二
次の日の四限目、二人は早速に昼飯をかっ込んですたすた職員準備室に向った。高野はここが世話の焼き処だと言わんばかり、食堂から廊下を歩く間にセカセカして若月に志望は如何だの何だの吹っ掛けるが、当の若月は蝿でも払うように「それは先生とお会いした時に話せばいいだろ。」となんともなく流していた。
室に這入るなり、代数学の崗崎は高野君、といつものヨロヨロした白衣に着られた腕をひょっこり上げた。薄ら笑いは人の好さそうな目元に更に皺を寄せていた。
「約束してましたお話お伺いします。」
高野はそう云うなり若月にポンと促した。流される儘、彼もひとつ御辞儀をした。斯うして親しく教師と話をするのも若月にとっては初めてであった。抑々若月は代数学より幾何学が何方かと謂えば好みであったから、崗崎の顔をまじまじ見るのも今日が初めてだ。
崗崎はうん、と若々しく頷き、
「話は高野に聞いてるヨ。一寸尻を叩いてやれとの話だ。」
どうやら高野は現実味の無い若月をせっついてやってください、とでも頼んだのだろう。彼自身は軽口の積りだろうが、若月に取っては笑えた話でない。官界にでも送り出されたらそれこそ田舎から出荷される憐れな小牛のような気持ちだ。草でも食んで牧歌を口遊んで居た方がよっぽどましである。
若月は口をもごもごさせて、イエ……などと言葉を濁したものの、
「何処か宛てがあれば良いと思って。」
などと適当に場を繋いだ。実際に、楽な就職口があれば、という事に偽りはなかった。若月とて一生大学四年の儘歩みを止めてやろうとまで思う非現実人ではあるまい。
只なんとかなるであろう、と云う根拠の薄弱な楽観が、彼にいつからか捺されていた為に、面倒な思索を避けて来た丈けだ。小学校、高等学校、と気付けば、上手く…かどうか知らぬが自然と上って来た。勉学は出来ぬ方ではない。但し教授に為ろうという強硬な意志を透徹する気概があるでなし。
まあ当たり障りない人物というのを裏返せば、即ち自分の意思が弱い、ということになる。圭角という言葉などとは無縁の彼は、流される時に流され、飛び越える時にぴょいと少し努力して飛び越える。ずっと然うやって生きて来た。
生きてきた、という自覚まで無い。ぽてぽてと気付いた足は進んで居て、頭で何ということも考えぬうちに、ゆっくり大道の隅を進んでいた。帝大に這入ったのも、之といった抱負に燃やされたからではなく、進む道がそれくらいしか目に入って居なかったからだ。私立は高い。態と其方に行く理由が無かったのだ。
妙に余所余所しい若月に代わるように、高野は年上によく受ける屈託ない笑いを浮かべてその語を継ぐ。
「まあ、彼にも社会の面白さと厳しさというのを、現役の方から教へてやって下さい。どうもぼくが言ふだけじゃ、到底響きもしねえもんですから……」
云われた崗崎も悪い気はしないで、然うか、と繰り返し頷いている。
若月は自分の身に就て話されている為か、珍しく、一寸居心地悪そうに眼をどっか部屋の隅にやって、薄くはにかんでジッとして居た。
「然うだね、ぢゃ、若月君、と云ったかね。君は何処に行きたいと云ふ希望は有るのかね。」
「はい。」
話掛けられた為にすっと目線を崗崎の双眸に戻したものの、之と云った就職への熱情も持ち合わせて居ない若月はそれきり語をどう捻り出すか考えあぐねた。其の内に、…民間かね、官途かね。はて家業でも継ぐのかね。修学を続けるかい。等と崗崎が引き出して呉れたので、若月もぽつりぽつりと、在りもしない定見の角を突つき崩して差し出す事だけは出来た。
大した希望も注文も無い事が大体に於て察せられた為、崗崎は参考にと懇意の友人から聞いた官界の感想や、翻って学会に身を置く自らの経験談や、また違う友人が金融機関に勤めて居る、其の空気なんかを話して聞かせた。若月はまじめに聞き入って頷いて居た。高野はその横でもっと愛想良く相槌と感想を挟んで居た。そうしながら若月の薄い横顔を一瞥したが、一見真直ぐ相手を見据えるその目が興味の程を窺わせるように思えるも、その内情は案外に冷めているのか、冷めた程でも無いが之と云った温度が存在しない程の平熱なのか、能く読めなかった。冷静であるに変わりないが、如何も自分の身に関する事と思って居ないような落ち着き振り。チョットは社会人に為る事を我身に引き着けて実感し出して呉れりゃいいが、と気慰みに思ってもみた。
有難う御座いました、と二人して室を後にするとき、若月も薄く笑いを乗せていた。それが愛想笑いなのか、自然と出るいつものそれなのか、当人以外に恐らく判別不可であるくらいには曖昧な類のものだった。
「如何だ、あんたも少しは気を刺激されたらう。」
組んだ手を頭の後ろに乗せて気を抜いた朗らかな笑いを湛えながら、高野は元々分かりっこないこと承知で若月の表情如何と覗き見た。
またぼうっとしてるのか思索してるのか一向謎の顔で若月はううん、と曖昧な相槌を返した。しかしそれから間も開けず今度は続けた。
「正か結婚のこと迄訊かれると思はなんだ。」
高野は意外な返しに、ああ、と少しだけ声を高くした。君、結婚の予定はあるのかね、などと何気なく挟まれた問いは、普段一緒に居る高野にも及ばなかった類の其れであった。まさかと見るに、案の定と云っちゃ悪いが、丸くなる瞳がちょっと驚いた素振りすら見せて、
「いえそんなこと、考へてもみませんで」
とトボけたような気の抜ける顔で一蹴り。
それが如何にも、僕には及ばぬ考えを、流石先生で御座います、といった風だったので思い出すにつけても高野は愉快な気分だった。
「あんたが結婚だなんて、した暁にゃ乃公ァ気が動転してヒックリ返ッちまうやもしれねえ。」
「僕も然う思ふ。」
間髪入れぬ爽やかな切味で若月が返したものだから、ひとつ置いて高野も到頭堪え切れずワハヽヽと大口で笑い出した。一笑い獲った若月は涼しい顔に少し得意の色を混ぜ、何となく呑気に外の空色をちらと窺った。雲の混じった薄い晴天であった。
「女の子の事なんざ考へた事も無かった。」
色気に乏しい古びた書籍を、書生らしく漁る許りの自分をチト顧みるなり若月はひとつ溢す。
「マア此の御時世若いのが真面目なんは大変良い事と思ふが、あんたにゃ矢っ張り熱情と云ふんが欠しいんぢゃねえかい」
揶揄うような将又心配するかのような声色で高野がひとつ呉れてやると、若月は受け取ったかどうか分らぬ筋合で、その詞より廊下の角を曲がる事の方に集中が行って居るくらいの風で何気なく息を付くように返す。
「興味ないには仕様が無いよ。」
はあ。と高野も一緒に角を曲がって、
「傍から観るには愉快で好いが、乃公は心配で堪らんよ。友誼上座視に忍びず忠告してるんだぜ。」
と嫂みたいに、届かなくて構わないくらいの小言だけ零した。