(3)消えた先生
片方を右耳に、もう片方を口元に寄せた。石を軽く叩くと、それらがうっすら橙色に染まる。
「あー、聞こえますか、お久しぶりです、マチアスです。今日、戻りました。先ほど女性が男に追い回されている現場に遭遇し、そいつらを確保したので、引き渡しをお願いします。場所は――」
耳に寄せている石から、微かに声が聞こえてきた。
「――すみません、彼女、疲れているようなので、話を聞くのは明日以降でお願いします。俺は彼女を送っていきますので。――え、成り行きですよ。俺、もう非番なんですから、事情を聞くとか面倒なことはしませんよ。よろしくお願いします」
石の向こう側では、まだ話し声が聞こえたが、マチアスが石を叩くと、色は元に戻り、声も聞こえなくなった。テレーズはマチアスの横に来て、石を覗き込む。
「レソルス石で連絡を取ったの?」
マチアスは首を縦に振ってから、石を渡してくれる。一見して、ただの石だが、よく見れば細かな穴が空いていた。
「へえ、携帯用の通信機は初めて見た。石が僅かな電波を流す原理を利用しているのでしょう? 親の通信機が電波を受け取ることで繋がり、それで話をするんだっけ」
「その通りだ。この通信機と繋がる親機は、警備団の分署にある。今はそこと通じていた。便利だが、この通信機を使いこなせる人間は少ないし、他にも欠点があるから利用は進んでいない。よく知っているな、こういう機器があることを」
「石で何ができるか調べたことがあるだけよ」
テレーズはしげしげと見ていたレソルス石を返す。少しすると、二人組の警備団員が現れた。マチアスより少し若い青年たちだった。
彼らは魔物の死体にぎょっとしつつも、マチアスから話を聞き取っていた。
途中でテレーズのことを見たが、すぐに視線を戻される。
話が終わると、マチアスは頼んだとばかりに彼らの肩を軽く叩いてから、テレーズのところに戻ってきた。
「待たせた。さて、どこに行くんだ?」
住所と地図を見せると、彼は軽く頷いた。そしてテレーズの手から荷物を取り、裏路地から道に出て、先に歩き始めた。
マチアスは地図も見ずに迷わず進んでいた。さすが警備団の一人、頭の中に都市の地図が叩き込まれているようだ。
成り行きとはいえ、出会ったばかりの人間に、護衛のようなことをお願いするのは気が引けていた。
だが、狙われているのであれば、せめてスカラットだけにでも、その事実を伝えたい。だから借りを作るのは癪だが、彼の申し出を受け入れてしまったのだ。
マチアスは少し後ろを歩くテレーズをちらりと見てきた。
「俺のことはマチアスと呼んでくれて構わない。年齢もそう変わらないだろうから」
「ちなみに何歳なの? 私は二十歳だけど。私のこともテレーズで構わないよ」
「俺は二十三歳さ。警備団に入団してから五年が経過している。それなりに腕はいいと自負しているから、安心して欲しい」
「あら、思ったよりも上ね。敬語使った方がいい?」
「いや、変わらず気楽に話しかけてくれて欲しい。気を使うのが嫌だから」
「私こそ、そう言ってくれて助かる。さっきの戦いも見事だった。頼りにしている、マチアス」
今更敬語に戻すのは面倒だったため、彼の返答は有り難かった。
初対面時と比べると、だいぶ刺々しさはなくなっている。あの時はテレーズが愚かな行動をしてしまったために、きつく指摘したのだろう。
マチアスは少し間を置いて、再度振り返ってくる。
「なあ、よければ教えて欲しいんだが、これから会う人間は誰だ?」
「私の研究の先生よ」
「研究? テレーズは学生か学者なのか?」
「まだまだ学び途中の学者の卵。先生は普段都市にいるけれど、故郷は私と同じ街で、そこで出会ったの。先生の研究対象が私の興味と一致していて、都市の方がいろいろと充実しているから、ここに来てみないかと誘われたのよ」
初めて先生と話したのは一年半前、高等教育を終えて、しばらくたった頃だった。
実家の定食屋で働いていた際、先生がふらりと訪れたのである。注文した直後から熱心に本を読んでおり、テレーズが定食を運び、声をかけるまで気付かないほどの集中ぶりだった。
先生はようやく本をどけ、定食を受け取ると、美味しそうに食べ始めた。
ふと、テレーズは先生が読んでいた本に目を留めた。その本の題名を呟くと、「興味があるのか?」と聞かれ、それに対して頷いたところから、師弟関係は始まったのだ。
「出会ったときに先生が読んでいた本は、その時もらって、あれ以降私の宝物よ。研究する上での原点なの」
「どんなものを研究対象にしているんだ?」
意外にもマチアスは食いついてくる。テレーズはそっと微笑んだ。
「それは――今の都市が発展する上で、必要不可欠なものかな」
あえて誤魔化して言ったが、勘のいい人ならそれだけでわかるだろう。
彼は逡巡すると、軽く目を見開いた。そして感心したように言う。
「なかなか大変な研究になりそうだな。頑張れよ」
再び前を向いて、彼は少し足を早めて歩いていった。
もしかして本当にあれだけで察したのだろうか。思った以上に、頭の回転が早い人なのかもしれない。
夕方近くに、スカラットの一軒家に到着した。テレーズは入り口の扉を軽く叩く。
「お久しぶりです、スカラット先生。テレーズです。待ち合わせ時間にいらっしゃられなかったので、こちらにお伺いしました。どうかされましたか?」
中から返事はない。何度か叩いたが、反応はなかった。
二人で顔を見合わす。訝しげに思いながら、テレーズは取っ手に触れる。それは何の障害もなく回った。テレーズは目を見張る。
マチアスは眉をひそめて、剣の鞘を左手で触れた。
呼吸を落ち着かせてから、扉を引く。
「先生、入りますよ……」
テレーズはおそるおそる開けていったが、紙が床に散乱しているのが目に入り、一気に開け放った。
「先生!?」
入った直後の居間には、大量の紙が散らばっていた。紙だけでなく、割られた花瓶など、様々なものが床に落ちている。荒らされたのは一目瞭然だった。
我を忘れて、中に踏み込もうとした。だが、マチアスに肩を持たれて、引き戻される。
「ちょっ……!」
怒りのままに彼を睨む。彼は少し強く手に力を入れて、声を潜めた。
「落ち着け。中に先生以外の人間がいるかもしれないだろう。――俺が先に行く」
テレーズが言葉に詰まっている隙に、マチアスが先に入った。二人で足下を気にしつつ、障害物を避けながら、極力音を出さないよう進んでいく。
奥にある台所に行くと、皿の破片が多数散らばっていた。食器棚は開きっぱなし、鍋なども乱雑に床に落ちている。
一階をひと回りしたが、誰もいなかった。
まるで強盗に押し入られた後の光景だ。
まさか――。
ある仮説を立てると、血の気が引いていく。心臓の音が妙に激しく聞こえる。
そのとき、肩を軽く揺さぶられた。漂っていた意識が戻ってくる。群青色の瞳の青年が、テレーズの濃い緑色の瞳を見つめていた。
「二階に行くぞ。まだ決めつけるのは早い」
マチアスは居間にあった階段を注意深く上った。テレーズもそれに続いていく。
二階にあがると、二つの部屋の扉があった。マチアスは近くにある扉に耳を当ててから、取っ手に触れた。
テレーズは両手を握りしめて、祈るような想いで扉が開かれるのを待った。
彼はゆっくりと開けていく。少し開いたところで、中を覗きこむ。やがて険しい顔で、首を小さく横に振った。
「誰もいない」
「先生も……?」
「ああ」
スカラットが血を流して横たわっているという、最悪の事態を想定していたが、それは免れたようだ。少しだけ肩の荷が落ちる。
その部屋は寝室であった。ベッドの回りを一周する。敷布などは乱れ、衣装戸棚も開きっぱなしだ。
隣の部屋も用心しながら入る。そこは書斎なのか、多数の本や紙が散らばっていた。居間以上に荒らされている。
先生の姿はなかったが、血の臭いなどもしなかった。
「押し入られた時に、たまたまいなかったか。もしくはまともに抵抗できずに、連れ去られたか……」
部屋の中を進んでいくと、マチアスは中央にあったランプを持ち上げた。
「この部屋はもう少し調べてみよう。明かりの源はありそうだな」
ランプの中に入っている石を二回叩くと、石が目映い光を発した。それにより部屋全体が明るくなる。
テレーズは軽く目を見開いた。
「レソルス石の灯りよね。一般家庭にも、こんなに明るい光を発する石が提供されるの?」
「ああ、よほどの貧困層でなければ、これくらいの灯りは普通だ」
マチアスはさも当たり前のように答えると、ランプを中央に置いて、部屋の中を探索し始めた。
部屋の中央に来たテレーズは、輝いている石をじっと見下ろした。