智香――の血液が付着していた。現場検証が済むと、チイタはシャンプーされたため、すでにその体から血痕は洗い流されているが。黒猫の体毛に付着した赤黒い血痕は目立たないため、当初、警察もチイタの体に血がついていることは分からなかったそうだ。
探偵にあご、刑事に頭、さらには、背中までワトソンに撫でられている黒猫は、もういい、とばかりに「にゃあ」と鳴くと、とことこと部屋の隅に移動し、空っぽの皿の前で立ち止まると、何かを訴えるように、じっと私たちのことを見つめた。チイタの訴えが何なのかは明らかだ。理真がテーブルに置かれたキャットフードの封を開け、中身を皿に移す。ドライフードが陶器製の皿に注がれる、カラカラという乾いた音が室内に響いた。
「そのフードって高いのよね。調べてみてびっくりした」
丸柴刑事の言うとおり、チイタが愛食しているキャットフードは高級品に分類されるものだった。その理由というのが、
「これ、猫アレルギー物質を抑制する効果があるフードなんだよね」
理真が、フードの外装を見て言った。そう、チイタが与えられていた――鶴川が瀧田宅に持ち込んだ――キャットフードは、食べる続けることで、猫の体内で生成される猫アレルギー原因物質が中和され、その散布を抑制するという効果が得られる特別なものなのだが、その分、値段もお高くなっている。
「でも、効果あるのかな?」
首を傾げる理真に、丸柴刑事は、
「ないみたいよ。というのもね、一課に猫アレルギー持ちの刑事がいるんだけど、現場に入ったとたんにくしゃみをし出したの。現場に猫がいるって知らないまま入ろうとしたのね」
「そうなんだ」
理真も実家に“クイーン”という名の三毛猫を飼っているが、幸いにも安堂家には――そして同家を頻繁に訪れる私も含め――猫アレルギーを持つものはいないため、そもそもこういった(高価な)フードは必要としない。そのフードのパッケージには、アレルギー原因物質抑制の効果が出るまでには、与えてから三週間程度かかるとある。チイタがこのフードを口にするようになってから、まだ三週間経過していないだけなのか、あるいは、本当に効果がないのか、それは分からない。
出されたフードをわしわしと食べ始めるチイタ。その横には猫用トイレが置いてある。トイレは新品で、梱包されていた段ボールがリビングの隅に畳まれている。チイタが使っているごはん皿も同様に新品で、どうやら瀧田は猫を預かる際に、食器やトイレといった猫の生活用品をわざわざ新品を購入して用意していたらしい。瀧田が鶴川に送ったアプリメッセージには、自分のほうで猫用品やフードを用意しておくので、フードの銘柄に指定があれば教えてほしい、という内容のものが送られていた。それを受けた鶴川のほうからも、フードを指定した返信が成されている。車を持っていない鶴川への配慮だったとしても、数日間預かる猫のために――しかも高価なフードまで――買いそろえるというのは甲斐甲斐しい。こうした対応を見るに、やはり瀧田の本命は鶴川で、容疑者の平崎は浮気相手に過ぎなかったということなのだろうか。
飼い主である鶴川はひとり暮らしだったため、そちらへ戻すわけにもいかず、黒猫チイタはこうして現場に留め置かれたまま、数日を過ごしているのだ。日に何度か所轄の警察官が訪れては、ごはんをあげたりトイレを掃除したりと世話をしている。本来であれば、動物保護団体にでも連絡を取りたいところなのだが、なにせ殺人現場に居合わせた猫なのだ。さすがに体に付着した血痕は洗ってやったが、事件が解決を見るまではむやみに移動させないほうがいいだろう、と警察は判断したらしい。証拠品という扱いになるのだろうか?
ひとしきりごはんを食べたチイタは、隣に用意されている水皿からぴちゃぴちゃと水を舐めると、ふわあ、と大きなあくびをして、さらにその隣の猫用ベッドで丸くなった。たとえ被害者となったのが飼い主であろうとも、人間世界で起きた殺人事件などどこ吹く風、といった貫禄すら感じさせる風情だ。とはいえ、犯行時、このチイタが現場に居合わせたことは事実だ。二人が殺されたリビングは、玄関からドアを隔てない続きとなる造りで、凶器のひとつとなった包丁があったダイニングキッチンも、やはりドアなどの遮蔽なしでリビングからの続きになっている。寝室や風呂、トイレへ行くためには廊下に出るドアを通る必要があるが、そのドアはしっかりと閉まっていたことが現場検証で確認されている。この物件は中部屋のためリビングに窓はない。したがって、犯行があった、まさにその瞬間、チイタは間違いなく現場にいて、犯行の一部始終、犯人の顔をも目撃していたはずなのだ。先ほどの理真ではないが、チイタが証言してくれれば、と思うのも仕方がないことだろう。
「やっぱり、地道に目撃情報を拾い集めていくしかないかぁ……」
腰に手をあてて丸柴刑事が、はあ、と嘆息する。確かに、頼ってもらって何だが、今回の事件は素人探偵の出る幕ではないのではなかろうか。二人の容疑者、そのどちらが犯人なのか、推理で辿り着ける問題ではないように思える……いや、もしかしたら、理真には何かアイデアがあるのでは、と見てみると、その素人探偵は、リビングの片隅にあるものをじっと見下ろしていた。その視線の先にあるものは……。
「猫用キャリーバッグ?」
私に訊かれ、
「そう」と短く答えた理真は、屈み込んでバッグを検め始め、「丸姉、これも新品ぽいけれど、これは瀧田さんが用意したものではないよね」
「そうね。そもそも、ここまで猫を運んでくるために使うものだから、瀧田さんが購入しても意味ないしね。ゴミ箱からペットショップのレシートが見つかったけれど、購入品目に猫用キャリーバッグはなかったわ。鶴川さんが買ったものなんでしょうね。でも、そのバッグが、どうかしたの?」
丸柴刑事は、私と一緒に理真のもとへ近づく。その理真は、バッグと、ベッドの上で寝息をたてている黒猫とを見比べて、
「大きくない?」
「そう? 成猫としては標準的なほうだと思うけれど」
「猫じゃなくって、バッグのほう」
見当違いの返答をしてしまった私と、丸柴刑事の視線は、理真が指さすバッグへと再び向いた。言われてみれば、なるほど、猫用キャリーバッグというのは、猫一匹がちょうど収まる程度の大きさのものが一般的だが、これは成猫一匹にはやや余るくらいの容積があるように見える。成猫二匹が入るか、といったところで……と、見ると、理真は無言のまま指で唇をなぞっていた。この癖が出たということは、彼女の頭の中では推理のピースがめぐり、それらが組み合わされつつある、ということだ。何かを掴んだのか、理真。
「丸姉」黙考から帰還した理真は、「鶴川さんの家は調べたよね?」
「それは、被害者だからひととおりの調査は済んでるけど」
「キャットフードもあったよね」
「それは、あったはず。なにせ、猫を飼ってるんだから」
「そのフードは、これ」理真は、瀧田が用意していたフードを指さして、「と同じものだったかどうか、分かる?」
「ちょっと待って……」丸柴刑事はスマートフォンを操作し始める。保存してある捜査資料を閲覧しているのか。「……あった。ええと、商品名はね……」
丸柴刑事が読み上げた名称は、はたして、瀧田が購入したフードと同じものだった。猫アレルギー物質抑制フード。
「鶴川さんが、そのフードをどれくらい前から購入していたか、辿ることって出来そう?」
「出来る、というか、出来てる。鶴川さんは、そのフードをネットで購入していたんだけれど、定期購入プランを使っていてね、保管されていた伝票から、そのフードをもう一年以上買っていたことが分かってる」
「一年以上……じゃあ、とっくに……」理真の視線は、一度、すやすやと眠る黒猫に向いてから、「丸姉、由宇」
「なに?」
「探しに行こう」
「探すって、なにを?」
「猫だよ」
「猫って、いるじゃん」
私は黒猫を指さした、が、
「その猫じゃなくって、チイタを探すの」
「はあ? だから、チイタは――」
「違うんだよ」
「え?」
黒猫を見やった理真は、
「この子は、チイタじゃないんだよ」
「……ええ?」
人間たちの会話で眠りを妨げられてしまったためか、黒猫はまぶたを開き、ゆっくりと顔を上げた。目が合う。じゃあ……誰だ、お前は?
外に出た理真と私は、さっそくチイタの捜索を開始した。同時に丸柴刑事は、容疑者二人に対してある調査をしてもらうよう、理真から要請を受け、その旨を本部に伝達した。
「自分の住み処――鶴川さん宅――までは戻れる距離じゃないから、まだそのへんにいると思う。猫が好む、狭くて暖かそうな場所を探そう」
「オーケー」
ともすれば、チイタ捜索にも警察官を動員する必要があるか、と思っていたが、存外簡単にチイタは発見、捕獲された。雨風をしのげるマンションの屋内駐輪場の奥、掃除用具などが雑多に置かれた棚の隙間に、黒くて丸い毛の塊が入り込んでいるのを理真が見つけたのは、捜索開始三十分後のことだった。チイタ、とおぼしきその猫の体には、黒い毛に紛れて視認しづらいが、液体が凝固したような赤黒い染みが付着していることも確認された。それからさらに十数分後、理真から要請された確認事項の結果が、丸柴刑事のスマートフォンにもたらされた。容疑者のひとりの履き物から、猫のものと思われる黒色の体毛と、チイタ――と謎の黒猫――にも付着していた赤黒い染みが採取された。事件当日に履いていたと思われる、平崎羊子の黒いブーツからだった。
「鶴川さんは、もともと飼っていたチイタの他に、最近になって新たな猫を迎え入れたんだよ。奇しくも、同じ黒猫を」
「その子が、現場にいた黒猫なのね。鶴川さんが持ち込んだキャリーバッグが、猫一匹を入れるだけにしては大きいものだと思ったから、そう考えたのね、理真は」
「それと、あのフード」
「猫アレルギー原因物質の発生を抑制するっていう、あれね」
「現場に入った、猫アレルギー持ちの刑事に症状が出たって聞いて、最初は、じゃあ、あのフードに効果はないのかな、それとも、食べ始めてからまだ三週間経っていないのかな、って思ってたんだけど、丸姉に調べてもらって」
「チイタは、もう一年以上もあのフードを食べ続けていたことが分かった。なのに、刑事が猫アレルギーを発症したということは……」
「つまり、現場にいたあの猫はチイタではないと」
「本当にフードに効果がないだけ、という可能性もあるけれど、バスケットのことと合わせて考えてみたら、もしかして、鶴川さんが瀧田さんのところに持ち込んだ猫は、チイタの他にもう一匹いたのではないか、って思って」
「犯行時、二匹いた猫のうち、チイタのほうが脱走してしまったわけだ」
「うん。犯人――平崎さん――が二人を殺害して、現場から逃走しようと玄関ドアを開けた、まさにその瞬間にね」
「そのときに、平崎さんのブーツにチイタの毛と、被害者の血液が移ってしまった。チイタも、もう一匹の猫と同じように、どうしたんだろう? と亡くなった飼い主のもとに寄っていって、そのときに血液が体についたんでしょうね」
「平崎さんは、現場に猫がいることには気付いていなかったんでしょ」
「そう証言してるわ。犯行時、つまり、鶴川さんがチイタたちを瀧田さん宅に持ち込んだ直後、リビングは薄暗い間接照明しか灯っていなかったそうだから」
部屋の隅の暗がりにじっとしていた黒猫のことを認識できなかったとしても、当然だろう。
「現場を出る際に、足下をチイタがすり抜けていったことにも気付かなかったそうよ。とにかく現場を離れることだけで頭がいっぱいで、視線もリビングに横たわる二人の死体に釘付けのままだったから、足下を見る余裕もなかったんでしょうね」
猫の動きの速さ、そして静音性を軽んじてはいけない。たとえ明るい照明のもとであろうとも、人に気取られることのないまま、ほんの僅かな隙をついて狭いドアの隙間から出て行く芸当など、猫には朝飯前なのだ。
鶴川が瀧田に送ったメッセージには、猫用品を二匹分用意してほしい、という旨は書かれていなかった。このことと、鶴川が持ち込んだ猫用キャリーバッグが新品同然だったことから、鶴川が新たな猫を迎え入れたのは、瀧田のマンションを訪れる直前のことだったと推察される。実際、鶴川の家から近いベットショップから、若い女性が二匹用の猫用キャリーバッグを購入したという店員の証言も得られた。現金払いだったため購入者を辿ることは出来ないが、鶴川の写真を見せられた店員は、この人だ、と断言した。犯行二日前の閉店間際のことだったという。
鶴川が猫アレルギー対策のフードを買っていた理由も明らかになった。彼女のほうでも、瀧田はあくまで“今のところの本命”という立場に過ぎず、他に“キープ”していた男性の知り合いが何名かいて、そのうちのひとりが猫アレルギー持ちで、その彼を自宅に招くためにフードを猫アレルギー対策用のものに切り替えていたらしかった。鶴川がそのフードの購入を始めてから一年以上経過していることから、そちらの男性との親密度合いも窺い知れる。
事件が解決し、無事“証拠品”扱いから逃れられたチイタ――と新たな黒猫の二匹は、鶴川の実家に引き取られることとなった。恋多き大人の女性、鶴川美智香も、実家の両親にとってはいつまで経っても子供という感覚は抜けていなかったらしい。娘の忘れ形見として、涙ながらに引き取られた二匹の黒猫は、鶴川の両親から可愛がられ続け、そこで生涯をまっとうし、やがて、鶴川の待つ虹の橋に辿り着くことだろう。
お楽しみいただけたでしょうか。
今年も無事、2月22日の猫の日に猫ミステリをお届けできることになりました。
今年は本当にぎりぎりで、書き上げたのは22日に入ってからでした。猫ミステリに限らず、書き上げるのが設定された締切ぎりぎりになる、ということが多くなりました。衰えを感じます。
本作は予定ではもっと長くするつもりだったのですが、書いてみたら予想外にスピード解決してしまいました。これくらいの長さであれば「探偵流儀」にしておけばよかったかな、とも思いましたが、理真で書き始めたものですから、そのまま通しました。
さて、来年の「猫ミステリ」は本当にどうなるか分かりません。数年くらい前から、毎年「これが最後」という気持ちで書いています。ネタが浮かんでくることを願うばかりです。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。