過去の回想 死への恐怖
私は中学三年生あたりの頃から死を恐れている。そのきっかけは本当に些細なことであった。確か夏休み明けの体育で足をつったことであっただろうか。その時私は、この世には他人に理解されない痛みがあることと、死が訪れた後の意識がどうなるかなど生きている者には誰にも分らないという当然のことに気づいたのだ。私は怖かった。自分の意識がどうなってしまうのか。永遠なる虚、終わらない苦痛、あるいは完全な意識の消滅が待っているのではないかと。しかし、深刻に悩んでいたのも数週間の間だけで、その後も数年はときどき思い出したように恐怖することはあれど慢性的な死の恐怖には苛まれてはいなかった。
再び恐怖に苛まれるようになったのは私の18歳の誕生日だ。大学受験を控えてる私は日夜勉強に取り組みつつもその日だけは家族と共に久々の団欒を楽しんでいた。高校卒業、大学入学、就職…私を待ち受けている未来の数々に期待と不安を寄せているうちにふと3年前と同じ考えに行きついた。我々は死から逃れることはできない。そして主観的な死の感覚を知ることはできない。三年前は私はまだ子供であるという余裕と一日一日をこなす達成感に甘んじて死の恐怖を追いやることができた。だが私はもはや成人であり、子供という猶予は消え浪費した日々が現実に向き合うことを強要する。仮に未来で多少医療が発展して120歳まで生きれるとしてももう人生の1/7以上の時間を使ってしまったのだ。長くともあと6倍程度の歳月を過ごせば私は死んでしまうだろう。ぐるぐると巡る死の末路への恐怖も日々の思考と反復の対象であり、いつしか死は抽象的な恐怖を伴っていかなるときも私の頭を締め付けるのであった。
それでも死の恐怖から逃れようと思うことはなかった。私は死の淵に立たされて非現実的な楽観的希望を妄信できるような人間ではなかったのだ。だからといって死ぬことを受け入れられるほど諦めの良い人間でもない。そんな私は死が来ると知りながらも悪足掻きをすることしかできなかった。