テイクアウト
お洒落なカフェで課題をやってみたい。
特に予定も無い日曜の昼下がり、急にそう思った。ちょうど家で集中して取り組まなくても大丈夫そうな、おあつらえ向きのレポート課題がある。ちなみに提出期限は今日の夜二十三時五十九分。
自宅から一番近い位置にあるカフェのチェーン店を検索すると、最寄り駅から二駅離れたところに一軒。
善は急げだ。カフェで課題に取り組むことが善なのかと言えばそれは違うかもしれないが、自分のしたいと思ったことをするのは善だ。たぶん。
とりあえず寝巻きを着替え、平日の朝に支度をする時の三倍くらいの時間をかけて顔面に化粧を施す。休日にするメイクは、緊張感が無いせいか時間がかかる。そのくせ、平日にするものと特にクオリティが変わらないどころか数段見劣りすることもしばしばだ。例に漏れず、今回も無駄に時間をかけただけの普段通りのメイクが完成した。
財布とスマホ以外に持って行く物は無いが、手ぶらだと一気に不審者感が増すので、適当なショルダーを肩に担いで家を出る。
最寄り駅に着くと、ちょうど電車が出ていくところだった。通勤ラッシュ時なら発狂ものだが、幸い特に急いているわけでもないので、鷹揚ななりでホームの椅子に座る。
あいにくと天気は曇りで、のどかな車窓は望めなさそうだ。
目当てのカフェに着いて、店内を見渡す。満席だった。仕方がない、テイクアウトを頼むことにしよう。外にベンチの一つくらいはあるはずだ。簡単なレポート課題をこなすだけなら、わざわざお洒落なテーブルを長時間占拠する必要も無い。
店の入口に立てかけられた看板には、期間限定のホットドリンクのイメージ写真がでかでかと貼られていた。が、結局いつも頼んでいるのと同じ、甘ったるいコールドのドリンクをオーダーする。
商品の受け渡しを待つ列には既に先客が六人ほど。さすが駅中の店舗なだけあって大盛況なようだ。緊張と人混みへの拒絶感にうるさく脈打つ心臓を軽くいなしながら、列の最後尾について大人しく順番を待つ。
ここに並んでいる以外にも、ネット注文で颯爽とドリンクを受け取りに来る客がちらほらおり、列に並んで待つ客の不安を煽っている。“俺、もしかして飛ばされてる? ”、“それ私のドリンクなんじゃない? ”、ネット注文の輩がカウンターを訪れる度に、首の筋を違えそうな勢いで顔を上げる動作から、そんな心の声が連想される。かくいう私も、“実は自分、今すごく不憫なことになっているんじゃなかろうか”という予感と戦いつつ、スマホ片手に他の客達の様子を視界の隅に捉えていた。列の三番目くらいに待機しているスーツ姿のお兄さんほどキョロキョロはしていないが。
少し待っていると、比較的シンプルなオーダーの客が連続していたようで、すいすいと列が進み、いつの間にか列の先頭に立っていた。
さて、この店員はドリンクをカウンターに置いて提供するタイプだろうか、それとも直接手渡してくるタイプだろうか。前者なら、ドリンクを勢い余って手の甲ではたかないように注意しなければならないし、後者なら、店員の手の指に触れないように且つ落とさないように容器をしっかりとホールドしなければいけない。そして無事に受け取ることが出来たなら、ストローを飲み口に挿し、ゴミを捨てて店内を出る、という動作を一瞬の滞りもなく完遂する必要がある。
ドリンクの受け取りと退店について数十回目の脳内シミュレーションを行った頃、
「レシート番号……ぇっと八十番のお客様の、ドリンクお作りしておりまーす。」
と、いよいよこの待ち時間の終了を報知する声が聞こえてきた。少したどたどしい雰囲気だ。新人だろうか。研修中の従業員をレジで見かけた時特有の、温かい気持ちを心に充満させながら提供を待つ。
「お待たせしましたー。」
店員の顔に向けて礼を言い、ドリンクを手に取る。
しかしその直後、私の鈍重な思考回路の中を強烈な違和感が駆け巡る。
……何かがおかしい。
私が頼んだものと見た目が違う。てっぺんにトッピングされているはずのホイップも、そこそこかかっているはずのチョコソースも、一切見えない。蓋が閉まっているのだ。透明度ゼロの平らな蓋が。……それは例えば、先程私の前に並んでいた連中が持っていったようなホットのコーヒーが入るはずの容器であって、私がオーダーしたコールドのドリンクが入れられるはずのない代物だ。
……実は自分、今すごく不憫なことになっているんじゃなかろうか。
カップの胴には、早くも大量の水滴が浮き始めている。中に冷たいものが入っている証拠だ。なら中身は恐らく間違っていない。
……元々このドリンクはこの容器で提供するマニュアルになっているのか? いや、あれほど写真映えする商品のビジュアルを完全に見えないようにするメリットなんてないはずだ。それに、前に何度か同じものを頼んだときには、毎回透明のプラ容器に入って提供されてきた。ならばこれは先程の店員のミスと見るべきだろう。
何気ないふりで後ろを振り向く。心なしかピリピリとした雰囲気を纏った客達が四人ほど並んでいた。
……ホットとコールドの容器を間違えるなんて、そうそう起きるミスでもない。何百分の一より小さい確率で起こるバグだ。わざわざこんなに混んでいる時間帯に作り直しを要求するような無為な指摘はしたくなかった。
個々の自由よりも全体の円滑さを追求する方が遥かに生きやすい。この短い人生の中で得た、数少ない知見の一つだ。決して悪者になることを避けようとしているのではない。
ゴミ入れ兼コンディメントバーの役割を担う箱の前に立ち、カウンターで渡してもらえなかったストローを一本手に取る。
数十回にわたる脳内シミュレーションも虚しく、ストローの外装は醜く破け散る。そしてそれを飲み口になんとか挿し終えてから気付いた。ホットの容器では飲み口が小さすぎて、本来このドリンクを飲むのに使われるはずのストローを使って中身をかき混ぜることが出来ないのだ。
……溢れそうになる感情に慌てて蓋をする。
いやしかし、目の前の物理的な蓋は外して直接飲むべきなのでは?
私はなんて馬鹿なんだ。たかだか容器を間違えられたくらいで動揺して、貴重な資源を無駄にしてしまうだなんて。ストローを飲み口から引っ張り出すことにする。
あっ。
力加減を誤ったせいで、ストローが勢いよく蓋から飛び出し、粘度の低いチョコソースが白シャツに無数のシミを作った。
丈感も襟の空き具合も肌触りも、私好みだった白シャツ。
……世界にフリーズしてほしかった。このやり場のない気持ちを整理する時間が欲しいと思った。
私は静かに自問する。休日の昼間にわざわざお洒落なカフェに赴いてやることが、十分以上も列に並んで、コールドのドリンクをホットの容器から飲み、お気に入りのシャツにチョコソースのシミを作ることなのか、と。私は一体何をしているんだ、と。
しかし、すっかりオトナのフリが上手くなっていた私は、ムンクの五千万分の一程度のリアクションをとった後、先程の脳内シミュレーションと同じくらいスムーズに不始末の跡を紙ナプキンでさっと拭き取り、店を出た。戦利品はホットの容器に入ったコールドドリンク(蓋無し)と、それを飲むための太めの紙ストロー、そして汚れた白Tだ。
道行く人からシャツのシミを隠すように、体の正面にドリンクを構える。座る場所を探さなければ。そう、私だけのオアシス。そもそも課題を終わらせるためにここまで来たのだから。私のためのベンチを探す旅に出よう。
結論から言うと、ベンチはなかった。正確には三つあったのだが、私が座れる空きのあるものは一つもなかった。建物を出てすぐのところにあったベンチには、ベビーカーを傍らに止めた虚ろな目の女性が既に座っていたし、そこからほど近い所にあったベンチでは、仲睦まじい雰囲気の男女が雑談に興じていた(しかも私が頼んだのと同じドリンクを二人とも正しい容器から飲みながら)。そして、少し離れた所にあった三つ目のベンチには、異臭を放ちながら缶ビールを呷る高齢男性が居座っていた。
いやしかし、たまにはカフェのドリンクを歩き飲みというのも悪くない。心に空いた穴を埋めるように一口。
そして咽せた。
おかしいな。ネットには、テイクアウトのコーヒー片手に歩く画像が無数にあるはずなのだが。まさか彼らは皆、一口飲む度に立ち止まるなどという初期のRPGみたいな動きをしていたのだろうか。まさか毎回私のように咽せているわけではあるまい。
ひとしきり咳き込んだ後、駅から出て初めての信号が見えてきた。ちょうどいい。信号待ちでゆったりと飲むことにしよう。そう思い、点字ブロックの手前に行き着くかどうかというタイミングで、
ぴっぽー、ぴぴぽー。
歩行者信号が鳴き始めた。なんて素晴らしいタイミング。さっさと帰れということか。
信号を渡って右に進めば公園、左に進めば家路だが、私は迷わず左に曲がる。これ以上理不尽な目に遭いたくなかった。
まだ一口しか飲んでいないのに、紙製のストローが早くもふやけ始めている。地球環境には配慮するくせに、お洒落なカフェとの相性が最悪なくたびれた女のことは慮ってくれないらしい。
まったく、もし私がマンボウだったら、ショックとストレスで数万回は死んでいるはずだ。
器官に入ったチョコソースを感じながら、次の信号を目指して歩き続ける——