サキュバスのキス
高校三年、初夏。
十七年間彼女が出来なかった俺、万代勇二ばんだいゆうじにもついに春が到来する。
苔のむした岩のような、ただまんじりともせずに過ぎていた俺の青春は、彼女という大型の台風によって、苔を吹き飛ばされ、岩を転がされる様に動き出した。
――――
彼女の苗字は百代ももじ。名を千代ちよという。
名付けた親は何を考えて付けたのかは分からないが、そういうユニークな名前で彼女は17年間生きてきた。
だが千代は子供の頃、その名前のせいで男子によくいじめられていたそうだ。その話を聞いた当時の俺は「酷い話だ」と無難な相槌を選んだ。余計なことを言って千代のトラウマに触れては難だからだ。
「酷いなんてものじゃないわ。あれはいじめではなく拷問よ」
「そんなにか」
「ええ思い出すのも辛いのだけれど……嫌いな男子に下の名前で呼ばれたのよ。あれは拷問以外の何物でもないわ。きっと私を殺すつもりだったのね」
酷いのは千代の方だと俺は思った。
そのいじめっ子には同情の念を禁じ得ない。恐らくはいじめなどではなく、それは好きな女子に意地悪をしてしまう心理が働いただけ。つまりその男子は構ってほしくて、千代の名前を話しの切っ掛けにしようとしたのだろう。
千代は成績優秀、容姿端麗、運動神経は並以下の下以上。
明るい髪は地毛らしく、生徒指導の先生にも注意はされない。
背中まで伸ばした長く美しい髪が印象的な、どこにでもいそうな優等生で、どこにもいない毒舌女である。たまにするサイドテールやポニーテールが個人的には大好物なのだが、それを言うと罵倒されるので口には出さない。
そんな彼女と恋人になる契約をしたのは、六月のしつこい雨に鬱陶しさを覚えていた頃だ。
放課後。下駄箱の中に入れられたピンク色の封筒に入れられた、文字のびっしりと詰まった便箋がローファーの上に置いてあった。すわ不幸の手紙かと警戒したが、どうやらそれがラブレターだと気付いたのは、呼びだし場所に到着してからのことだ。
呼び出されたのは体育館裏。樹に寄りかかり、俯いている千代がいた。俺を見つけると一瞬だけ笑ったように見えたが、もしかした見間違いだったのかもしれない。
体育館の中からは部活動に汗を流す背生徒達の声が聞こえる。その声をかき消すほど大きな声で千代は言った。
「あなた中学生の頃から恋人ができていないわよね。童貞を拗らせて死ぬ前に私が恋人になる契約をしてあげるわ。嬉しいならむせび泣きなさい」
それはあまりにも居丈高で高圧的な告白だった。
腕を組み、胸を反らしている千代。
「なっ……」
何故俺に中学から恋人がいないと知っている。なんならずっといなかったが余計なことは言うまい。
そもそも契約とはなんのことだ。
「ど、どうするの? するのしないの?」
罵詈雑言が九割で、告白一割の内容であった千代からの告白。母と妹以外の女性に対して免疫のない俺は、契約の詳細も聞かず即座にOKを出してしまう。
これを逃したら二度と女の子と付き合うチャンスはない。
罵倒ともとれる告白だったにもかかわらず、俺は能天気に浮かれていた。本来ならば、知り合いになることすらも想像できない美少女。そんな高嶺の花に告白されたのだ、浮かれない方がどうかしている。
結局は契約内容を聞くことなどすっかり頭から抜け落ち、これから始まるであろう薔薇色の学園生活に思いを馳せていたのであった。
――――
それからの毎日は新鮮であり、幸せであり、刺激的であり、俺はわが世の春を謳歌していた。
今も自室のベッドで漫画を読みながら、明日も学校で千代に会えると考えるだけで落ち着かなくなってしまう。そんな気持ちが千代へと届いたのか、携帯電話が鳴り、液晶には千代の名前が表示されている。千代はいつだって唐突だ。
高鳴る鼓動を抑えられるわけもなく、読んでいたマンガ放り投げて携帯電話を掴む。
「はいもしもし」
「出るのが遅いわ。常に私からの連絡があることを想定して携帯を見ていなさい」
無理を言うな。
「わかった。これからは気を付ける」
「え……本当にされると困るわ。正直引いてしまうかもしれないもの」
「どうしたいんだよお前……」
千代は俺をおちょくることを生き甲斐としている節がある。だがそれは愛情あってのことだとも分かっている。学校で見かける千代は、そんな素振りを他の者には見せない。つまり俺にだけ見せる特別な姿なのだ。
「そんなことはいいの。本題を話すわ。明日は一緒に学校へ行くわよ。手を繋がなかったら手錠をかけるから」
「はい」
思わず短い返事をしてしまった。まさか手を繋ぐ為だけに電話をかけてきたのだろうか。
「それとお弁当を作っていくわ。今から固形物は勿論のこと水を飲むことも禁ずるから、当然唾も飲んではダメよ。空腹が最高のスパイスになるとものの本には書いてあるの」
「はい」
押し付けがましいというか、完全に押し付けてくる千代。
だがそれは全て千代の照れ隠しだというのはわかっている。付き合い始めてから一週間もすれば、千代が本当はただの強がり屋で、恥ずかしがり屋なのだと気付いたからだ。
「わかったそのようにする」
「いい子ね。特別に私の好きな物を教えてあげる」
ハンバーグとかだろうか。下校時に寄ったファミレスで、千代は美味しそうに目玉焼きの乗ったハンバーグを食べていたのを思い出す。
「勇二よ」
千代がそれだけ言うと、プツリと通話が終わる。
不器用な愛情表現だが、ストレートでもある。あとでメールで「俺は千代が好物だ」と送っておこう。
――――
翌朝。待ち合わせ場所である、駅から少し離れた開店前の本屋の前に千代が立っていた。本当に手錠を持っているのが冗談なのか本気なのか判断がつかない。
朝の挨拶を済ませて即座に手を繋いだのは、手錠を掛けられることを回避するためだ。
「そんなにがっついて。私の体が目当てだというのを隠しもしないのね。昨日も女を食べ物か何かと勘違いしている節が見て取れたわ」
好物と書いたのは間違いだったようだな。
「手錠を掛けられて登校したら周りに何を言われるかわからないからだ」
「あらそう。でも手錠を掛ければいいこともあるのよ?」
とてもいいことなど思いつかない。手錠を掛けながら登校なんぞすれば、警察に職務質問されるか、学校では生徒指導室につれていかれるかだろう。そうじゃなくても奇異の目で見られるのは間違いない。
「私と一緒にトイレに入れるわ。どう、手錠をしたくなったでしょう?」
「はぁ……」
「何よ。不満なの?」
千代は下ネタがきつい。
今現在も手を繋いだだけで首まで赤くしているというのに、何故か口からは性的な事をよどみなく紡ぐ。
「ねぇところで昨日の三時限目の休み時間。三組の笹原さんと何を話していたの。まさかホテルに誘っていたわけじゃないわよね」
手を繋ぎながら歩き出す。千代の明るい髪が朝日に照らされ、いつもよりさらに明るく見える。
日本人離れしたその容姿は、もしかしたら外国の血が入っているのかもしれない。
「そんなわけないだろ。千代と付き合っているのかって聞かれただけだよ」
「ふ、ふーん……」
千代は俺がなんと返事をしたのか気になるのだろう。
だが俺はあえてそれをすぐには言わない。意地悪かもしれないが、いつもは余裕のある千代が珍しくそわそわしているからだ。だがその様があまりにも愛おしく、結局はすぐに答えを教えてやることにした。
「ちゃんと付き合ってるって言ったよ。笹原さんも応援するって言ってくれた」
「突き合ってる? まだキスもしてないのに随分と見栄を張ったものね」
急にいつもの余裕を取り戻す千代。
内心ほっとしているのだろうと思うと、愛しさで胸が熱くなり、体の中から焼けてしまいそうだ。
「そう言えばフレンチキスって軽いキスってイメージで使われるけど違うのよ。本当は舌を入れる情熱的なキスのことをフレンチキスというの。元々イギリス人がフランス人は下品なキスをするって馬鹿にするために作った造語だそうよ」
なぜ急にキスの話題を膨らますのだろう。
手を繋いだだけで真っ赤なくせに。
「へー千代は物知りだな」
「千代の桃尻? いくら恋人同士だからって面と向かってセクハラをするのはいただけないわね」
ぎゅっと手を掴み直す千代。
今のはお前がセクハラをした側だ。
「はいはい。俺が悪かったよ」
面倒だから邪険にしたわけではない。
これは手の焼ける子供のような千代が可愛くて、素直になれなかっただけだ。
「冷たいわね。やはり笹原さんとホテルに行く約束をしたんでしょ」
「なんでそうなるんだよ」
相当笹原さんと話していたことが気になるらしい。
「そんな事をしたら浮気じゃないか。俺は浮気なんてしないよ」
「どうかしらね。もう笹原さんとの間にできる予定の子供の名前ぐらい考えているんじゃない? 女の子が生まれたら千代という名前にして私に抱っこさせるんでしょ。そういう倒錯的なサディズムは一般的ではないから改めた方が良いわよ。いずれ社会に出た時に浮いてしまうわ」
考えを改めるのは千代の方だ。
「心配しなくても俺にそんな性癖はないよ」
「性癖という言葉に性的な趣味と言う意味は含まれないわよ。愚かね」
そこまで言うことないだろ。
「ねぇ疑われいるのはつまらないでしょう? だったら愛してるっていいなさいな」
唐突だな。幸い今はまだ学校からも離れているので他に生徒もいない。
ここは一つ仕返しも兼て本気で返してやろう。
歩いていた足を止めて手を引いて千代を振り向かせる。
「愛してるよ千代。ずっと一緒にいような」
「っ……」
千代はこれ以上ないほどに赤くなり、下唇を噛んだまま俯いてしまった。
俺はこういう千代の初なところが大好きなのだ。
――――
毎朝すれ違う散歩中のおじいちゃんには挨拶をするようになった。
恋に浮かれているからだ。
駅のホームで待つ間はスマホゲームではなく、彼女との携帯でのやり取りになった。
返信がこない間は履歴を読み返して時間を潰す。
鞄にはお揃いのキーホルダーをつけた。
当然お互いの名前が書いてあるやつだ。
登校時と放課後は千代と手を繋いで帰るのが日課になっている。
雨の日も気合いで繋いだ。
夜はまた携帯でやり取りをしてから就寝。
俺は今幸せの絶頂期にあるのだと自覚している。
勢いで付き合った割に、俺は即日好きになっていた。
現金なようにも思えるが、自分を好きだと言ってくれる異性には簡単に靡いてしまうのが童貞の性なのかもしれない。
だが幸せな事ばかりではない。
彼女が出来てからというもの、俺は毎晩悪夢にうなされている。
付き合ってからの二カ月間。俺は同じ夢を見続けるという怪奇現象に襲われているのだ。
夢の内容は悪夢というよりは淫夢。
千代によく似た女性が、毎晩違うコスチュームとシチュエーションで俺の精を搾ろうとする。時には看護婦、時には水着、時には幼稚園児の制服。一般的なものからマニアックなものまでありとあらゆるコスプレで俺を襲う。
恐らくは彼女ができた事により、童貞の封印されし闇の性波動が開放されてしまったのだろう。
だが例え夢といえども、俺は千代に操を立てた身だ。
どんなに迫られようとも千代以外の女性とは性交渉を行う気は一切ない。
夢の中で必死に暴れ「俺には千代がいるんだ!」と叫ぶと、淫魔は困ったような笑顔を見せて去っていく。これがお決まりのパターンだ。
それが二カ月だ。つまりはもう60日近く淫魔に襲われていることになる。
しかしこれはあくまでも夢。夢とはすなわち、自分にとって都合の良い願望と欲望が脳内で映像化されたもの。つまり真の敵は淫魔ではなく俺自身。自分の心との戦いなのだ
今日は水風呂にでも入って心を引き締めよう。
明日は千代とのデートだ。二人っきりでの屋内プール。彼女も作れず延々と部活に打ち込んだ俺の肉体美を見せつけて、蕩けた千代に隙ありと、キスの一つでもしてやろうか。
だが結局は、その晩も水風呂による禊の甲斐なく、淫魔に襲われてしまう。
今日はぼろ布に首輪をつけた、異世界風奴隷ファッションだった。
「ご主人様、私を好きにしてくださいませ」
この一言で危うく一線を越えてしまうところだったが、なんとか踏みとどまった。
あの時の自分を自分で褒めてあげたい。
翌朝、早朝の6時ジャストに送られてきた千代からのメールで目が覚める。
メールには画像が添付されており、そこには可愛らしいビキニタイプの水着が写っていた。
白を基調とした青の縁取りの水着が、千代の使用していると思われるベッドの上に置かれている。
少し高校生には大胆すぎないかと思うが、メールの本文はもっと大胆で過激なものだった。
『これを着たところを見せてあげるのだから、あなたの股についた鉛筆も見せなさいな』
「馬鹿なことを言うな。俺のは文房具で例えるならば教員用の1メートル定規だ」
誰に見栄を張るでもなくそう独りごちる。朝から元気よく鳴いているセミの声が、俺の独り言の空しさを演出する。
朝風呂を浴び、朝食を食べ、デートに当っての身支度をする。プールに入るのだから整髪剤は使わず、麦わらタイプのハットをかぶって家を出る。待ち合わせの時間である九時には少し早いが、どうにも落ち着かないので駅へと向かうことに。
外はプールにはもってこいの晴天だが、今日行くのは屋内プールなので関係はない。けれど雨が降っているよりは太陽が出ている方が気分が良い。
なので今日は絶好のデート日和と言えるだろう。
――――
やはり思った通り、予定より一時間早く待ち合わせ場所に着いてしまう。
さすがに一時間立ちっぱなしでいるのはつらい(性的な意味ではない)。
そんな下らない下ネタを考えてしまうのは千代の影響かもしれない。
駅の改札前にある小さな喫茶店も開店していなかった。さてどうしたものかと思案していると、白いワンピースで体のラインを強調し、つばのすこし大きい麦わら帽子を被った千代が改札から出てくるのを見つける。
「あら、今日はまたいつもに増して早いのね。早い男は嫌われるわよ」
下ネタ本当に好きだな。
「今日は千代とのデートだと思うと、いてもたってもいられなくてさ。少し早いけど家を出てきちゃったんだよ」
「あら、嬉しいことを言ってくれるじゃない、下僕のくせに」
え? 俺、彼氏だよね?
「あなたより早く着いて、罵詈雑言を浴びせかけてやろうと思ったのに……残念ね」
酷い理由で一時間を無駄にしようとしてたんだな。
「あー、それは悪かったな。期待に反する動きをしてしまって」
「反省の色も感じられない上辺だけの謝罪は受け取らないわ。本気で謝る気があるならこの場で私の足を舐めなさい」
さてはこいつは馬鹿だな?
「いや、確かにそんなに反省はしてないけどさ……あ、今日は麦わらの帽子がお揃いになっちゃったか。なんだか嬉しいな。それに千代は何を着ても可愛いのな。そのワンピースよく似合っているよ」
「くっ、奴隷のくせにそうやってまた私の心を乱す。それに全く堪えた様子がないのを見ると、足を舐めさせるのもあなたにとってはご褒美になってしまうというわけね」
下僕と奴隷ってどっちが上なんだろう。目くそ鼻くそかな。
「誤解しかないけど、まぁいいよ。さて今から行くと開園には少し早いけどどうする?先にプールの近くまで行って、ハンバーガーショップでコーヒーでも飲むのはどうだろう」
「賢しい童貞ね。いいわ、そうしましょう」
「それ褒めてるんだよな?」
なんだかんだと言いながら手を絡ませてくる千代。口では毒を吐くくせに、態度ではこれだからたまらない。上手く手なずけられている気もしないでもないが。
目的の駅について、そこからハンバーガーショップを目指す。中高生御用達の安価な店だ。
適当に注文し、席に着く。メニューは俺が決め、席は千代が取る。これがいつもの流れで、いつもの俺たちだ。長年連れ添った夫婦みたいで、少し嬉しくなってしまう。
「何ニヤニヤしているの。確かに私の体は弄ぶのに適した抜群のスタイルかもしれないけれど」
スタイルに関しては否定しない。
確かに素晴らしいプロポーションだと思う。
「それにしてもハンバーガーショップで発情するような性欲の権化に食べられるなんて、童貞のまま死んだ牛があまりにも不憫ね」
切れ味あるなー。
「これから食べようってものに、なんて付加価値をつけるんだよ。食べにくいからやめろよな」
「まるで童貞の共食いね」
「……」
やめろって言ったのに。
俺の沈黙した姿を見て、満足そうにオレンジジュースを飲む千代。
「いや、実は俺童貞じゃないからな」
猿が喋ったのを見たかのように、椅子を鳴らす程に跳ねて驚く千代。
ただでも大きい目を見開き、口に入れたストローをはなさずオレンジジュースを飲み続けている。
ズズッという音がして漸く正気を取り戻す。
「う、う、嘘ね。う、嘘をい、い、言うのはいけないことよ」
明らかに動揺して、正論を説いてきた。
お前はもっといけないことをいつも俺に言っているだろう。
「あー嘘だよ。まだチェリーのままだ。でも千代の珍しい顔が見れて良かった。写真撮っておけばよかったかな」
「あなたろくな死に方させないわよ」
千代は俺の死に方を選ぶ側の人間なんだな。
「ふぅ、危なく飲んだオレンジジュースをそのまま下から出すところだったわ。出てたら責任を持って飲ましてたわ」
「ごめん、何がどこから出るって……?」
「私の口から改めて淫語を引き出そうとしても無駄よ。ハッ……もしかして、飲まされることすらもご褒美だと言うの? もう一度言わせてそれを録音をし、言質を取るつもりね?」
もうそれでいいよ。はいはい飲みたい飲みたい。
それからもそんな雑談をしながら時間を潰した。時間を潰したというよりは、時間を共有したという方がしっくりくるかもしれない。こんな時間も、俺には幸せに感じられるのだ。
――――
プールが開園し、朝だというのにすでに館内は喧騒に包まれていた。
更衣室ではしゃぐ子供たちを見ていると、昔の無邪気な自分を思い出す。
子供の頃は女の子にもモテていたはずなんだが、中学に上がってからはとんと縁がなくなってしまった。
まぁ今は千代がいるからそれでいいのだが。
男の着替えにしては少し遅くなってしまった。余計なことを考えていたせいだろう。
館内の待ち合わせ場所に向かうと、既に千代は着替えを済ませて待っていた。
やらかした。そう思いながら、滑らぬように気を付けて少し早足に千代のもとへ向かう。
「遅い。一体何時間私を待たせる気? 遅ければ何でも女が喜ぶと思ったら大間違いよ」
これは今朝言うつもりで用意したセリフなんだろうなぁ。
「ごめんごめん。でも何時間はいいすぎだろ」
「本当口だけは達者ね。その口で私を喜ばせたいなら、もっと夜になってからじゃなくって?」
誘っているのか貶しているのかどっちなんだよ。
「わかった、反省してる。あとでソフトクリームを驕るから許してくださいませお姫様」
ボッと音がするほど勢いよく顔を赤くする千代。
千代のツボが全く掴めない。
「も、物と地位で釣ろうなんて、私も軽く見られたものね。でもいいわ。それで許してあげる」
耳まで赤くするほど釣られているじゃないか。
それに姫になれるわけじゃないぞ。
「さてさてさぁさぁ、早速泳ぎにいこうか!」
「待ちなさい。その前に言うことと出すものがあるでしょう」
ちょっと面倒臭いなと思ってしまった。
何だよ出すものって。ねぇよ。
だがこれは俺に非がある。ここは素直に言葉にしよう。
「正直、直視するのも憚られるほど綺麗だよ。あんまじろじろ見るのも失礼かと思ってさ」
「一瞬見ただけで脳内メモリーにインプットしたからもういらないというわけね。今夜はさぞ淫らな私を想像してティッシュを消費するのでしょうね。トイレが詰まるほどかしら。ごみ箱が妊娠するほどかしら。お台場を埋め立てるほどかしら」
どの角度にでもこいつは鋭い球を投げるよなー。
「馬鹿なこと言ってないで泳ごうぜ。折角のプールだ。話す時間はまたあとで取るとしてさ」
「あなたより成績はいいわ。馬鹿と言ったことを訂正しなさい」
細かい。
「悪かった。千代の方が何千倍も頭がいいです」
「何千倍? 成績で何千倍も差がひらくわけないでしょ? 算数もできないなんてかわいそうな脳みそを持っているのね。脳の代わりに睾丸でもはいっているのかしら」
「もういいからいくぞ!」
このままでは埒が明かないので、千代の手を引っ張ってプールへ向かう。
この屋内プールには色々なプールや施設があったが、最終的には流れるプールでのんびりすることで俺たちは落ち着いた。
レンタルしてきた浮き輪を浮かべ、そこに乗った千代を周囲の人にぶつからないよう気を遣いながら動かす。
それの何が楽しいのかは判然としないが、時折振り向いては「これはいいものね」と珍しく無邪気な笑顔をみせるので、俺も自然と笑ってしまっていた。
楽しい時間はすぐに過ぎてしまうもので、気付けば昼を過ぎ、昼食をとってまた流れるプールで泳いだ。
泳いでいるのは俺だけだったが。
そうこうして楽しんでいたが、ふと館内の時計を見やると太い針は4の位置を指し示していた。
どうも体が重たいと思っていたが、いくら体力に自信はあっても、この時間までプールで遊べば体もへばる。
「そろそろ上がろうか。いい時間だし」
「そうね。難破船で唯一助かった人ごっこも十分に堪能したし、そうしましょうか。特に必死にすがりつく役のあなたは最高のエキストラだったわ。助演男優賞を授けるわ」
そんな暗い設定で遊んでたのかよ。邪気の塊だな。
――――
夕暮れ前にしては強い日差しを放つ太陽を見やり、目の中に跡が残る。
「今日も楽しかったです」と心の日記に書き込み、一人千代を待つ。
入った時とは逆に、朝と同じように遅れて出てくる千代。
ほんの僅かに、乾ききっていない髪から塩素の匂いを感じさせる。
それすらもいい匂いだと思ってしまう俺は、千代がいつも言う通りの変態なのかもしれない。
帰りの電車では千代は疲れてしまったのか、座席に座るなり俺の肩に頭を乗せて寝てしまう。寝ている姿は見とれるほどに美しく、俺は周りの見る目に過剰に反応して少し鼻が高くなっていた。
どうだ、俺の彼女は美人だろ。
でも口を開くと台無しなんだぜ。
考えて自分で少し笑ってしまう。
「何をニヤついているの? まさか寝ている間に私の中に注入したりしていないでしょうね」
何をどうやってだよ。
いつの間にか起きていた千代がこちらを見ていた。
そういえば肩に感じていた重みもなくなっている。
「千代の寝顔を見て笑ってしまったんだよ」
「失礼ね。……そんなに面白い顔かしら」
自分の顔をぐにぐにと手で引っ張る。
「綺麗だったって意味さ」
「あ、あらそう」
当たり前ね、とでも言いたげな素の顔をする千代。
だが顔を赤くなっており、再び肩には重みを感じるのであった。
――――
俺が住んでいる駅では降りず、千代の住んでいる町で降りる。
帰りは送っていくのが男の役目だと、昔から父親に言われている。
駅前にあるファミレスで少し早目の夕飯を二人で済ませることにした。
千代はまたオレンジジュースを飲んでいる。
俺がハンバーグを頼むと「朝に続いて夜も共食いね」などと煽ってくるが、自分もハンバーグを頼んでいる。
「朝は雰囲気を壊したくないから訂正したけど、本当は童貞じゃないぞ。彼女は千代で三人目だ」
「だ、だ、だ、騙されないわ。そ、そうやって、私をからかっているん、で、でしょう!?」
またオレンジジュースを飲みほしてしまう千代。
俺はそれを見て笑っているだけにした。
夏の空はようやくオレンジ色に染まりだした。どちらかと言えば青いのかもしれないが、夕暮れには変わりない。
千代は執拗に「本当に童貞じゃないの?」と俺を見上げながら聞いてくる。
自分の家が近い道端で、なんてことを口にするんだろう。
「さあどうかな」
俺は自分でも意地が悪いとは思いつつ、そのまま千代の困った顔を見て、楽しんで歩いていた。
ファミレスから十分ほど歩いたところで千代の家に着く。二階建ての一軒家。
そう言えばうちと同じようにも聞こえるが、千代の家は洋館のような作りになっている。
「いつみても立派な家だな」
「そうかしら? あなたの家みたいな犬小屋に比べればそうかもしれないわね」
俺の父親に謝れ。
その犬小屋はまだローンだって残っているんだぞ。
「今日は楽しかったわ。あなたも楽しかったでしょ。感謝しなさい」
「実際楽しかったけど、そう言われると素直に頷き難くなるな。でも本当に楽しかったよ。また行こうな」
千代がゆっくり笑ったように感じたのは、見惚れていたからかもしれない。
脳が何度も再生してしまうほど、それは美しかった。
「そう。なら私も満足よ」
たまに難しいデレかたをする。
「今日は私を使って、泳げるほど精を絞り出すといいわ」
台無しだ。
「疲れてなかったらそうさせてもらうよ。じゃあな」
呆れてしまったが、それでも楽しいと感じるのは千代が千代だからで、俺が千代を好きだからだろう。
「ええ、また夜にメールするわ。寝ていたら殺すわよ」
え、嘘でしょ? 寝たらだめなの?
「冗談よ。……気を付けて……帰ってね」
気を遣うのになれていないからか、俯いて言い淀んでいる。
そんな姿も愛おしく見えるのが惚れた弱みと言うやつか。違うか。
「ん、ありがと。またね」
「ええ、またね」
――――
今日の千代を思い出し、少し笑いながら帰る。
夕暮れに笑いながら歩く筋肉質な男。完全に事案だ。
だが笑ってしまうものは仕方ない。嬉しさを隠す方が不自然だ。
詭弁にすらなっていない言い訳で自分を正当化して歩く。
――その時、確かに信号は青だった。
しかし横断歩道に向かってくる車は、全くスピードを緩める気配がない。
道路には小学生であろう女の子がそれに気付かず歩いている。
どうするかなどと考える暇はなかった。
部活で鍛えた足がこんなところで役に立つとは。
車に当る直前のところで子供を突き飛ばす。
こんなところで役に立ってしまった足のせいで、俺は空に飛んでいた。
プールではしゃぎ過ぎたのがいけなかったか。
そういえば、今日も千代とキスできなかったなぁ。
そんなことを思いながら、意識は遠のいていった。
――――
俺は夢の中にいた。
もしかしたらあの世かもしれない。
真っ白な空間に、真っ白なベッド。真っ白な枕に、真っ白なシーツ。
どこまでも広がっている真っ白な空間で、俺はベッドに寝かされていた。
何故寝かされているのか。動けないから寝かされているのだろう。
音も風もない広い空間。首も動かないのにそれが認識できるのが不思議だ。やはり夢なのだろうか。
するとそこに一人の女性が現れる。毎晩夢に現れるあの女性だ。
千代に良く似た顔の女性。
いつも千代と同じ声で俺に語りかけてくる女性。
だが今日はいつもと様子が違う。酷く焦っている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
何故か千代とよく似た女性は謝りながらベッドに上がってくる。
「私が家まで送らせたから、私がプールになんて誘ったから、私があなたと付き合ったから!」
その女性はどうやら泣いているらしい。
俺の上に覆いかぶさるように四つん這いになっている。
「あなたは知らないと思うけど、私はあなたを子供のころから知っているの」
うん、知らないな。知ったのは中学に入ってからだ。
いや、それは千代か。
「一目惚れだったの。兄の野球の試合に応援へ行ったときのことよ。あなたは覚えていないでしょうけど、私は一生忘れないわ」
そもそもそこに千代がいたことも知らなかった。申し訳ない。
「でも怖くて声はかけられなかった。男の子はみんな私の名前を馬鹿にしていじめるから、もしかしたらあなたも私をいじめるかもしれないと思ったの」
いじめをするのは悪者がすることだ。
俺は日曜の朝にそれを学んでいたぞ。
「だけど中学校が一緒になったと知ったとき、私は泣いて喜んだわ。本当に嬉しかった。でも今のままじゃダメだと思って自分を変える努力をしたの」
確かに千代とは一緒だったな。高嶺にあり過ぎて、花なのかも確認できなかったけど。
あれ? この女性は千代なのか?
「あなたに見合うように勉強を頑張った。あなたに振り向いてもらうために綺麗になる努力をした。あなたに気がある子には、あなたとくっつかないように魔術をかけた」
千代は本当頑張り屋さんだよなー。運動はそうでもないけど。
え? 魔術?
「あなたは顔もよくて、運動もできて、勉強もできて、誰にでも優しい人だった。だからいつも周りには友達がいたわ」
それが本当だったら今頃童貞じゃない。
「自分に自信が持てるようになったらあなたに告白しようと決めていた。だけどあなたには全然追いつけなくて、一年、二年と時は過ぎた」
俺足だけは速かったからな。
「そうして気付いたら高校三年生。もう今年を逃したら、今告白しなかったら一生会えないかもしれない。そう思って自分でもなんであんな言い方をしたか分からない酷い告白をしたの」
むせび泣きなさい、だったな。
帰って本当に泣きました。嬉しくて。
「あなたはちょっと困った顔をしただけで、私と付き合うことを了承してくれた。こんな私を受け入れてくれた。嬉しくって家でずっと泣いていたわ」
シンクロニシティですね。違うかな?
「でも私はサキュバスの娘。本来は人と付き合うなんてできないの。だって人間は私にとってご飯だもの」
ご飯に恋をするのは緑色のナメクジ星人だけだと思ってたな。あれは恋じゃないか。
「でも一縷の望みを掛けて、あなたと出逢ったときにお母さんに尋ねておいたの。どうすればあなたを殺さずに一緒になれるかを。だってお母さんも人に恋をして私を産んだのだから」
さっきだったかいつだかの、殺すわよってセリフに信憑性が出てきたな。
「答えは拍子抜けするほど簡単だった。ただあなたとキスをすればいいだけだった。夢の中でキスをして現実でもキスをする。それであなたと私は契約が結ばれるの。そうすれば私があなたから殺すほどの精を抜けなくなるの。だから付き合ってすぐにあなたの夢に入り込んだわ」
殺すほど抜くって。
契約ってそのことだったの?
やはり最初にちゃんと聞いとけばよかったな。
忘れてたけど。いや、聞き流したんだっけな。
「でもあなたはどんなに私が夢で誘惑しても、誘いには乗らなかった。いつも自分には千代がいるからって断るのよ。それが嬉しくて……幸せで……でも早く契約したくって毎晩夢に入り込んだ」
男物でぶかぶかのワイシャツを着てきた時が一番危なかったです。
「お願い。今度こそ私とキスをして。あなたがいなくなったら私、私、どうやって生きていけばいいのかわからにゃいの」
そうにゃのかー。
あら、また泣き始めてしまったな。
「私とキスをすればあなたは生きれるの。それが契約なの。魔族の私の魔力が繋がれば、あなたを癒すことができる……だからお願い!」
女の子に。それも愛する彼女にここまでキスを強請られたなら男冥利に尽きるってもんだ。
だけど、自分の命のためにキスをするってのは釈然としない。
初めての彼女と、初めてのキスだ。もっと素敵な意味が欲しいものだ。
「もう時間が無いの! あなたの夢は、あなたの意志がないと触れられないの!」
俺の意志とあそこは固いからな。いかん、千代みたいなことを考えてしまった。
「勇二お願い! またねって言ったじゃない! 私をおいていかないで!」
こういう時なんて言うんだっけ。結婚式とかのあれ。えーっと。
「永遠に千代を愛することを誓うよ」
いつの間にか体が動くようになっていた。体は驚くほど軽くなっており、上に跨っていた千代を押し返すようにして抱きしめる。
何秒、何十秒、何分、キスをしていただろうか。
もしかしたら一瞬だったかもしれない。
でも俺にはとても長く唇を合わせているようにかんじた。
千代の肩を少し押す感じで、そっと唇を離す。
「よかった……よかったよぉ……」
千代がまた泣き出してしまった。本当はこんなに泣き虫なんだな。
「俺も良かったよ」と言うか悩んだが、どうにも下種っぽいのでやめた。
「これでずっと一緒にいられる。ずっと愛し合える……」
よし、もう一回しよう!
そう思ったが、なんだかまた意識が遠くなっていく。あれ、違うな。意識が近くなって……
――――
その後俺は奇跡的に意識を回復する。医者も家族には諦めろと言っていたそうで、病院は大騒ぎになる。
しかし体のいたる所が骨折していたことと、頭を強く打っていたので夏休みは丸々病院のベッドで過ごすこととなった。
母や妹が心配して毎日見舞いや世話をしに来てくれていたのだが、いつも先に来ている千代を見て入院生活の後半はたまに着替えを持ってきてくれる程度になってしまった。
千代の居ない隙に母と妹があの子は誰だ、どんな関係だとうるさくて困っていると、花瓶の水を替えてきた千代が丁度帰ってきてこう言った。
「生涯を共に生きると契約している者です」
それを婚約と受け取った俺の家族は大パニックだ。
相手の親御さんに挨拶は済ませたのか、結婚より先に子供は作るな、お兄には勿体ないから私がもらう。散々騒いで、俺たちを困らせていると、看護師さんに叱られて外に出されてしまった。
「契約って千代……」
「嘘はいってないわよ」
言ってないけどさぁ。
「でも今更になるけど本当に俺でいいのか?」
「あら、本当に今更ね。散々私の唇を舐め回しておいて用が済んだら捨てる気なのね」
記憶が曖昧であやふやだけど、舐め回してはいないと思うんだ。
「俺は千代が好きだからむしろ望むところだけど、好かれる要素が自分にあるようには思えないんだ」
いつか、こんな可愛い子と契約をしていることが閻魔さまかそれに該当するような者にばれて、それだけで罪とされて罰せられるんじゃなかろうか。
そんな破天荒なことを考えてしまうのは、夢の中で魔術がどうのと言われたせいかもしれない。
「まさか私の口から今この場であなたの好きなところを百言えと?」
「あ、いやそういう回りくどいことじゃなくて純粋に気になっただけだから」
「安心しなさい。だってあなたの苗字は万代ばんだいよね」
「え、うん。まぁそうだよ。忘れてたわけじゃないよな」
「百代千代として生きるより、万代千代として生きた方が長く一緒にいられるのよ。……いえ、笑うところではないのだけれど……名前は契約においても大事なもので……ねぇ聞いてるのかしら?」
そして俺は数年後、彼女との法的な契約も正式に結ぶことになる。
読んでいただきありがとうございます。
夢の中だけ鈍感系主人公です。