言葉のいらない森と、きみと花
※白ヶ音雪様主催の『蛮族の嫁イラスト企画』で、コマ様(@watagashi4)が描かれたイラストに、私なりのストーリーを付けさせていただいたお話です。
何が「高貴なる密林の民、ケシャ」だ、と、エセルが思わない日はなかった。
謎の部族に夢中になりすぎて、ジャングルの中で暮らすことを選んだ父のことも、正直、極度の変人としか映らない。いうなれば父は「蛮族の虜」だ。
「人類学者って奇人よね。言葉も通じない原始人みたいな人達にしか興味がないなんて。どうせ夢中になるなら、インドのスパイスとか、美味しいものなら良かったのに!」
「スパイス? ケシャ族が使うスパイスの種類は百以上あるんだぞ。中でもセセリスっていうのが密林の至宝と呼ばれていて――」
「ケシャはいいの! なら、パパがはまるのがパリのチョコレートだったら良かったのよ。パリなら喜んでついていくわよ。街はオシャレな洋服ばかりで――」
「オシャレというなら、ケシャ族の装いは美しいぞ。彼らはな、一人一人が全身で森を表現しているんだ。意味を知ったら、ヒラヒラした服がいかに表面上のデザインかがよくわかる! それに、チョコレートなら――」
「もう、ケシャのことはいいの!」
何を話してもケシャ、ケシャ、ケシャ。もうたくさんだ。
部屋を出ようと身を翻した背中で、父の声を聞いた。
「チョコレートの原料のカカオ豆なら、ケシャが何百年も前からデザートに使ってるんだぞ! カカオ豆だけじゃなくてバニラ豆も……」
「わたしは豆の話をしてないのよ。カフェのメニューにあるデザートの話!」
パパはおかしい。何を言ってもケシャの話になるケシャ狂い。正真正銘の「蛮族の虜」だ。
パパなんか嫌い。こんな家、出ていってやるんだから! と、家を飛び出そうにも、ドアを開けると、そこはジャングルだった。本国風の建物を一歩出ると、まさに緑の異世界が広がっている。覆い茂る草木のせいで風がほとんど吹かない密林は、虫や鳥の声で埋め尽くされている。
父、アレスは、本国から少数民族の調査員として派遣された研究者で、学士院から用意された住まいは、ご丁寧にジャングルのど真ん中に建っていた。近くにある道路は家の前にある一本だけで、西は、ここへ連絡ボートが辿りつくための小さな湊へ、東は、ケシャという一族が住む森に続いている。
ママさえ生きていれば――。そうすれば、今頃、本国で女学校に通っていたのに。
父と母は、昔、両親から反対されて結婚したそうで、本国には身寄りがなかった。それで、母の死後はジャングルで研究に没頭する父のもとへと移ってきたのだが――。
ふらふらと歩くうちに、川岸にいきついていた。
川岸といっても、敷物を広げてピクニックをするような爽やかな場所ではなくて、川の水は濁って茶色になっているし、岸のぎりぎりまで木々が茂った崖になっているので、座るような場所もそもそもない。
エセルの家の前から続く道は、その川にかかる吊り橋へと続いていた。でも、エセルはその橋を渡ったことがなかった。その橋の先にあるのが、ジャングルの民ケシャ族の森だからだ。
大昔からこの森に暮らすその一族は、ほとんど裸で暮らしている。髪形も独特で、都会暮らししか知らなかったエセルには、「いったいどういうセンスでそうなるの?」と、目が点になる奇妙な髪形としか言えない。
この吊り橋の先に得体の知れない蛮族がいると思うと、橋に近づくだけでぶるっと背中が震えた。
(帰ろう――。あんな、原始人みたいな人達に見つかったら何をされるかわからないわ)
世界の蛮族の中には、人を狩って食べてしまう一族も、意味のわからない呪いや宗教を信じている一族もいるという話だし――と、引き返そうとした時のこと。
目の前に、大きなクモが落ちてきた。手のひらくらいある大きなクモで、真っ黒な足には長い毛が生えている。しかも、脂でギラギラと光っていた。
逃げようと後ずさると、足元の地面が崩れた。落とし穴に落ちるように景色が低くなって、身体も傾く。そうかと思えば、濁った水面が眼前に迫ってくる。
クモに慌てたせいで、川岸の斜面に足を踏み外していた。ドロドロに湿った土の上を背中で滑り落ちて、ついには水音を立てて、川の水に落ちる。
大声を上げた。ジャングルの中の濁った川だ。人を食べる魚が泳いでいるかもしれないし、ワニがいるかもしれない。早く岸に上がらなきゃ――そう思って手を伸ばしても、岸に生える蔓に手が届いたかと思えば、ブチッと千切れて、反動でさらに川岸が遠ざかる。泳ごうと思っても、水を吸った服が重い。川底の藻に足がとられて、立ち上がることもできなかった。
このままじゃ流される。その前に人食い魚に食べられてしまう――!
声にならない悲鳴を上げるしかできずにもがいていると、ふっと身体が軽くなった。腹の下に腕があって、その腕はエセルを抱えようとしている。いつのまにか、そばに人がいた。エセルを助けようと川に飛びこんでくれたのか、同じ齢くらいの少年で、何かをくり返し喋っている。
「テッセ・ジーマ、テッセ・ジーマ」
少年が力強く腕を伸ばすたびに、水音が大きくなる。その子は水をかき分けて泳いでいて、岸が近づくと、ぐいっと押し上げられる。岸に足がのぼると、今度はその少年が軽々と岸に上がる。それから、またふわりと身体が浮いた。
「テッセ・ジーマ。シャー・ジャード。ワーツ」
浮いたと感じたのは、抱きあげられたからだ。その子の腕が背中と膝の裏にあって、水際から遠ざけようと、エセルを運んでいた。
でも、声が苦しそうだ。
「ヘ、ヘブ……テッセ……」
たぶん、重いのだ。いわゆるお姫様だっこをされていたが、女の子がこぞって憧れるそのシチュエーションは、男側にとってはかなりの重労働なんだって、と、聞いたことがある。
体重が重くて運ぶのがつらいのだと気づくと、恥ずかしいのと申し訳ないのとで涙が出た。一度涙がこぼれると、止まらない。
濁った川に落ちたことや、流されかけたことや、人食い魚やワニに脅えたことや、クモに驚いたことや……怖かったいろんなことが頭の中を駆け巡った。
「テッセ・ジーマ、テッセ・ジーマ!」
少年は目を丸くして、顔を覗きこんでくる。
改めて見上げると、その子の肌はエセルと違って濃い褐色をしていた。上腕も脚もむきだしで、ほぼ裸。顔にも肩にも模様がたくさん描かれていて、髪形も、どう褒めればいいのかわからない独特すぎる形。間違いなかった。その少年は、ジャングルの民、ケシャ族だ。
助けてくれた相手だろうが、奇妙な一族の少年がすぐそばにいると身に沁みていくのも、怖かった。目を逸らそうと視線を落とせば、着ていた空色のドレスが目に入る。泥まみれだった。
(本国から持ってきたお気に入りだったのに)
お気に入りの服がドロドロに汚れているのもつらかったし、住み慣れた都会を離れて父とジャングルで暮らしていることも、母が病気で死んでしまったことも、急に悲しくなった。
ここ数年の間に起きた悲しい出来事がここぞとばかりに押し寄せてくると、もう涙は止まらない。「えっ、えっ」と声を震わせて、泣きじゃくった。
「テッセ・ジーマ、テッセ・ジーマ!」
そばにいた少年は言葉をくり返していたけれど、意味はわからない。
しばらく泣きじゃくった後だった。エセルは、ふっと目が覚めたように顔を上げた。
薔薇の香りがした。手入れが行き届いた庭園にあった甘い香り――母が育てていた花の香りに似ていて、懐かしい香りに誘われるように探すと、エセルをじっと覗き込む少年の黒い目と、目が合った。
はじめは心配そうに歪んでいた目が、見開かれていく。真っ黒な目がきらきらと輝いて、少年は満面の笑みを浮かべた。
「ナール」
少年は、自分の人さし指で目元を押さえている。「ナール」「ナール」とくり返しているが、エセルは首を横に振るしかできなかった。
「わからない……」
何かを話しかけているのだろうが、言葉が通じない。
目を指すような身ぶりからすると、「見て」と言っているのだろうか。ううん――と、エセルは怖くなった。
(「見るな」かもしれない。じろじろ見るなって)
目の前にいるのは謎の一族の少年だ。思い出すなり怖くなって、うつむくと、また涙が浮かんでいく。
「ナール、ナール」
少年は焦ったようにまたくり返した。ふわんと薔薇の香りが強くなる。見れば、少年が「ほら、ほら」とばかりに手のひらをエセルの鼻先に近づけている。手の上には鮮やかなオレンジ色の花が山になっていた。薔薇の香りだと思ったものは、その花の香りだ。
「……」
こんなに優雅に香る花が、ジャングルの中にあったとは。
無言で見下ろしていると、少年は笑って、地面に落ちていた花も次々と拾って自分の手の上に積み上げた。
「アイ? セセリス」
「セセリスって――密林の至宝、セセリス?」
たしか、父から聞いたスパイスの名前だ。反芻すると、その子はにこりと笑って手を差し出した。
「ダン? セセリス。シャール」
言葉は通じないはずなのに、こう言われた気がした。
――気に入った? うん、セセリスだよ。きみにあげる。
「ありがとう……」
幻を見ている気分で、そろそろと手を伸ばすと、その子は白い歯を見せて笑う。
「ナール、ナール」
そうくり返して、その子は得意げに笑った。
泥水を吸ったドレスは重くて、滑り落ちた斜面を登るのはたいへんだった。
ケシャ族の少年は背中を抱えて、登るのを手伝ってくれる。
「テッセ・ジーマ、テッセ・ジーマ」
帰れるのかな――と不安になるたびに心配そうに顔を覗き込んで、何度もくり返した。たぶん「大丈夫だよ」と言っているのだ。
セセリスの花は胸のフリル飾りにねじ込んだので、薔薇に似た甘い香りは、ずっと頬のそばに漂っている。その香りと、ケシャ族の少年の頼もしい腕に支えられていると思うと、不安は薄らいで、どうにか崖を登り切った。
道に戻った後も、少年は家まで送ってくれた。
エセルを指差して、しきりにこう言った。
「キョウジュ・ドート」
「キョウジュ」はたぶん父のアレスのことだ。アレスは毎日のようにケシャ族の居住区に出かけているから、「教授」として知られているのだ。きっと「あなたは教授の娘だろ?」と、その子は言っているのだ。
無事に家まで辿りつくと、胸がほっとする。慣れた庭先で改めてその子の姿を見て、ぼんやりした。
その子の姿は、肌の色も、服も、髪の色も、髪形も、何もかもエセルとは違っていた。濃い褐色をした肌には白と赤の染料で不思議な模様が描かれていたし、髪も、泥なのか染料なのかわからないものを塗って細かくまとめられ、頭上に蛇を乗せるように結っている。身につけている布は腰を覆うだけだが、その割に、腕や髪を飾る細工が細かい。耳にも金環と白いオパール飾りを着けていた。
違う世界で生まれた人だ――そう思うけれど、遠い存在にはもう感じない。むしろ、エセルをじっと見つめるその子の黒い目がとても綺麗で、なんて美しい人なんだろうと、呆けた。まるで目の奥に星がいるようで、少年の目はとても澄んでいた。
「お礼を……お礼をしなくちゃ」
「待ってて」とその子に言い置いて、家の中に入る。
その子には、川で流されかけたところを助けてもらったのだ。何かお礼を渡さなくちゃ――と、家にあるものを探すけれど、何を渡していいのかわからない。
召使いには給金としてお金を渡すけれど、本国や街で使えるお金があの子の役に立つとは思えない。それよりも、珍しい食べ物はどうだろう。お菓子とか、砂糖とか。
慌ててその子のもとに戻って、キッチンで掴んできた袋入りの菓子を差し出した。
「これ、お礼」
助けてもらったお礼をしたかった。でも、その子は、差し出された菓子袋を見るなり目を細めて、唇を歪めた。首も横に振った。
何かを小声で喋っていて、その間もしきりに「違う」というふうに首を横に振っている。最後には、握り拳を心臓のあたりに当てて、力強く言った。
「ケルシャ」
にこにこと笑っていたのに、不機嫌そうな真顔になる。そのまま背を向けて、去っていった。
きっと何かまずいことをしたのだ。
少年の姿が見えなくなるまでエセルはそこに突っ立っていたが、頬が震えて、新しい涙が落ちていくのを止められなかった。
姿が見えなくなるなり、家の中に駆けこむ。向かった先は、父、アレスの書斎。
父はケシャ族の言葉の調査もしている。きっと何か手掛かりがあるはず。どうしても、最後に言われた言葉の意味を知りたかった。
書斎机の上で束になった紙を夢中でめくって、メモを探す。
「ケシャ居住区で暮らす人の数は百二十二人……これは違う、研究費の用途についての通達……これも違う」
父の字を追ううちに、紐で綴じた紙束を見つける。探していた、言葉に関するメモだった。
◇テッセ・ジーマ…「大丈夫」
◇アイ…「知っている」
◇ダン…「好き」
◇シャール…「あなた」「あなたにあげる」
◇ドート…「娘」
メモには、少年の声が耳に残っている言葉もいくつかあった。その下に、探していた言葉を見つけた。
◇ケルシャ…「誇り」
文字を見つけた瞬間、涙が出た。きっと彼は、こう言いたかったのだ。
――あなたを助けたのは、お礼が欲しかったからじゃない。
それなのに、エセルは、召使いに物を渡すように菓子袋を差し出してしまった。彼のことを哀れな未開の蛮族と心のどこかでは思っていて、本国のいいものを味あわせてあげようと、施しをするようにお礼を探した。それに彼は気づいて、怒ったのだ。
もう一つ、聞き覚えのある言葉も見つけた。
◇ナール…「泣かないで」
「ナール、ナール」と笑顔を見せていた彼のことを思い出すと、エセルは声を詰まらせて泣いた。
どうしても謝りたい。じっとはしていられない。
足がふらふらと玄関に向かって、外に出た。ドアの取っ手を押して、開けるなりのことだった。ふわん……と、薔薇に似た香りが漂った。
玄関先の足元に、鮮やかなオレンジ色の花が山になっていた。セセリスの花だ。
はっと顔を上げて周りを探すと、前庭から去ろうとするケシャの少年の後ろ姿がある。ドアが開いた音に気づいたのか、少年もエセルのほうを振り返った。
目が合うと、少年は笑った。人さし指を目元に当てて、苦笑した。
「ナール」
ナールは、「泣かないで」。きっと、別れ際に泣き出しそうな顔をしたからだ。戻ってきたのはエセルを泣きやませるため。さっき香りをかいで泣きやんだお気に入りの花を摘んで、届けるためだ。
その晩、エセルは父が書いていた言葉のメモをすべて自分のノートに書き写した。
いわば、手作りの辞書。翌朝になると、それを持ってケシャ族の居住区に繋がる吊り橋に向かった。
でも、途中で薔薇に似たセセリスの香りがして、道を逸れた。
香りを頼りに緑の木々の間を分け入っていくと、少しひらけた場所があって、濃い緑の中にそこだけ優しいオレンジ色が群れている。
その真ん中にしゃがみ込む少年の姿も見つけた。昨日会った、ケシャ族の少年だった。
少年はセセリスの囲いの真ん中に腰をおろして、花の香りに浸るように目を閉じていたけれど、やってくるエセルに気づくと、笑った。
「サイ」
一晩かけてケシャの言葉を書き写していたので、その言葉の意味は覚えていた。エセルもむずむずと笑顔になった。
「おはよう」
隣に座ってからも少年は笑っていた。目元を人さし指で指している。
「ナール」
今日は泣いていないね。と、そう言われた気がした。
「うん。あなたがくれた花が、慰めてくれたから」
胸元のフリル飾りの内側におさめてきたオレンジ色の花を抜き取って見せると、少年は嬉しそうに笑う。
「アウ・ガート・ケッシ・シャール・テスチ……」
「待って待って!」
言葉は通じないけれど、なんとなく彼が言っていることはわかる気がした。でも、今は手製の辞書がある。そう思うと、もっと詳しく知りたかった。
「えっと、アウは『私』、ガートは『嬉しい』、ケッシはええと……『会う』、シャールは『あなた』――」
あなたにまた会えて嬉しい。そう言っているのだ。
「わたしも会えて嬉しい。実は、あなたに会いたくて探していたの」
エセルは笑顔になった。少年も白い歯を見せて笑う。
「シャール・ボウ・ネ?」
シャールは「あなた」。彼はエセルの何かを知りたがっている。ボウ、ボウ……と、手製の辞書を探したけれど、探しあてる前から、彼が言おうとしていることはなんとなくわかった。
◇ボウ…「名前」
名前を訊かれていたのだ。やっぱり思っていた通り――と、笑った。
「私の名前はエセル」
「エセル?」
少年が驚いたというふうに目を丸くする。
「じゃあ、あなたの名前は?」
自分の言葉で尋ね返すと、少年はすぐにこたえた。
「スーリ」
「スーリ?」
どういう意味だろう。ノートに書いた自分の字を追っていくと、見つけた。その途端に、嬉しくなった。
◇スーリ…「星」
「スーリ? あなた、星っていう名前なの? わたしね、あなたの黒い目がとてもきれいで、目の奥に星がある人だなって思っていたの」
「星って、星よね?」と、朝方のまだ青い空を指さしながら話すと、スーリという名のケシャ族の少年は「うん、うん」とばかりにうなずいて、にっと笑う。
「テゼル・エセル」
そう言って、スーリはエセルが抱えるノートを指差す。
テゼルの意味は知らないはずなのに、不思議なことに、彼が何を言っているかは伝わってくる。
「『エセルを探せ』って言ってるのね? 待ってね」
彼の言語にも、エセルという言葉があるらしい。自分の字を追っていくと、見つけた。
◇エセル…「宝石」
紙面の上で指先を止めると、スーリは、エセルの顔をじっと覗き込んでくる。
「アイ? アウ・ケット・シャール・エセル・ダーン・ケッシ……」
スーリは彼の言葉で話し続けたが、本当に不思議なことに、なんとなく意味はわかるのだ。彼はたぶん、こう言っていた。
――わかった? おれは昨日きみに会った時に、きれいな宝石を見つけたと思ったんだ。だから、きみの名前が本当に「宝石」でびっくりした。
そんなふうに、言葉を介さず話ができていることも不思議だったけれど、自分とスーリが、出会った時に名前までなんとなく感じていたことにも、とても驚いた。
なにか、こう――何かが通じてしまったような。ほかの誰ともわかり合えない部分までわかり合ってしまったような――。
夢を見ているような気分で、スーリの濃い褐色の肌や、そこに描かれた文様や、星のように澄んだ黒眼をぼんやり見つめた。
父のアレスは、スーリのようなケシャ族の装いは、一人一人が全身で森を表現していると言っていた。
言われてみれば、頬から額にかけて大胆に描かれた円文様が、いきいきとした樹木の枝に見えてくる。首筋や肩一面に描かれた文様も、水の流れや種や、そこで暮らすケシャの民を表しているようにも――。
スーリも、じっとエセルを見つめていた。
「シャール・トウ・エセル……」
スーリは、熱に浮かされたように何かをつぶやいた。それから、そっとエセルの腕に手を伸ばして、自分の腕と並べてみせた。
――あなたはきれいで、本物の宝石みたいだね。エセルはオパールのことなんだ。ほら、おれの耳にあるのもエセルだよ。おれの宝物だよ。
濃い褐色の肌とエセルの白い肌を並べて、スーリは「ほら、白くてとてもきれいだ」というふうに、エセルの肌を指でなぞる。その後で、自分の耳元を指した。金の環にくくられた白いオパール石があって、地色の白に、空色や薔薇色の遊色がきらめいていた。
「ううん、そんなことない。あなたこそ……」
エセルは恥ずかしくなった。この人に褒められるほど自分がきれいだとは思わなかった。
ぴったり並んでいた腕を動かして、スーリの肩に触れる。指を広げて、肩一面に描かれたケシャ特有の文様をそうっとなぞった。
「あなたのほうこそ、とても純粋で誇り高くて、きれいだと思う。わたしは自分が恥ずかしくて――昨日はごめんなさい」
手のひらで肩に触れられるほど、エセルとスーリは近い場所にいた。父以外の男の人にここまで近寄ったことはなかったけれど、この場所でスーリを見つけてそばに寄った時から、そういえばエセルはスーリにぴったりくっつくように腰を下ろした。肩と肩が触れ合うほど近寄ることになんの抵抗もなかったし、むしろ近寄れるギリギリのところまで近寄ってしまいたかった。
肩が触れるほど近い場所にいるのだから、顔と顔も近い場所にある。話している間もずっと目を合わせていて、エセルもスーリもほとんど目を逸らさなかった。
スーリの右腕がエセルの背中に回って、「もう少しこっちに」とばかりに抱き寄せられる。
手のひらで触れていた肩がさっきより近づいたけれど、肩の文様の美しさや、盛り上がった筋肉の逞しさに目がいって、「やっぱり、きれいな頼もしい人だな」とばかり思う。
「アウ・エセル……」
囁くようにスーリが言って、そうっと顔が近づいてくる。
あぁ、これは、あれだ。唇と唇をくっつけるあれ……好きな相手とするという、キスというやつだ。と、本国で友達から聞いた話や、夢中で読んだ恋物語を思い出した。それはきっと、恋人同士がする儀式のようなものだ。でも、相手がこの人ならいいや。決めた。わたしは「蛮族のお嫁さん」になろう。パパも「蛮族の虜」だから許してくれるよね――。と、胸にいい聞かせながら、ふんわりとまぶたを瞑っていく。
目を閉じて、見えなくなったまぶたの向こう側でスーリの顔が傾いていくのを感じた。髪がよけられて、首筋が涼しくなる。ああ、いよいよか。とうとう、わたしは好きな男の子とする儀式というものをこれからするのだ。と、そう思ったら――。
「ひっ!」
思わず、悲鳴が出た。
スーリが、首筋に歯を当てていた。スーリは悲鳴に驚いたように目をしばたかせて、上目づかいにエセルを見上げている。
うなじを噛まれていた。首筋にはまだスーリの歯が当たっていて、柔らかい唇も当たってはいるが、エセルの中で、これはキスとは呼ばない。
「なに、なに?」
悲鳴の続きのように声が上ずるのを、スーリは照れくさそうな真顔で見上げていた。
――なにって……。
スーリはもごもごと何か言っている。彼が伝えたがっていることは不思議とわかるのだが、今のように、やたらとロマンチックにうなじを噛まれる理由はさっぱりわからない。
――だからさ……。
と、言わんばかりにスーリは首を傾げて、じっと見つめてくる。噛みつかれる前のようにとろんとした物憂げな目をして、首を傾げていくのだが、やはり首の傾げ方が大きい。狙われているのは唇ではなくて、やっぱり、うなじだった。
唇が大きく開いて、かぷっともう一度歯を当てられる。
「なんなの、ちょっと!」
意味がわからな過ぎて、笑ってしまった。
よくわからないけれど、やり返してやる。と、首元にしがみついて同じようにスーリの褐色の首に噛みつくと、スーリがけらけら笑って、手のひらで頭を撫でてくる。
「アウ・エセル・テ・トッシ……」
――おれの宝石は思ってたよりずっと活きがいい。
と、そんなことを言っているらしい。そして、「おれも」とばかりにまた首筋に噛みついてくる。
「だから、ちょっと待って……くすぐったい!」
噛まれたら噛み返して、また噛んで――と、うなじを噛み合うのは意外に楽しくて、済んでみれば、じゃれ合う子猿や何かみたいに見えたかもしれない。
首を狙って抱きつくうちに、スーリは地面に寝転んでいて、エセルはスーリの上に寝そべっていた。額と額を合わせながらけらけら笑って、エセルを抱き寄せるように褐色の腕が背中に回っている。
「ねえ、スーリ。わたし、あなたのお嫁さんになるからね」
もしかしたら、スーリの一族にとってうなじを噛むというのは、キスの代わりなのかもしれない。こんなに散々噛まれてしまったんだから、もうお嫁さんにしてもらうしかない。と、首を噛むふりをしながら言うと、スーリも歯を見せるように大きく口をあけた。
――こんなにたくさん噛んだんだから、とっくにきみはおれの物だよ。
きっと、こんなことを言ったはずだ。言葉はわからなくても、エセルにはやっぱり伝わった。
周りに、鮮やかなオレンジ色をしたセセリスの花が群がっている。薔薇に似た甘い香りが、緑の地面に寝転んだ二人を包んでいた。