午後三時、あたしは飛び降りた
午後三時、あなたと出会った。
午後三時、あなたとのお茶の時間。
午後三時、あたしの唯一の幸せの時。
午後三時、あなたの隣にあたしはいない。
午後三時、全てを失った。
午後三時、あなたもあたしを見てくれない。
午後三時、あたしはーーー
£
昔から、あたしは愛されなかった。
愛情が向くのはいつだって、双子の妹のあの子。
かわいくて、甘えたがりで、無知なあの子。
少しだけでも愛情を向けて欲しくて頑張っても、お父様にはその程度かと冷たい目で見られるだけ。
一つ何か出来る度にあの子はいつでも皆に褒められるのに。
憎い子だ。笑顔で、無自覚で、私から全部奪っていく。あの子がいなかったらあたしは――――――――愛されていたかな……。
貴族の子女が通う学院でも、あたしとあの子は違っていた。
伯爵家の令嬢のあたしとあの子。
あの子にはたくさんの取り巻きがいて、いつも楽しそうに笑ってる。
あたしは独り。周りもあたしの伯爵家での扱いを暗黙のうちであたしに媚を売るより媚を売るならあの子がいいと、あの子に擦り寄る。あの子は自分の周りに寄ってくる人間が媚を売っているなんて気づいていない。いや、媚なんて知らないのかもしれない。
必要最低限に関わって、当たり障りなく接し、普段は目すら合わせない。それが周りのあたしへの扱い方。あたしはいないも当然だ。
あの子は学院でも、無知だった。成績もすごぶる悪い。下から数えた方がいい程。なのに周りは頑張ったねと、褒め称える。
あたしは分かっていてもやらねばならない事をただただ頑張り、その成果で上位キープしている。
できる事はこれくらいしかない。それに何もせずにいれば冷たい目すら向けてもらえなくなるだろう。だから、ただ頑張り続けた。
一人、学院内を意味もなく歩く。
これは、たぶん散歩。
全寮制の学院だから、決められた門限までに寮へ帰れば何も言われない。いや、あたしが例え時間までに寮に帰らなくても気にする人はいないのかもね。
そうとはいえ寮もそれほど学院から離れてはいないからまだ時間には猶予がある。
すれ違う人もあまりいない廊下。それもそうだろう、雨続きのなか今日は久しぶりの晴天。外に出て散歩などを楽しむ人が多い。
本当は、あたしも外を散歩しようかとおもっていた。けど、あの子とあの子の取り巻きが良い天気だからと散歩しようと話すのを聞いてしまった。あの子が散歩に出るのならと止めてしまった。
……ふと、ここは何処だろうと思った。思考から一旦気持ちを逸らして、見た回りの景色は見慣れないもの。適当に歩き過ぎたらしい。この学院は広く、全体を把握するの少し難しい。見慣れない場所があっても不思議じゃない。
歩いていればそのうち見慣れた場所に出るだろうと気にしない事にし、一人また歩るきだそうかと思いながら、
何気なしに目を向けた窓の外、あの子がいた。取り巻きと一緒に笑ってるあの子。
そっと戻した視線の先、歩いて来る人影がひとつ。
あたしも今度こそ歩を進める。
すれ違う際に、会釈をひとつ。
何もなく、すれ違う。
「君は、外には出ないのかい?」
……はずだった。唐突に後ろからかけられた声。びくりと、歩を止める。
かけられた声に返さず立ち去るのも、背を向けたままも失礼。だから、振り返った。
振り返った先には、こちらを見て佇む青年。
「…………今日は、外に行く気分ではないので」
どうしてこの人は、あたしに話し掛けたのだろう。
何か用でもあるのだろうか。
「そうだ、ね。そういう気分じゃない時もある。……あ、名乗っていなかったね。僕はアシューム・フィルラリカ」
優しい笑顔で告げられた家名は、知っているもので。フィルラリカ家は侯爵位のはずだ。
「シオン・マモットです」
制服のスカートの裾を摘まんで、頭を下げる。あの子より完璧な礼。
「ああ、マモット伯爵家のご令嬢」
きっとこの人もあたしとあの子を比べているんだろう。
早く離れてしまおう。今まで良い事なんてなかったんだから。あの子ばかりが褒められるんだから。
別れの挨拶をしようと、口を開きかけたその時、
鐘の音が響いた。午後三時を告げる鐘の音が。
「ああ、もうこんな時間なんだね。……マモット嬢よろしければ、一緒にお茶でもいたしませんか?」
そんな誘い初めてで困惑し、どう返すのが正しい事だったか分からずただ佇んでしまう。するとその人は、
「ダメ、かな?」
なんて、困ったように笑う。そんな風にされたら、
「……いいえ、お誘いありがとうございます」
断れない。
静かな屋内庭園。大きな窓から入る暖かな午後の日差しと、庭園の綺麗な景色。学院内には、他にもいくつもの庭園が建物内外にある。でも、ここはその中で特に美しいと思えた。
「ここは初めてかな」
「え、ええ。初めてです」
「ここは学院の端の方だからか、あんまり知る人もいない場所でね」
庭園には既にお茶に必要な物が用意されていた。実はよくここでお茶をするんだと、笑う彼に納得がいく。
誰かとお茶なんていつぶりだろうか。
あたしは目の前に座る彼を見る。、蜂蜜色の髪と同色の穏やかな瞳。端正な顔は、そこらの令嬢方が喜びそうなもの。物腰も柔らかくまさに紳士だと思う。
なのに、なぜあたしなんかとお茶を飲むのだろうか。
「お茶も菓子も気に入らなかったかな……?」
「え」
「手を、つけていないから…」
たしかにそうだが、でもそれは、
「違います。ただ、なぜあたしをお茶に誘って頂いたのか、考えていて」
彼はまた困ったように笑う。
「……うーんそうだね。廊下ですれ違った時に、君があまりに辛そうな、悲しそうな顔をしていたいたから……だから、かな」
そんな顔をしていたなんて、気づかなかった。
「どう、声をかけていいか分からなくて、あんな問い掛けをしてしまって……。ちょうど三時の音がなったから、お茶に誘ってみたんだけど……。お節介かもしれないけど、相談くらいならのるよ」
「フィルラリカ様は、あの子……あたしの妹、ルフィーアを知っていますか」
口は勝手に言葉を紡いでいた。
「知っているよ。夜会で数回会った事があるかな。マモット伯爵と一緒に挨拶されたから……君とは今日が初めてだね」
それもそうだろう。お父様は基本的にあたしを必要以外外には出さない。学院だって、義務でなかったらこれていなかったかもしれない。夜会も貴族の仕事の一つだから、世間体に関わらない程度には出される。
「もしかして、……君の悩みは妹さんについて?」
躊躇いながらに言ったこの人は、何も知らないのだろうか。
「あたしは、いつもあの子に負ける」
口からは滑らかに、勝手に、言葉が流れていく。
「どんなにあの子より頑張っても、褒められるのはあの子だけ。あたしなんかより劣るところがあるくせに。両親の愛もあの子は持っていて。かわいくて、甘えたがりで、無知なあの子。あたしは、あの子の引き立て役にもさせてもらえない。ねぇ、フィルラリカ様。あなただって、あの子の方が、良いんでしょ」
皮肉げに言った言葉は、今さら当たり前の事。きっとあたしを選んでくれる人なんていない。それが、悲しい事かと聞かれると、なぜと逆に問いたくなる。だって、それはもう決まった事だから。
「泣かないで。僕は君をそんな扱いしない。君と妹さん、どちらがいいかなんて言われても、まだよく知らない今の僕じゃ何も言えない」
言葉と共に、そろりと触れられた頬。
あたしは、泣いてなんかいない。
それを察したのか。
「目が潤んでいる。辛そうな顔だ」
伯爵令嬢が簡単に泣くなんてあってはならないのに。止めなくちゃいけない。唇を強く、噛み締める。
「あぁダメだ!そんな事したら」
顎に手を添えて、親指で唇にそっと触れられ、
「こんな事しちゃダメだ。綺麗な唇なんだから」
「……っ!」
男の人にそんな風に触れられた事も、そんな事を言われた事もあるはずもなく、頬が熱を持つ。
「っ…すまない!!」
「い、いえ!」
弾かれたように手が離れた。さっきまで張り詰めていた空気が、気まずい空気に変わり流れる。
彼は躊躇いながら。
「……君の気持ちを理解してあげる事はできない。だけど話を聞くくらいなら出来るから、辛いなら僕に話してくれない、かな……」
彼は……あたしを見てくれるのだろうか。
あの子じゃなくあたしを見てくれるのだろうか。
………そんなはず、ない。
「……お言葉はありがとうございます。ですが、結構です」
「そう、だよね……」
弱々しく笑う彼。そんな姿さえ絵になってしまう。
「知り合ったばかりの僕になんて、無理だよね。すま「違う!!」
彼の言葉を遮って叫んだ。
だってそうでしょ。
「あたしなんかを気にかける人なんていない!どうせあなたのそれは同情でしょ!自分が優しいて優越感に浸るための!そうじゃなかったらあの子に近づくため、お生憎様さま!あたしを気にかけた所であの子に届くものなんてないわ!………あたしの事なんて、ほっといてよ」
最後の言葉だけは弱々しくなり、一気に捲し上げたせいで、上がった息が静かな空間に響いた。
ああ、やってしまった。相手は侯爵家の方なのに。お父様にお叱りを受けるだろうか。いやとうとう、用済みだと、捨てられるかもしれない。ああ、馬鹿だなあたし……。
「同情……そう、かもしれないね。うん、でも。例えそうだっとしても、悲しそうにしている君をほっとけないんだ。君がそう思うなら、それでもいい。僕を利用するとでも思ってくれてもいいんだ。君からしたら、言い訳に聞こえるかもしれない。偽善に見えるかもしれない、けどね」
そう言って苦笑を浮かべる彼は、どこまでお人好しなんだろう。優しさなんて捨てた方がいい。そうじゃないと、貴族なんて勤まらない。
優しいだけじゃ、この世は生きていけない。時に非道にならなければならない。貴族ならなおさら。
必要無いものは切り捨て、必要なものには、執拗に執着出来るくらいに。
あたしは、たぶん切り捨てられる方。だけど今もまだ、マモット伯爵家に居られるのは、おおかた政略結婚の道具にするためだろう。どこにいった所で、あたしなんてきっと愛してもらえないだろうな。
たぶん、マモット伯爵家の跡継ぎはルフィーアの夫となる人だろう。長女のあたしではなく、妹がマモット伯爵夫人、きっと誰もがそれを認める。
だけど今は、そんな悲観的な事は後回しにしてここから去ろう。このままここに居てはまた何か口から溢れていくかわからない。
「………フィルラリカ様。そろそろ、あたしはお暇させて頂きます。……失礼いたします」
簡単な退室の言葉を告げ、立ち上がる。礼をし、その場を後にしようとした。
「待って!……また、この時間、ここに居るから。いつでも来てくれ」
「………ええ、お時間がありましたら」
曖昧な返事を一つ残し、あたしは今度こそ去る。そのまま振り向かず、寮の部屋へと足を進めた。
£
夢を見た。いつも通りの、優しさなんて一欠片もない夢。
『お父様。見てください、満点です』
家庭教師の出したテストで満点を取ったあたしは、嬉しくて褒めて欲しくて、お父様にその紙を持っていた。
勉強は別に不得意ではなかった。むしろ、得意な方だった。だけど満点なんて初めてで、嬉しくて、見て欲しかったのだ。
『………その程度の事で、私に話しかけるな』
優しさなんてない、冷たい言葉。
分かってた。褒めてくれるはずなんてない事は。でも、“もし”を信じてた。信じるくらい良いと思ってた、幼い頃のあたしは。
場面はくるりと変わる。
庭で散歩をしていた。侍女も誰も連れず一人で。あたしには、専用の侍女なんて一人としていない。いや、いるのかもしれないけど、それすら分からないほどにあたしは使用人と関わることが少ない。
一人でふらふらと歩いて行く。そんなあたしの耳に楽しそうな会話が聞こえた。
『みて、かあさま。きれいな、お花』
『ほんとね。ルフィーアによく似合いそうな、可愛らしいお花だこと』
あの子とお母様だった。
その後ろには、何人もの侍女達が並んで、二人を微笑ましそうに見ている。
ふいに、お母様がこちらに視線を投げた。それなりの距離があるはずなのに気づいてしまった。
あの子に向いていた優しい瞳が、あたしに向けるのは冷たい瞳だという事に。
すぐに逸らされ、あの子へと戻った瞳は優しいものになっていた。そのまま、あたしから遠ざかるためだろう、お母様達は遠くへ消えていった。
いつもだったらここで終わるのに、今日は違った。
『……君の気持ちを理解してあげる事はできない。だけど話を聞くくらいなら出来るから、辛いなら僕に話してくれない、かな……』
どうして、あたしなんかに……。
『同情……そう、かもしれないね。うん、でも。例えそうだっとしても、悲しそうにしている君をほっとけないんだ。君がそう思うなら、それでもいい。僕を利用するとでも思ってくれてもいいんだ。君からしたら、言い訳に聞こえるかもしれない。偽善に見えるかもしれない、けどね』
……もうやめて。やめてよ!
『待って!……また、この時間、ここに居るから。いつでも来てくれ』
やめて……優しくなんかしないでよ……!
「やめて!」
最悪な目覚めだ。
どうしてなの。いつも通りの夢だったらまだよかったのに。
「どうして、あなたが出てくるのよ…」
もう優しさなんて欲してない。居場所だって何もかも。あたしはどうせ………。
「だから……あたしに、優しくしないで………」
騒がしい学院内もあたしを置いて動いていく。
いつも通り、今日も終わっていく。
昨日と違って今日は、曇天。だから、外に人は少ない。だからと言ってあたしは、外には出ない。曇天なのもあるけど、色々気分じゃないから。
かといって行くあてもなく、寮に帰る気にもならず、人気のない道をただ歩く。どこに向かっているのか、自分自身ですら分からないままに。
その時聞こえた、少女らしい甲高い笑い声。ひどく耳障りな声。今まさに曲がろうとしていた曲がり角の向こうからだった。
その声が一瞬、あの子の声の気がした。ほんとは違ったかもしれない。でも、あたしはなぜかそれが怖く思えて、走り出していた。誰もいない方へ方へ、と。
気づいた時には、昨日の庭園の入り口に居た。追いかけてくるはずのない声に怯えて、扉を開いていた。
扉を開く事でふわりと溢れだした芳しい花々の香り。
「……ハァ……ハァ………っ……ハァ……」
走った事で上がった息と、疲れた足。その場に座り込んでしまう。
どうしてあたしは逃げたんだろう。どうしてあたしは……
「……君!どうしたんだい?!」
上げた視線の先には、驚いた顔のまま走ってくるフィルラリカ様。
「マモット嬢じゃないか…?。何かあったのかい!」
本気であたしを心配したような顔。あなたはどうして…
「どうしてあなたは、あたしに優しくするのよ…!どうしてあなたは、他の人の様にあたしを扱わない!どうしてよ……」
窓の外では、とうとう堪えきれなくなった雲が雨を降らせた。大粒の雨粒は、煩いくらいに窓を叩きだす。
キッと睨むあたしに、彼は近づいて片膝をついた。そしてなぜかひどく悲しそうな顔で言った。
「君は僕にそうして欲しいのかい」
欲しいも何も、みんなそうする。そうするのが当たり前なのよ。あなたはおかしいのよ。
「それを君はほんとに望んでいるの………そうじゃないはずだ」
そっと頬に触れた手。温かい。振り払う事もできない。なぜ?
「だって君は、泣いているじゃないか」
泣いてなんかいない、なんて言えなかった。だって頬を伝って、彼の手にまで涙は流れていたのだから。
「僕は、そんな事しない。嫌がられても、僕は君に優しくする。たとえ、同情でも、偽善でも、優越感に浸りたいだけと君が言おうと、君がどう思おうと………僕は君に優しくする」
そう言って彼はあたしを抱きしめた。
彼があたしに向けるのは初めての事、知らない事ばかりだ。
信じていいの……?優しさを……くれるの?あたしの事を見てくれるの?
「…いいの……ほんとにいいの?あたしに……優しくしてくれるの?あの子じゃなくて?」
「うん。君がいいのなら、君がいいんだ。僕にはそれくらいしか出来ないから。……今なら顔が見えないよ」
その言葉でよかった。それだけで、あたしはみっともなく泣いた。子供みたいに声をあげて。
彼はあたしを抱きしめたまま、背中を撫でてくれた。
泣いたって、今まで慰めてくれる人なんていなかった。幼いあたしが転んで泣いてしまっても、自分で立ってと冷たい視線で言われた。同じ事があの子に起これば、過剰過ぎるほどに反応するのに。
人の体温がこんなにも心地いいなんて初めて知った。
どれくらいそうしていただろうか、あたしが落ち着くまで彼はそうしてくれていた。
いつの間にか外の雨もしとしと弱くなっていた。
「……フィル、ラリカ様、ありがとうございます。……みっともないところを、すみませんでした」
「いや、いいんだよ」
スッと残っていた涙を右手で拭ってくれた。
その自然な動作にどきりとする。
「大丈夫かい?頬が赤いけれど……」
「へ………い、いえ!何でもありません!」
頬が赤いのはあなたのせい、なんて言えない。
心配そうに見る彼をなんとか諭した。
「そうだ。お茶を準備していたんだけど……たぶん、冷めてしまっているね。入れ直して、一緒に飲まないかい?」
「ありがとうございます。でも、気をつかはないでください。あたしは冷めていてもかまいませんから」
「そうかい。すまないね。……お手をどうぞ」
立ち上がり、するりと出された手。どうやら立つのに手を貸してくれるらしい。こんな事もまた初めて。でも貴族令嬢にとっては普通の事。
その手を取り立ち上がる。そのまま彼に手を引かれながら、準備されていたテーブルに案内された。彼が引いてくれた席に座る。
彼の手によって目の前に置かれた紅茶のカップ。手に持ってみると確かに冷たい。一口、口に含んでみる。元々茶葉が良いのか冷めていても、全然美味しい。
「……美味しい」
「よかった。この紅茶は僕のお気に入りなんだ。とても美味しいものだから、次の機会には最高のタイミングで用意するよ」
「次……」
「うん、君がいいのならまた“次”も、二人だけのささやかなお茶会だけど……どうかな?」
「……うれしい、です」
またポロリと涙が流れた。
「よかった」
優しく笑いながらまたあたしの涙を拭ってくれた。
「すみません。泣いてばかりで……」
「いいんだよ。ずっと我慢していたんでしょう。なら僕の前では遠慮なんてしないで。いくらでも泣いたっていいんだ。……でも、目は後で冷やさないといけないね」
今まで、どんなに泣いても拭ってくれる人なんていなかった。泣く暇があるのなら勉学に励んでいた。でも、溢れた涙を何度声を殺し枕に押し付けたか。バレないように、バレないように、唇を噛んでいたか。
でも、この人の前ではそれはいらないと言う。この人の前でならいいのかもしれない。
「ありがとうございます。フィルラリカ様」
「いや、いいんだ……それより。“フィルラリカ様”だとなんだか堅苦しいから、アシュームと呼んでくれないかい」
「え……」
そんな申し出初めてで、どうしていいか分からなくなる。
貴族の友人もいないあたしにはファーストネームで呼ぶような仲の人などいない。ましてや、それが殿方となると…。
「僕もできるなら君の事をファーストネームで呼ばせてくれないかな」
「……フ、フィルラリカ様が、構わないのでしたら。あたしは、い、いですよ」
半分やけくそで言ってしまった。しかもどもってるいる。
でも、彼は、
「うれしいよ」
本当にうれしそうに笑った。
それを見た瞬間なぜかまた胸がどきりと鳴った。なんだろうこれ。
そのまま見ている事ができなくて、誤魔化すためにカップとった。
「あ、シオン……嬢。見てごらん」
紅茶から目を離し、彼の指した方を見ると、
「虹……」
いつの間にか雨は止み、窓の外には大きな虹が差していた。
「とても、綺麗だね」
「はい……アシューム…様」
この日から、あたしとアシューム様二人だけの小さなお茶会が始まった。
£
「ねぇ、リウール、みんな、見て!おかしを貰ったの」
「まあ、とっても美味しそうですわね。どなたからですか?」
「ルジュアール様からよ!」
「バルシィー子爵様からですか」
「ほんとに仲がよろしいですわね」
「うん!……ああ!そうだわ!今から、ユーイル様とお茶の約束をしていたの。行かないと!」
「まあ、大変!」
「お約束の場所はどこですの?急がなくてはなりわせんわね!行きましょ、ルフィーア様」
そんな声が、やっと教室の外へと出って行った。
いつだって、取り巻きや殿方に囲まれて、ちやほやされているあの子。
今日もまた変わらない。かわいくて、甘えたがりで、無知なあの子。
忘れよう。あの子の事は忘れてしまおう。荷物を急いで片付け、廊下に出る。
どんなに騒がしい放課後も、学院の端へと歩いていけば自然と静かになる。その事にホッとする。
学院の事は別に好きでも嫌いでもないけど、周りにいる人達が苦手というか嫌いだ。
威張りくさって、爵位というものに必死にかじりついている、綺麗に着飾った醜い生き物。
でも、彼は違った。
開いた扉から溢れた花の香りを纏い、いつもの場所に歩いて行く。そこにはすでに彼が座っていた。
「すみません。遅れてしまいました」
「いや、大丈夫だよ。まだ鐘は鳴っていないからね」
その時、ゴーンという鐘の音が響いた。
「ほらね。……さあ、どうぞ」
引かれた椅子に座る。いつもの紅茶と美味しそうなお菓子。お茶会の始まり。
午後三時、この時間はアシューム様とのお茶の時間。
アシューム様が人払いしてくれているのか、庭園へは誰も来ない。本当ならいるはずの侍女も元々準備をしたら庭園から出るよう言っているそうだ。だからいつだてここは二人だけの空間。
このお茶会の事も、あたし達の関係も、秘密。やましい事があるわけじゃないけど、あたしと関わっているなんて知れたらアシューム様の評判に関わる。そんな事したくない。だから、廊下ですれ違っても会釈程度、言葉なんて交じわさない。人前で名前で呼び会うなんてもってのほか。アシューム様はかまわないと言うけれど、あたしが嫌なのだ。あたしのせいでアシューム様まで嫌な思いをするなんて、いや。あたし、一人で十分。
「今日の菓子はどうかな。最近評判の物を取り寄せてみたんだけど……」
今日のお菓子は、木苺のタルト。甘酸っぱい木苺がたくさん盛られている。
「とても、美味しいです」
「そう、よかった。また、取り寄せるよ」
その微笑みに胸が疼く。
「……どうか、したかい?」
「あ、いえ。なんでも」
いちいち気にしてはきりがない。
それからは、他愛もない話を広げた。話が止まる事があっても別に居心地の悪さもなく、時はゆるりと流れた。
£
ざわざわと煩い廊下を一人で歩く。次の科目は普段の教室とは別の場所。
あの子はまた、取り巻きに囲まれ歩いて行った。馬鹿みたいと思う。一人じゃ何も出来ないのよあの子は。周りの取り巻きだってあなたが、伯爵家の令嬢だからいるのに、それすら気づいていない。無知過ぎて、笑いも起こらない。よく取り巻きの人達もあの子についていけるわね。あたしは絶対に嫌よ。
「今日も、フィルラリカ様は美しいですわね」
「まったくですわ。私には近づくのも恐れ多くて、あの輪に加われませんわ~」
聞こえた女生徒の視線の先では、アシューム様が多くの女生徒に囲まれていた。
胸がズキリとする。
もう何度か見た、いつもの光景。それを見る度に、いつだって胸は痛む。
顔を背けようかと、思った時だった。
一瞬。そう一瞬だっけ、こちらに気づいて微笑みを向けたのだ。
「……っ」
「見まして!今こちらに、微笑みかけられましたわ!」
「どうしましょう!」
あたしは下を向いて急いで歩いた。そのまますぐには教室に向かわず、人気のない所に向かう。
自分自身の頬が赤くなっているのは、見なくても分かる。
頬に当てた手に伝わる熱。熱い。
あまり認めたくはなかった、でもこれはたぶん、
「ーー」
呟いた言葉は空気に溶けた。
「だめ」
小さく呟いたその言葉は何に対するものか、分からない。
叶わないものだから?
迷惑をかけてしまうから?
それとも、怖いから?
「……忘れよう」
首を振って、歩きだす。教室に着く頃にはこの熱が治まっている事を願いながら。
扉を開くとともに鐘が鳴った。花の香りと鐘の音の組み合わせの先にはいつだってアシューム様が先に居て、フワリと笑ってくださる。
だけど、今日は本に夢中のなのかその目は字を追っている。
その姿は、とても美しかった。蜂蜜色の髪は日の光を浴びてキラキラと輝き、同色の瞳は真剣そのもので。
深く見とれてしまう。
その瞳がふいに上を向き、瞳にあたしを映す。
「……やあ、シオン嬢。気づくのに遅れてしまたね。ご機嫌はいかがかい」
「とくに良くも、悪くもありません」
嘘。ほんとは、何よりもここに居る時が、気分も機嫌も良い。その瞳に映って、名を呼ばれて、これ程の喜びはない。いつだってあたしを必要最低限しか見ず、名だって誰も呼ばない中であなただけがそうしてくれるのだから。
だけど、今日はちょっと機嫌が悪い。
彼はそうかいと笑い、あたしの椅子を引いてくれる。そこに座り、今日の事を問い詰めてみる。
「アシューム様」
「うん?なんだい」
「今日、あたしとすれ違った時に笑いかけませんでした?いえ、自惚れる気はありませんが。もし他の方だったら良いのですけど……。もしあたしへでしたら、やめてください。バレてしまいます」
ちょっと嫌みたらしく言えば、効果は抜群だったようで。
「ああ、すまない」
眉を下げて言う様は可愛らしいが、だからと言ってやめはしない。
「でも、バレてはいないし。……ダメかい」
「はい」
「次は気をつけるよ」
「……………はぁ、わかりました」
これ以上は無理そうでここらで折れるしかないかな。
「ああ、ところで今日の菓子はどうかな」
言われ、まだ口にしてなかったお菓子を口に運ぶ。
「ええ、美味しいですよ」
話を変えようとしたのは見え見えだけど、ほんとに美味しいから返事は返しておく。
いつも出されるお菓子はどれも美味しいし、珍しい物や隣国の物までわざわざ取り寄せてくれる。そこまでしなくてもいいと言ったけど、自分も食べたいのだと言われればそれ以上何も言えなくなる。
あたしはこんなに良くしてもらっても良いものなのか、分からなくなる。アシューム様は、家柄、頭脳、見目もよくその優しく穏和な性格も相まって学院内での人気も高い。そんな相手にあたしのような人間が……。
「……どうかしたかい。また、何かあったんじゃ」
「あ……いえ、そんな。ちょっと考え事をしていただけです」
どうやら表情が暗くなっていたようで心配された。だめだな。すぐに顔に出るようじゃ。
「そういえば、何を読んでいたんですか」
今度はあたしが逸らしてしまった。しょうがない事にしておこう。
「これかい?これはね、異国の物語を集めたものだよ」
「異国、ですか……」
「そう。いろんな物語が載っていてね。とても面白いよ。………いつかここを出て、遠くに行ってみたいな」
本を撫でながらどこか遠くを見る目はとても悲しそうで。
「その時は、シオン……嬢も一緒に行かないかい」
それはとても魅力的な話だ。こんな嫌な場所から解放され、彼の隣に居れる。
―――――たとえ、叶うはずがなくとも。
「………いいですね。是非その時は誘ってください」
「ああ。……そうだ、この本を貸すよ。読んでみて」
渡された本は思ったよりも重く、読みごたえがありそう。開いて数ページ捲ってみると、繊細で綺麗な挿絵がされていた。
「おもしろそうですね。読んでみます。……あ、でも、もうすぐ長期休暇に入りますよ。それに、まだ途中なんじゃ……」
「いや、もう読み終わって何度も読んでいるものだから大丈夫だよ。本は長期休暇明けにでも返してくれればかまわないから」
「なら、お借りしますね」
この胸に抱いた本があれば、憂鬱な長期休暇も乗り越えられる気がする。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
アシューム様はなぜかあたしの頭を撫でた。子ども扱いみたいで嫌なのと、恥ずかしいので顔が熱くなる。
「ど、どうして、撫でるのですか!」
「何となくだよ」
のほほんと言うから、この気持ちのぶつけ所が分からなくなってしまう。
この人は、もう。もう少し考えて貰いたい。
£
長期休暇になり久しぶりに屋敷に戻ったが、相変わらずだった。
あの子とは馬車すら別々。別にそちらの方がかえってよかったけれど。
屋敷に着いた時だって、あの子の方が先に着いて外に出れば、両親と使用人に歓迎されていた。あたしはずいぶんと待たされ、やっと外に出られれば歓迎する人なんて誰もいない。一人だけ荷物を運ぶためにいた下男がいたくらい。
屋敷の生活だって何も変わらない。
誰とも必要最低限しか話さず、接しない。一日のほとんどを部屋で過ごした。
お父様に帰宅の有無を伝えに行った時でさえ、返事の一つも、あたしをを見る事すらなかった。
でも、これが当たり前なんだ。
早く休みが終わるのをアシューム様に借りた本を読んで待った。休みが明ければ、またあの庭園でアシューム様に会える。ささやかなお茶会の中でまたアシューム様の笑顔が見れる。とても、とても楽しみだ。
コンコンと静寂に響いた無機質な音。どうやらお父様があたしを呼んでいるらしい。正直呼び出されるような事が浮かばない。、会いたくないな。目を合わせないか、冷たい目を向けられるに決まってる。
重い足を引きずるように、お父様の書斎に向かう。
扉の前に着いても、すぐに扉を叩く気にはなれない。一つ息を吐いて、なんとか叩く。
「……シオンです」
「………入れ」
中から響いた声があたしを歓迎していない事がわかる。それでも、行かなければならない。
「お呼びでしょうか」
「………今度、夜会を開く。わかっているな」
「はい。それだけでしょうか」
「………」
沈黙を肯定と取り退室の礼をし部屋を出る。正直息が苦しいかった。
呼び出しの内容は簡単、家で夜会を開くから出ろ。が、何があろうと問題を起こすなと、いうわけだ。お叱りでなかった事はうれしいが。正直出たくない。夜会は嫌いなのだ。ほとんど出る事がないのは救いだけど、今回はそうはいかない。自分の家がホストなのにその娘が出ないなんてのは。
早く部屋に帰って本を読もう。それだけが、心の救い。
キラキラと言うより、チカチカする。
自分を美しく見せるために着飾り、まるで美しさを金で買っているようだ。
腹の探りあいばかりで楽しさなんて欠片もない表面的な会話を繰り広げる人達。
早く終わってしまえばいいのに。終われば本を読もう。それだけを、考えていよう。大丈夫なはずだから。
「やあ、ルフィーア嬢。ご機嫌いかがですかな?」
「まあ!フィルラリカ候様!いらしいてらっしゃたんですのね!」
“フィルラリカ候様”とやたらと耳障りな声が聞こえた。自然とそちらを見てしまう。そこには、着飾っていつも以上に可愛さを振り撒くあの子と、愛想の良い作り笑いを浮かべた紳士と、その後ろに彼がいた。
アシューム様……
招かれていたなんて知らなかった。笑みを浮かべて、丁寧に挨拶をする姿は正に紳士で。でもその相手は、あの子で……。
「お久しぶりです。マモット嬢」
「ほんと、学院内ではまったくお会いしませんでしたね」
嫌だ。見たくない。そんな気持ちが胸を詰めっていた。
あの子に笑顔を向けないで欲しい。
あの子と話さないで欲しい。
あの子と一緒にいないで……。
醜い心を隠そうと、そっとテラスに出る。
あの場所に居ようとあたしに意味はない。しなくてはならない挨拶も終わった。何よりもう耐えられない。
夜風に当たれば、少しは楽になると思ったけど、だめ。テラスから庭園へと降り、少し行けばちょうどいいベンチに腰を下ろす。ホールからは植物が邪魔でここは見えないだろう。ちょうどいい。
彼はきっとあたしなんか気づいていない。それでもいい。けど、あの子と楽しそうに話しているのは、嫌。我が儘でいいから、それだけは嫌なの。
もう、あの子には何も奪われたくない。お願いよ……。
「こんな所に居た。寒くないかい?」
優しい声に驚いて顔を上げる。
なんであなたはあたしが悲しみにくれる時、現れるの。
「……泣いて、いるのかい」
「アシューム、様……なぜ」
それは何に対する問いか。
彼が現れた事?
悲しみにくれる時に現れる事?
あの子の側にいないから?
でもなんでもいい。あなたが側に居てくれれば。
「シオン嬢が、君が、ホールを出るのに気づいてね。……大丈夫なんて、聞かないよ。辛いんだろ」
そっと包み込むようにあたしを抱きしめてくれた。あの日の事を思い出す。あなたは、いつだってただ泣かせてくれた。今だって。
「……アシューム様。あの子と、話さなくていいのですか」
小さな嫉妬。でも、ほんとはあたしなんかがしてしまうのは、お門違い。
「挨拶はもう終わったからね。必要ないよ。……それに、君と話したかったから。元気だったかい?」
コクリと頷く。それが精一杯だった。
「そう、よかった。僕も元気だったよ。でも君に会えなくて寂しかった。……君は」
少し頷くのに躊躇した。でも寂しかった事は嘘じゃない。だから頷く。
「同じだったんだね。うれしいよ。また、お茶会をしよう。その時は、何か食べたい菓子はあるかい?」
ふるふる。要望なんてない。ほんとはお茶もお菓子も無くていい。あなたが居れば。
「そう。じゃあ何にしようか。……ああそうだ。この前とても美味しいシフォンケーキを教えてもらったんだ。それなんてどうだろ」
なんだってかまわない。あなたと食べれるなら。
「今日のドレスは、シオン嬢にとても似合っているよ。君のその綺麗な髪色に合ってるよ。……とても、綺麗だ」
「……っ!」
他意なんて無いのはわかっているでも、そんな事を言われれば頬は自然赤くなる。
顔が見えない状態で良かったと思う。
「そうだ。あの本、君にあげるよ」
「え……」
あの異国の物語の本だろうか。どうして。
「何も言わず。貰ってくれないかな」
その声はひどく悲しみを帯びていて、あたしは無意識に頷いていた。
「ありがとう。………いつか、君と遠くに行けたならいいのに」
あたしはその呟きに応えぬまま、そっと彼の背に手を回した。彼はあたしを抱きしめる腕に力を込めた。
冷たい夜風が二人に吹き付けても、そのままお互いの存在を確かめるように抱きしめあった。
£
あの夜会から少し経った。あの日から何も変わらず、あたしはこの家で本と彼を思い出す事でやり過ごしている。
長期休暇も終わりが見えて、その日を指折り数える毎日。
今日は、窓から入る日がぽかぽかと暖かく、あたしはそこに椅子を置いて本を開いた。
本はとうに読み終わり、もう何度も読んでいた。本の中には、様々な話が書かれており、知らないものばかりだった。初めて読んだ時は、寝る間も惜しんで読み更けたものだ。喜劇、悲劇どちらもあり、それに一喜一憂してしまう。
中にはお気に入りの話も見つけ、休み明けにはアシューム様とこの本の感想を語り合いたいなんて考えている。
ふっと、上げた視線を窓に向けた時、屋敷に向かってくる馬車が見えた。
大方お父様の客か、あの子の友だちのどちらかだと見当つけて本に目線を戻そうとしたのに、体はなぜか動いていた。
椅子から立ち上がり片手を窓に触れ、その馬車を眺める。
ある程度こちらに近づいて見ににくくなってくると、今度は窓を開いていて、バルコニーの手摺に両手をついて眺めていた。
その馬車が屋敷の出入り口近くで、止まり馬車の扉が開いた。
中から出てきたのは、蜂蜜色。
「アシュー、ム様……?」
ここは三階で玄関にあまり近くない、そのせいで顔はよく見えなかった。
けれどあれは、アシューム様だって確信したあたしは、急いで部屋に入り彼の元へと行こうと扉に手を掛けた。
でもそれは、少し開けた所で止まってしまった。なぜなら外にいた侍女の声を聞いてしまったから。
「ーーねぇ、知ってる。ルフィーアお嬢様とフィルラリカ候様の三男様が婚約したの」
フィルラリカ候様の三男はアシューム様の事。
あたしはそのまま、ずるずるとそこにへたりこんでしまった。片手に持ったままだった本を抱き抱えて。
外の声はまだ続く。
「ええ、知ってるわよ。あのお二人て美男美女でお似合いだわ」
「確かに!て事は、この家は、フィルラリカ侯様の三男様がお継ぎになるのね」
聞きたくないと思った。
「ねぇねぇ。ちょっと、聞いてよ!今、アシューム・フィルラリカ様がこの屋敷に来られたのよ!」
駆けて来たらしい侍女の言葉にあれはやっぱりアシューム様だったのかと思った。
「まあ、どうしたのかしら?」
「ルフィーアお嬢様に会いたくて来たんじゃないの!」
「そうかも!お嬢様てお可愛らしいから、殿方にとても人気だし!」
キャキャと盛り上がる侍女の声。
聞きたくないと何度も心が叫んだ。どうしてと心が問いかける。
どうしてなんて簡単、彼も結局あの子を選んだ。
かわいくて、甘えたがりで、無知なあの子。あたしと違ってたくさん愛されてる。
あたしと違って可愛げだってある。
そうよね、あたしなんて好きになってもらえないよね。
こんな女誰が好きになるものか。
誰にも愛されず、性格だってこんなだ。
でもね、あたしを選んでくれなくてもあの子以外の誰かなら許せてた。
また、あの子はあたしから奪っていく。両親の愛も居場所も、………彼も。
もうなにもない。この本以外なにも。
彼はあたしを利用したのかな。それとも、だったあの子に惚れてしまったのかな。
……もう、どうでもいいなにもかも。
頬に触れた風。虚ろな目でその出所を探る。
開いた窓の奥。バルコニーと空。
今度は自分の意思でそこに行く。
晴れやかに晴れた空と、美しい緑が見えた。少し動かした視線の隅で、目に入った二つの影。
右下の階のバルコニーで仲睦まじくする、あの子と彼。
もういいやと思う。
とうせこの世に居ても必要とされない。むしろいない方が誰も彼もが喜ぶはずだ。
午後三時の鐘の音が鳴り響く。あたしは本を抱えてバルコニーの手摺から、
「さよなら、愛しくもない世界。さよなら、愛しかった人」
午後三時、あたしは飛び降りた。