なろうでエッセイを書いてる人は、57パーセントの確率で5年以内に死ぬ
いままで知らなかったんだけど、この小説家になろうでは、実は書いた感想が保存されている。
実はなんて言ってるけど、マイページ見れば堂々と書いてるんで、気づかなかったわたしがポンコツなだけかもしれない。
んで、わたしはわりと感想人でもあるので、メチャクチャ感想書きまくってるんだけど、
ひとまず2017年、約5年前に遡ってカウントしたら、かなり死んでたんだわ。
要するに削除されてた。
その数なんと57/100作品。
なお、削除されていない作品は同じ作者さんに対して書いているのは1としてカウントしたつもり。
ただ消されたほうは、作品は削除してても作者としてのアカウントは残されているかもしれない。
消えた作品は、作者がアカウントごと削除した可能性もあるが、それもカウントするのが難しい。
まあ、わりと適当に数えているだけなので、そこはお気になさらず。
ともかく1作品を1作者として捉えた場合、100人中57人死んだことになる。
死んだというか、まあ現実的には生きている可能性も高いので、要するに文筆家としての死、筆を折ったということだ。
キーボード折ったという言い方が今風かもしれないな。
どうにも、これは高い数値だと思わないだろうか。
――なんで、エッセイストすぐ死んでしまうん?
作者がなぜ断筆するかは、作者の内面を知りようがないからわかりようがない。
けれど、勝手な印象論で言えば、エッセイが小説に比べて、作者の内面をより直接的に表現するものだからではないだろうか。
例えば、黒歴史という言葉がある。
中二病時代の生産物、たとえば最強のキャラクターシートとかを後から見つけて、ウワーってなることを黒歴史というが、それと同じく、エッセイを書いて5年も経過すると、黒歴史化するということではないか。
しかも、小説であれば、代理表象という形で、作者の精神はヴェールに覆われている。バリアがある。これはフィクションですというバリアが。
ミステリで人を殺しまくっているからといって、作者が狂っているとは限らないが、エッセイで誰かを殺したいとか書いたらヤバいやつ認定されてしまうだろう。(わたしはわりと人類死ねとか書いているが……)
そんなわけで、エッセイを書いた当時に比べて、作者の内面が時間経過とともに成長した結果、黒歴史化してしまうという可能性が考えられる。
黒歴史に相対する場合、5年程度の時間差であれば、そこに映った姿は「わたし」にとってまだ近く、離れすぎてもいない。
例えば、黒歴史エッセイを書いて30年くらい後に、あれこんなの書いたかと発見したら、ほほえましさすら感じるかもしれない。
けれど、5年ともなると、まだ離れすぎていない。
この心理的距離が、わたしの歪像として、つまり近しい他者としてたちあらわれてくる。
要するに、近親憎悪が湧いてきて、抹消したくなる。
視点を変えて言えば、今風でいうところの、アップデートみたいな感覚もあるのだと思う。
過去に書いたエッセイは、当時の作者の内面なり考えなりを表現したもので、成長とともに考えが変わってくることもあるだろう。
ここで、作者としては、過去の自分を『上書き処理』したくなる。
実際にアップデートしたエッセイを再度投入するかどうかは別問題として、
ひとまず内面の『今』の考えと、過去のエッセイに現れている内面との不調和を消すために、想像上のエッセイで上書き処理する。
結果として、作品は消える。場合によっては、アカウントごと消える。
要するに、完璧主義者なんだろうね。
自分の中に首尾一貫性がないと、『自分』じゃないと妄想しちゃってる人。
通常は、自分という概念がある程度曖昧になろうが矛盾しようが、軸があるからほとんどは問題がないんだけど、軸がなかったりブレていたりすると、脆く崩れやすいものになってしまう。
大黒柱のない家のような感じ。
普通の人は、柱もあり壁もあるお家の中に自我が格納されているため、その防御シールドは強固であるということ。
表面が嵐にさらわれていても、家の中は平穏だ。
つまり何が言いたいかというと、作品を削除するという行為を完璧主義者的な行為であると捉えれば、その主体は精神病域に近しいといえることになる。
日記療法というものがある。
日々の出来事を精神病者が書きだし、精神医が適切な解釈を下すことによって寛解するという治療法のことなんだけど。
これは、軸がブレているなり、壊れているなり、あるいは貧弱になっているときに、言葉で軸を補強しているという比喩が成り立つ。
まあ、そこまで『病気』というイメージにこだわらなくてもいい。
日記をつけることによって、癒される程度に考えてもらうほうがイメージしやすいかもしれない。
ともあれ、エッセイを書くことがセルフ治療行為だとしたとき、なぜそのエッセイは抹消されたのだろうか。
ひとつは治療が終わったから、つまり寛解に至ったので、もはや書かれたものは不要になったという考え方はどうだろうか。
作者の思考がエッセイによって整理され、軸が補強された。
つまり、作者の内面的成長によって、自我の安定を得たので、もはや言葉は無意識の中に折りたたまれた。
後に残った補強材としてのエッセイは、要らないものとして廃棄された。
そうだとすれば、エッセイを卒業することは、少なくともその人にとって、あるいは社会的にみても喜ばしいことだ。
しかし、一方で、治療に失敗したということも考えられなくはない。
エッセイは自分の内面を他者に開陳する行為である。
人間の内面は、本来は脆く柔らかいものだ。それは壊れもの。フラジィル。
なので、思想や哲学や宗教などにより、脆い自我を守る必要が生じる。
これらは先ほどの比喩でいえば、家の壁だ。
ただ、本性的にエッセイストが、大黒柱=軸の作用が弱い人間である場合、壁がいくら厚くても、構造的には脆いだろう。
人間のこころはツーバイフォーにはなれない。(なれるという説がサントームなのかもしれんが)
ともかく、エッセイストが、壁をどんどん厚塗りしていく。
すると、お隣さんの家の壁にどんどん近づいていき、最終的には接着してしまう。
それにより思想的な対立生ずる可能性もある。
例えば、戦争は絶対に戦争を仕掛けたほうが悪い。
いやいや戦争は戦争を仕掛けられたほうもほんのわずかは悪い場合がある等。
軸がブレている作者にとっては、このような語らいはまがいものに過ぎない。
自我の保存を目的として表層的にどちらが優勢かを判断して、なんとなく正義側にたちたいだけだ。
軸があるけれども弱い結果、軸が弱く働き、軸を補強したいと考える。
他者から承認されたいという病が発症する。
まあ、これは軸が太い場合でも、多くの場合は変わらないだろう。
社会というものを見渡したとき、第二次世界大戦後に、国という大きな物語。イデオロギーは消滅した。
代わりに専制君主として立ち上がってきたのが資本主義なんだろうけど、資本主義においては資本家は人々の総体である。
したがって、社会総体はコヒーレンスなものではなく、デコヒーレンスなもの。要するに精神分裂状態である。
したがって、社会を構成するひとりひとりも、昔に比べれば精神的支柱が存在しない(あるいは弱い)と考えられ、昔に比べれば統合作用が弱まっていると考えられる。
中世とかに比べれば、神さまは死んじゃってるし、休暇とってベガスにいってる。
第二次世界大戦みたいに、国のために戦って死ぬような時代じゃない。(いやウクライナ……)
何が言いたいかというと、自我が肥大化してるように見える人も、
内面の家の中にいる自我自体は超人とはほど遠い、ガクガクブルブル震えてるクソ雑魚なめくじであるということだ。
要するに誰もかれも、他者に承認されたがっている。
承認の数が多ければ売れるので、資本主義的に肯定されるからだ。
<わたしを分析して欲しい>
ただ、軸がブレていない人間と軸がブレている主体の違いを考えるに、軸がブレている人間がおこなうエッセイを書く行為は他者の承認を受けたいという決死の防衛機制であるということである。
<わたしを分析して、切り刻んで、あなたの言葉で殺してください>
決死としたのは、軸がブレている者がいくら壁を厚くしても、家自体が崩落する可能性があるからである。
がんばって治ろうとしているのだ。社会に適合しようとしているのだ。だから決死と表現した。
軸のブレている者にとって、エッセイを投下するのは決死戦である。
であれば、作者は死んだのだろうか。
精神的な意味で崩壊したのだろうか。人生百年と言われる時代にわずか5年で57パーセントも?
確かにエッセイを投下して、たとえば誰それから批判されたという事実は、ひどく主体をうちのめすに違いありません。
思わず丁寧語になってしまったが、体感として理解できるので、そうなっちゃう。
防壁は攻撃を受けた。言葉の銃弾を浴びてボロボロになってしまった。
したがって、つくった壁は自我を守るのに適さなかった。
壁は軸ではなく、自我の外側にいくらでも偽造することができるものである。
なので、主体が元気なうちは新しい壁をいくらでも創り出せばいい。
要するに、エッセイを次々と繰り出していけばいい。
主体にとって、思想も哲学も宗教も身にまとう鎧にすぎない。
それは「わたし」じゃないから、左だろうが右だろうが上だろうが下だろうがどうでもいい。
しかし、承認されたい主体に対して、
承認あるいは批判の対象になっているのは、家でいうところの壁。
なろう小説風に表現すればキャラである。
わたしたちはキャラを被って社会生活を営んでいる。
そうすることで、承認されたいという欲求をみたそうとしているのである。
わたしが幼女作家を名乗っているのも、傾向として好かれやすいだろうからという防衛機制だろうけど、本質的には、誰かに嫌われる可能性を常にはらんでいる。
誰にでも好かれるキャラは存在しない。
ここで、エッセイを繰り出すごとに、首尾一貫性の危機が生じるだろう。
文章量が多くなればなるほど、多作になればなるほど、部分的にもアップデートが生じるし、べつにおかしなことではない。
昔はお父さんのことが嫌いだったけれど、今は好きになりました。あるいは許せるようになりましたとなるのは変じゃないでしょ。
でも、軸がブレている人にとっては、それが恐怖になる。
なぜなら、軸の作用が弱いせいで、壁=キャラこそが自分であるという認識を持つからだ。
キャラブレによって、わたしという自我そのものが揺らぐ。
だから、首尾一貫性を持たせるために、作品を殺した。
これは承認されなかった、つまり批判された作品を部分的に殺した場合もあるだろうし、あるいは全作品を消去することで、すべて0にしてしまい、0に何を乗じても0であるという理論によって、自我の首尾一貫性を保全する。
つまり、これは敗走ではない。
治療行為に失敗したのではない。
そうではなく、治療行為を続行するために、作品を抹消したのである。
わたしはわたしになるために、わたしを殺した。
森博嗣先生の言葉は正しいよ。
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私は私を殺して、私は私になった。
私は私を生かして、私は私を棄てた。
四季 冬 森博嗣 より。
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であれば、ほんのわずかでも交流を重ねた感想人たる立場として、わたしが抹消された作者にかける言葉として正しい声かけは「またお会いできるのを楽しみにしております」ということになるでしょう。そして本当に帰ってきたら、「オカエリナサイ」って言いたい。
補筆。
よく考えたら、夢野ベル子に補足されたエッセイが、そういう死にやすい属性をまとっていただけとも考えられるな。実際、政治とかなんかの科学的な話とか、そういうのはあんまり興味がないんで。逆に曖昧な内面を曖昧なまま語っているのに興味が惹かれる。なので、傾向として死んでしまうんじゃないか……。ベル子死神幼女でした。
実際、今日ひとり殺しちゃったみたいなんで反省します。マジでごめん。もう少し優しく書くわ。あるいはもうその人には書かないわ。本当にごめんね。
なんで、夢野ベル子死なないんだろう。