眠り姫の目覚めー1
『あなたのような人を、この若月家の嫁に迎えることはありません。使用人の分際で』
大地くんのお母さんから、そんな言葉を投げつけられ、私の心は折れた。
若月大地くんとは、大学に入ってすぐのコンパで出会った。教育大学の数学科と養護教育学科の合同コンパ。男子が多い数学科と女子の多い養護教育科で、共通の知り合いがいた子たちが中心となって成立したものだ。居酒屋で、私の右隣に東堂康弘くん、向かいに若月大地くん。ハンサムな若月くんは両隣の女の子だけでなく、他の子からも声をかけられていて、私と話すことはなかった。
私は右隣の東堂くんと左隣の湯浅くんと話したのだけど、湯浅くんはすぐにふらふらとどこかへ行ってしまい、別の席の子に声をかけていた。だから、私は東堂くんとばかり会話していて、といっても、東堂くんは数学の話ばかりしていたけど。
わかんない話に始終したけれど、なんとなく気になって、私は彼と電話番号を交換した。
ところが後日、私に電話をかけてきたのは、若月くんで、わけが分からなかった私は、東堂くんを交えて、若月くんと会うことにした。
大学近くの喫茶店で、私たちは落ち合った。
「東堂くんに電話番号を教えたのに、どうして若月くんから連絡がくるの?」
「若月が教えてくれって、言ったんで」
と、東堂くんがぼそぼそと答える。
「上原さんと付き合いたいと、僕が言ったら、東堂が教えてくれたんだ」
と、若月くん。
「は?」
つい低い声が出た。
「あのとき何も言わなくて、今? 若月くんなら、よりどりみどりでしょう。私みたいな地味なのと付き合おうって? なめてんの?」
「ごめん。本命には、素直になれなくて」
若月くんが、しっぽを垂らしたワンコみたいにヘタレた。隣の東堂くんは、私の怒りにびびっている。
なに、こいつら。
けっ、となったけど、ばっさり切るのもどうかなー、と思ったので、「まずは、知人という関係から、始めようじゃないの」と、答えた。
友人以前の単なる知り合い。
それでもいい、っていうから、東堂くんを交えてのお付き合いが始まった。
東堂くんは、ひょろりとしていて、長い前髪で目元を隠している、内気な男子だった。
「そんなんで、人前に立つ教師をやれるの?」
と、訊いたら、
「両親が先生で、僕も教師になることを求められて、この大学に入ったんだけど、一般企業に就職するつもり」
と答えた。小さい頃からの夢は、ゲームクリエーターなんだって。
「叶うといいね」
そう社交辞令を言っといた。
若月くんは教員になるというより、数学そのものに興味あるみたい。
「来る大学と学部を間違えたね」
と、言ったら、
「血縁が教師だらけで、圧力が すごくて」
と、へにょへにょしていた。
若月くんはイケメンで、頭も良くて運動もでき、紳士。一見、完全無欠に見えるけど、私の前ではへなちょこ男だ。
母は男に騙されて私を産んだのだけど、愛情はたっぷりかけてくれた。でも、看護師として働かなくては親子二人、食べていけないので、私は小学生のころから家事全般をやっていた。とはいえ、私のつくるゴハンは、自己流なのでおおざっぱな男メシだ。
知り合った最初の年、冬休みに入る前に、世間話的に年末年始の予定を聞いたら、「元日は実家に帰るけど、それ以外は下宿にいる」と答えた副音声で『帰りたくない』って、聞こえた。
「ゴハン、どうしてるの?」
「自炊もするけど、コンビニ弁当か、外食だな」
「作ってくれる彼女、いないの?」
「いるわけがない。……上原さん、作ってくれる?」
そこに、甘えっこワンコがいた。
くう。これでは断れん。
「東堂くん、交代で作りに行こう」
私は東堂くんを巻き込んだ。
「ええっ。どうして僕が?」
当惑してた東堂くんだけど、日にちを割り当てると、一日だけ行ってくれた。でも、「帰省するから」と電話があり、残りの日は私が日中、作りに行くことになった。
餌づけだな。
「うまい、うまい」
と、私の作るゴハンを食べる若月くんに、
「お母さんの手作りには負けるでしょう」
そう言ったら、
「母は、食事を作ったことがない。もっぱら家政婦さんの料理を食べていたんだ」
と、答えた。
なんか複雑そうな事情があることを察した私は、深入りしないことにした。
ところがその後、若月くんが、なつくなつく。冬休みが終わってもその状態は変わらず。
反対に東堂くんは、「邪魔しちゃ悪いから」とフェードアウトしていった。
そんなんで、付き合っているような形になり、同じ科の友人にも公認のボーイフレンドとなった。
そのまま、デートというものもなく、買い物がそれっぽい感じで、休日に若月くんの下宿にゴハンを作りに行く日々を送り、三年生からは教員採用試験の勉強をみてもらう、という日々を送った。
若月くんは、大学院の博士課程に進むということなので、院試の勉強ね。
彼は受かり、私は落ちた。
「まだ遅くない。他県の願書を出して受ければ」
と、あせった私は若月くんの前で口走った。
「県外に出ると、お母さんのことが心配でしょ? 来年また受ければいいよ。その間は非正規の登録をしておくか、うちで事務員の欠員が出たから、一年契約で働いてみれば?」
それまで知らなかったのだけど、若月くんは、聖華学園という名門校を経営している一族のおぼっちゃまで、現理事長の一人息子なのだった。
これまで塾にも通わず、奨学金をもらって独学で授業料の安い公立・国立の学校を渡り歩いてきた私にとって、地獄に仏。もしくは、蜘蛛の糸。
でも、これが悪魔のささやきだったと知るのは、後日のことだ。
やがて東堂くんとは疎遠になったまま卒業式となり、若月くんは大学院の博士課程に進み、私は若月くんのコネで学園の契約社員となった。
仕事はすぐに覚わり、悪い職場でもなかった。若月くんのゴハン作りも続行。でも、二年目の挑戦も「サクラチル」で惨敗。養護教諭って、学校に一人か二人しかいなくて、辞める人もめったにいないから、狭き門だった。
これは、足りない単位を取って、小学校の教諭の試験を受けるべきか、と思い、時間をやりくりして受講と勉強を始めたのが、試験の落ちたあと。
その決意を、食事を共にしたレストランで若月くんへ告げたら、スーツのポケットから小箱を出し、開けて中身を見せた。
ダイヤモンドの指輪だった。
「上原亜里沙さん、僕と結婚してください」
へ?
それまで若月くんをそんな対象として見たことがなかった。でも、友人以上の気持ちを持っているのは確かだ。これを恋と呼ぶのかは、微妙だが。
でも、こいつとなら、いっか。楽しく暮らせそうだ。
そう思ったら、「はい」と返事をしていた。
うちの母に彼を紹介したら、「いいこを選んだねー。でも、あんた。私の男運の悪さを受け継いでないか、心配だよ」と言った。
若月くんは複雑な顔をして聞いていたけれど。
彼の両親の許へは、スーツをきて、ピシリと決めて行った。けれども、歓迎のムードはなかった。
「息子は成人している。結婚について、親がどうこう言うものではないが、うちの親戚連中に、上原さんが母子家庭の出身だと知れたら、結婚後、針のむしろになると思う。やはり、結婚は育った環境が似た者がいいだろう」
と、正論を吐きながら『反対』と言った若月くんのお父さん。
「そうですよ。お見合いの話を持ち掛けても、断ってばかりだったのは、こんな女がくっついていたからなのね」
お上品そうなお着物のお母さんは、嫌味を交えて反対した。
「お母さん、そんな言い方はないでしょう!」
あやうく親子喧嘩となるところ、私は若月くんを止めて、「また、改めてご挨拶に参ります」と、彼の腕を引っ張って、外に出た。
「息子が思いもかけない女を連れてきて、結婚するって言い出したら、ご両親も混乱するわよね」
「ごめん、亜里沙。父と母が君に失礼なことを言った」
若月くんが、しゅんとしている。
「父親がいないことで、自分を卑下したことはないわ。でも、ああいう人たちがいることも確かね」
「両親がなんと言おうと、僕は君と結婚する」
言い切った若月くんを見て、泥沼になりそうだな、と思った。
翌日から、若月お母さんの電話攻撃が始まった。
就業中に携帯電話にコールしてきて、「結婚は許しません」から、延々と話すので、「仕事中ですので」と切った。すぐに知らない別の電話番号から着信したので、今度は電源を切った。
これって、続けば、ストーカーじゃない?
電話がつながらないので、今度は事務長さんに手紙を託したようだ。
事務長さんに呼ばれているとの同僚の安藤さんからの伝言で、事務長室へ行けば、白い封筒を渡された。
「理事長夫人が何かお怒りのようだが、あの方は経営や契約に一切、かかわっていないので、何を言われようが関係ない。しかし、夫人の言動に影響されて、理事長が動くと、私ではどうにもならないから、気をつけるように」
と、忠告された。
事務長室を出て、封筒の中身を見ると、呼び出し状だった。
明日の午後二時に、Aホテルに来いという。
これだから、有閑夫人はやだねー。平日に勤め人が行けるかよ、と思った。
行く気は全然、なかったので、携帯の電源を入れて、若月くんと連絡を取った。
「母には、僕から断りを入れておくから、心配しないで」
と、言われた。
しかし、こりない若月夫人は、日曜日を指定してきた。
若月くんに相談すると、
「あんまり断ると、事務長が言うように、圧力をかけて、君を辞めさせてしまうかもしれない。行くにしても、僕と一緒に。そして、ボイスレコーダーで会話を録音しておくこと」
その指示どおりにしたのだけど、若月くんは奥様のお付きの人にホテルのロビーで止められてしまい、私一人で指定された部屋へ行った。
夫人は一人で椅子に座って待っていた。
すわれと指で指示され、向かい側にある椅子へ腰を下ろした。
「単刀直入に言います。これを受け取って、大地と別れなさい。さもなくば、解雇します」
「お断りします」
いつか見たドラマみたいじゃん、と笑えてきたが、きっぱりと私は答えた。
「これって、パワハラ? 脅迫? ですよね。労基か警察に訴えることになりますが、よろしいですか?」
「ろ、労基って何よ」
「労働基準監督署」
そんなことも知らんのかーい、と突っ込みを入れたかった。下手なドラマみたいなことして、今更?。
あきれるやら、腹が立つやら。
「ともかく!」
と、夫人は声を張り上げた。
「あなたのような人を、若月家の嫁に迎えることはありません。使用人の分際で!」
かちん、ときた。
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』といったのは、福沢諭吉先生よね。
「雇用契約もご存じない? 私はあなたと契約しておりません。ですので、使用人でもありませんし、そのような侮辱した言動を受けるおぼえもありません。私は若月家の嫁になるのではなく、大地くんの奥さんになるのです」
「な、な、……」
奥様は怒りのあまり、ぶるぶると震えている。
「これ以上のご用件がないようでしたら、失礼いたします」
私は、さっと立って、部屋を出た。
クビになるかなー、と思った。
法律があるからといって、それを守っている経営者はごく少数だ。裁判所に訴えない限り、ほとんどが泣き寝入りになる。
廊下をすこし行くと、大地くんが息を切らせてやってきた。
「無事?」
「売られた喧嘩を買った」
てへ、と笑って、顛末を話した。
「そうだよ。亜里沙は、僕のお嫁さんになるんだ」
と、うれしそうに私の肩を抱いた。
でもそのとき、もう疲れてしまっていたんだよ。
結婚相手の家族に嫌われるのが、こんなにきついとは思わなかった。
クビにはならなかったけど、数日後、大地くんのお見合い相手だったという女性から呼び出しがあり、同じホテルのラウンジで会った。
「大地さんと結婚する予定だったんですぅ」
と、しくしく泣く彼女に、
「大地くんはいい人よね。でも、こんなこと言う人をお義母さんって呼べる?」
私は、ボイスレコーダーで『使用人の分際で』のあたりを再生した。
「うそっ。若月夫人って、こんなきつい人なの? 従業員を使用人って、時代錯誤。こんな前時代の感覚の人がお姑さんなんて、やってられないわ!」
「そうよねー」
涙は止まって、彼女はそそくさと帰っていった。
話の分かる人で良かった。
大地くんのお見合い相手の直訴はそれ以後も続いた。そのたびに、あの音声を聞かせると、女性たちは見合いを断っているようだ。
同時に、夫人の付き合っているお芝居やお茶事の社交仲間の間での、「良妻賢母で穏やかな人格者」という評判が地に落ちたらしい。マダムの世界って、狭いから、お友達が離れていったって。
ざまあ、と思ったとき、博士課程を終えた大地くんが、学園に就職すると言い出した。
「父がそれを条件に、結婚を許してくれたんだ。研究は大学でなくても出来るから、亜里沙は心配しなくていいよ」
と、笑っていたが、私は猛烈に腹が立った。
親が子の行く先を曲げて、何が教育者だ。こんちくしょう。
いらいらしていたら、それを察した同僚の安藤さんが、気晴らしにと、ゲームを勧めてくれた。
それをやっているうちにクリスマス・イヴとなり、私は大地くんに別れを切り出した。
二人でレストランで食事をし、食後のコーヒーが出たとき、私は婚約指輪の入った箱をバッグから出し、テーブルの上に置いて、それを大地くんの前にすすめた。
「結婚はやめよう。二人の気持ちだけじゃ、どうにもならないよ。大地くんに、親と私、どっちか、なんて選んでほしくないし、もう疲れてしまったんだ」
彼はおずおずと手を伸ばしてリングケースを手に取り、スーツのポケットに入れた。
「亜里沙は、僕に愛想尽かしをしたわけじゃないんだね」
「うん。でも、お育ちの違いってやつが、どうしようもならなかった」
「じゃあ、まだ希望がある」
と、大地くんが泣き笑いした。
「プロポーズの前に戻るだけだね」
「そうなるかな。大地くんに次の彼女が見つかるまでなら、今までみたいに一緒に遊んでもいいよ。でも、今の仕事は、年度末で辞めるから。学園の事務室に、理事長夫妻にとって目障りな女がいちゃ、なにかと面倒だからね」
「わかった……」
しょんぼりした大地くんを連れて、レストランを出た。
クリスマスのイルミネーションがきれいな歩道を二人、無言で歩いた。
家族連れやカップルが何組もすれ違う。
後ろから、はしゃいでかけてきた小学生くらいの女の子がいた。
「じゅり―、そんなに走ると転ぶよ」
お母さんが呼んでいる。それに答えず、笑いながら後ろ向きで歩き始めた子へ、車道から猛スピードで車が突っ込んできた。
「あぶない!」
誰かが叫び、周囲の人たちが逃げる。
一瞬のことだったろうけど、それからはスローモーションのように見えた。
走り出した大地くんが、女の子に追いつき、胸に抱え込んだ。
追いかけた私は、その大地くんを女の子ごと突き飛ばし、車の前面に出た。
誰かの悲鳴が上がる。
視界が暗くなった。
死んだかな。死んだろうな、と思ったら、ゲームの中の悪役令嬢・アンナマリーになっていた。
何千回もそこで殺されたあと、モブくんの『戻って来い』の言葉でアンナちゃんの前に立ち、その身体の中に同居することになった。
アンナちゃん、かわいいんだもの。ついお節介を焼いてしまった。
アンナちゃんの中にいる間に、同じようにゲームの中にいたらしい人がいたことを知り、アンナちゃんのおじいさんが私のお父さんだってことも分かった。
じゃ、アンナちゃんは姪っこなのか。すごい偶然。
大地くんがアンナちゃんの学級担任になったのには驚いたけど、元気そうで良かった。
アンナちゃんの恋の行方も見たいなー、と思っていたら、狭いところに押し込められ、その苦しいこと。
身体中が痛くって、息が苦しくて、目を開けたら、そこに私を殺そうとしているルイ王子がいた。
でもよく見れば、やせたオッサンじゃん。
『パパ!』
アンナちゃんの声が聞こえた。
このオッサン、アンナちゃんのお父さんなのか?
「上原さんって、予想外だよね」
侍従姿のモブくんが目の前に立っていた。隠しキャラって自分で言っていた。お忍びで留学中の隣国の王太子の付き人って設定だったか。
「自分の身体に戻るはずが、よそへ行ってしまうんだもの」
でもその声は、東堂くんだった。
モブくんの姿が、学生時代の東堂くんに変わっていく。
「ぼくは上原さんが好きだったよ。コンパのとき、こんな根暗のぼくの話を嫌がらずに聞いてくれた君に恋をした。でも、若月くんも好きになったって言って、電話番号を聞いてきたので、すぐ失恋したんだけど。君と若月くんをくっつけて、君の幸せをいつも願っていた」
「それは、ありがとう。でもね、譲るとか、私は物じゃないんだから、私の気持ちは聞いてくれなかったんだね」
「ごめん。でも結局、君たちは恋人同士になっただろう? それに、ぼくは独りでも大丈夫だけど、若月くんは、君がいないとダメダメ人間になってしまうから」
「いえてる」
私たちは、うふふと笑いあった。
「想いを断ち切ったつもりだったのに、『最後に君に会いたい』という願いで、君をぼくの世界に引きずり込んでしまった。同時に、君のそばにいて、死の淵を覗いた人たちも」
「暮林さんとアンナちゃんのパパだね?」
「そう。現実世界でも、彼らは君と姪っこさんにからむ運命だったから、こんなことになってしまった。でも、今度こそ、戻るんだ。家族と若月くんが待っている」
東堂くんの姿がすうーっと消えていく。
「待ってよ。東堂くんは今、どうしているの?」
答えはなかった。
「亜里沙!」
大地くんの声が近くで聞こえた。
私は目を開け、「東堂くんを捜して」と言ったんだけど、また目を閉じた。
だって、すっごく眠かったんだもの!
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